インタビュー掲載(2024.2.7)

2018年12月31日月曜日

岩屋神社の陰陽岩(京都府京都市)


京都府京都市山科区大宅中小路町

岩屋神社は山科区の東端に鎮座する。
「山科一之宮」とも称される(西にある山科神社という説もあり。ただ山科神社は岩屋神社を奥宮とみなしたともいう)。

岩屋神社境内は京都橘大学と隣接するが、社殿とは別に、裏山の中腹には「岩屋殿」という奥之院がある。境内からは「奥之院まで400m」と案内がある。

岩屋神社の陰陽岩
奥之院

奥之院は「陰岩」「陽岩」と呼ばれる2体の巨岩で構成される自然信仰の場となっている。2体を併せて「陰陽岩」とも呼ぶ。
陽岩には天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト。天照大神の子)、陰岩には栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト。天忍穂耳命の妃)をまつっていたとされ、現在の岩屋神社の祭神となっている。

岩屋神社の陰陽岩
陰岩

岩屋神社の陰陽岩
陰岩

岩屋神社の陰陽岩
陰岩の頂部は平坦で草が繁茂

岩屋神社の陰陽岩
陰岩に見られる岩陰部

岩屋神社の陰陽岩
陽岩

岩屋神社の陰陽岩
陽岩

岩屋神社の陰陽岩
陽岩の頂部も平坦で草が繁茂

岩屋神社の陰陽岩
陽岩の周辺には他にも岩塊が群れている


岩屋神社を取り巻く歴史

岩屋神社の社記(由緒書)に基づいて、神社がたどってきた歴史を簡単に整理したい。

  1. 仁徳天皇31年(343年)、現社地の裏山中腹にある2つの巨岩を「石座」として信仰が始まる。
  2. 宇多天皇治世の寛平年間(889~897年)、2つの巨岩の内、陽岩に天忍穂耳命、陰岩に栲幡千々姫命、岩前小社に大宅氏(大宅地区)の祖神である饒速日命(上2神の子)をまつる。
  3. 治承年間(1177~1181年)、園城寺の僧徒によって焼かれ、この時、古記録類を失う。
  4. 弘長2年(1262年)、3神をまつる社殿が現社地に再建され、現在に至る。

この社記がどの程度忠実に歴史を伝えているかという問題はあるものの、まずは社記のとおりに語られる、陰陽岩の性格変遷を読み取ってみよう。

まず一つ目に重要なのは、神社側はこの陰陽岩の発祥を「石座」(=磐座)としていること。
神社側がこの「石座」という用語を「神聖な岩」一般を指す用語として使っているのか、あるいはその語義通り「神が宿る座石」という具体的な意味を持たせて読んでいるのかはわからない。

二つ目に重要なのは、まつられた当初ではなく、後世になって初めて陰陽岩に具体的な神(日本神話の神)が当てられたこと。饒速日命を祀っているのは岩ではなく「小社」と述べているところを見ると、饒速日命に関しては社殿祭祀後の併祀と見ることもできる。

寛平年間に3神を祀った時期と、仁徳天皇期に石座祭祀を行なっていた時期を明確に分けていることから、陰陽岩の性格は次のように変遷していった。
「現在→昔」にさかのぼって説明しよう。

弘長2年(1262年)以降~現在の陰陽岩


現在、祭神はすべて麓の本殿内に常在しているので、今の陰陽岩自体には神は宿っていない。
そのことは、現在岩屋神社が行なう定期的な祭祀儀礼にこの陰陽岩に関わるものがないこと、および、近年になって氏子崇敬者がこの奥之院の整備をし始めたということから、それ以前のしばらくの間は、まさにこの陰陽岩は普段人足がほとんど入ることもない場所だったことがうかがえる。
定期的に祭祀のない陰陽岩は、現代においては神が宿る中心的存在ではない。

陰陽岩が伝え持っているのは「昔、ここで神をまつっていた」という記憶・歴史である。そのことはすなわち、陰陽岩は岩屋神社の悠久の歴史を証明する働きを持つことになる。
よって、現在の陰陽岩の機能は「岩屋神社信仰の淵源がここにあったことを今に伝える聖跡(神聖な痕跡が伝え残る岩石のタイプ)」と解釈できる。

余談ですが、陰岩の窪みにあった水は霊水だと信じられている(現在この水は枯れてしまったらしい)。
単に岩屋神社信仰の淵源として存在するだけにとどまらず、プラスして陰岩は積極的な霊験を持っている。栲幡千々姫命が陰岩から社殿に移った後も、子宝安産の神格が岩にそのまま伝存してご利益があると信じられたのだろう。

寛平年間~治承年間の陰陽岩


この時期は、山腹の陰陽岩付近に3神をまつる社を設けていたといわれる段階。
饒速日命を社殿(小祠)にまつり、字義通り解するなら、天忍穂耳命と栲幡千々姫命の両神はそれぞれ岩自体を神として祀っていたことになる。

もしかしたら、岩の前に小さな祠を敷設していた可能性はあるが、延喜式神名帳に記載がないことを考えると(山科の式内社は山科神社)、この時期の岩屋神社は木造社殿の祭祀形態ではなく、陰陽岩それ自体を神の宿る神殿とみなした信仰だった可能性が指摘できる。
ということは陰陽岩の中には神が絶えず宿るという意味で石神信仰だったと考えられる。

寛平年間以前の陰陽岩


時代が遡れば遡るほど情報は少なく、推測の混じる部分が多い。
だから断定調の結論は避けたいところだが、私は「神社が寛平以前と以降で、祭祀形態が違うことを明確に伝えている点」を重視して、寛平年間以前と以後では岩石祭祀の形態に違いがあったと考えたい。

岩屋神社の実質的な創始は、寛平年間に3神を祀ったところから始まったのだが、それ以前の祭祀形態の存在を漠然と「石座だった」と伝えるだけにとどまらず、「仁徳天皇31年」と曲がりなりにも明確に記述しているのを見ると、まったくのフィクションと見るよりかは、寛平以前からその前身となるべき岩石信仰が連綿とあったのだろうと目される。

寛平以前の岩石祭祀は寛平以降の岩石祭祀とは違ったとすると、それは神社が伝えるとおり、石神信仰ではなく磐座祭祀だったということになる。

磐座祭祀が石神信仰に転化する例は全国の「磐座神」(本来、祭祀施設であるはずの磐座が神となっている)の存在から明らかである。
陰陽岩のように、岩自体に神聖性を感じさせるような岩石の場合は、いつのまにか神自体と同一視されてしまう確率もより高かっただろう。

ただし、陰陽岩は極めて巨大で形状も特徴的なので、初めて岩を見た人が、その岩を神の「座」と見ずに、初めから「石神」と見てしまうのではないかという可能性もある。
これは石神信仰と磐座祭祀が併存したか先後関係があったかという一大議論に関わるので即断できない。

1点ヒントとなる情報として、陰陽岩の立地が山の中腹にあるということを挙げておきたい。
山の中腹というのは、そこから上にまだ未知の世界が続いている(最高点は頂上)ということ。中腹にたまたま屹立していたこの陰陽岩を、山頂の神が降臨するにふさわしい絶好のポイントにしていたと考えても不思議ではない。
磐座として、よりふさわしい立地ということだ。
里(日常空間)と山(非日常空間)の中間地点としては、もしかしたら「山裾・山端・山口」といった立地のほうが、聖域にいる神を人間の立ち入れる俗域に迎える磐座の立地としては最適なのかもしれない。
そこは、陰陽岩が自然石だから、まつった人々にとっては自分達の好きなように祭祀場所を選べなかったといえばそれまでだ。逆にこの奇観は、神が与えた絶好の降臨ポイントだと思うこともできる。
陰陽岩の場合、山頂に近い中腹ではなく、里に近い中腹になる。まるで、麓から山を登って最初に出会う巨岩群という表現がピッタリであり、その意味では、なるべく俗域に近い場所で神を迎えようとする点で意味は大きく変わっていない。 

以上は社記を前提にした推論であり、他文献の記述によって変動する可能性はあることは付記しておきたい。
現時点で、山麓ではなく山腹に立地する磐座の事例、磐座から石神への転化事例など、様々な論を考えていく際の事例となるのではないだろうか。


2018年12月30日日曜日

岸宮遺跡(和歌山県紀の川市)



和歌山県紀の川市貴志川町岸宮

鳩羽山(標高265.4m)の東にそびえる250mピークの山頂と、その山腹・山裾の計3ヶ所に分布する祭祀遺跡を、岸宮遺跡(岸宮祭祀遺跡)と総称している。

山頂には「タテリ岩」、山腹には中宮遺跡、山裾には貴志川八幡宮がある。

実質的な考古学の遺跡は、山腹の中宮遺跡である。
中宮遺跡では昭和33・34・49年の3度に渡り発掘調査が行なわれ、環状配石・敷石・井戸遺構と和鏡・鐸形銅製品・魚形銅器・滑石製有孔石製品・土師器・須恵器・黒色土器・瓦器・緑柚陶器などの遺物が出土した。
遺物の大半は土師器が占め、遺物の製作時期は奈良時代~平安時代の期間にわたると考えられている。

岸宮遺跡の東方山腹には具足壷古墳群(7基)、西方山腹に七つ塚古墳群(13基)、上瑞古墳(1基)が存在し、いずれも墳丘規模・石室規模・遺物の内容などから古墳時代終末期(7世紀)の築造と考えられ、祭祀遺跡との関係性が興味深い。

タテリ岩/一の宮(山頂)


山頂に「タテリ岩」と呼ばれる高さ5.5mの蛇紋岩がある。

岸宮遺跡

岸宮遺跡

康平6年(1063年)、ここに最初に宮を建てて一の宮と称したとの貴志川八幡宮の社伝が残る。
貴志川八幡宮信仰の淵源に位置付けられる存在だが、今のところ遺物は見つかっていない。
現地は樹木が繁茂していても見渡しの良い眺望である。

岸宮遺跡

中宮/中の宮/上の宮(山腹)


康平6年(1063年)に一の宮を設けた30年後、山の中腹に遷座して上の宮と称したといわれる場所。

『紀伊続風土記』(1839年)には中腹に「中宮」の字があり、現地には多くの岩群が現存する。
この岩群の西に接して、環状配石・敷石・井戸の3種の遺構が出土した。

岸宮遺跡

岸宮遺跡

岸宮遺跡

環状配石遺構は、20数個の角礫を直径約1.5mの環状に巡らせたもので、石同士は粘土で固定され、配石内部は石敷きがされていた。
この環状配石遺構の西に隣接して敷石遺構が広がっており、両遺構は相互関連する働きがあったことが窺える。
環状配石遺構から1mほど東に離れて井戸遺構があり、常時水が溜まっていた。

敷石遺構東端から約6m離れた巨石の上面から和鏡、岩陰から鐸形銅製品が見つかっており、人為的遺構だけではなくそれを取り巻く一帯の岩群も祭祀の場として機能していたと推測される。

岸宮遺跡の岩群、そしてタテリ岩にかけては古墳がなく、この岸宮遺跡の一帯を回避するように東西の山腹で群集墳が築造されている。
石材入手の容易な(中宮の一帯は岩塊が広範囲に散乱している)岸宮遺跡に古墳を設けず、そこが岩石祭祀の場となっていることに、私は葬送儀礼と山の神祭りの使い分けのようなものを想起させる。

貴志川八幡宮(山裾)


社殿前の石段脇にある石の群れは安土桃山時代の製作の「前庭」「庭園」などと呼ばれているが、元々は山裾の磐座に手を加えたものとする説もある。
しかし具体的な根拠がある様子でもなく、正直なところ、説得力には欠けている。

岸宮遺跡

岸宮遺跡

貴志川八幡宮の社伝は、山頂→山腹→山裾への遷座を語るものだが、現状において遺物が見つかっているのは山腹だけであり、山頂と山裾には遺物の出土がないため、山頂と山裾、どちらが先行する祭祀の場だったかは検討の必要がある。

佐々木高明氏が『山の神と日本人』(2006年)で山宮・里宮研究を分かりやすく整理しており、山頂祭祀と山麓祭祀についてのヒントがあるので紹介したい。
佐々木氏によると、山頂を信仰の淵源とする山宮・奥宮伝承は各地の霊山で聞かれるものの、実際はそういった霊山でも山麓の祭祀(遥拝)が先行し、山頂の宮は山岳仏教の登拝修行の影響を受けて後世に建てられたというケースがあると指摘している。
ならば、岸宮遺跡についても社伝の流れが絶対であるかという点には疑問符がつくことになる。

しかし山中には群集墳があることから、当時の人々がまったく山中に入らなかったということもないだろう。
ということは、山腹の岩群や山頂のタテリ岩の存在も古墳選地の時点で認識していたと考えるのが自然である。

私見では、山中に入る時は「墓所を築き祖先を埋葬する時」や「どうしても大切な願いを届ける時」くらいで、基本は山裾・山麓の祭り場から山を遥拝祭祀するものだったのではないかと思っている。
山中の古墳で埋葬後の墓前祭祀の痕跡が見つかったという話は寡聞ながら覚えがなく、あるのは追葬である。これも山中が頻繁かつ定期的に祭祀を行なう空間として認識されていなかったことを示すものだと思われる。

参考文献

和歌山県史編さん委員会 「岸宮遺跡」 『和歌山県史 考古資料』 和歌山県 1983年

前田敬彦 「岸宮祭祀遺跡」 武蔵古代文化研究会(編)『第2回東日本埋蔵文化財研究会 古墳時代の祭祀-祭祀関係の遺跡と遺物-』《第3分冊-西日本編-近畿・山陽・山陰・九州・発表要旨・文献目録・四国地方》 日本埋蔵文化財研究会 1993年

佐々木高明 『山の神と日本人』 洋泉社 2006年

2018年12月29日土曜日

拝ヶ石(熊本県熊本市)



熊本県熊本市河内町東門寺
 
熊本市街の西方にカルデラ式火山として有名な金峰山(標高665m)がそびえており、この金峰山系の外輪を構成する一峰・拝ヶ石山(標高447m)の山頂から山腹にかけて露出する岩石群を総称して拝ヶ石と呼んでいる。

拝ヶ石

拝ヶ石

拝ヶ石については、すでにweb上で詳細な資料を展示している「古代の足跡in熊本」さんの「拝ヶ石資料」がある。こちらの資料を参照しながら、主に歴史学的な情報をまとめておきたい。

拝ヶ石の名前について


現在、一般的な名称は「拝ヶ石」だが、この石にはさまざまな呼び方がされていた。以下に整理する。
  • 拝み石・拝石(おがみいし):1929年に聞き取りをした地元の老人が呼んでいた名前。
  • おかミノ石:『東門寺村地撫御帳』(1637年)に見える字名。当石の名の初出と考えられている。
  • 夫婦石:巨石の内の1体が地震で折れ倒れたといわれ、その巨石が直立していた頃の別称という。
  • 拝ヶ石宗教遺跡:1985年に当石の発掘調査を主導した田辺哲夫氏が名付けた遺跡名。
  • 拝ヶ石巨石群:熊本市や観光協会などが使っている名称。現在最も通りの良い呼び方。

最も歴史的に古い名称は「おかミノ石(拝みの石)」になる。いつから「拝ヶ石」が代表格となったのかはわからない。

遺跡名として「拝ヶ石宗教遺跡」があるが、この遺跡名はあまり浸透していない。
日本考古学において「~宗教遺跡」という名付け方をしている遺跡は主流ではない。
現在で言えば「祭祀遺跡」だが、祭祀遺跡だと確定するのも慎重であるべきなら「拝ヶ石遺跡」が最も穏当だ。

民俗的な記録

  • 弘法大師がこの石の上に登り、太陽を拝したといわれる。石の上には弘法大師の足跡が残るという。
  • 石に登ると腹痛が起こり、祟りがあるという。
  • 山腹巨石群南西に横たわっている巨石はかつて立っており、それが地震(時代不明)によって折れ倒れてしまったという。倒れる前は高さ7m長の巨石が2体並んでいたことからか夫婦石とも呼ばれていたという。
  • ここから阿蘇の神を拝んでいたことから拝み石と呼ぶようになったという。
  • 菊池武重(14c前半の肥後国武将。南朝の忠臣として菊池神社祭神に神格化もされている)がこの石の上に登り一ノ岳(金峰山最高峰)を拝んだから拝み石ともいう。

重要な情報が残されている。
注意しなければならないのは、拝ヶ石は石自体が拝まれる対象だったのではなく、石を通じて別の信仰対象を拝していたという伝承構成になっていることだ。

拝していた対象は、太陽や阿蘇の神から一ノ岳や雲仙岳という説もあり一定しない。
信仰している人によってまつる対象が違った可能性は十分あるが、この石は「拝み所」として共通して機能していた。

祟り情報があることと、弘法大師や菊池武重が石の上に登っているという2つの情報を考え合わせると、拝ヶ石は「一般人は登ってはいけない×」ことが読み取れる。
「聖者なら登って良い」ことから、司祭者や神に近いとされたシャーマンなどが岩石と神人合一を図ることで、人間に神を宿らせ神託を述べるような祭祀も行なわれていた節がある。

考古学的な記録


大きく3度の調査が行なわれた。

1.1929年、熊本中学校教諭の進藤担平氏による拝ヶ石の認知と踏査


進藤氏によって初めて拝ヶ石に学問的関心が向けられた。
民族学者の鳥居龍蔵氏の巨石文化論に触発されて進藤氏は何度か足を運び、巨石群の配置の簡単なスケッチを書いた。

2.1930年、鳥居龍蔵氏の現地確認

進藤氏の依頼を受けて鳥居氏が現地を訪れた。調査といっても半日ほどの立会い見学だった様子。
  • ストーンサークルの中心にドルメンを有する巨石遺跡と評価。
  • 中腹岩石群の「後方」(文脈から考えて東側と思われる)から、鎌倉~足利時代のかわらけを発見している。
かわらけは素焼き土器のこと。この時発掘はしていないのでこれは表面採集と思われる。

3.1985年、河内町教育委員会の発掘調査。発掘調査担当者だった田辺哲夫氏による「拝ヶ石宗教遺跡」(河内町教育委員会編『河内町史 資料編第1 中世文書・宗教美術』河内町、1991年)の発表。


調査結果をまとめると以下の通り。
  • 山腹の巨石群の中央部・北側・南側・東側を発掘。
  • 中央部からは、巨石群南西に横たわっている巨石の基部と目される岩石を発見。
  • 東側から土師器細片2点が出土。刷毛目があり、胎土(焼成)良好で、中世の製作と推測。
  • ほかに一切の考古学的痕跡なし。
  • 表土下はすぐ地山層。
  • 山頂の巨石群については発掘実施せず。
  • 岩石については天然の露頭という見解。

山腹巨石群のほぼ全域を発掘しても出土したのは土師器細片2点だけという、この遺物数のあまりの少なさ。

ヒントとなるのは、表土層のすぐ下が地山層で礫混じりであったということ。山腹斜面ということもあり、絶えず降雨により土が流出するのだろう。
他例では滋賀県瓦屋寺御坊遺跡で、坐禅石と呼ばれる岩石の崖直下から古墳時代の土器が出土したことからも分かるように、本遺跡もできれば斜面下にトレンチを入れてほしかったところ。
また、祭祀後は絶えず清浄にするという観点から、祭祀終了のたびに祭祀具や奉献品を別の場所に移して、祭祀場には残置されなかった可能性もある。

土師器は中世の製作と推測されている。
鳥居氏採集のかはらけもほぼ同じ時期の年代設定となっているが、そもそも土師器は素焼きの土器であり製作特徴がない限り極めて製作時期の特定が難しい代物。なおかつ今回は2cmほどの細片とのことなので、この中世製作という推測は経験則によるものでこの結果を過信するのも躊躇する。

中世の土器が出たから修験者の霊場遺跡だったという見立ても、やや論理飛躍の気がする。
金峰山の中世祭祀がすべて修験道や山岳仏教で語れると言ったら言い過ぎであり、地元住民の素朴な祭祀でも素焼き土器は使われるだろう。
土器が修行用の法具だったか、供献物を盛るための器だったかなどによって位置付けは変わってくる。

いわゆる超古代遺跡・天体観測装置説について


まずは現地に立てられた地図を見てみよう。

拝ヶ石

シュメール、ケルト、磁気異常・・・と、その筋にはおなじみの言葉が並んでいる。現地の案内板というのは極力客観的な記述をしてほしいが、協力を求める専門家を見誤るとこうなる。

石の名前も、これまでの文献情報・民俗情報に記載されていなかった「方位石」「メンヒル」「鏡石」「頂上石」などといった用語が突如登場。
この用語の使い方は間違いなく日本ピラミッド。
現地の名前を無視して名付けをする行為は歴史に対しての無頓着の現われであり、いい加減に自省を促したい。

スフィンクスに似ている、シュメール文字やケルト文字である、磁気異常が起こる・・・との説は、基本的にみんな言ったもの勝ちなところがある。
だれか、批判的に追調査をして裏付けをとったのだろうか。

スフィンクスに似ていると言わせる基準は何だろうか?
自然の造形が何かの事物に似ているということがどれほどの意味を持つのか?
仮に人工の造形であると言いたいのならば、その科学的説明はなぜしないのか?
磁気異常が起こるのは、岩石が帯電する以上何も珍しい話ではない。その現象を取り上げて何の意味を持たせたいのか?

シュメールやケルトを語るには越えなければいけない課題・前提があるのに、いつもそれが置いてけぼりにされている。
これらの説は前提条件を踏まえず単発で提起されるだけで、論として筋道立ってないのが痛い。ここを踏まえないと、この手のジャンルは先の展望を開けそうにない。

また、天体運行の観測装置としての位置付けを巨石に与えたいのであれば、その巨石は人工的に運搬・設置・加工などがされていることを立証する作業が、証明側に「前提条件」として必要である。
天体運行の観測調査をおこなうことで、古代の歴史を立証することはできない。何時代の所産なのかさえも証明できていない(あえて言うならば、現代の所産を証明した段階)。

必ず、人の意図が加わったことを証明できなければ、人の歴史は語れない。
人為的設置の証明なしでの天体運行のシミュレーション研究は、ロマンで自分に酔わず、涙をのんで偶然の一致と自己批判するのが、研究者として必要な科学的な態度ではないだろうか。
地球上で起こりうる現象には無数の意味付けを与えることが可能であり、それはロールシャッハテストの世界である。人の意図が介在しているかどうか、それが私の関心事である。

自然のままの岩石で、特異な天文運行や天文観測ができるということもある。
しかしそれでは観測装置としての性格は結果的かつ付帯的なものであり、天体観測をしようとしたという古代の人間の明確な意図は取り出せない。結果的に天文運行が石の神聖性を高めることにつながったという辺りの位置付けにとどまるだろう。
しかも、拝ヶ石は地震などで原位置が保たれていない可能性がある。原位置から動いた現在の状態で観測ができるのなら、つまりそれくらい現象の意味付けはたやすいということになる。

その他、現地を訪れての所感


方位石

現地案内板には「スフィンクスにも似ている」「表面にはレリーフ状の模様と星座を思わせるペッキング穴があり」とあるが、私から見たらスフィンクスに似ていないし、レリーフ模様も見当たらないし、ペッキング穴はあっても風化の窪みしかぐらいしか見当たらなかった。

拝ヶ石

最も巨大な岩石は、祠の東側にある立石状の巨石で、高さ9mともいわれるが、田辺哲夫氏の「拝ヶ石宗教遺跡」によると高さ7mとのこと。
これと比肩しうる規模なのが祠の南西に横たわる巨石で、これは先述の通り、地元の老人がかつては直立していて地震で倒れたと述べている。
1985年の発掘でも、この巨石の基部だったと思われる岩石が地中から出てきており、地震で崩落したかどうかには議論の余地があるようだが、かつては「夫婦石」と呼ばれたような巨大立石2体を中心とする岩群だったことが窺われる。

拝ヶ石

祠の後ろには、瓦礫のように岩石が積み重なっている。
累積のさらに背後から、土師器片が見つかったとされる。この辺りは地表と巨石の間に隙間ができており、こういった岩陰に遺物が残っていたことは「岩陰で祭祀をしていた」「岩陰なので遺物の流出を防いだ」という2つの意味で示唆を与える。
鳥居氏がドルメンと呼んでいたのも、こういった岩陰構造を組石とみなしたことによるのだろう。

山頂の岩石群

環状列石と呼ばれている。
確かにサークル状に見えなくもないが、しかし「環状にしよう」という人の意識までは感じさせない、もし人工であったとしたら中途半端な構造。
ケルト文字とシュメール文字があるという話だがどれのことか確認できない。
なぜ時代も地域も文化も異なる2系統の文字が、同じ石に刻まれることになるのかが私には分からない。
最も手前にある岩石には、謎の石の配列がされている。現代の岩石祭祀だろうか。

「メンヒル(立石・鏡石)」と名付けられた岩石

高さ6mで、石の頂面に十字線が刻されており東西南北を示しているというが、これは残念ながら未確認。
メンヒルを斜面下側から見ると、たしかに平滑面があるが鏡肌と呼ぶには手狭で、鏡面機能を持たすには立石は不適な形状だろう。

林を伐採すれば麓からの鏡面機能があったとか、林がなければあの山が見えるといった向きもあるが、自然の山において森林の繁茂力は侮れない。
古墳ですらメンテナンスなしでは100年後には森の丘と化していた。植林などに伴う植生の変化はもちろんあっただろうが、古代は違ったかもしれないと希望的観測を持ち込むのは避けるのが適切だ。

また、拝ヶ石につけられている種々の注連縄は近年の整備によるものとのことで、かつての拝ヶ石を知る人の中には、このように注連縄は目立っていなかったとの発言もある。
神聖なものだけでなく、大事なものに気軽に注連縄をつけるという現代における新たな使い方が多用されている。
視覚には錯覚・錯視がある。現代的価値観を優先して、古代の景観と同一視しかねないよう私たちは注意しないといけない。


2018年12月26日水曜日

磐座(いわくら)とはどういう意味ですか?

磐座が誤用されたきっかけ


「磐座(いわくら)とはどういう意味ですか?」

これはよくいただく質問です。

原始的な巨石信仰・巨岩祭祀を表す用語として、磐座という言葉が世間的にも紹介されるようになりました。
しかし、これは必ずしも正確な意味ではありません。この種の世界を専門にしている一人として、この表現が独り歩きしていることに心を痛めることもしばしばあります。

この誤用は最近になっての話ではなく、私が調べた限りではここ80年ぐらい、磐座という言葉が勘違いされてきた節があります。

上写真の場合、本来の名称は「磐座」ではない(滋賀県東近江市能登川町)

かつて1933年、奈良県桜井市大神神社の宮司だった遠山正雄氏が「いはくらについて」という論文を発表しました(『皇学』第一巻第二号に収録)。

この論文で、遠山氏は磐境も神籬も磐城も、巨石信仰に関するものはすべて「いはくら(いわくら)」と呼ぶべきだと主張しました。
私が思うに、祭りや宗教に関わる聖なる石をすべて磐座とひっくるめてしまう風潮は、この辺りから始まったと思われます。

この主張に対しては後年、國學院大學教授の大場磐雄氏による具体的な論証のすえ誤りが指摘され、乱暴な主張であったことがはっきりしています(詳しくは大場氏論文「磐座・磐境などの考古学的考察」『考古学雑誌』32-8、1942年を参照)。

しかし遠山氏が神社界の大家で影響力の大きい人物だったこともあるのか、はたまた、こういった仔細を無視した主張はシンプルでわかりやすいのか、今でも様々なところで、この類の石をなんでも磐座と呼んでOKとしている現状があります。

大場氏は前掲論文で、磐座などの言葉が濫用されていることを憂えていました。すでに70年以上も前に。

せめてこのページをご覧の皆さまには、歴史学的な研究に基づいた磐座の正しい語義を知っていただければと思います。よろしければおつきあいください。


磐座は「いわ」と「くら」に分けて考える


「いわくら」は「いわ」と「くら」から構成される語です。

かつて「いわ」は、磐石・堅固なものを表す美称(飾り言葉)として「いわ」を用いたと解釈する説と、実物の岩石としての「岩」のことだと解釈する説の二説がありました。

前者の「美称」説の1つに、本居宣長の『古事記伝』があります。
宣長は『古事記』に登場する「天石位(あまのいわくら)」を「天津神が座る堅固な座」と注釈していました。実際の岩石かどうかは重要視されていませんでした。

しかしその後、宣長は自身の随筆集『玉勝間』で後者の「実際の岩」説も提示しました。
平安時代の和歌集である『堀河院後度百首』の中に「いこま山 手向はこれか 木の本に 岩くらうちて 榊たてたり」という歌があり、これを「木の根元に、岩で作った榊の祭場」と解釈したのです。
「いわ」が実際の岩石に由来するとする後者の説にアップデートしたことになるでしょう。

その後、前述の大場磐雄氏が前掲論文で、磐座の語義を研究史から洗い出しました。

古典上での用例と、全国各地の実例を列挙した結果、「磐座」と呼ばれるものの多くが実物の岩であることから、「いわ」は実際の岩を意味すると結論付けました。
「くら」については、「御座石」「御座岩」「石床」「石占」などの類語から、これらはいずれも神々が石に座す観念から起こったものであると考え、神が占める座という意味を持つと論じました。

すなわち、「いわくら」とは「岩の座」であり「神が座す岩石」です。
(この場合の「座」は単なるsitにとどまらない意味を持ちます)

大場磐雄氏以後、現在に至るまで、数多くの学者が大場氏のこの解釈を支持してきていることを私も確認してきました。

磐座は神そのものではないということが注意点ですね。神そのものである石は「石神」(いしがみ)と呼んで、別の概念になります。
研究史に照らし合わせると、祭りや宗教に関わる聖なる石を、すべて磐座と呼ぶことは誤りであることがわかります。


「磐座」という漢字に縛られないこと


私がもう少し踏み込んで付け足すなら、そもそも磐座という表記で統一することが、あまり適切ではないと思っています。
たとえば「いわくら」という読み方をする表記は、次の用例があります。

  • 石位・・・『古事記』
  • 磐座・・・『日本書紀』『延喜式(祝詞・神名帳)』
  • 以簸矩羅…『日本書紀』万葉仮名表記
  • 天関…『日本書紀』一書
  • 石座・・・愛知県新城市 石座神社、京都府左京区 石座神社
  • 石坐・・・『播磨国風土記』『皇太神宮儀式帳』『長谷寺密奏記 裏付』
  • 岩座・・・広島県安芸高田市 天ノ岩座神宮
  • 岩坐・・・京都府京都市山科区 岩坐(諸羽神社)
  • 岩倉・・・静岡県伊東市 八幡宮来宮神社旧社地「洞の穴」(岩倉の地名を持ち、伊波久良和気命をまつる)、京都府京都市左京区岩倉(石座神社御旅所 山住神社)、岡山県倉敷市 岩倉神社、熊本県山鹿市 岩倉さん
  • 磐倉・・・愛知県新城市 磐倉大明神(石座神社)
  • 岩蔵・・・東京都青梅市 岩蔵、京都府舞鶴市 岩蔵(岩室稲荷神社奥の院)
  • 石蔵・・・兵庫県相生市 石蔵明神(磐座神社)
  • 『天正十八年本節用集』では、1字で「いわくら」と読む総画数53画の国字が収録されています(参考リンク:和製漢字の辞典:巻5)。これは「岩」「石」「聞」を組み合わせた字になっています。

磐座という表記だけを押し出すということは、上に紹介した他の表記を切り捨てることになってしまいます。

「でも、漢字は当て字だから、そこまで重視する必要はないのではないか?」と見る向きもあるでしょう。

しかし、漢字はすべてがすべて、適当に当てていると決めてかかるのは乱暴で、それは当時の人々の細かい心の機微を切り捨ててはいないだろうかと思うのです。

「くら」に「座」を当てた人と、「倉」を当てた人の意識の違いは、本当に一緒でしょうか。意識の差を考えなくてよいのでしょうか。


すこし細かい話をします。
上の表記用例をざっくりと分類すると、「位」「座」「坐」と当てる「座席」グループと、「倉」「蔵」と当てる「倉庫」グループに分けることができます。

神の宿り方という視点で考えた時、神が岩石の上に降り立つという「座席の構図」を持つのか、岩石の中に入りこむという「倉庫の構図」を持つのかには、意識の差があります。

すなわち、「座」という漢字から現代人がもつイメージだけだと一面的で、座る以外にも入る、憑依するなど、岩石に対して多様な神の宿り方があることに気づかされるのです。
そして、実際に各事例の伝承に照らし合わせると、石を椅子のように用いている「いわくら」と、神殿や住まいのように用いている「いわくら」の両方を見つけることができます。
(長くなるのでここではその1つ1つを取り上げませんが、詳しくは「岩石祭祀事例表」で実際の例をご参照ください)


「イワクラ」という表記への懸念


ところで、近年、イワクラ(磐座)学会によって新たに「イワクラ」の概念が提示されていることをご存知でしょうか。

イワクラ学会が主催するイベント「イワクラサミットin宮崎」の冊子(2005年発行)において、「イワクラ」は「大事なものを込めている岩」の意であることが提示されました。

イワクラ学会は、国際語としてこの「イワクラ」を普及しようと活動を行っています。

「イワクラ」は、世の中の大切にされている岩石すべてを包括することができる用語です。
神に関わらなくてもOKなのです。現代建築や記念碑・モニュメント、個人が収集している石のコレクションや盆石などでもイケるでしょう。
これは、従来提示されたことがなかっただけに有用な概念と言えます。

しかし、これまで述べてきたように、「いわくら」が持つ元来の語義「神が宿る岩石」とは混同しないように使用していってほしいと切に願います。

正直に言うと、古典の「磐座」と「イワクラ」の音が同じだけに、紛らわしいことこの上ないですが。
なぜ、音を同じにしてしまったのか。

ただでさえ、約80年前から誤解されてきた「いわくら」の語が、さらにこの新概念である「イワクラ」の登場により、後世、混乱に拍車をかけないかと懸念する一人です。

いや、すでに、混乱に拍車がかかっているのではないでしょうか?

「この石は古くからイワクラと呼ばれております・・・」「この岩はイワクラですね」など、安易に歴史を断定する場面を見かけることがあります。

「磐座と書けばイメージしやすいから」「しょせんは言葉の定義の問題だから、細かい違いは気にしなくてもいい」といった理由で押し切られる風潮も感じます。

しかし、その瞬間、私たちは本来の歴史を変えてしまったということに気づかないとなりません。

このままでは数十年後、どの岩石が旧来からの磐座で、どの岩石が新しく作られた「イワクラ」なのかが混在してしまいます。
 
大げさに書いたかもしれませんが、このような問題意識で慎重に歴史と対峙することは、物言わぬ岩石を歴史資料として物語る際に大切な姿勢だと思います。
少なくともこのページだけでも警鐘を鳴らして、ご覧になられた皆さまに託したいと思います。

言葉自体の歴史を調べ、本来の語義を尊重することも歴史研究であり、歴史を大切にする姿勢なんだという問題意識を、1人でも多くの方に持っていただけると幸いです。


まとめ


長くなったのでまとめます。


「いわくら」は「神が宿る岩石」。

神の立場から見ると、「祭祀の時、人と交流するために一時的にとどまるための岩石」。

人間の側から見ると、「祭祀の時、神を迎えるために用意する岩石」。


誤解しないように気をつけなければならないのは、「いわくら」は神そのものではなく、神が宿るために準備される施設・装置・道具なのだという点。この認識を見誤らないようにしたいですね。


また、似たような話で巨石信仰という言葉が古代祭祀などを語る時に多用されますが、実際には巨石ではない小石も多く神聖視されているという事実があります。
歴史的に、岩石に関する信仰で「巨石であること」は絶対条件ではありませんでした。

このように、磐座や巨石信仰といった一言で語り終えてしまったことで、その枠外に置きざりにされたままの岩石信仰のかたちが山積しているように思います。
それは同時に、そうした岩石に込められた人々の歴史や心も放置されている気がするのです。

岩石信仰の歴史と先人たちに失礼がないように。

このような視点で岩石を語る人が一人くらいいてもいいのではないかということで、この文章をインターネットに残しました。ご覧くださりありがとうございました。

2018年12月24日月曜日

季刊考古学別冊『世界のなかの沖ノ島』から見える現代考古学の磐座論

考古学好きにはおなじみ、雄山閣発行の季刊考古学・別冊27として『世界のなかの沖ノ島』(2018年11月)が発売されました。



 目次に「磐座―神が依り憑く磐―」「大宰府管内の巨岩と社殿」という、岩石信仰に関わる論考を見つけたので購入してみました。


執筆者の多くは考古学者です。
これを読めば、現在の考古学論壇における岩石信仰への捉え方がつかめるのではないか?と感じます。
以下に、岩石信仰に関連する部分を中心に各論考のダイジェストを紹介します。


岩石信仰に関わる論考


春成秀爾氏「沖ノ島の考古学」

  • 宗像三女神は元々、沖津宮でタキリヒメ(猛り姫)をまつる海神信仰の地だった。
  • 沖ノ島は「神の依る島」だから、タキリヒメがいる場所は玄界灘の海中か海底だった。
  • だから沖ノ島の磐座は、海にいるタキリヒメが祭祀の時に一時的にやってくる依代だった。
  • 奉献品ならそれなりの整然とした奉献の格式がある。岩陰の祭祀遺物はやや雑に収納されているので、奉献品ではなく祭祀後の後始末の場所ではないか。祭祀はもう少し離れた平坦な場所で行われたのではないか。

河野一隆氏「沖ノ島の歴史」

  • 沖ノ島(祭祀遺跡)と古墳で共通する遺物が出るからと言って、カミ祭りと祖霊祭祀が未分離だったとは言い切れない。
  • 沖ノ島の祭祀遺跡はすべて祭祀中の遺跡ではなかった。祭祀後の遺物を処理した跡も遺跡となっている。
  • 沖ノ島は国家祭祀の性格が強いとされるが、沖ノ島出土遺物から新羅系の遺物との関連が見られるので、北部九州と新羅がむすびついていた可能性がある。宗像氏など九州在地豪族の色濃い祭祀遺物も見られる。

笹生衛氏「沖ノ島祭祀の実像」

  • 古代の神観は「坐(居)す神」だった。特別な場所や現象には、それを起こす神がそこにいると捉えた。
  • 伊勢神宮の内宮正殿は高倉床の構造で、その周囲を方形に板垣で区画している。高床建物を方形区画する構造は古墳時代の遺跡にも見られ、内宮正殿には古墳時代要素が残る。
  • この方形区画は神籬と言って良い。
  • 804年(延暦23年)成立の『皇大神宮儀式帳』はこの内宮祭祀の最古記録。祭祀には「祭祀の準備」「祭祀」「祭祀後の対応」があり、それがそれぞれ祭祀遺跡にも投影されていると考えるべき。
  • 伊勢神宮の正殿に鏡を御形として納めることと、沖ノ島の巨岩群に祭祀遺物を納めることは遺物の種類にも共通性があり、機能も同じと解釈できる。だから巨岩群は神を象徴する御形で、巨岩という特別な環境に神の働きを見るという意味で神は常にそこにいた。
  • 祭祀遺物は祭祀後に岩陰に収納されたという点で、岩陰祭祀などは祭祀中の奉献状態ではなく、奉げた祭祀後にまとめて収納した跡。巨岩は伊勢神宮の高床倉と同機能と言える。
  • 沖ノ島からは製塩土器や鉄鋌も見つかっており、沖ノ島で土器・塩・祭具の祭祀の準備もしていた。
  • 露天祭祀の跡といわれてきた平坦地の1号遺跡は雑然とした遺物散布。これは祭祀後に撤収した祭具を廃棄した祭祀後の遺跡ではないか。
  • 従来の沖ノ島祭祀は「岩上祭祀→岩陰祭祀→露天祭祀」の順に変遷したといわれてきたが、岩上・岩陰は奉献品を収納した高床倉であり、露天祭祀は祭祀後の祭具廃棄跡だった。むしろ沖ノ島はずっと「準備→祭祀→廃棄」の祭祀を続けており、それが8世紀の伊勢神宮祭祀の記録にもつながった。

小嶋篤氏「大宰府管内の巨岩と社殿」

  • 福岡県那珂川市の後野・山ノ神前遺跡は巨岩の前から奈良~平安の祭祀遺物が出た遺跡。離れた場所に穴を掘り土器を埋め、その傍らに灯明皿があったから祭祀後の埋納を夜間に行った。
  • 福岡市の金城城田遺跡は本殿や境内の玉砂利を推定させる神社遺跡であり、ここからも土坑や灯明皿などの類似遺構が見つかっている。
  • つまり巨岩祭祀と社殿祭祀の構図は同じ。だから巨岩の機能=本殿の機能か。

下垣仁志氏「沖ノ島の鏡」

  • 巨岩単位で鏡の時期がまとまり、同范鏡の関係まで巨岩単位。
  • 古墳時代前期末葉の群と後期前葉~中葉の群に二分され、その間が空白期。漢鏡は皆無なのは見栄えの良い大きな倭製鏡を優先したからでは。
  • 出土鏡は畿内の古墳と共通することから、畿内集団の影響が色濃い。

新谷尚紀氏「宗像三女神」

  • 『古事記』『日本書紀』以外の文献を混ぜて祭祀の源流を研究するのは混乱のもとだから避けるべき。
  • 日本書紀一書第二にある「沖ノ島の神はイツキシマ(斎き島)姫が最古の伝承と認められ、タギツ、タゴリの名は付加的なものと考えられる。
  • 島の神信仰を重視。

甲元眞之氏「磐座―神が依り憑く磐―」

  • 柳田國男・折口信夫以来の依代論、景山春樹の奥津・中津・辺津磐座論を肯定する伝統的立場。
  • 神は祭祀の場に常在するものではなく、天上や海の彼方から龍蛇や雷の形で依り憑くもの。
  • 石神も磐座とみなしている。『出雲国風土記』に山頂に石神がいて、山頂で祭祀をしていたという記述も平安時代の文献などで認められるので、山頂の磐座が一番古い。
  • 伊勢神宮の形石(魂形。笹生氏が言う「御形」)も、古代~近世の文献を参照するかぎり、神が石の形を魂の形として憑依しにきた磐座である。
  • 山の上や岩の上の祭祀は各地の類例に残っており、沖ノ島も岩上祭祀から始まり、祭祀の場が時代と共に麓側に下ってきた事例と考える。
  • 沖ノ島の巨岩の位置付けをめぐって、笹生衛氏説と真っ向から対立。

今尾文昭氏「古墳の被葬者と祭祀」

  • 古墳の被葬者はカミか、祭祀の主宰者か。今の時点ではどちらとも言えないが、カミそのものとする見方には懐疑的。
  • 水の祭祀で、カミはずっと水源にいるか、流水に宿るか、導水施設に憑依するか。流水に神が宿ることに肯定的。神は最終的に海へ行き、神々がいる海の世界となる。そんな神がまた水の流れに沿って水源からやって来る。これを移動回帰型と名付ける。
  • 岩の祭祀で、カミは山頂から岩を伝って山麓の岩にとどまり、磐座となる。そしてまた山頂の岩に還っていく往還固定型と名付ける。山頂に神は常在する。
  • 移動回帰型と往還固定型という2種の研究メモを、緻密な論証を示すものではないが提示する。

小林青樹氏「山の神」

  • 二至二分の運行を、山頂と平野部の配石遺構の位置で観測していたと認められる縄文遺跡がある。だから縄文時代に山の神信仰はあったと考えるべき。 
  • 弥生時代の銅鐸は丘頂上を避けて、もう少しで頂上に達するという斜面立地に埋納される。大阪府柏原市の高尾山の銅鐸埋納地の近くに鐸比古神を祀る巨岩があり、磐座祭祀の最古例か。
  • 三輪山の祭祀はいつからか。古墳時代の磐座祭祀遺跡が狭井川沿いにあるが、その下流のおなじ狭井川南岸に弥生土器が出土している。器台など器種的に祭祀要素が見られることと、同じ川を共有することを以て弥生時代からの祭祀を認める。

松木武彦氏「ヨーロッパの神、日本の神」

  • 認知考古学の理論では、人のようで人でない姿の土偶は神の表現と言える。 
  • 天体運行に関する縄文時代のモニュメントは、神の姿を見せずに神の軌跡を演出したもの。
  • 縄文遺跡には何世代も用いた埋納施設もあり、ここに祖霊を認められる。
  • ヨーロッパにも女性像・巨石・墳丘墓など類似例もあり、原初の神の想像のしかたというのは、人類で共通性がある。相互の伝播や系譜の関係はない。
  • その後、金属器が登場してヨーロッパと日本では異なる展開に分かれた。 日本では弥生時代の青銅器から古墳時代の鏡・装身具・鉄器まで長期にわたり金属器に神の往来を演出する取り組みが続いた。
  • 神の往来をさらに演出するため、古墳時代には自然の祭祀遺跡と人工的に舞台を作った古墳の2種類のモニュメントが生まれた。

沖ノ島の巨岩に対する見解が分かれる


沖ノ島の巨岩というテーマに絞ったとき、研究者間で大きく解釈が分かれたのではないかと思います。
これはひいては、古墳時代における岩石信仰の解釈の相違とみなすことができます。

従来の沖ノ島巨岩の考古学的解釈は、長らく「磐座」であり「依代」でした。
神はどこか遠くから巨岩に宿りにくるもので、巨岩は神が座る磐座であり、神が憑依する依代と位置付けられてきました。

だから、沖ノ島の祭祀は岩上祭祀から始まり、それが岩陰祭祀に移り、最終的に露天祭祀となったという論理になります。

本書においてこの立場に明確に立つのは、春成秀爾氏・甲元眞之氏の両氏です。
沖ノ島巨岩について明言していないものの、岩上祭祀などの概念を否定せず、従来の依代・磐座思想で論を進めているのは河野一隆氏・今尾文昭氏・小林青樹氏です。

ただ、神がどこから憑依するのかはやや立場が異なるようです。
春成氏は海(海中か海底か)、甲元氏は明言していませんが天上や海の彼方。新谷尚紀氏は春成氏説に異なる形で海より島を重視。今尾氏は山頂と海の二方向で語ることもできます。
そういう差異はあるものの、基本的には神は祭祀の場に常駐していないのです。


さて、これに対して異を唱えるのが笹生衛氏。本書では小嶋篤氏も笹生氏説に沿った論を展開されています。

笹生氏は磐座という言葉をほとんど使わず、依代や神籬という用語についても批判を加えています。
その結果、磐座は『皇大神宮儀式帳』表記の「御形」で統一され、依代はそもそも古代祭祀の実像を示していないと不使用、そして神籬の「キ」は上代仮名遣いの分析から「木」ではなく「境」であり、玉垣などの聖なるものの結界という用法で使っています。

笹生氏の根底にあるのは「坐(居)す神」という神観です。
そこに神はいるわけですから、どこか関係ない所から呼び寄せる必要はないと考えるのです。
笹生氏説の詳細については、かつて別記事で紹介したことがあるのでそちらも参照してください。

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(前編)

「依代」と「御形」と「磐座」について―祭祀考古学の最新研究から―(後編)

笹生衛『神と死者の考古学』(2016年)を読んで


それぞれの疑問点


同じ雑誌の中で、沖ノ島巨岩に対してお互い名指ししないものの解釈が対立しあっています。
そこで、編者である春成秀爾氏はどう書いているのか巻頭を飾る「沖ノ島の考古学」を読んでみました。
全体として甲元氏に肯定的な論調なのは前述したとおりですが、それでは神が祭祀の場(岩)に常にいるとみなす笹生氏とはどう決着をつけるのかと思ったら、「収録論文の解題は、河野論文で扱うことになったので、ここでふれることはしない」とまさかの投げ。

そこで河野一隆氏の論文「沖ノ島の歴史」に当たってみたところ、従来の岩上~露天祭祀説で話を進めておりこちらも甲元・春成影響下なのは前述したとおりです。
河野論文は巻中の各論文の解題も含まれているので、笹生氏論文はどう触れるのかと思ったら、笹生論文を「出色」で「鋭く指摘」と評価しつつ、詳しくは言及できなかったと綿密な検討を避け、もう一度報告書を丁寧に読み込む必要があるだろうとどちらともつかない立場をとりました。

笹生氏論文に真っ向から批判できている研究者が見当たらないのも含め、本書は沖ノ島だけでなく、文献登場以前の日本列島の古代祭祀を考古学的にどう捉えるかのプチ現代論壇状態を博していると言って良いでしょう。


甲元眞之氏「磐座―神が依り憑く磐―」の疑問点

さて、まずは甲元氏の論考からです。
まさか2018年に、このような伝統的な依代・磐座観を読むことができるとは思いませんでした。
昔の研究だから考え方が古いという決めつけではなく、最新の資料と矛盾がなければもちろん肯定されるべきものです。

しかし、たとえば景山春樹氏の「奥津磐座=山宮」「中津磐座=里宮」「辺津磐座=田宮」論は、山頂が原初でそれが時代を経て山麓に降りてきたとみなす考え方ですが、平地の稲作農耕民の視点だけで構築された神観念です。
この考え方は山の民の神観念や、山と里の間である焼畑農耕民の神観念が除外されていることは、民俗学者の佐々木高明氏からすでに批判を受けています。

また、桜井徳太郎氏や和歌森太郎氏が唱える山中他界観ともこれは対立しています。
両氏は、山中が山の神のテリトリーのため容易に立ち入ることに畏怖や禁忌の念を抱いていたから山麓の祭場の方が原初的だったとする神観念で、柳田國男・景山春樹氏の想定する山中他界観と相容れません。

甲元氏は本来、この辺りの異説に対して反駁した上で、それを超える論拠を展開してほしかったところですが、まったく言及されていないのが大きな痛手です。

このことは笹生衛氏説に対しても同様で、両名の論考を読めばお互いがまったく相容れない真逆の主張になっていることは明らかですが、両名ともお互いの説に触れることはないまま並び立っています。

正確に言えば、笹生氏は従来の通説に対して反駁をしたと捉えられるので、反駁を返さないといけないのは通説を支持する甲元氏側になるでしょう。

甲元氏論文は古代から中近世にいたる様々な文献を援用して依代・磐座観念が全国各地にあったことを説いていますが、文献の制作年代があまりにも広すぎています。
古墳時代は文献が僅少だからやむを得ない(しかし積極的に活用するものではありません)とは言っても、奈良時代の信仰についても中世文献の記述を借りて「古代にまで遡上することは十分に可能である」と主張するのは危険ではないかと感じました。

文献を多用する一方で、肝心の岩石信仰への分析に対しては磐座一辺倒であり、先学が積み重ねてきた石神信仰・磐境信仰も言及がないのはどうしたことなのでしょうか。

いや、『出雲国風土記』を引いて楯縫郡神名樋山の石神を紹介しているものの、それを「これは大船山にある磐座を示す」と書いていることから、石神と磐座を同一のものとみなしていることが明らかです。
この両概念の大きな違いをなぜ同一視してよいと決めているのか、その理由は書かれておらず、用語の使い分けに逡巡している様子も見受けられないのが残念です。

神が遠地から宿りに来るという岩石が甲元氏が言うように存在するのと同じように、岩石そのものが常に神であるという事例もあります。
片方の事例だけを取り上げて、それが当時の神観念のすべてと見せるのは不正確です。

このように、数多くある異説や他解釈を一切看過して、あえての古典的学説回帰で締める本論考は素直に肯けません。


笹生衛氏「沖ノ島祭祀の実像」の疑問点

では私は笹生氏説側に立つ人間なのかというと、前掲のリンク先記事のとおり、笹生氏説に肯くところもありつつ、完全に重なっているわけではありません。

笹生氏が語る解釈は伊勢神宮の『皇大神宮儀式帳』という一つの事例で語れる世界観であり、それが古墳時代の祭祀遺物構成と共通する(分類名が重なり合う、というのが私の印象ですが)からと言って、当時の列島の神観念がすべて伊勢神宮の系譜で語れるとは考えない、また異なる立場にいます。

前の記事ですでに書いたことは重複するので省いて、本書の中で疑問に思った部分を書いておきます。

沖ノ島の鏡が差し込まれた巨岩は、笹生氏が言うには、御形である鏡とともに祭料が安置された伊勢神宮の内宮正殿と同じ働きだそうです。

祭祀で使った道具や奉献品を、祭祀後に保管した場所とみなしつつ、御形が保管された神殿ともみなせるわけです。

ですが、ここで疑問なのは、笹生氏は沖ノ島の巨岩を御形とみなしていることです。

『皇大神宮儀式帳』に忠実であるかぎり、内宮正殿の中に御形である鏡が納められるわけです。

沖ノ島の巨岩が正殿と同じ働きであるなら、巨岩の中に御形が納められないと同じ構造にならないのではないでしょうか?
もちろん、巨岩に内部構造がなければ物理的に巨岩内に収納することはできませんが、それならそもそも内部構造を持つ木造建築物と内部構造を持たない自然石を同構造で扱う論理が破綻することになります。

落としどころとしては、岩の亀裂や窪みや岩陰を巨岩内と同一視すれば良いと思います。
でもそうすると、沖ノ島祭祀における御形とは、巨岩そのものではなく、巨岩内に納める祭祀遺物のうちのどれかでないと論が整合しません。

伊勢神宮における御形は社殿ではなく鏡です。社殿は入れ物です。だから鏡以外の幣帛なども納められる高床倉なのです。
では、巨岩も入れ物に徹しなければいけません。にもかかわらず、笹生氏説に則れば、巨岩は祭料を収納する高床倉であり、同時に神を象徴する御形でもあるということになっています。

遠く時代と自然環境の離れた沖ノ島祭祀と伊勢神宮祭祀を、『皇大神宮儀式帳』と祭料の共通性で結び付けた以上、巨岩と正殿のディティールまで一致しないと、祭祀構造を同一のものとして当てはめることはまだ賛成できません。

私は、沖ノ島21号遺跡の巨岩上に構築された方形区画とその中にある岩塊こそを、巨岩という「岩のクラ」に納めた御形とみなしてもいいのでは?と思いますが、これは着想段階のメモとして書くだけにしておきます。


以下、着想段階のメモ


沖ノ島21号遺跡の巨岩は司祭者の座る座石であり、祭祀具を置く供献台であり、岩石の上に別の石を置くという、神を見える形にした磐座と呼ぶこともできます。

巨岩上の方形区画は笹生氏が言うまさに神籬であり、従来の解釈で言えば磐境でしょう。

その方形区画の中にある岩塊は、神の魂を形で表す御形であり、見えないものを見えるようにした祭祀道具と言って良いでしょう。
その点において、この岩塊は遺構ではなく遺物、施設ではなく祭料とみなすことができ、それを岩の上という平面的な空間内に収納した跡とみなすこともできます。

21号遺跡を、磐座の上に乗る磐座と呼んでいいかは解釈が分かれるところでしょう。この岩塊が「座」という字を当ててふさわしいか、座るや居るではなく、まさに「神の形」として宿りにくるスタイルであれば、磐座という語はやや誤解を招きます。
このあたりは、私が『岩石を信仰していた日本人』で提示した岩石祭祀の分類の類型要素で説明が可能です。

なお、今まで書いた話を全部ひっくり返す可能性としては、沖ノ島の現在わかっている遺跡・遺構・遺物の状況が、古墳時代当時の原位置を忠実に示すものかどうかは、土に覆われていないので常に批判の余地があります。
他の考古遺跡とは異なる保存のされ方をしてきたことに思いを致さないといけません。

「お言わず様」だったから、神職しかいない島だったからというのは、すべて後世になってからの通念のようなものであり、本当に古墳時代当時にその観念が同じくあったかは証明されていません。
研究者が論じるように、祭祀が終った後はその祭祀具を撤収したりまとめて別の場所に安置・廃棄したことが許されるのであれば、次回の祭祀の時や、数世代交代した後の祭祀の時、数百年の時をこえてかつての祭祀の痕跡の意味が不明になった時、元来の祭祀の原位置が改変・移動されたとしても何ら不思議ではありません。

21号遺跡の岩上の方形区画+岩塊の遺構も、いつまで遡れ、いつ現状の形になったのかは常に考えておかないといけません。
鏡の伝世品のように、この岩塊が沖ノ島祭祀の際の神宿る御形として常に祭祀の中心として活用され、祭祀終了後に常にこの岩上に安置され、それが祭祀のたびに繰り返されたと想像できたら、こんなロマンな話もありませんね。

最後に無責任なことを書きました。