インタビュー掲載(2024.2.7)

2016年9月30日金曜日

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)

祭祀考古学の最前線の研究

いつかこの問題について触れようと思っていました。

主に祭祀考古学の分野で、神観念の研究は進展しています。その嚆矢となったのが國學院大学教授・笹生衛氏です。
笹生氏は、民俗学者の折口信夫が提唱した依代の概念や、かつて同じ國學院大学教授の大場磐雄氏が形作った原始神道的世界観に関して批判的検討をおこなっています。

國學院大學において、神聖な権威になっているであろう大場磐雄氏に対して、批判的な分析を加えられたその意志に、まず私は並々ならぬものを感じます。真に学者だと思います。

ここでは、web上に公開されている以下の論文を参照して、考古学分野以外にあまり広まっていない現今の研究状況の紹介と、私の感想を述べたいと思います。


笹生衛「日本における古代祭祀研究と沖ノ島祭祀. ―主に祭祀遺跡研究の流れと沖ノ島祭祀遺跡の関係から―」(『「宗像・沖ノ島と関連遺産群」研究報告II‐1』2012年)
http://www.okinoshima-heritage.jp/reports/index/18

時枝務「神道考古学における依代の問題」(『立正大学大学院紀要』第31号 2015年)
http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/5656
(笹生氏の研究を受けた形で、同じく旧来の民俗学・考古学における依代について再検討している)


「依代」は折口信夫が創った分析概念


なかば普通名詞と化している「依代」。

しかし、実はこの「依代」。古文献や古伝承にそのまま記載がある言葉や考えではなく、折口信夫が研究の中で作った造語であることをご存知でしょうか?

しかも、この「依代」という概念は、真に古代の神観念を忠実に反映した考え方かについても、改めて議論の対象となっています。
まずは、時枝氏の論文に沿って折口信夫の提唱した「依代」を見てみましょう。
※以下、括弧内は時枝論文より引用

折口信夫の「髯籠の話」(『郷土研究』第三巻二号・三号、1915年)に次の象徴的な一文があります。

「神の標山には必神の依るべき喬木があつて、而も其喬木には更に或よりしろのあるのが必須の條件であるらしい」

このことから、時枝氏は「樹木が依代なのではなく、樹木の先端につけられた御幣こそが依代であることが明示されている」と指摘しています。
したがって、「依代とは、神霊が降臨する地点を明示するために、神霊降臨の目的物につけられた目印」であり、「樹木や磐座が、それ自体が依代なのではなく、そこに付された聖なる印こそが依代」と折口が考えていたことを明らかにしたのです。

一方で、折口の論を受けた柳田國男は、依代についての解釈を次のように"勘違い"しました。

「柳田は、樹木に神が憑依するとそれが神木になると考え、目印としての依代については考察しなかった。柳田の理解では、神が憑依する樹木自体が依代に該当し、目印はさほど重要でないと考えたようで、検討を加えることさえしなかった。」

つまり、「依代は、折口にとっては目印、柳田にとっては憑依する物自体を意味した」ということです。

柳田一人が依代の概念を勘違いしただけならまだ被害は少なかったのですが、「日本民俗学は、柳田の決定的な影響力のもとに発展していったこともあり、多くの民俗学者は依代を柳田に近い理解のもとに使用するようになった」ため、その影響は民俗学以外の分野にも広がっていきました。
 
たとえば考古学がその一例です。
神道考古学の大場磐雄氏は「樹木・石塊・簡易な施設などが依代であると述べているが、神が降臨する際の目印であるとは一言もいっていない」とし、大場氏責任編集のもと完成された『神道考古学講座』第一巻(1981年)を見るかぎり、「依代を祭祀の対象であるとしていることも、目印としての依代ではないことを示していよう」と指摘されています。

つまり、「考古学者による依代概念を検討してみると、佐野 ・小出を除いては、柳田の理解の延長線上にある見解であることがあきらか」だといいます。

今まかり通っている「依代」の定義は、折口が本来提唱した意味とは勘違いされているため、時枝氏は「第一に、学術用語の概念は、提唱者の原典に帰って確認することを励行したい」と提言しています。

その通りだと思います。
私自身、「依代」は憑依する目的物そのものという辞典的定義を信じていた人間のため、これからは「依代」を「神が目的物に憑依する時に必要とした目印」という意味合いで使用していきたいと思います。


依代は目印だから憑依物ではない?


ただ、憑依する目的物(樹木や岩石)が祭祀の対象で、その先に目印とついていた依代は、目印だから祭祀の対象でないとみなす時枝氏の考えは、必ずしもそう言えるのかという疑問があります。

依代は単なる目印ではなく、祭祀に用いられていて、神の目にとまる機能を持つのだから「聖なる印」なのであり、依代自体に聖性が帯びるのもごくごく自然なことだと思うのです。

また、信仰・祭祀の当事者自身が、そこまで機能論的に明確に"樹木・岩石が神の宿る部分"、"依代はあくまでも目印"と切り分けていたかもグレーゾーンです。
依代という装飾部分を込みにした全体が憑依物だと信じられていたことを想定することも、まったく不自然ではないと思われます。これは折口概念の拡大解釈とは全く別の次元の問題です。
これはこの機能だけ、あれはあの機能だけと当事者が限定する必然性はなく、目印でもあり神が宿る部分でもあるという複合機能の可能性を解釈の中に入れておくことを、私は呈したいと思います。


神は去来するものだったか、神は常住するものだったかという択一法への疑問


時枝氏は、論文の最後にこのような問題提起をされています。

「折口は、依代を目指して神が降臨したと考え、神の去来を予想した。ところが、『出雲国風土記』をみると石神が祭場にいるように記している。」
「要は、神が去来する場所に祭祀遺跡が営まれたのか、それとも神が本来いる場所に営まれたのか、われわれは再考する必要に迫られているのである。」

これについては、私も以前自著で野本寛一氏の先行研究を振り返る時に触れましたが、去来する神を呼び寄せて祭祀をしていたか(磐座的発想)、神がずっといる場所で祭祀を行ったか(石神的発想)、どちらが先行概念でどちらが後行概念かはまったく解明されていない問題なのです。

私が疑問なのは、『記紀』『風土記』というテキストは、多種多様な言説世界がある種無理やりに1つにまとめられたものであり、これらのテキストがそれ以前の言説世界とイコールにはならないという危険性を、常に心にとめておいたほうがいいのではないかということです。
1つのテキストに集約される以前の古墳時代以前においては、磐座的発想・石神的発想は先後関係で語れるものとは決まっておらず、そもそも地域差によるものだったかもしれないということを、解釈の幅に入れておきたいです。
つまり、古代の神観念は一択と決まったわけではないということです。それが一択のように話が進んでいくのは、早計だと思います。

そのような視点を込めて、次に笹生衛氏の研究を紹介したいと思います。
長くなったので本記事はここまでにして、後編に分けます。


後編へ続きます↓

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(後編)

2016年9月23日金曜日

會津八一「一片の石」~『日本の名随筆 石』を読む その10~

――石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ。

今まで紹介した随筆群とは毛色が異なる。

石は堅固で、恒久性の象徴として描かれることが多かった。
會津八一はそうみなしていない。
厳密に言えば、石が一般的にそのようにイメージされていること自体は理解しているが、そのイメージが実体とは違うと指摘するのが本論である。

――石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。

それは、古い墓石を遡れば遡るほど、人が死に、造られた墓石の数は累々たるものであるはずなのに、現存する数が造られた数に比して少ないと目されることからもわかる。

その原因は、火災などの自然災害に起因するものもあれば、人が押し倒して墓石を蔵の土台や石垣の下積みなどへ再利用したケースもあったのではないかと會津は思いをはせる。

會津は、 中国・晋王朝の偉人として知られる羊祜と杜預のエピソードを紹介している。
羊祜は、山が宇宙開闢から変わらぬ形であるのだから、私の死後、私を思い出してくれる人がいるなら、私の魂魄はこの変わらぬ山にあるだろうと言い、死後、それを聞いた人々が羊祜を顕彰する石碑を建てたという。
杜預は、自らの業績を刻んだ石碑を二基造らせ、一基を山の上に、一基を海の底に沈めた。後世、天変地異が起こって山が海に沈んだとしても、逆に海底の石碑が地上に現われるだろうと踏んでの策だった。

はたしてこれらがどうなったかというと、杜預の石碑は二基とも行方知れずとなり、羊祜の石碑も死後270年を経過した頃、破損が目立ったため、摩耗した石碑の残石を用いて文字を彫り直したということである。
しかも、一度修繕したはずのこの石碑が、後代、唐の李白の歌に読まれているのだが、そこでは石碑どころか一片の石と化しており、そこには苔が一面に覆っているありさまだったという。

羊祜・杜預の著作は後世に残っているのに、紙よりも頑丈と信じられたはずの石が、期待に反して後代に残らないこの不思議さに、會津の関心興味はある。

このような石の現実があるのに、人間たちは根気よく、今も石に頼り続けている。
いつもでもこの世にとどめたいと思うものを欲するために、石は用いられる。
石がまるで故人であるかのように拝まれる。
その石が大きいほど貞女孝子と褒められる風潮がある。
會津から言わせると、これは極めて滑稽な現象ということにならないか。


では私は、會津が触れなかった視点を1つ述べてみたい。
人が人工的に刻み、置くのが石碑である。置かれた場所は自然のままではなく人間の意思が介在し、自然が造った石肌のままでもなく、人が刻みを入れた加飾によって石碑はできあがる。

その石碑が、僅かな時間で摩耗し、消滅してしまうという話である。
それは、石本来が持つ特性を生かしているようで、生かしていない。

自然の場所に根ざし、自然の肌を持ったままの石は、悠久の姿を保っているものも多いのではないか。
また、人の目につきたいという欲のもと造られた石碑よりも、人が目につけていない自然石こそ、逆説的に長く生き永らえるという性質が得られるのではないか。

石の性質をあれこれものしたり定義付けるのも、人間の意思の介入しだいな気がする。

2016年9月16日金曜日

竹山道雄「竜安寺石庭」~『日本の名随筆 石』を読む その9~

――「お前の世界表象はあまりにも凡庸で日常的だ。ただ受身に外界を映しているだけだ。このように自分が構成する可能性をもて」といわれた気がした。

竜安寺石庭を見た時の竹山道雄(ドイツ文学者)の感想である。

竹山は竜安寺石庭を様々な言葉で評する。
列挙しよう。

  • 世界の裏側を見せられたような気になる。
  • 石庭に使われた石は決して立派なものではなく、貧弱である。
  • 逆に、堂々とした巨石を置いたら、ここまで評価されなかっただっただろう。
  • わざと貧弱な石を用いて、石の形ではなく、石の配置に価値観を持たせることに集中した。
  • 竜安寺石庭は池に水もない、砂面にも何もない、目を見張る石もないの、ないないづくしである。
  • 見る人が、そのないないづくしの空白を埋めるようにしてあるようだ。


竹山は、石のフォルムが持つ性質に「絶対感」と「無限感」を挙げている。
竜安寺石庭には、とりわけ「虚」「空」「否定」という意味合いの無限感があるという。

人にとって、とりつくしまもないような雰囲気を「絶対感」「無限感」と表現したのかもしれない。
今回は、石のフォルムや規模ではなく、石の並べ方で「否定」の世界観を伝えた。
竜安寺石庭に並べられた十五個の石は、完全な円弧の配置ではなく、不規則で、不完全な弧を描いて並べられている。
これはわざとである。「一つの石も動かせない」のだそうである。

1つ1つの石は貧弱であることから、石が本来持つ性質は発揮されていない。
それでも、石が持つ「無限感」を、石そのもの以外の要素である「配置」によって表現した。

だから、竹山の言葉を借りれば、竜安寺石庭は「石」の庭ではなく、むしろ砂庭なのだという。

――茫漠たる大洋を見まわしたときと、その中に遠く一点の孤島を認めたときとでは、われわれの心的状態はちがう。

庭石だけでしか岩石を哲学できないわけではないが、竜安寺石庭という一つのモチーフ(しかも人為的な石の作品)から、逆説的に岩石の性質があぶりだされているような名文に感じた。


2016年9月11日日曜日

石はいつでも人の心の写し鏡

【動画】アヒル顔の名物岩、観光客に破壊される
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/090800336/
(ナショナルジオグラフィックス日本版)


中国人観光客が韓国の“文化財”持ち去り!?中国メディアは指摘した韓国議員に「過去にも中国に難癖つけた」と反発
http://www.recordchina.co.jp/a150074.html
(Record China)


石は、人によって勝手に人気者にされ、人の都合で壊され、石を守ろうとするのも人。

石はどっしりと構えているように見えて、人にされるがままの存在でもあります。

いつまでもあるように見えて、あっという間になくなる一面も持ちます。

石の目の前で何が起こっても、石自体は黙して語らず、石を代弁するのはいつでもどこでも、人であることに気づかされます。

人の心と最も遠い次元にある石を通して、人のあらゆる心が透けて見えます。

人の心には、醜いもきれいもありますが・・・

だから岩石信仰を見続けるのを、私は止められないと、ここ一年ほど感じています。


2016年9月4日日曜日

「君の名は。」を通して知る日本の岩石信仰

デザイン・視覚表現の雑誌『月刊MdN』vol.270(2016年10月号)
「特集 君の名は。 彼と彼女と、そして風景が紡ぐ物語」にコラムを書きました。

新海誠監督手がけるヒット中のアニメ映画「君の名は。」の特集記事の一つです。

封切り前、試写会に参加させていただいた上で書きましたが、事前知識なしで見たのでストーリー展開にびっくりしました。
私の中では、浄化されたという表現が一番ぴったりきます。

人間の最もピュアな面を照射されるような、あるいは、えぐられるような。
えぐられると、照れが出たり、目を背けたくなるかもしれませんが、まっすぐ受けとめて楽しんだもの勝ちと私は感じました。
このあたり、見る人によって受けとめ方は変わるのではないでしょうか。


劇中に石の御神体が登場することから、「日本の岩石信仰」というテーマで依頼をいただきました。
極めてマニアックな「君の名は。」特集なのではないでしょうか。

なにはともあれ、日本列島に残る岩石信仰の世界を、一人でも多くの方に知ってもらえる機会をいただき感謝です。

岩石信仰の一般的な概要紹介というより、「君の名は。」に登場する様々な要素とリンクさせながら書いたつもりです。 ぜひお手にとってご覧いただければと思います。

Amazonリンク(9月6日発売)
月刊MdN 2016年10月号(特集:君の名は。 彼と彼女と、そして風景が紡ぐ物語 / 新海誠)
雑誌版(新品完売) https://www.amazon.co.jp/dp/B01KNCSZ3I
kindle版もあります https://www.amazon.co.jp/dp/B01HPLSZDA


「君の名は。」の御神体のモチーフについて


紙幅とテーマの都合上、コラムでカットした部分だけ、ここで語っておきます。

「君の名は。」の影響で、すでに劇中の聖地巡りをしている方も多いと聞きました。
余談ですが、劇中の石の御神体を見て、私が直観的に似ていると感じた場所をいくつか挙げておきます。
※もちろん新海監督に確認したわけでもなく、私の経験上の直観を書き連ねただけなので、作品のモチーフと断定するものではないことをご了承ください。


まず結論から言うと、特定のある場所をモデルにしたわけではないと感じました。
複数の聖地的要素が融合している印象です。

たとえば糸守の湖ですが、作品を見ながら第一印象で飛び込んできたイメージは、私は秋田県仙北市の田沢湖周辺です。

田沢湖の湖畔には御座石神社があり、その奥には高鉢山という山もあり、山中に「鏡石」と「かなえる岩」という岩石信仰の地が残っています。田沢湖の成因に諸説あることもそう感じさせました。
後日、web上では諏訪湖がモデルではないかという話を見ました。それもありではないかと思います。
特定の一つではないのです。


また、劇中の御神体はテラス状(石が二段の階段状になっている)の外見をしていました。
これだけ見ると、私は岐阜県高山市の位山にある「祭壇石」を思い出しました。祭壇状の外見、周りに樹木が少なく吹き抜けている様子、オカルト雑誌『ムー』との関わり的にも。

カルデラ的地形の中の神秘的な石、という点では熊本県阿蘇郡南小国町の「押戸石」とかも想起させます。阿蘇山外輪に位置しています。ここもオカルティックな評判がある場所です。

ただし、映画の御神体には、下部に岩窟状の内部空間があるのに対して、位山の「祭壇石」も阿蘇の「推戸石」にも、内部空間はありません。


まつられた岩の下が岩窟状になっている例自体は、日本全国に多く存在しています。

たとえば、群馬県高崎市の榛名神社の「御姿岩」や、大阪府交野市の磐船神社などが有名でしょうか。
でも、特定の一つには絞れないと思います。
榛名神社の「御姿岩」の内部は誰も見ることができませんが、古くから土器が供えられているといい類似性を感じます。

岩窟には、自然の岩陰をそのまま祭祀の場として利用したものと、自然の岩陰を利用して人工的に補強して岩屋状にしたものと、人為的に内部空間を形成させたものがあります。
劇中の御神体についてはいろいろ設定がなされていそうなので、これも特定する性質のものではないでしょう。


「君の名は。」では彗星との結びつきも見所で、星石の信仰という文脈でも語ることができると思います。

有名なのは大阪府交野市の星田妙見宮で、そこでまつられている「織女石(たなばたせき)」は伝説の内容から見ても、本作とオーバーラップできるものがあります。
愛知県名古屋市南区の星宮社や、たしか江戸時代の石の博物誌『雲根志』にも尾張の星石など、隕石をまつる信仰も岩石信仰の一つです。


岩石信仰の聖地巡りを通して、過去の日本人がなぜ岩石を信仰したのか、いや、今も信じている人がいるのか、ということに触れてほしいです。

聖地巡りは、実物を訪れることだけでなく、文献上で出会うこともできます。

むしろ、現地で感じた感情は、私たちの価値観を出ていないことにも注意したいです。

昔の人が書いた文章の中に、当時の人の価値観が忠実に残っています。
現代の私たちとは、発想や物事の受け止め方が異なること多々です。
その違和感を楽しむと、いわゆる聖地巡りがもっと意義深い愉しみに変わるのではないかと思います。

新海監督は古今和歌集の和歌から本作のアイデアを得たと聞きましたが、このような「文献の中での発見」もまた面白い出会いです。

岩石信仰という、私たちと異なった世界観に触れていただけると、この世界を細々と調べてきた人間としてはうれしいことこの上ありません。


関連リンク


「君の名は。」の御神体について知りたいです

2016年9月1日木曜日

久門正雄『愛石志 抄』~『日本の名随筆 石』を読む その8~

 文章がやや難解かつ長いので、内容を簡単に咀嚼して箇条書きにしておく。

  • 人が美しいと感じるものには、自然物と人為物がある。
  • 人為物には、よほどの作品でない限り、意恣が見える。
  • 自然物にはそれがない。人間の体臭からは程遠い存在である。
  • 築庭における捨石は、橋や路傍や滝などに風致を添える石のこと。
  • 庭に対しては無用の用を果たしているが、そういう実用性がない分、むしろ石そのものを生かした存在となっている。
  • 捨石は、茶道の寂の精神に通ずる。自然さ、静けさ、古めかしさ、内包感、安定感。石の持つ属性に通ずる。
  • 実用でなく、非実用に存在している地道な味わいが、石の性にふさわしい。
  • 飛石は、庭において歩道としての実用性を持った石である。実用物なのに美しさを感じる理由は何か。
  • 一つは、美しさを狙って置いたものではなく、実用に終始する忠実さ、つつましさ。そこに美を発見した。
  • 二つは、石を歩く間隔にただ並べただけという簡素さの美。土偶・埴輪・神社・茶室・能の所作・茶器・和歌・俳句などに通ずる簡約の美である。
  • 護岸石は、掲げて見るものでも、正面に立てて観賞するものでもなく、土に埋もれ、地と一緒になり、崩れの支えとなっている。
  • 石を愛する者は、自然の状態にある頑石らしい頑石を好む。その意味では、偶然に観賞する対象となるのが始めで、それを日常の手近なところに持ってこようとしたのが庭石である。

庭石という世界の中でしか、石は語れないだろうか?