インタビュー掲載(2024.2.7)

2020年8月30日日曜日

石室神社(静岡県賀茂郡南伊豆町)


静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎

伊豆半島最南端、石廊崎海岸の岩壁に抉り込むように建てられた社殿。

石廊崎

石廊崎先端の熊野神社から望む石室神社

石室神社


『延喜式』神名帳の「伊豆国賀茂郡伊波例命神社」の論社の一つであるが、当社を指すものかははっきりしない。

少なくとも、江戸時代においては石室山金剛院、石廊権現、石廊崎権現などの名で知られ、伊豆七不思議の地としても語られる場所となった。

ここでは、石室神社を構成するこの岩屋について考えてみたい。

全国各地に、自然の岩盤の窪み部分を岩屋や岩窟とする地は数多あるが、分類すれば下記のような形態を挙げることができるだろう。


  1. 岩屋の中に、完形の建築物を設けるタイプ
  2. 岩屋の中に、建築物を一部欠けた状態で設けるタイプ
  3. 岩屋の中に、建築物は設けず祭祀対象だけを安置するタイプ
  4. 岩屋そのものを、そのまま神聖視するタイプ


石室神社の場合は、1に近いながらも、2のタイプに属すると思われる。

視覚上の違いが、信仰する人々の世界観にも影響したのではないかという仮説を立てれば、次のような論点を挙げることができるのではないだろうか。


  • 岩石そのもので信仰の世界観が完結するか、視覚的に祭祀対象であることを明示する何かを盛り込みたかったかの心理の違い
  • 自然の岩屋に、どこまで手を入れるかという心理の違い
  • 視覚的に、自然物と人工物の主従関係をどう設計したかという心理の違い


石室神社は、社殿がやや岩屋に取り込まれている(岩屋空間に合わせて設計調整している)のが特徴である。「半ば」というよりは「ちょっと」というニュアンスがしっくりくる。

社殿は対称ではなく、奥方は岩屋の岩壁に沿わせて造られている。

ただし、形態分類というものは、立地環境によって自ずと規定されることもあり、その上で外見上での区別をしたにすぎないため、それ自体が何かしらの信仰の違いを証明するわけではない。

また、歴史的に現在の外観となったのがいつからか、信仰の淵源においてはどのような形態であったかは別に検討する必要があり、現状の景観で判断するのは注意である。


2020年8月23日日曜日

生石神社の「石の宝殿」(兵庫県高砂市)


兵庫県高砂市阿弥陀町生石

石の宝殿の構造


日本三奇の一つとして著名な「石の宝殿」。




「浮石」の異名を持ち、水を湛えた堀から浮いているかのように見える構造は、元々は地山の大岩盤を底面ぎりぎりまで削り出したことによる。

また、巨石と下の岩盤の間には亀裂が走っており、厳密には地上からは分離した存在だという。この亀裂は奥の岩盤から続いており、「大ズワリ」と呼ばれる摂理だと考えられている。

石の宝殿の巨石を切り出した後の背後の岩盤。


石の宝殿の外形の特徴を一言で表すと、よく「屋根を横倒しにしたような形」といわれる。

石の宝殿の奥側の突起


拝殿が建つ側を正面とするなら、奥側に屋根状の突起がついているからだが、石の宝殿研究会編集委員会『魅力再発見!石の宝殿と竜山周辺史跡~浮石の謎~』(2019年)がまとめたところによると、

  • 家の形
  • 容器の形
  • 祭壇の形
  • ノミ(鑿)の形

など、それ以外の見方があることも指摘されており、あまり家形一辺倒で考えるのも、解釈の幅を狭めることになるだろう。


播磨国風土記に記された石の宝殿


「原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石(おほいし)といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年 より


石の宝殿の最古とされる記述は『播磨国風土記』にある。

奈良時代当時は、石の宝殿ではなく「大石(おほいし)」と呼ばれていたことがわかり、それは現在の「生石(おうしこ)」の地名・神社名に通ずる。


この風土記本文の前段には「石作連」が登場していて、そして、本文では「作石」の字が見られる。

本文後半では「大連が造れる」の表現のとおり「造」の字も併用され、それぞれ、岩石を整形する、されることの表現と考えて良いだろう。

石の宝殿は明らかに人為的な巨石構造物ではあるが、奈良時代当時においても、人々が目の前の巨石をそのように表現していたことは興味深い。


なぜ作ったのかという目的は不明だが、岩石を自然のままでは良しとせず、彫り削ることで岩石の真の価値が出るという論理は、後世の石屋や仏師にも共通する価値観である。


石の宝殿の調査状況


石の宝殿の学術的調査について、オンライン上に公開されている文献では前掲文献のほか、『史跡石の宝殿及び竜山石採石遺跡保存活用計画』(高砂市教育委員会 2017年)が詳しい。


石の宝殿が奈良時代の『播磨国風土記』に記されているのは前述したとおりだが、平安時代の『延喜式』神名帳には生石神社の記載はなく、養和元年(1181年)成立の『播磨国内神名帳』を待たなければならない。

『播磨国風土記』の記述を読む限りでも、大石は「作石」であり、人が作った遺構以上の認識は読み取れない。平安時代に神が作った石として神社の神体としてまつられることと比べれば、奈良時代人のほうが人が作った石という意味で現実的である。


石の宝殿を語る際は、周辺の採石跡との関連性も外せない。

周辺の山塊からは、加工に適した凝灰岩が多く眠っており、竜山石という名前で知られている。

この竜山石は遠く畿内の古墳石棺などにも用いられたことが考古学的に判明しており、当地がヤマト王権との深い影響下における一大石材産出地であったことは疑いない。

生石神社裏の宝殿山から見た石の宝殿。岩盤の四方を切り出していることがわかる。

宝殿山頂上から竜山の採石跡を望む。

採石跡


石の宝殿は横口式石槨の未成品か


このような現在の研究状況のなかで問われる論点が2つある。

1つは「石の宝殿=横口式石槨」説である。

石の宝殿の目的には古来から様々な仮説が立てられているが、現在、最も考古学的に有力とされるのがこの説である。


奈良県の「益田の岩船」なども類例とされ、古墳時代終末期の埋葬施設である横口式石槨に形状および加工技術が類似しており、その未成品が石の宝殿とされている。

加工技術は、施された溝の幅の一致など確かに共通したものがあることから、石の宝殿の加工時期が古墳時代終末期にある可能性は同意するが、横口式石槨と断定していいかというと、私はまだ留保したい。

理由は、技術は共通していても、作られたものが古墳石室用一択とは言い切れないものがあり、また、形状もあくまでも類似レベルにとどまるものであり、一致レベルとは言えないからである。

他の多様な用途を捨て去るには、まだ根拠が揃いきっていないと思う立場である。
(横口式石槨説を否定しているわけではない)


石の宝殿と周辺の採石跡・古墳との関係


2つ目の論点は、石の宝殿と周辺の採石跡との関連性または相違性である。

現状、石の宝殿のような特異な構造物は、まさに石の宝殿にしか見られず、それは周辺におびただしく残る採石跡とは性質が異なるものである。

もちろん、未成品だからそこに唯一残されただけと考えることもできるのだが、他の採石跡との時間的先後関係もわからないなかで、この巨石構造物が「放置された」「未完成」と解釈していいかに一抹の不安がある。

その後の数々の採石行為があったなかで、この巨石構造物に手を入れたり、再利用・再切削・再加工しようとはしなかったか。すでにされた後の形がこれなのかもしれないし、されていなかったのだとしたら、それはすでにこの巨石への何らかの特別視の現れである。


石の宝殿が属する宝殿山にも複数の採石跡が確認されているが、隣接する竜山地区に比べればその数は少ない。その中での、石の宝殿の規模と存在感に特異性がある。

また、石の宝殿の南には竜山1号墳という横穴式石室を持つ古墳が確認されており、石の宝殿の築造者との関係が指摘されている。

当山は単なる石採り場としての利用だけではなく、墓域でもあったことを示しており、そこには少なからず宗教性を帯びる。

では、同じ山に「放置」されたという石の宝殿の巨石とは何だったか、まだ指摘されていない用途や性格が想定されるのではないか。

私はそれを即、宗教的な石に絡めるつもりではないが、複数の可能性を無理に絞り込む段階でもないと思っている。

生石神社境内にまつられる「霊岩」。各種文献に記載はなかった。


2020年8月16日日曜日

玉作湯神社の眞玉と、願い石・叶い石の祭祀~玉と石と~(島根県松江市)


島根県松江市玉湯町玉造字宮ノ上


玉作湯の地の歴史

「史跡出雲玉作跡 宮ノ上地区」として史跡指定されている、全国的にも有名な玉作遺跡に玉作湯神社が建つ。

神社の裏山にあたる花仙山は玉石の産出地として知られ、谷を流れる玉湯川流域は全国有数の温泉郷・玉作温泉がひろがり湧泉地でもある。

弥生時代終末期から古墳時代にかけての玉類、玉の未完成品、砥石、それに伴う建物遺構など、玉作りの跡が見られたほか、周辺には約60基の古墳群が分布して、当地が祭政の一大地であったことをうかがわせる。

そして、『出雲国風土記』『延喜式』神名帳に記された玉作湯神社の存在から、奈良時代において連綿とつながる玉と神湯(現・玉作温泉)の信仰がわかり、さらに近世においても当地は松江藩の別荘屋敷跡・庭園施設跡が発掘調査で明らかになっている。


眞玉と、願い石・叶い石

玉作湯神社境内に、「眞玉(願い石)」と標示された岩石がまつられている。



後ろの石碑状の立石の意味も気になるところだが、眞玉は手前の黒光りした丸石を指す。

「大己貴命 湯山主之大神」の石碑が建つので、眞玉の神格を示すのだろう。いつまで遡れる信仰なのかはわからない。

隣接して、「願い石」「叶い石」の祈願方法を説明した看板が立つ。



この祈願方法は比較的最近に考案された新しい祭祀であることがわかっており、玉作湯神社の宮司さんもインタビューでそのことをおっしゃっている。


「より多くの方に護身徳を受けて頂いたらよいのではないか?ということで…昔から境内に祀られて、大変ご利益があるとされていた、眞玉(直径60㎝ほどのボール状)を「願い石」として、またそれに対して、社務所で「叶い石」という小指の頭ほどの小さな石を授けまして、“叶い石を願い石に触れ合わせて願い事をする”といったような御祈願の形を整えたわけです。」
「島根県 玉作湯神社」(2019年11月8日)「NEXCO西日本 ドライブエスコート」より 


全国的にも同種の祈願方法が同時期に認められており(愛知県岩倉市新溝神社例など)、当時のパワースポットブームの影響を受けたものとも言えるが、真意は神徳の広い授与があるようにとの願いにあり、新たな岩石信仰の一つの形として尊重されるべきものである。

それと同時に、基層が「願い石」の名ではなく「眞玉」のほうにあり、基層の信仰記録が忠実に後世に伝えられていくことも願いたい。


玉石の信仰と自然石の信仰と


眞玉の隣には「御守石」として、碧玉の青メノウが安置されている。

こちらもおそらく願い石・叶い石の整備の前後に新しく置かれた信仰の石と思われるが、こちらはいわゆる価値ある玉石である。

眞玉は丸石信仰としての系譜に位置付けることもできるが、石としての現代的価値は、横のメノウが勝るのだろう。
参拝者の人々の中にも、もしかしたら眞玉よりも御守石に心惹かれる人もいるかもしれない。

逆説的に、玉石に囲まれた当地において、玉石の形(丸石)をしながら石種は異なる眞玉が、神格を帯びる存在となったことに一種の凄みがある。
何らかの、価値観の逆転、はたまた、優先したものの違いがあるわけである。

先述のとおり、当地からは江戸時代の庭園施設やそれに伴う石垣や石塁も見つかっており、玉石以外の石の利用も見られる。
眞玉を、そのような自然石の利用の歴史の中でとらえなおすこともできる。


参考文献

玉湯町教育委員会 『史跡出雲玉作跡 -宮ノ上地区- 第1次発掘調査概報』1984年

島根県松江市教育員会『史跡出雲玉作跡』(松江市文化財調査報告書124)2009年


2020年8月15日土曜日

加茂岩倉遺跡と大岩(島根県雲南市)

島根県雲南市加茂町岩倉


弥生時代の銅鐸群が一括出土した遺跡として有名な加茂岩倉遺跡。

祭祀遺跡との関係でしばしば語られるのが、地名の由来といわれる「岩倉」の存在である。




遺跡地の谷間からは約500m北東の麓の位置に、「大岩」と標示の打たれた岩石がある。


江戸時代には「岩窟」で「宝蔵」と冠された岩石だが、岩屋状の内部空間を直接持っているわけではない。
地中に金鶏がいる、のくだりを考慮すれば、さしずめ岩石は蓋の働きを担っている。

どちらかといえば、想像力を豊かにして、岩石の塊の内部や下部に内部空間をイメージしたタイプの「岩倉」と言えるだろう。


この大岩を岩倉、すなわち磐座祭祀の跡ととらえて、弥生時代の銅鐸の近くに巨石祭祀・磐座祭祀があったと考える立場もあるが、どうだろうか。


岩石と青銅器の距離関係の近さ、イコール、関連性と言えるかどうか。

まず、「近さ」の定義づけが難しい。

加茂岩倉遺跡と大岩の距離である、約500mを「近い」とみなすのは、個々人で評価が分かれるのではないだろうか。


そのようなときは、自分の主観とは逆の、批判的な評価を下すのが学問的な態度と言える。

大岩と加茂岩倉遺跡は、それぞれ肉眼で目視できる関係ではない。
それぞれの立地環境にも違いがある。

このように、マイナス要素を挙げて、それらが解決されるまでは肯定的評価を避けたい。


次に、遺跡と大岩が近くても、近いからという理由だけで、大岩が弥生時代の祭祀遺跡と認めるには論理の飛躍がある。

大岩が自然石である限りは、大岩が弥生時代に存在したことは間違いないだろう。
しかし、大岩の周りから遺物は見つかっていない。
「岩倉」の地名が、弥生時代に遡ると決まったわけでもない。

大岩と銅鐸の関係性を述べるなら、むしろ大岩にくっつくくらいの距離で銅鐸出土地は形成されるのではないか。

距離を離したという事実は、大岩と銅鐸のある意味での「違い」を示すものでもある。

仮に大岩と銅鐸を同じ弥生時代の祭祀と肯定した場合、それぞれ別々の対象となっているわけだから、どのような祭祀や信仰の世界観を想定しているのか。

これは、銅鐸祭祀というものの目的や詳細がはっきりわかっていないことにも起因する、大きな問題である。
(しばしば、銅鐸=依代、銅鐸=奉献品といった解釈があるが、これらはまだまったく証明されていないと言って良い)

加茂岩倉遺跡



2020年8月9日日曜日

黒岩石刀神社の胴体岩・尾岩・奥の院(愛知県一宮市)

 
愛知県一宮市浅井町黒岩石刀塚


『尾張名所図会』5巻(1880年までに刊行)では葉栗郡石刀神社として2つの岩が描かれ、神の尾とされる岩の存在を記している。
(「愛知芸術文化センター愛知県図書館HPの貴重和本デジタルライブラリー『尾張名所図会後編』」よりhttps://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/103.html


これは現在、尾岩と呼ばれているものを指すと思われ、愛知県一宮市浅井町の石刀神社境外東約100m地点にある。



中根洋治氏『愛知発 巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)の聞き取りによれば、伊勢湾台風以前は豚小屋に隣接していて、周辺の家に災難が続いたため、現在のように清浄にして整えたのだという。


ただし疑問があるのは、尾張名所図会の絵図に描かれている二つの岩は絵図の限り二つとも境内にあることである。

絵図には岩の名前が注記されていないが、現在、絵図に該当する二つの岩はそれぞれ「胴体岩」「奥の院」と呼ばれている岩石の場所に位置している。

そして、境外の尾岩は描画されていないのが気にかかる。


石刀神社は現在でこそ延喜式内社・中島郡の石刀神社の名で知られているが、石刀神社の論社は他にもあり確定ではない。

また、当社は近世においては黒岩神社、黒岩天王の通称が一般的であったようである。
石刀塚の地名も残るが、これは延喜式以来の石刀神社の知名度による影響を考慮しなければならず、黒岩という名称が地元に根差す岩石信仰の一起源であったことも注目したい。


黒岩は当社に残る岩石群全体の総称かもしれないが、特に拝殿背後の二重の玉垣内にまつられた岩石を指す。いわゆる神社の中心石・神体石としての位置にある。

この岩石は胴体岩の名称でも知られ、冒頭の尾岩と対になる神の体としての岩石である。



そんな胴体岩は二重の玉垣に囲まれたうえで、拝殿が手前に建つが、元々は拝殿も建てられていなかったという。

二重の玉垣は秘匿性の強い表れで祟り信仰も付帯しているようだが、一方で、前掲の中根氏の聞き取りによれば、境外の隣は木曽川の堤防がそびえており、その堤防から小石を投げて胴体岩に当てたら願いが叶うと信じられたらしい。

時代が変われば、あるいは立場が変われば、ずいぶん岩石に対する認識の違いが見受けられる。


胴体岩の奥にも、もうひとつ玉垣に囲われてまつられた岩石が姿を見せる。
尾張名所図会にも同様の位置に岩石が描画されており、同一のものと推測される。



これが先述した「奥の院」(奥の宮の名称もあるかも?)と呼ばれる岩石で、その名称自体は神体岩たる胴体岩の奥に控えるその位置関係から起こった名であろう。


同じく、中根氏は地元の方から、拝殿の東隣にあるしめ縄のされた岩石が、神社裏に住む人の屋敷から運んだものという話を聞き取っている。
私が訪れた時には、この岩石に気づくことはできなかった。


以上をまとめると、特別視された岩石は

  • 尾岩
  • 胴体岩(黒岩)
  • 奥の院
  • 神社裏の屋敷から運ばれて注連縄のされた岩石

の4種類が存在することになる。

一つ一つの岩石は決して巨岩・巨石という表現が似合うような大規模なものではないかもしれない。
しかし、見てきたように当社の岩石信仰は他例では見られない特徴的なものであり、その事例数も一社に集まる数としては多い。

なぜ、複数の岩石に分かれて信仰が生まれる必要があったのかという問題提起が思い浮かぶ。

一説には、これらの岩石は古墳石室石材の一部だったという話があり、事実、周辺一帯には古墳が散在している。

そのなかで、墳丘が消滅して今は亡き古墳があったとしてもおかしくはなく、そのよすがとして多数の石材が散逸し、時代を経て歴史の断絶した石材が神聖な岩石として再注目された可能性はじゅうぶんある。

いわば、古墳の存在が当地に複数の岩石信仰を再生産したという考え方もできるだろう。


2020年8月2日日曜日

『出雲国風土記』猪石・犬石の二つの伝承地~石宮神社と女夫岩遺跡~(島根県松江市)


島根県松江市宍道町白石

『出雲国風土記』に次の記述がある。

「天の下造らしし大神の命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり。猪を追ひし犬の像は其の形、石と為りて猪・犬に異なることなし。今に至るまで猶あり。故、宍道といふ。」
(秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年より)

この猪の像と犬の像の伝承地とされる場所が2ヶ所ある。
錦田剛志氏「『出雲国風土記』にみる岩石と神祭り―二、三の覚書―」(『東アジアの古代文化』112号 2002年)の記述を参考にしながら紹介したい。

石宮神社(いしのみやじんじゃ)


1ヶ所目が、石宮神社にまつられる犬石(いぬいし)・猪石(ししいし)である。

石宮神社は本殿をもたず、拝殿の裏のちょうど本殿の位置にあたる場所に、犬石が安置されている。



長さ約1.8m、幅約1.5m、高さ約1.1mをはかる。
立石状で、玉垣に囲われているから目には止まるが、神社境内に散在する巨石の中で特段大きいというわけではなく、これを巨石と呼ぶかどうかは人によって受け止め方が異なるだろう。

境内の入口付近には、犬石を上回る大きさの巨石が集まり、そのうち、階段の両脇にある同規模の2体を総称して猪石と呼んでいる。



いずれも長さ約5m、幅約4m、高さ約2.5mほどである。

女夫岩遺跡(めおといわいせき)


もう一つの伝承地が、考古学的調査が行われ、古墳時代中~後期の遺物が見つかった女夫岩遺跡である。
宍岩または女夫岩と呼ばれる2つの岩の下方斜面から5世紀後半~7世紀頃と考えられる土師器や須恵器が見つかり、古墳時代の岩石に対する祭祀遺跡の例として著名な存在でもある。
高速道路建設で破壊される予定の場所だったが、その考古学的価値が認められて、道路を遺跡下のトンネルで通すことで現状保存されたという経緯でも珍しい文化財とされる。




宍岩は山中に2つの岩が横並びになっており、石宮神社よりは『出雲国風土記』が書くような「(南の)山」という表現が似合う。

当地は大森神社境内地になっており、以前から聖地とされていたことは近世~幕末の千家国造家保管の絵図の存在からもわかる。
絵図については、女夫岩遺跡の発掘調査報告書である、島根県教育委員会・宍道町教育委員会『島根県指定史跡 宍道・女夫岩遺跡』(島根県教育委員会 1999年)に掲載されている。
絵図および調査結果の詳細はPDFがオンライン公開されているので下記リンクにて参照されたい。

この絵図には、本岩の名称が獅子岩・女夫岩・宍像岩の3種類が併記されており、二つの岩をそれぞれ「南の宍像」「北の宍像」と称していたこと、さらに二つの岩のやや下方斜面にある別の岩石を犬石と呼ぶ人もいたことが記されている。
石宮神社と同じく、猪の像は二体で1セットであり、風土記が記す「南の山に二つあり」を忠実に踏襲している。

また、絵図の手前に描かれた犬石とされる岩石は、現在現地ではどの岩石を指すのかはっきりしない。
そのかわり、現地にはテラス状になった石積みの壇が形成されており、発掘調査ではこの壇状地形が近世以降の築造ではないかと推定されている。築造時に犬石については原状変更された可能性もあるだろう。

風土記の猪石・犬石の比定論争


錦田剛志氏の前掲論文(2002年)では、比定論争が下記のとおり整理されている。

  • 石宮神社の犬石を犬の像、猪石を猪の像とする説・・・服部旦氏「『出雲国風土記』の数量表現の信憑性、ならびに数量表現をめぐる編纂過程の一考察—意宇郡宍道郷所造天下大神命の猪像石・犬像石の同定を手がかりとして―」『古代文化研究』第二号(1994年)
  • 女夫岩を猪の像とする説
  • 女夫岩を猪の像として、石宮神社の犬石を犬の像とする説・・・関和彦氏「新・古代出雲史—『出雲国風土記』再考—」(藤原書店 2001年)

錦田氏は、原文の解釈がどうとでも読める部分を残していることを指摘して、結論を保留している。

複数の候補地がある以上、どちらかがどちらかの影響を受けて、または、お互いが別の何か(それは失われた原形の猪像・犬像の可能性さえある)からの影響を受けて伝承が形成・変容しているかもしれない。
現在残る岩石と、遠く離れた当時の記録を結び付ける作業は、これほどまでに難しく、危険な行為ということである。