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2026年2月1日

野宮神社の神石/亀石(京都府京都市)


京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町



岩石の表面は艶やかで、多くの人に撫でられてきたことが伝わる。

神石(かみいし)と亀石(かめいし)は音の類似で並立したものと思われる。

撫でる祭祀行為をおこなうことで祈願達成となる。野宮神社の主祭神に対する祭祀の媒体としての岩石であるが、写真のとおり岩石にも神酒が供えられている。

祈願をかなえる霊性を宿す岩石として一柱の神となった所以だろう。


2025年10月20日

白雲神社の薬師石(京都府京都市)

京都府京都市上京区 京都御苑内 白雲神社境内


現地看板によると「御所のへそ石」(京のへそ石は一般的に六角堂のそれが有名)の異名をもち、撫で石としての霊験を伝える。薬師の名もこれに縁するものかもしれない。岩石の前面の凹凸を人面と形容するのも、薬師の顕現の表れということか。

白雲神社の社殿背後に存在。玉垣は岩石を囲わず手前の供花台と板石の部分を覆うのも独特である。

写真中央の岩肌に凹凸の陰影の深い部分があり、これを人面に準えたものか。

側面から撮影。岩石の基部には、岩盤に石を噛ませているようである。

現地看板

看板では古くからの磐座と記すが、歴史的にはどのような存在だったのだろう。

白雲神社は京都御所の中にあり、元々は西園寺家が個人的にまつる妙音堂だった。その由縁から「西園寺の妙音天」という呼ばれ方が元来的で、明治時代になって西園寺家が東京へ移ってから祭祀を存続するために白雲神社として神社に改称した。

薬師石の来歴を文献からたどるのは難しい。1996年発刊の下記文献に、境内に薬師石がみられるの一文を確認できたくらいである。

文献に記されていなくても、このように私的な祭祀の場の場合、公刊化されていない私文書や口伝において信仰が継続されていた可能性もある。その点で白雲神社自身が文章化した現地看板に勝る内容はない。


参考文献
  • 現地看板
  • 石原康夫「京都白雲神社記」『私考弁才天記』第3巻,石原康夫,1996.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13223711 (参照 2025-10-20)

2025年10月16日

安井金比羅宮の縁切り縁結び碑(京都府京都市)


京都府京都市東山区下弁天町

縁切り縁結び碑

穴をくぐる

大量のお札(形代)に覆い尽くされていてわかりにくいが、岩石に開いた穴をくぐることで悪縁を切り、また、良縁を結ぶことで有名である。

訪問時は穴をくぐろうと人が行列をなしていてどうしても顔が映るため、見えないように加工して掲載した。


安井金比羅宮の縁切り縁結び碑のことを初めて知ったのは、京都新聞1999年7月1日付の「岩石と語らう」コーナーでの特集だった。

「碑」で「いし」と読むので、「縁切り縁結び石」の表記でも見かける。


歴史的にはいつから存在する岩石か。

下記文献に明記されていた。

安井金比羅宮に新名所

安井金比羅宮は1月に夫婦和合を干支で表した干支回縁碑を建立したのをはじめ5月には縁切り、縁結び石の建立、7月には朱傘の灯籠が建立された。これは「境内を憩いと信仰の場に」との宮司の願いで建立されたもの。

『京都年鑑』1981年版,夕刊京都新聞社,1980.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9570356 (参照 2025-10-16)

こちらには「縁切り、縁結び石」として紹介され、1980年5月に設けられた岩石であることがわかる。

現代の岩石信仰の事例であり、岩石に穴を開けてくぐる同種の祭祀が他にも見られるので参考になる。


2025年3月9日

霊巌寺の巌廉(京都府京都市)


京都府京都市北区西賀茂船山


霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。

以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。

―――

今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。

ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。

同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。

こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。

巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。

これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在する(所ニ随ヒテ験モ有ケル也)と語り伝えられたという。

―――


巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する移り気のあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。

仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。しかし「所ニ随ヒテ験モ有ケル也」として無視できなかったのである。


さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。

霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。


川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。

このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。


寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。

今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)

ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。

ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。

前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。

いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。


また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。

最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。

妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。


2022年2月13日

今宮神社の岩石祭祀事例(京都府京都市)


京都府京都市北区紫野今宮町

拙著『岩石を信仰していた日本人』で、一節を設けて報告した場所。

阿呆賢さん



阿呆賢さん(あほかしさん)のほか、神占石(かみうらいし)や重軽石(おもかるいし)の名がある。

石を手でなでてから、自分の体の悪い部分をさすれば、その悪い部分が治癒されるという。

また、石を軽く3回たたいて持ち上げてみると非常に重くなり、今度は願い事を唱えて優しく石を3度さすると、そこで石が軽くなったら、その願い事は成就するという。

竹村俊則『昭和京都名所図会5 洛中』(駸々堂出版、1984年)によると、「石を叩いたり突いたりすると重くて上がらず、撫でたり拝んだりして持ち上げると、軽々と上るといわれる」とあり、かつては叩くこと、つつくことがタブーだったことや、祭祀のバリエーションが認められる。


力石


「天保十一子二月 鷹峯高政持」の銘をもつと報告されている。

詳細不明


力石(写真手前)と不明石(写真右奥)

力石の近くにある、椅子状の形をした岩石。
京都市右京区の児神社にある石椅子などを想起させ、来歴不明ながらその歴史を注目している。


2022年2月6日

岩神さん/岩上さん/岩神祠/岩上祠/岩上神社/岩神神社/禿童石(京都府京都市)


京都府京都市上京区上立売通浄福寺東入ル(京都市上京区大黒町)

南北を走る千本通と堀川通の間で、東西を走る上立売通沿いに所在する。






当地の名称は数通りある。

まず、由緒板には岩上神社、岩上祠、岩上さんという名称が第一に掲げられ、俗称に「禿童石(かむろいし/かぶろいし)」があったことを記す。

次に、現地の扁額には「岩神」の字があり、さらに京都新聞の記事(1998年)によると門に岩神神社という額がかかっていたらしく、「岩神さん」の名称を題に採用している。

大きく分ければ「いわがみ」の音が根っこにあり、「岩上」と「岩神」の2通りの字を当てる系統に分かれていたことがわかる。

以下、「岩神さん」の名称で記す。


岩神さんの高さは2mほどで、いびつなオムスビ形のような形状をなす。境内は商社の所有地となっており、会社ひいては町の神として崇敬されてきたという。


岩神さんの由来・伝説も複数系統入り乱れている様子だ。


まず、菅原道真由縁の伝説がある。

道真が大宰府に左遷された後、道真の乳母がこの岩を抱いて泣いたという。

やがて、乳母が岩を抱えて泣くたびに落雷などの災害が起こるようになったと伝わる。乳母の負の念が霊となって岩に宿ったと信じられ、岩は「岩神さん」としてまつられるようになった。

ただ、岩に宿った乳母は、道真の左遷を主導した藤原時平の乳母という説もあるようで一定しない。天神さんと岩神さんを同時に参ってはいけないという禁忌も伝わる。


別系統の伝説として、現地看板にも記される岩石の移動伝説がある。

岩はもともと二条堀川(二条城の南)あたりにあったそうで、それが徳川家康が二条城を築く際に岩神通六角へ移され、さらに、中和門院の屋敷の池の畔に移されたという。

そうしたら岩が吠えたり、子供に化けたりする(禿童石の由来)など怪異現象が相次いだので、真言宗の僧が現在地に改めて移して、有乳山岩上寺(岩神寺)の本尊としてまつったという。 乳母の霊が宿るということからの山号で、現在も授乳の神仏としての性格を有する。

その後、岩上寺は二度の大火を受けて衰微し、明治維新の頃には廃寺となったらしい。


岩石が場所を動かすとともに、また、時代が移ろうとともに、岩石の性格も変遷した事例と言える。

元は悲しみ嘆きの念が神霊化したもので、愛する近親者(道真)と離され、岩が動かされると崇る「動かない」ことに、価値観の主位が認められる。その祟りは、当初落雷など激しい荒ぶりだったのが、江戸時代には岩が吠えたり小僧に化ける程度になり(ただ岩上寺廃絶をどう評価するかはある)、最終的には授乳の益神となった。


参考文献

京都新聞1998.11.26付「岩神さん」(岩石と語らう41)


2022年1月30日

賀茂別雷神社の岩石祭祀事例(京都府京都市)

詳しくは『岩石を信仰していた日本人』で一項を設けて紹介した場所。

岩上(北から)

岩上(南から)

岩本社(北から)

岩本社と傍らの石壇(南から)

立砂

神山(山頂に降臨石あり)

拾遺1 神山の禁足地に関する諸説


拾遺2 神山へ登る場合の最善法


拾遺3 上賀茂神社の願い石(現代の岩石信仰)


2022年1月23日

岩室稲荷神社の岩蔵(京都府舞鶴市)


京都府舞鶴市吉坂


正式名は「稲荷神社」であるが、他と区別するため、岩室稲荷神社・吉坂稲荷神社・岩窪稲荷神社など、さまざまな名で呼ばれることが多い。

稲荷山(明室山)の山裾に鎮座し、そこから裏山を5分ほど歩くと奥の院に至る。奥の院に隣接して「岩蔵」という石灰岩の群れが広がり、これをかつて伍蔵社と呼んだ。

岩蔵(岩藏)/岩窪/岩室/伍蔵社/奥の院




岩蔵(写真左)と奥の院(写真右)

奥の院へ至る参道

社頭に掲示された、山中発見の経筒関係遺物と伝岩蔵発見の須恵質土器

神代文字(社頭掲示)

社頭掲示の古文書群

本事例については拙著『岩石を信仰していた日本人』の中で一項を設けて紹介したので、ウェブでは社頭に掲示された「当地古代の伍蔵社伝説」について文字起こしをしておこうと思う。

この社記はいわく天智10年(671年)選録、永仁2年(1294年)書写されたとあるが、単体の文書なのか大元の出典があるのか(何かの残欠なのか)はっきりしない。

古文献の性質を考え、天智年間の成立とはそのまま受け入れにくく、今のところは古くとも永仁年間の情報として扱いたい(用字、文法的に中世のものと言えるかは専門外のため保留)。

撮影した写真越しなので、欠字やピンボケ、反射で判読できないなどで自信がない箇所は●として、新字体に改めた。


往古天火明命豊宇気大神降臨当国五穀蚕●●始悉水陸水田植則●足也故謂田庭今国名為丹波之縁也

豊宇気命求肥饒●播殖五穀其恩●受好所生故謂宇気己保利今郡名為笠郡之縁也

大国魂神興久斯神●力一致経営当●●更参到干高志之国之時当田国輿丹波国●高●謂●●山故●覧妖気在領天火照命授●曰誅伏諸鬼神可領知此国大神●●●中平定故勅受郷謂領知郷今郷名為志●郷之也

大穴持命興少彦名神巡行此国●参列干高志国之時勅曰天火明命者当国吾地参而治焉又当田国興丹波国天津磐境起樹神籬矣即以美保伎王御祈鈴久斯器御神幣療病金囲五種宝永為療病●●災●治神璽故岩蔵安神●一蔵安美伎王二蔵安御神幣三蔵安久斯●四蔵安御祈鈴五蔵安療病金囲故謂●蔵今社名●●蔵社之縁也

豊宇気神降臨当国●●壌地●●●●●●●五穀田●王秋●●●握足祈祷故請田●令●人為太郎也田●一訓太郎故今世諺謂太郎之縁也天火照命勅随●妖気来而代陸耳陸耳遁隠岩蔵乞命天火明命陸耳●出時歌曰

陸耳人渡●●●弓檀弓将射発心●思●●君子思末方吾物思苛痛其思出悲痛此思出不射●●弓檀弓

当御間城入彦五十瓊殖天皇御代再丹波道主命●巡按当国畢参到伍蔵社之時巖石光耀●歌曰

此岩者哉称栄大高奇岩綾岩也●

社人田●王答歌

天津神日御蔭岩之方月御蔭岩綾御岩●也朝日峯蔭夕日峯蔭神代天津火照神愛●親々●世愛又天皇命御子愛今現見如●余弥栄弥奇雨漏幾丈有哉否知奇岩

恐多幸●●蔵社伝記召問故録伝説一●謹以献上

天智●未年正月●日

丹波国笠郡志楽郷 田●●

永仁二申午年三月●● 太郎再写

●部分や誤読など、ご教示いただければ幸いです。


岩石に関する部分を太字傍線にした。

最初の「天津磐境」のくだりは『日本書紀』など他古典からの借用表現だろう。

数か所に登場する「岩蔵」は、五種の宝が奉安され、陸耳(丹後の豪族とされる陸耳御笠)が隠遁した場所として記される。

この岩蔵は後半部では「巖石」「奇岩」「綾岩」「御蔭岩」などに名前を変え、発光伝説や神聖な存在として美称を冠されていたことがわかる。

岩蔵の名称が一致しないことを考慮すれば、複数系統の記録を一枚にまとめ書いたものと類推している。


2021年12月27日

恋占いの石/めくら石(京都府京都市)


京都府京都市東山区清水 清水寺

 

京都清水寺に接して、地主(じしゅ)神社が鎮座する。

地主神社境内に「恋占いの石」と名付けられた2つの岩石が、社殿前に左右対称に置かれている。



竹村俊則『昭和京都名所図会2 洛東下』(駸々堂出版、1981年)には「めくら石」の名で記され、現在の名称は配慮によるところもあるだろう。


恋占いは、次の手順を踏んで占う。

  1. 片方の石の前に立つ。
  2. 目をつぶって、もう片方の石のところまで歩いていく。
  3. 目をつぶりながら石のほうへうまくたどり着いたら、恋愛成就するという。


岩石の表面には「恋占いの石」を記す銘盤が埋め込まれている点を考えると、現在、岩石は信仰の中心とみるより、神社の祭神(大国主命)が「恋占いの石」という施設を経由させて恋占いの霊力を発動する「祭祀道具」「祭祀施設」と位置付けるのが適切だろう。


地主神社の公式ホームページによれば、「恋占いの石」は室町時代には「清水寺参詣曼荼羅」にそれらしき一対の岩石が描かれているといい、歴史的にそこまで遡ることができる。

縁のおはなし 縁のはじまり|地主物語|由来と歴史|縁結び祈願 京都地主神社

さらに、上記ページの神社の説明によると、「恋占いの石」がアメリカの原子物理学研究者ホースト博士なる人によって縄文時代の遺物である評価されたとの記述がある。

ここから神社の創建を縄文時代・神代に遡る根拠としているが、ホースト博士のその調査結果の詳細を知りたいところである。

(考古学者の所見によるわけではないのはなぜ?)

 

2021年12月12日

和貴宮神社の水越岩(京都府宮津市)


京都府宮津市宮本

 

宮津市の中心街に位置する和貴宮(わきみや/わきのみや)神社は、かつて「分宮」「別宮」「脇宮」の字を用い、丹後国一宮・籠神社の別社として位置づけられた旨の説がある。


和貴宮神社の境内には、水越岩(みなこしいわ・みこしいわ)が盤踞している。
(別称として波越岩・波越巖もあり)




和貴宮神社

水越岩の由来にはっきりしたものはなく、昔は岩に貝殻がひっついていたという話から水越岩までがかつての宮津の海岸線であったとか、神様がこの岩に座り釣りを楽しんだとか、はたまた陸と海の境界に鎮まる「依代」であったとか諸説ある。


もともとは岩礁の一部だった可能性は十分にある。

ここから現在の海岸線までは1kmも離れておらず、海岸線からの比高も数mの立地、岩の名前や付帯する情報全てが海に関わることなどを合わせると、特に異を挟む部分はない。


岩石信仰上の問題は、水越岩が海岸の岩塊だったとして、それがランドマークとしての対象にとどまっていたものか、それとも後世に神社が設けられるほどの神聖視の対象だったのかというところにある。


現在、水越岩の上には小祠が置かれ、少なくとも今は神聖視されているようにみえる。

しかし過去はどうか。


たとえば宮津市文化財保護協力委員や宮津地方史研究会委員などを歴任した、宮津の歴史・文化に詳しい宮城益雄氏の著書『宮津ええとこ』(あまのはしだて出版、2008年)では、水越岩について「その年代や、神社との関係は判然とはしない」と記されている。

現地の観光地図や昨今の観光冊子、インターネット上には「依代」「磐座」と記載しているものも散見されるが、この岩をまつっていたという歴史上の明確な記述は今のところ探せていない。

たとえば駅の観光地図には「神の依り代」とある。

しかし神社境内の看板は水越岩を海辺の跡とするにとどめる。この差に注意。


2021年10月17日

神谷太刀宮の「磐座」と剣岩(京都府京丹後市)


京都府京丹後市久美浜町


八幡山の裾部に「磐座」と呼ばれる岩の群れが残る。
いつから「磐座」という名前が定着したのかは不明である。

境内社の八幡神社に隣接して岩が集積する。

現地看板によると、かつては女人禁制だったとのこと。

「磐座」の最奥部。

近年、「鬼滅の刃」の「聖地」としてとみに取りざたされる。
地元での働きかけも手伝ってのことだろう。

「鬼滅の刃」の岩、京丹後に? 聖地化目指して保存会:朝日新聞デジタル

「太刀」で「割れ目」なので、鬼滅の刃と相性が相当良いのだと思われる。

しかし社伝となっている、大己貴命が太刀で岩石を斬って割れ目が生まれたという「剣岩」は、この「磐座」群の場所ではなく、神谷神社境内に別に垣に囲われて存在するらしいので注意が必要だ。
すでに、「磐座」を「剣岩」のことだと勘違いしている人も多いのではないか?
(私も誤解していた)

参道も歩いたつもりだったが、剣岩は積雪で見落としたか…


剣岩のほうが太刀宮としての伝承はもちろん、鬼滅の刃にも親和性の高い岩なので認知度がもっと上がってもいいものだが、「磐座」のほうが「巨石」なので、そこは「映え」の問題なのだろう。


また、平成27年以降は現地看板に、「割れ目の隙間からさす朝日の角度で、田植えなど農作業に適した時期を知ることが出来たと伝わり」(前掲記事)という旨の説明文が加わったらしいが、「伝承」としてはあまり聞かない類の話のため、典拠が気になる。
いつの何という文献に、あるいは、誰が伝えたのかの明記が必要だろう。

さらに、地元では太陽観測施設説の観点から独自研究を進めている郷土史家の方もいるらしいが、研究であるなら研究者名としかるべき論文を確認したうえで、その先のPR活動などはなされるべきだろう。


鬼滅の刃にしても、巨石太陽観測施設説にしても、ローカルな岩石信仰を一種のグローバリズム的発想で上書きしてしまう危険性がもっと知られてもいいと思う。

本来のありかたがわかりにくくなってしまうことと、外部の発想の影響によって歴史が少なからず変節してしまうことに、地元の方のなかで問題提起される方が今後登場することを願っている。
その点において、いろいろと現代的な問題が詰まった場所として、今後の動静も含め注目している。


なお、神谷神社の旧地は西方の久美浜町神谷にあったという説があるので、太刀宮の「磐座」を延喜式内の神谷神社と関連させるのは慎重でありたい。
(ただし、太刀宮自体の創建も奈良時代に遡る社伝は有しているので、「磐座」を太刀宮の祭祀の系譜に位置付けること自体は問題ではない。「磐座」が存する場所は八幡山および八幡神社の名を冠していることも留意)


参考文献
下記サイトには、神谷太刀宮に関する文献記述が豊富に収集されている。


関連記事(「鬼滅の刃」聖地事例)
天乃石立神社と一刀石(奈良県奈良市)

2021年8月8日

京都「四岩倉」伝説について

平安京の四方に、桓武天皇が一切経を埋納した「北岩倉・東岩倉・西岩倉・南岩倉」が存在するという。

たとえば、竹村俊則氏『昭和京都名所図会』全7巻(駸々堂出版1980年‐1989年)によると、この四岩倉伝説は「口碑」とのみ記して具体的な典拠を示さないが次のように触れている。一つ一つ紹介していこう。


北岩倉 —石座神社と山住神社—

口碑によれば、桓武天皇は平安遷都の際、京都の四方の山に大乗経を納め、王城の鎮護とされたが、これを岩倉と称した。ここはその北の岩倉にあたるところから地名になったとつたえ、一に岩蔵・石蔵または石座とも記す。おそらく古代の磐座信仰にもとずいて発生したものであろう。その形跡は古代祭祀の遺跡を神体化した山住神社として、現存している。(竹村『3 洛北』,p.178,1982)

京都府左京区に岩倉という地名が残る。

岩倉の西河原町に山住(やまずみ)神社、そして上蔵(あぐら)町に石座(いわくら)神社が鎮座する。両社はやや複雑な変遷史があるので、石座神社の由緒略記に基づいて以下に簡潔に紹介する。


石座神社は、当初は西河原町の山住神社を指していた。しかし天禄2年(971年)、円融上皇の廟として大雲寺が山住神社のやや北方に創建された際、そこに石座明神の鎮守を移すことにした。そして長徳3年(997年)、八所明神と名付けられた鎮守社が上蔵町に勧請され、岩倉の鎮守は八所明神に移った。明治時代に、この八所明神を石座神社と呼ぶようになり、西河原町の従来からの石座神社は山住神社と呼ばれ、石座神社の御旅所となって現在に至るという。


つまり岩倉の地名の元となった元来の石座神社は現・山住神社ということであり、なるほど山住神社には、高さ4m×幅4mほどの岩塊をまつる。社殿はないが、岩塊の手前には高さ1mほどの小ぶりの立石があり、簡易の木柵・屋根で守られている。

山住神社(北岩倉 石座神社旧地)




さらに、山住神社は山の裾に位置するが、背後の山(標高170m程度。比高70m程度)を神山として神聖視するといい、岩石信仰と山岳信仰を有する自然物信仰の地としての特徴を有する。

山住神社と裏山

『日本三大実録』の元慶4年(880年)10月13日条には、石座神社に従五位下の神階が授けられたという記述があり、これが当・石座神社を指すとされる。

延喜式内社ではないが国史見在社としてその歴史をたどることができ、それはそのまま京都における岩倉の歴史の最上限と言い換えることもできるだろう。


なお、北岩倉は天照大神の籠った天岩戸が築かれた場所で、岩戸の左右の扉がわいたのがそれぞれ西岩倉・東岩倉という伝説がある(小谷夘之助『岩倉・幡枝の今昔』1983年)。日本神話をモチーフにした後出の伝説と思われるが、正徳元年(1711年)成立の『山城名勝志』に収録されている。


東岩倉

大日山(東岩倉山)は日向大神宮の背後の山をいい、粟田山の支峰である。海抜二八八メートル。(略)伝えるところによれば、むかしこの山中に僧行基が開創したという東岩倉寺があって、江戸時代の頃には石造大日如来像を安置した大日堂があったことから、山名となった。また、平安遷都に際し、王城の鎮護として大乗経を京都の四方の山に蔵められたが、これを岩倉(石蔵)と称した。ここはその東の岩倉にあたるといわれるが、経塚の址については今そのところを明らかにしない。(竹村『2 洛東-下』,p.44,1981)

このように、東岩倉は現在その所在がはっきりとはしていない部分がある。

東岩倉山の麓にある日向大神宮には「影向石」や「天岩戸」と呼ばれる岩石の聖跡が存在するが、その規模や景観から推測するに近世を遡りうるものかどうかは不明。

日向大神宮の影向石と天の岩戸(京都府京都市)


西岩倉

金蔵寺は小塩山の南中腹にあって(略)桓武天皇は延暦遷都にあたって、京都の四方に経典を埋めて王城の鎮護とされたが、当寺はその西方にあたるので、西岩倉山と号するとつたえる。(略)『今昔物語』巻十七によれば、「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久という持経者住みけり」云々(略)桓武天皇が埋納された経塚(石蔵)は現在そのところを明らかにしないが、本堂の地とつたえる。(竹村『6 洛南』,pp.218-219,1985)


西岩倉もその名を残る寺院があるものの、肝心の「岩倉」の現物の所在地とそれがどのようなものであるかは不明点を残す。


南岩倉 諸説(八幡山・明王院・獅子窟寺)


以上、竹村氏の文を引きながら北・東・西の三か所の「岩倉」を紹介してきた。

南岩倉については最も曖昧な存在であるようで諸説入り乱れ、南岩倉候補地とては次の3カ所が挙げられている。

  1. 京都府京都市下京区石不動之町の明王院不動寺(通称・松原不動)
  2. 京都府八幡市の石清水八幡宮が鎮座する八幡山(男山)
  3. 大阪府交野市の獅子窟寺


竹村氏採録の説では「南は八幡の男山」(竹村『3 洛北』,p.178注1,1982)ということで八幡山説を採るため、南岩倉候補地として一般的な明王院不動寺の項(5 洛中,p.382,1984)には四岩倉に絡めた記述は登場しない。


京都府立京都学・歴彩館回答のレファレンスhttps://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000115718(2021年8月8日閲覧)では、元禄2年(1689年)刊行の『京羽二重織留』という文献に南岩倉の候補地がすでに複数あったことを紹介している。


上記リンクに引かれている火坂雅志氏『京都秘密の魔界図』(青春出版社、1992年)は、とりわけ現在流布する京都四岩倉伝説を形作ったのではないかと思われ、南岩倉は明王院不動寺説のみを掲載する。

明王院不動寺はその名のとおり不動明王の石像をまつるが、その岩石が磐座というのは牽強付会にすぎる。

火坂氏は、明王院不動寺のあたりの松林にこんもりとした丘があったという伝えを紹介し(同書p.26)、今は亡きその丘に磐座もあったのだろうと類推し、他の東岩倉や西岩倉にも同様の「今は亡き」磐座があったという前提で話を進めている。


南岩倉の扁額(明王院不動寺)

現地説明板


京都四岩倉伝説の歴史上の問題点まとめ


ここからは、京都四岩倉問題について私見を述べる。
この四岩倉については一般的イメージがつきすぎて独り歩きしている部分があるため、ネット上の一つの異論として文章を残しておきたい。


まず、現状として自然石祭祀としての痕跡がはっきり残るのは北岩倉の山住神社のみであり、ほかの東西南は北岩倉と同規格だという根拠なき前提に引っ張られすぎな感があることを問題提起したい。


なぜなら、「いわくら」は「磐座」の用例だけではなく、中世以降において仏教施設の「石蔵(いしぐら/いしくら/いわくら)」の用例もあることに注意しないといけないからだ。


大阪府箕面市の勝尾寺が設けた「八天石蔵」は、寺の境界に仏像を埋めてその上に積石施設を造ったものであり、鎌倉時代の造営と考えられている。

仏を埋めたか経を埋めたかの違いはあるが、聖域の結界という点で京都四岩倉と類似した役割を見せる。自然石の磐座とはまた別の系統から影響した祭祀が影響している可能性を考慮しなければならないだろう。


そもそも、京都四岩倉伝説の「初出時期」と「初出文献」がいまひとつはっきりしない。web上ではすでにある程度文献調査をまとめられている方がいる。


・「明王院(松原不動)(京都市下京区)」(webサイト「京都寺社案内 京都風光」内)
https://kyotofukoh.jp/report439.html(2021年8月8日閲覧)


・「皇都鎮護埋経(候補)地を巡る(その2[北,東])」(webサイト「徒然なるままに京都」内)
https://turedure-kyoto.blogspot.com/2019/05/2.html(2021年8月8日閲覧)


これら先達の方々の情報を踏まえると、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納した云々という伝説内容の記述は、『雍州府志』(1682-1686年)、『京羽二重織留』(1689年)までは遡ることができるようだ。どちらもほぼ同時期の文献となる。


しかし、たとえば『雍州府志』の書き口は、すでに京都四岩倉伝説がある程度巷間に流布していたかのようであり、『雍州府志』が伝説のオリジナルではなく、同書がさらに参照したソースがあったことは想像に難くない。

また、南岩倉の場所はすでにわからなくなっており複数の候補地が挙げられているという先述した話も、当時この伝説がある程度の時間経過を経たものであることの傍証と言える。

(元は京都三岩倉だった可能性も?)


もちろんすでに触れたように、平安末期の『今昔物語』に「西石蔵」の名が、そして、延喜元年(901年)完成の『日本三大実録』に「石座神社」の名がすでに登場している。

しかし、この両文献は

  • 桓武天皇が納経云々の話は記していない。
  • 他の三岩倉の存在も記していない。

という点に注意しなければならない。

『今昔物語』例は「西」と冠しているので、他の方位の「石蔵」もあったとみるのは自明なのかもしれない。それでも、江戸初期の四岩倉伝説が、そのまま平安時代にもあったと同一視するのは危険だ。


危険視する理由は、「いわくら」の漢字表記にある。

『今昔物語』例は「石蔵」(または岩蔵)の表記であり、江戸初期文献の「岩倉」表記との違いは、単なる当て字だけでなく他の伝説内容や先述のとおり祭祀施設としての機能の違いを示唆する可能性がある。

『日本三大実録』例は「石座」表記であり、それが山住神社の自然石祭祀としての磐座を指す可能性は、同じく「石座」の字をもつ延喜式内社の愛知県新城市石座神社、滋賀県大津市石坐神社が現在も自然石の信仰を伝えることから首肯可能である。

これはすなわち、石座と石蔵の間に込められた意味や機能の違いを示したのかもしれず、北岩倉と西岩倉は本来別系統の信仰に基づく場所だった可能性がある。


かつて自然石信仰を行った地を後世に納経の地とする事例については、静岡県浜松市渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)を筆頭に、三重県桑名市多度経塚、三重県伊賀市猪田経塚、京都府宮津市真名井神社経塚など類例がある。

上記事例においては「石蔵」の名が残っているわけではないが、自然石信仰の聖地が後世に仏教の祭祀施設に変容することの親和性を表している。


このように、四岩倉と一括される各聖地は元は「岩倉」表記ではなく、岩石信仰としての視点から見つめなおすとき、通俗的に流布している「磐座」の一言で統一できる存在とは必ずしも言えず、歴史の重層性の中で批判的検討が重ねられていくことが望まれる。

ひきつづき、京都四岩倉伝説がいつ頃のどの文献まで起源をさかのぼることができるのか、特に、平安時代から江戸時代初期の間を埋める文献をご存知の方はぜひ教えてください。