インタビュー掲載(2024.2.7)

2017年3月30日木曜日

与喜山第12次調査(完結)

今日、やっと見つけることができました。
15年間の調査に一段落です。


藤本浩一『磐座紀行』にだけ記録がある通称「三の磐座」です。



狛犬が片方欠けています。

場所は、何度も見たことのあるこの立岩の北斜面下でした。


灯台下暮しで。
「北ののぞき」から尾根を東に徒歩2分です。

『磐座紀行』の記述では、ここにたどりつけませんでした。あの記述では、違うところを捜査してしまいます。信じすぎたな。

立岩から北斜面下を覗き込むと・・・


上の写真の右下に見えますか?
現地にいても、樹林と露岩群に同化されており、気づきませんでした。

今まで、この場所に呼ばれていなかったんですねえ。
でも、だからこそ15年もこの山に何度も来られて虜になったとも言えます。

研究論文としてまとめるところまで来られたのも、まるで何度も足を運び追究せよと、与喜山に導かれたかのようです。



現在、論文の校正待ちでしたが、滑り込みでこの発見を追記修正する必要があります。
(許されるかな?)
いつか発表できればと思っています。

これで唯一残された謎ははっきりし、与喜山の調査は私の中でフィニッシュを迎えることができました。

先日、ブログでこの磐座の情報を募集したところ、情報提供をくださった高橋さん、誠にありがとうございました。日本の広さを実感しました。
(なぜご存知なのかと脱帽しました)


2017年3月22日水曜日

金丸八幡神社の列石(徳島県三好郡東みよし町)


徳島県三好郡東みよし町中庄1187

概要

正式には八幡神社だが、全国の同名神社と区別するため、金丸八幡神社・中庄八幡神社・三加茂八幡神社などの通称がある。

神社の境内を、387本もの石の列が取り囲んでいる特異な神社として有名である。磐境・皇護石・建石など色々な呼び方が通っているが、本項では列石と表記する。

使われているのは、この地域で取れる緑泥片岩という緑色を帯びた岩石である。
板状に割れる摂理を利用して、そのまま石を板のように立てて境内に並べている。

大きいものは、地表面から高さ1.5m以上、幅1.2m以上、厚さ30cm以上に及ぶものもあり、平均でもおよそ高さ1m前後の板石が多い。。
現在でこそ387本だが、往時はもっと多くの板石が社域を巡っていた可能性がある。

金丸八幡神社の列石
2003年撮影。2016年に隣接するトイレの工事があった時に、列石の一部が破壊されたという話を聞いた。文化財に登録されているというのに・・・。

金丸八幡神社の列石
2003年当時

金丸八幡神社の列石
2003年当時


『神社寺院明細帳』に記された金丸八幡神社の由緒


大正6年(1917年)に三庄村役場が『神社寺院明細帳』を作成しており、その中で中庄八幡神社の由緒がまとめられている。
以下、重要と思える部分を箇条書きにしよう。

(1)当社の祭神は八幡神社ということもあり、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱を祀っているが、今回の調査により、大巳貴命(オオナムヂノミコト)の神名を刻した板本を発見した。

(2)本殿の中には石体(=岩石の御神体)があったが、上述した板本の存在から、この石体が大巳貴命と認められる。

(3)当社の南にある金丸山の山中に、金丸神社がある。祭神は応神天皇・神功皇后・武内宿禰であり、当社に遷座・合祀する前に鎮座していた旧社地である。旧社地の字名は明ノ堂という。

(4)以上のことから、もともと当社は大巳貴命を祀っていた神社であり、明ノ堂の金丸神社が現社地に遷座・合祀して以降、当社を金丸八幡神社と号するようになったのである。中庄(金丸村)・西庄・東庄(毛田)を金丸三ヶ庄と呼び、この三ヶ庄の郷社であることから、金丸神社ともいう。

(5)また、当社を建石神社ともいう。古老の伝えるところによれば、建石神社は横田神社と称す延喜式内社で、金丸三ヶ庄の内の西庄村で祀られていたという。それを、古く、現社地に遷座したのだという。旧社地は今も横田という。

(6)当社には建石の群れがある。今、地上に現れているだけで380以上ある。社地の内外において、建石があると思われるような場所を地中まで掘ってみたら、いずこからも建石が出てきた。そのため、地中に埋没している数がどれほどあるのかは分からない。また、建石の根の部分・底の部分は深く、地中2m近くまで掘っていっても、建石の幅・厚さはますます大きくなっていっている。なので、この建石の極限の規模を窺い知ることはできない。実に奇妙と言えよう。

(7)当社の東に別当神宮寺がある。

(8)当社の西に200m強行くと、岩神の社がある。御供泉といわれる清水に接して岩がある。だから岩神という。また税神ともいう。

(9)元来、当社の社地は約600×600m程の規模を持ち、専用の田畑も約500×500m程持っていた。しかし、天正年間(1573~1592年)に長宗我部氏が阿波国へ乱入し、その兵火により社殿・別当神宮寺、ほか数々の宝物なども焼失した。その後、蜂須賀氏が阿波国に任ぜられると、当社地は僅かに約50×50mの範囲を除き、全て租税を課せられることとなった。慶長11年(1606年)になると祭典や神幸が郷民により再興され、他郷から民衆が集うほど祭りが盛大化したので、蜂須賀家より兵卒8名が毎年差し向けられて、警備の中で祭りが執行されるほどだった。

(1)のポイントは「八幡神社であるのに、大巳貴命の神名を刻んだ板本が見つかった」という事実。一見単なる八幡神社に見える金丸八幡神社が、非常に複雑な歴史的背景を持っていることの現れといえる。
(2)では、神社の本殿の中に石の神体があったということが報告されている。
本殿の大きさや「石体」という記述から推測するに、これはおそらく持ち運びのできるような小さめの石であったと思われ、執筆者がこれを「応神天皇ら三柱」ではなく「大巳貴命一柱」とみなしたことから、1体(1個)であると推測される。

そして(3)から、もともと応神天皇ら三柱を祀っていた神社は、別の場所にあったということが分かる。元来の当社は大巳貴命を祀る所で、それが金丸山にあった金丸神社の遷座・合祀によって、応神天皇ら三柱を祀る八幡神社になったという流れが読み取れる。

ちなみに、三加茂町にはこんな伝説が伝わっている(『手書き 三加茂百話』1986年より)。
大略「今ある神社は、昔は山の上の大石であり、人々は山に登って大石まで参っていたが、正直遠くて体力的にも辛いと感じるようになった。するといつの間にやら、山の上にあった大石が麓の長善寺に降りてきたので、以降、山麓でお参りをするようになった」という。

伝承なので、この「神社」「大石」がどれを指すのかは分からないが、大石が降りてきた長善寺は、金丸八幡神社のすぐ南にある別当神宮寺に当たる。
伝説なので事実を忠実に反映しているとは限らないが、村にこのような伝説が伝わっているのは、元々の信仰対象が山の上にあり、それが時代を経るにつれ、山腹での信仰対象の祭りに転化してしまったことを推測させる。

(5)は、金丸八幡神社が建石神社と呼ばれていた故を説明するものだが、ここでも「別の場所にあった神社が遷座・合祀した」という話が出てくる。

(6)によれば、「建石」は1917年の時点で「今、地上に残っているだけで380以上ある」とのことなので、大正時代の頃には現在の状態と同じ状況だったことがうかがわれる。

しかし、地中にはさらに多くの立石が眠っているらしい。このことに関して1つの証拠となるのが、明治18年(1885年)5月に調査された「八幡神社列石(磐境)配置図」である。
1917年と年代はそんなに離れてはいないが、この図には、現在では見られない立石群が多く記載されている。

現在、金丸八幡神社を訪れると、明治の配置図とは違う個所が散見される。
たとえば、配置図右側にある「年貢畑」「共有地」などと書かれている区画の多くは、現在、三加茂町歴史民俗資料館が建っている所であり、一部、残っている所もあるようだが、大半は現在見られない。
また、配置図の左側にある「御幸道」の左右に列石が続いているように記載されていたが、現地では、「藪」の西に列石があるのを除いては、御幸道左右の列石とやらはほとんど確認できない状況だった。このような状況を経た上での現在の列石現存数が387本なのである。

1885年当時の現存総数だが、配置図を見た限りでは全ての列石数が書いてないので分からない。

(7)は、金丸八幡神社付近の寺社を紹介している箇所から抜粋したものだが、(7)では別当の神宮寺の存在が触れられており、(9)により16世紀後半に兵火で焼失したことが分かるが、すぐに長善寺として復興している。

そして(8)は、岩石祭祀事例である。
探訪後にこの記述を見たので、残念ながら現地にそのようなものがあるのか確認することは適わなかったが、少なくとも、1917年時点では「岩神」と「清水」があり、共に神聖視されていた。
先に紹介した「神社の大石」の伝説に出てくる「大石」との関連性も気になるが、長善寺と少し場所がずれる。


棟札からの検討


金丸八幡神社で確認できる最古の棟札は、慶長11年(1606年)のものだが、どのような神社であったかという記述は見られなかった。
万治3年(1660年)の棟札で初めて「新造立 八幡社壇」という記載がなされ、記載者も「良賢」と記された。記載者の良賢法印は、長善寺の別当だった。このことから、1660年に八幡神社として造立されたということがわかる。
田中1990では、良賢法印が長善寺の鎮守社として八幡神社を建てたとしており、それ以前・・・1606年以前においては、大巳貴命を祀る神社があったのではないかと考察している。

すなわち、この神社には大巳貴命を祀っていた時期と、応神天皇ら三柱を祀る金丸神社の時期があったのであり、その2つの時期の狭間が1660年に位置付けられる。ということは、長宗我部氏が阿波国に侵入して社殿や神宮寺が焼かれた時は、まだ大巳貴命を祀る神社だった可能性がある。

先行研究からの検討


境内に残る列石に関しては、その起源・性格についていくつかの説が出されてきた。
その先行研究を紹介した上で、各説の検討を加えていきたい。

まず、最も代表的な説が「磐境」説だ。
「磐境」は、神域であることを表示するため、神域と俗域の間を区画するように配される岩石のこと。本例の最初の磐境説提唱者はわからないが、おそらく明治時代の頃、喜田貞吉が九州・四国に見られる「神籠石」を磐境だと主張した頃と同時期なのではないかと推測される。

昭和57年(1982年)、本石が町指定文化財に登録された時も、「磐境」として名称が付けられた。
以後、本列石の紹介のされ方も、「現在に残る磐境の実例」などとして取り上げられることが多い。

しかし、この解釈に対して異を唱える向きもある。
たとえば、三加茂町文化財保護委員会が1984年に刊行した『三加茂町の文化財』の中では、本列石を「一種の磐境と見られた。しかしその後の調査で、神社の境域を示すために造られた玉垣の原始的なものであることがわかった。」と記している。
ここで言及されている「その後の調査」が何なのかはようとして知れないが、とにかく「玉垣の原始的なものであることが分かった」と断言できる調査だったようだ。

では、磐境と玉垣ではどう違うのか?
磐境も玉垣も、その中に間違って入らないように、視覚的にそこが聖域であると表示する機能を持つ施設であり、機能的には同義である。だから、そもそも「磐境」と「玉垣」を別物として考えようとするのが間違いだと思う。
私は、磐境とは、石製の玉垣と考えて差し支えないと思う立場である。「玉垣」と聞いて、すぐに竹で囲った柵列や機械的に作られた石の柵を想起し、「磐境」と聞くと、自然石で素朴に囲った形態を想起する・・・。そのような形状のイメージで、両者を分けることは慎まないといけないだろう。

さて、本列石にはもう1つの説がある。
慶長9年(1604年)の『金丸中庄村検地帳』によると、この列石が所在する「石の内」(字名)は、石の内の半分が個人所有の御年貢地に属している。
そこで田中1990では、石の内は神域であったという根拠に乏しく、三加茂町歴史民俗資料館を建設した際の発掘調査では、地表下から2基の「たたら製鉄炉跡」が検出されたことなどから、この列石をたたら遺跡に伴う遺構ではないかと推測している。
郷名も「金丸」であることから製鉄関係の生業が栄えた土地柄だったと考えられており、中世の金丸郷におけるたたら遺跡だったと評価付けられる。

この「たたら遺構」説も、いくつか疑問点がある。
まず、石の内のおよそ半分が個人所有の年貢地だったから磐境・玉垣説の線は薄いという推論だが、この検地帳が1604年時点のものであることから、これだけで石の内が非神域だったという説得力までは持たない。

資料的に全幅の信頼性はもてないが、前掲の『神社寺院明細帳』によれば、金丸八幡神社は16世紀後半、長宗我部氏の兵火に遭い一度大きく壊滅状態に遭っている。
その後にまとめられたのが検地帳なので、壊滅前と壊滅後の状態が同じとは言えないものがある。

次に、石の内の西部から2基のたたら跡が検出されたから、列石もたたら遺構の痕跡であるとの推論だが、実際に、この列石がたたら施設においてどのような役割を持っていたのかという部分に関して説明がおよんでいない。。
たたら施設における列石の位置付け・役割が説明できない以上、たたら説を完全に肯定することもまだできない。

以上の各説をふりかえると、事実面として認められるのは、たたら遺構とほぼ同位置に立石があることと、現在は金丸八幡神社の玉垣(磐境)として機能していること。
あえて、この2つの事実をつなげるとするならば、 元々この場所はたたら施設で、その用材としてこの板石が元々用いられていた可能性が比較的高いことは言えるだろう(炉の構築材や塀として)。
それと併せて、たたら施設が停止した後、残った板石を神社創建の時に、玉垣(磐境)として再利用したという解釈が、現状の情報を綜合すると最も妥当ではないか。

また、本石の最も歴史学に即した名称は、建石神社の記述の存在から、建石となる。磐境などは後世的名称であるため注意したい。

※追註
補足したいことが2点。
まず1点目。『三加茂の文化財』によると、中庄八幡神社の列石は昭和56年に発掘調査が行なわれ、その際、明確な遺構は検出されなかったという。
2点目。『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 (1993年)によると、この列石は巨人が作ったものであるという言い伝えが地元にあると記述し、ここから「太古巨石文明」の存在を示唆していますが、「手書き三加茂百話」を見る限り、三加茂町にそのような列石縁起伝説はなかったことを申し添えておく。


伝承上の旧・三加茂町の岩石祭祀事例


『神社寺院明細帳』で、当社の西200mのところに「岩神の社」があることは前述したが、他にも様々な伝説の付帯した岩石が記されていたため、ここに紹介しておきたい。

(1)蛇巻き石

大きな淵に大蛇が棲んでいた。その大蛇は若い男に姿を変え、ある娘と恋人になった。ある日、娘の父が昼寝をしている大蛇を見つけ、これを7たたきにして斬り殺した。すると娘は子供を身篭り、7匹半の蛇の子供が生まれた。このような伝説に彩られたその大蛇が、いつも巻きついて昼寝をしていた石が、その淵にあるのだという。

(2)祟りを持つ石

ある父子が、果物採りに山へ登った。父が果物を採っている間、子供は近くにあった大きな石に垂れ下がっていたかずらにぶら下がって遊んでいた。するとその夜、子供は高熱に冒され寝込んでしまった。この石は、大蛇が昔住み着いていたといわれ、誰もが近づかなかった石なのだという。

(3)へんろ石

昔、北村の西の外れで、あるお遍路が行き倒れになり、これを不憫に思った村人たちは、お墓の代わりに平たい石を「へんろ石」と名付け、これを裏の竹やぶに安置した。しかし、やがて数十年経つと「へんろ石」は人々に構われなくなり、初めは行なっていた供養もされなくなっていった。するとある時から、へんろ石から人を呼ぶ声が聞こえたり、この石を踏んだ人達が腹痛や病気にかかったりする変事が起こるようになった。このことから、再び村人が「へんろ石」を供養するようになったところ、このような変事は起こらなくなったという。

これらの岩石は、伝説の中で登場するものであり、現在実在しているのかどうかは分からないが、伝説のモデルとなった岩石があった可能性は高い。
ゼロから創られた伝説だったとしても、それらのモチーフがなぜ「岩石」であったのか、というところに関心を覚えるところである。

また、伝説以外に見聞きした岩石祭祀に関わる例として、金丸八幡神社から南南西に行った西庄地区の山間部入りたての所に「磐座」と呼ばれる岩石群と「支石墓」と呼ばれる組石構造物があるそうだ。
この情報は、三加茂町歴史民俗資料館で知ることができた。
館内に、三加茂町内の文化財分布地図のパネルがある。このパネルに磐座・支石墓などの場所が示されている。他に、磐座の写真や付近から出土した弥生時代の磨製石器群も展示されている。無料でもらえる文化財マップの地図(ただし磐座・支石墓の存在は記されていない)もあった。

金丸八幡神社の列石
館内パネルより


金丸八幡神社の列石
館内の展示より

「磐座」は1m弱の柱状石が3本ほど屹立した状態の岩石群で、「支石墓」は名の通り、机状・鳥居状の石組がなされた構造物という。
これらを「磐座」「支石墓」と呼ぶ根拠・由来などは一切分からないが、この付近から磨製石斧や石鏃が出たようで、弥生時代の所産とされている(この年代決定の根拠も不明)。
これらの石器は実用品のため、これらの石器と磐座・支石墓との関係には疑わしいものがある。

「磐座」は弥生時代の祭祀跡と上記のパネルには書いてあったが、これも話半分で聞いておいたほうがいい。「支石墓」も、おそらくは形状の類似だけを持って鳥居龍蔵式の思考を持った人が名付けたものと推測される。

ほか、同館にあった地図によると、「ウスキの岩屋」(白内地区)、「巫女の岩屋」(町の南東限、土々呂滝の近く)なるものがあるという。詳細は不明。
吉野川の近くには「石敢当」の石碑もある。1862年の作だが、邪気や悪霊を防ぐ霊性を持つ石として「石敢当」という文字が刻まれた岩石祭祀事例である。


参考文献    

  • 三加茂町文化財保護委員会(編) 1984 『三加茂町の文化財』 三加茂町教育委員会
  • 田中合 1990 「阿波上郡在方文書集」『風蘭』13号 三加茂町歴史民俗資料館
  • 山梨賢一・薬師寺真・木村和子・村瀬紀子・渡辺威弘(編) 1993 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社
  • 三加茂町民話伝説収集委員会(編)・下川清(監) 1986 『手書き 三加茂百話』
  • 三加茂町歴史民俗資料館 展示各資料


(2003年7月3日 旧サイトの記事を修正加筆して掲載)


猪群山(大分県豊後高田市)



概要


大分県豊後高田市(旧真玉町)にそびえる標高458mの山。
山頂は北峰と南峰に分かれ、北峰頂上に「ストーンサークル(環状列石)」があることで知られています。地元でも名所の1つとしてけっこう有名なはず?

面白いネタとしては、作家の松本清張氏と考古学者の斎藤忠氏(静岡県埋蔵文化財調査研究所所長。考古学史の整理作業などで有名)が現地調査をしたという話があります。

その調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』(1983年、以下調査報告書と略)まで出ているところが凄い。

猪群山


猪群山探訪報告


山頂に登るには、山の南側から登るルートと東側から登るルートがあるようです。今回はアクセスの容易な南側ルートからの登山を開始しました。

地元の方々の手入れがとても整っており、登りは急で狭道ですが迷うことなく快適です。山中各所に大小の岩石が散在しており、元々こういう岩が出やすい地質の山であることが分かります。

登り始めて約30分ほどで、中腹にある「常盤の巨石群」と名付けられた場所に到着します。
比較的大きめの岩石が群がっているエリアです。

猪群山

登山開始から約1時間で南峰の山頂に到達。

「ストーンサークル」のある北峰よりも約10mほど標高が高く、ここが真の山頂な訳ですが、視界は森林に遮られ良好とは言えません。
この南峰を通過点として、さらに5分ほど歩くと北峰に到着します。
北峰頂上は樹木が刈り取られており、そのおかげもあり麓の眺めは南の山々から北の海岸線まで完璧です。

名前の付いている岩石は3体あります。
まず「ストーンサークル」のまるで入口門のように存在している「陰陽石」の2体。

猪群山

写真の右側が陰石、左側が陽石になります。
これ自体は見た目から起因する呼称と思われ、特に陰陽石にちなむ伝説やいわれなどはない様子です。

残る1体は「ストーンサークル」の中心となると思われる「神体石」。

猪群山

斜め上方に向かってそびえ立つ特異な立石形で、地表からの垂直高4.4mを計ります。

神体石の名の通り、いつからの呼称かは分かりませんが岩石には注連縄と紙四手が巡らされ、現状で信仰の中心にある岩石であることに疑いはありません。

神体石に伴う伝承には以下のようなものがあります。

  • 山幸彦(ヒコホホデミ命)が竜宮から持ってきた「潮満つ玉」「潮干る玉」を神体石の上に置いたという。
  • そのため、満潮時には神体石上部の窪みに水が溜まり、干潮時には窪みの水がなくなるという。
  • 第25代仁賢天皇の治世、竜宮からやってきた童女が武内宿禰の9代目の子孫となる翁に連れられて猪群山に登り、神体石上部に溜まる水を飲んだところ産気づいた。生まれた子はヒコホホデミ命の再来であり、これを受けて山の中腹に神社が建てられたという(現・飯牟礼神社)。
  • 雨乞いをする時は、佐伯市日向泊浦から汲んできた海水を神体石上部の窪みに入れる。と同時に南峰において、各家から持ってきた割れ木を集積させ、その中心に3本の竹(その内の1本は特に長くする)を立て、火焚きを行なう。最後の儀礼は昭和33年8月18日という。
  • 窪みの水の中には金魚がいて、この金魚を見ると失明するという。

潮の干満、降雨儀礼、子宝安産を帯びる神格をここから見出すことができます。
神体石上部の窪みに関しては、調査報告書によれば実見したところそこまで明瞭な窪みではないと言います。

調査報告書によれば、神体石の根元にある板状の岩石の周りを清掃した際、土師器片2、大観通宝1(鎌倉)、仙臺通宝1(江戸)、寛永通宝3(江戸)、1銭銅貨2(大正)、5円銅貨1(昭和)を表採したとのことです。

土師器片2は接合可能で同一個体。底部径9cmの小形の盤形の土器と推測されています。
報告者の入江英親氏(当時 大分県文化財審議会委員)によれば、平安時代の頃に作られたものではないかとしています。


さて、肝心の「ストーンサークル」の構造ですが、本当に環状配置をしているのでしょうか。

調査では測量図までちゃんと作ってくれているので、まずはその図を見てもらいましょう。

猪群山
現地看板より

猪群山
実際の様子

こう見ると、全体として環状に見えないこともないが、整然とした配置になっている訳でもないという、何とも微妙なところ。

図面で見るとまだましですが、特に現地に立つと「環状」風な印象はあまりなく、岩石群が集中して群がっているというのみの印象の方が強いです。神体石の位置も岩石群の完全ど真ん中にはありません。

斎藤忠氏及び松本清張氏も、両人揃って大略「ストーンサークル・環状列石と呼ぶのは誤解を招く恐れがあり、適切ではない」と警鐘を鳴らしています。
斎藤氏の見解では「サークルという見方は、これらの点在するもののいくつかが、楕円形の整った区画内にある関係で、一種の錯覚にみちびかれているためとも考えられる」(調査報告書)と指摘を入れています。

図面を見ていただければ分かりますが、岩石群の周りを一周するように土塁と溝が走っています。
土塁は高さ約1.7m、その内側は溝状地形、その外側は犬走り状の平坦地形となっており、現在でもその状態は比較的明瞭です。

これは明らかに人為的な遺構であり、頂上の岩石群とそれ以外の空間を区画するものであることは確実です。
しかしこれの築造目的については明白な理由が分かっており、明治39年、この場所を山火事から守るため防火壁としてこれを作ったのだといいます。

ただ斎藤氏によれば、土塁には長さ80cmほどの岩石を積み重ねて築いている場所も見受けられ、もしかしたら明治の防火壁工事以前から「区画施設」が存在していたかもしれないという可能性を残しています。

ちなみにこの岩石群がある一帯は「オミセン」と呼ばれ、女人禁制の地だったと伝えられています。現在は自由です。


所見


猪群山の研究には、冒頭で挙げた調査報告書『猪群山-山頂巨石群の研究-』が欠かせません。
斎藤氏はこの中で、山頂巨石群に対して大きく7つの仮説を立てています。
いわゆる「無理やり1つの結論に絞らず、考えられる可能性を列挙し、後学の参考に供す」という方法です。

(1)古代人の巨石崇拝 説
(2)仏教信仰の霊場 説
(3)中世の砦 説
(4)以上の複合的なもの 説
(5)古代朝鮮文化の影響下にある祭祀場 説
(6)巨石の霊力で外部の賊・敵・邪を追い払うという宗教的要塞 説
(7)単なる自然石で全ては偶然の産物 説

(1)において、斎藤氏は鳥居龍蔵・大場磐雄・景山春樹・宮地直一各氏の研究を紹介し、立石という形状が鳥居氏の言うメンヒルに相当すること、大場氏の言う石信仰の条件に入る事例であること、景山氏や宮地氏の言う「神体山」の条件に猪群山が当てはまることなどを述べています。
以上のことから斎藤氏は(1)の可能性が最適かもしれないとは述べながらも、考古学上の積極的な証拠はないので仮説として挙げるというスタンスをとっています。

(2)の理由としては、天安年間(857-859年)に仏僧が猪群山に寺院を建立したという『飯牟礼神社縁起』の記述、国東半島では古代・中世に仏教文化が極めて盛行していた事実、神体石下の板状の石に隠れる形で平安・中世以降と見られる土師器片・古銭が見つかったことが時期的にも埋納方法的にも他の修験道遺跡と類似している点などを挙げています。

(3)は猪群山自体が麓に一番近い里山でありとりでとして絶好の場所であること、さらに巨石群のある北峰は絶好の眺望でありふもとの様子を完全に監視できること、自然の巨石を利用する山城が存在すること、土塁と溝が砦施設の可能性があることなどを理由とします。
ただし斎藤氏は「整った本丸・各郭や虎口等をそなえたものでなく、山砦的な、或いは、烽火台的な場としての頂上の利用」であっただろうことと「頂上の立石や巨石群は、この頃も、神聖なものとして、祈願の対象になったこと」を注意して記述しています。

(4)は(1)(2)(3)いずれもあったという複合遺跡説。

(5)は、イノムレの「ムレ」が古代朝鮮語で言う「山」の意を持つ可能性があること、古代朝鮮では農耕に関する祭祀が多く猪群山の雨乞い儀礼もそこから端を発するものである可能性があること、国東半島には渡来人が多く居住していたことなどを理由としています。

(6)は『豊後風土記』直入郡蹶石野条に、巨石に祈願することで賊軍を滅ぼしたという記述があることから、猪群山の巨石群がいわば宗教的な防御力を持った古代山城であった可能性を述べています。
斎藤氏は特に、白山江の戦い以後に造られた神籠石式山城・水城的なものを考えているようです。

(7)は、以上の可能性を否定し、これは自然石のムレであり、これにまつわる伝承・行事の類も近世以後のものであるとする見方です。
神体石の下部から見つかった古銭や土師器片もたまたま少数の人々による偶発的な行為(しかもそれは必ずしも祭祀の痕跡とは考えない)の産物と見る解釈です。

1つ1つが順当であり、豊富なソースに基づく仮説です。
現在もどれか1つに絞るという段階までは至っていないと思われ、(7)はさすがにナイと言いたいですが、基本的にはどれもありだと思います。(4)の複合遺跡説なんて最も万能でツッコミ不能なスタンスでしょう。

以下、私が思ったことを幾つか。


土師器片の製作年代と古銭の奉納時期


入江英親氏によると、土師器片は平安時代の頃ではないか、古銭の中で大観通宝については鎌倉時代頃の奉納ではなかったかと推定しています。

しかしこの土師器片は底部の一部が残るだけの小破片であり、特に年代を決定するような製作特徴なども見当たりません。これの製作年代を推定するのは難しいと思われ、平安時代ではないかという見立てにあまり明確な根拠はないものと思われます。

また大観通宝についてですが、これは元々平安時代頃に中国宋で鋳造された銭貨で、日本には鎌倉時代から輸入・使用されるようになりました。このことから鎌倉時代の奉納という推測がされていますが、私が気になるのはこれらの遺物の埋納状態です。

土師器片・大観通宝と同時に見つかった遺物は江戸時代の古銭4枚と、大正時代の1銭銅貨、さらに昭和の五円銅貨(いわゆる現行の1つ前の楷書体五円銅貨)です。

発見場所が異なっていたり、見つかった地層が違うとかしていれば問題は何もないのですが、これらの遺物は「同時に」見つかっています。

つまりこれらの奉納は「同時期(つまり一括遺物の最終時期である昭和)」の可能性があります。さすがに土師器片に関しては「時代的には比較的古いものではないか」と考えられるような状態であることから、全ての遺物が同時期に一気に奉納されたということはなく、正確な表現を用いるならば「再配置」の可能性があるということです。

大観通宝は鎌倉時代に通用していたということですが、銭貨に関しては「伝世品」の可能性があることも考慮しなければなりません。
江戸あるいは大正あるいは昭和の時代になってある人が現行貨幣と共に、自分が持っていた「貴重な古銭」としての江戸の寛永通宝やこの大観通宝を一緒に捧げたという解釈も、できないことはないのです。少々ひねくれ解釈ですが。

この「一括発見状態」であることから、土師器片が平安の奉納で、大観通宝が鎌倉の奉納であるという推定に対しては、鵜呑みにすることなく少し批判的に見ていく必要があるのではないかと思われます。


岩石群は人為配置か自然のままか


調査報告書によれば、全体の環状配置については自然の営為による可能性が高いことと周辺の土塁・溝によって錯覚しやすいという点を指摘しています。

私も思うのですが、重要なのは、環状に配置しようとした意識が、猪群山の配置状態には見られないこと。
ストーンサークルを造ろうという意図があったのならば、他の環状列石遺構に見られるような計画的配置、秩序や規格性のある配置がなされて然るべきだと思うのです。

これに対する反論の方法として、「後世に破壊された」という見方があると思います。
しかし現状で残る岩石に立石形のまま残るものがあり、これは石が立つという状態であることから「後世の破壊」が加わっていないとみなすことができますが、こういった立石を抜き出して配置を見てみても環状とは言えない状態です。

また「破壊」とは簡単に言いますが、これほどの巨石を少し動かすだけでも大仕事なのに、環状配置を崩すほどに位置を改変しようとすれば、途方もない労働力です。
しかも、中心的存在である神体石は破壊しないままなのでしょうか(直立から斜めに倒したという見方もできるでしょうが、そこまでやるなら完全に倒せよと思うのが自然)。

さらに破壊のためにこれほどの巨石を動かしたはずなのに、地表面にその痕跡を全く見出さないというのも、いくら自然の草木の繁茂力によって地表面がならされたと考慮しても、少々疑問符です。余計な仮定が多いですし、このことから後世破壊説はナンセンスだと思います。

あえてあるとするならば、後世山城に転用された時、巨石の位置に多少の改変が加えられた可能性でしょうか。
しかし現状の配置を見る限り1つ1つの巨石に「城・砦として何らかの意味がある配置」は見出せません。

ただし陰陽石にだけは、まるで山頂に至る「門柱」的な意味を感じます。
この点に関しては調査報告書でも、唯一人為的な配置を感じるとの所見を記しています。

片方が単体の岩石であるのに対し、もう片方が陰石的に2つに割れているというある種「非対称」な状態を、どのように考えるかが評価の分かれどころだとは思います。
砦・山城の門として置くのならば、もう少し同質の岩石を揃えるのではないかと思う部分はあります。一方、門に霊的な力を込めるため「陰陽」を示す形状の岩石を揃えたとみなす解釈もできなくはないので、どちらとも言い難いところ。

それよりも私は、中心の神体石にこそ人為性を感じます。
調査報告書では特に触れられていませんが、神体石の立石状態を保つため、さながら下にかませ石の如く岩石が存在している辺り、人為的な力が入っているのではないかと感じます。もちろん自然の営為によるものと見たほうが、より神聖性は感じます。

以上のことから、私は人為の可能性を消すわけではありませんが、個人的には全体として自然の営為によるものと見る立場です。

岩石群の性格


調査報告書の中で、斎藤氏は大場氏の研究に触れ石神・磐座・磐境の例に山頂巨石群が入る可能性を示唆していますが、具体的にどれとは言っていません。
山頂巨石群は石神・磐座・磐境、あるいは他のどういった機能を持つ事例と言えるのでしょうか?

今一度、神体石に関する伝承を再掲してみます、

  • 山幸彦(ヒコホホデミ命)が竜宮から持ってきた「潮満つ玉」「潮干る玉」を神体石の上に置いたという。
  • そのため、満潮時には神体石上部の窪みに水が溜まり、干潮時には窪みの水がなくなるという。
  • 第25代仁賢天皇の治世、竜宮からやってきた童女が武内宿禰の9代目の子孫となる翁に連れられて猪群山に登り、神体石上部に溜まる水を飲んだところ産気づいた。生まれた子はヒコホホデミ命の再来であり、これを受けて山の中腹に神社が建てられたという(現・飯牟礼神社)。
  • 雨乞いをする時は、佐伯市日向泊浦から汲んできた海水を神体石上部の窪みに入れる。と同時に南峰において、各家から持ってきた割れ木を集積させ、その中心に3本の竹(その内の1本は特に長くする)を立て、火焚きを行なう。最後の儀礼は昭和33年8月18日という。
  • 窪みの水の中には金魚がいて、この金魚を見ると失明するという。

竜宮伝説とヒコホホデミ命の聖跡という位置付けがまず可能です。

また、神体石に溜まる水を以て「潮の干満を見る儀礼」「子宝安産」となることから、祭祀儀礼を執り行うための装置的な役割の強い岩石と言えます。

現状では「神体」としてまつられています。
「神体」という名前だけ見れば「神が宿るための体=依代」ということであり磐座的な意味合いを持つ言葉ですが、現在の人々の認識の中では石神・磐座の区別は付けられていないと思います。

ただ、雨乞い儀礼の時に石の窪みに海水を入れるため人々が石によじ登る点や、調査の時にも石の上へ登ることを特に咎められなかった点などを考慮すると、やはり神体石は神そのものであるというよりも、神が祭りの時に宿る施設という考え方の方が妥当なのでしょう。

以上の点から、神体石は「聖跡」「儀礼装置」「依代(石神的側面もあり)」の3つの側面を見せる岩石祭祀事例として位置付けをまとめたいと思います。
そして、この神体石を中心として広がる岩群は、空間的に「神域」を形成する磐境でしょう。陰陽石もこの磐境の一角を形成する施設です。

なお、「常盤の巨石群」については、明確な伝承・記録の類がないので性格分析は困難です。

おわりに


猪群山は、数々の「巨石遺構」と呼ばれる場所の中でも、考古学者の実地調査が入り、その報告書までもが刊行されている貴重な例です。

正式に遺跡となっているわけではなかったのに、わざわざ斎藤忠氏がやって来て1冊の本に仕上げたというこのモチベーションは、単に地元の人や松本清張氏の依頼によるもの、というだけではなさそうです。

斎藤氏は調査報告書の冒頭で「学問という名のもとに、これらの巨石群を環状列石となし、墓地と考え、さては『卑弥呼の墓』説までもあらわれたこと」などに深い危惧を覚えたことから、「その基本的な調査をなし、学問の立場からの正しい批判を試みることも、我々研究者にとっての責務」と考えたことを吐露しています。

そして報告書中では、ちゃんと卑弥呼の墓説、ゾロアスター教説、超古代文明説に1節を設け紹介しています。
これらの説に対して斎藤氏は「批判の限りではない」とノーコメントでしたが、できれば具体的な批判を加えて欲しかったところです。

そして報告書末尾では「学問から飛躍した考えは是正されなければならない。むしろ、これらの考えの横行することは、地元において、ながく伝承してた純真無垢な信仰への冒瀆ともいわれないだろうか。今後、学問の立場から正しく判断することによって、猪群山の真価は一層高まるものであろう」と筆を置いています。

この考え方ですよ。
この考え方がもっと考古学の世界に普及することを切望します。

どうも考古学者の中には、こういう世界へ手を伸ばすことが「ばかばかしい」「必要ない」「常識で考えれば分かるだろそんなもん」といった空気で占められている感があります。

考古学の人間が介さないところで「考古学的」と印象付けられる研究がなされている、そのために考古学なるものに対して大きな誤解が生まれる可能性がある、この状態が決して正常な状態ではないことになぜ気付かないのでしょうか。
そして、当人は無意識で悪気はないのでしょうが、ある人が「とんだ話」を作ってその説が広がることで、それ以前からの純粋な信仰の在り方というのはその影響を受け変節し、やがては影に埋もれるわけです。世間一般の中で「とんだ話」が定着してしまった時、私は学者・研究者の方の責任というのは少なからずあると思います。これも研究者として重要な仕事でしょう。

このことの危険性及び重要性を、すでに1983年の時点で指摘していた斎藤忠氏の視点には驚かされるばかりで、軽く考えずに傾聴するべきものがあるでしょう。

また、この調査には航空会社の空撮写真などもあり、かなりの費用が投じられたことと思います。

発行者であり呼びかけ人である「猪群山を有名にする会」は猪群山巨石群の知名度を高めようと各方に力を貸してもらうよう頑張ったようですが、今ではこの組織はどうなっているのでしょうか
。松本氏は全国この山の存在を知らしめるべきだとし、斎藤氏はこの山の更なる詳細な調査研究がなされるべきと訴えかけましたが、現状を見る限り、どうやら希望した通りにはいっていないようです。

しかしいたずらに知名度だけが上がり、観光資源としての側面ばかりが強調されると、斎藤氏や松本氏が危惧していた「ストーンサークル」的なイメージ操作が広がるばかりで、必ずしも猪群山のためになったかとは言えません。
実際猪群山に登りましたが、地元の有志の方と思われる整備がとても行き届いていて、気持ちの良い登山をできました。もしかしたらこれぐらいの段階が一番良いのかもしれません。学術的なものに変に観光実利が絡むと、あまり良い方向に進んだ試しがないからです。

(2007年5月13日 旧サイトの記事を再掲)


2017年3月19日日曜日

賀茂神社の神籠石(群馬県桐生市)


群馬県桐生市広沢町

賀茂神社の祭典の前夜、神籠石で榊に神を降ろし、台待窪で榊を神輿に乗せ、「休め石」に神輿を降ろしながら、神社へ神を迎える神事が明治維新の頃まで行われていたという。
しかし、戦後しばらくして、近年は賀茂神社の神職の方も足を運ぶことがなく、正確な位置もあやふやとなっていた。

この神籠石について、2007年2月に賀茂神社の神職さんへ話を伺った。

・この岩石の読み方は?

「かわごいし」。しかし神職さんが言うには、元は「かむごいし」ではないかとも。「神が籠る」という意味を重視されていた(つまり「かむご」は神職さんの考えが入っている可能性あり)。

 また「こうごいし」はどうですか?と聞いてみても通用したが、これはいわゆる神籠石の知識があるから通用したのかもしれない。

・なぜ近年は祭祀されず、所在が分からなくなったのか?

神職さんと連れの年配の方の話によると、昔はちゃんと手入れをしてまつっていたとのこと。
戦前までは、神籠石の周囲四方に竹を立て、注連縄を張っていた。そして春と秋の2回、赤飯・塩・水(酒だったかも失念)をお供えして祈願祭祀していた。

それが昭和20年代前半に来た台風により周辺一帯が被害に遭い、その時に神籠石が斜め下に傾き崩れてしまったとのこと。
この台風により里も大被害を被り、神籠石への道も倒木やら山崩れやらでしばらくの間行けなくなってしまい、そうこうしている間に神籠石への祭りは途絶えてしまったという。(注1)

近年の神籠石が見向きもされなかったのもその延長線上で、年配の方しか神籠石の存在を認識していない状態だった。

・神籠石へのタブー

タブーは特になかった様子。神職さんも子供の頃は神籠石の上に立ち登ったりして遊んでいたというので、戦前の頃は少なくとも畏怖的というより、親近的な信仰だったのだろう。


そんな神籠石だったが、2007年頃より、楚巒山楽会代表幹事が中心となって山中隈なく探索された結果、2009年3月に土木に半ば埋もれつつあった神籠石を再発見。
往時の神籠石を知る地元の方のお墨付きもあり、神籠石の所在が約60年ぶりに確認された。
神籠石の表面を覆っていた土木は取り除かれ、手前には神籠石を示す看板も設置された。

しかし、神社や地元自治体が定期的な管理をしているわけではない。
管理人が訪れた2010年には、すでに山荒れが進んでおり、道も倒木もひどく多かった。立てられた看板も後に消失したという。祭祀されない山中の岩石は忘却が進みやすい。

Googleマップ上にも目印がつけられたが、GoogleマップのポイントはGoogleの仕様変更やユーザー側のアップデートによって消える時があり(2017年はあり、2019年はなくなり、2020年にはまた復活した。今後も同様の繰り返しが起こりうる)、安定感に欠けるところがある。所在地について語り続けて、忘れられることはないように当サイトでもその一助を担いたい。

神籠石再発見までの経緯については、2007年以降リアルタイムで書かれてきた下記出典サイト・ブログの各記事に詳しい。
当サイトもこの神籠石について、2007年以降試行錯誤の踏査や的外れの仮説などの更新を重ねてきたが、あえてその駄文は割愛させていただき、ここに簡潔ながら事実の報告と参考文献・サイトの紹介を永久に記録しておくことで、せめてもの罪滅ぼしとしておこう。

なお、桐生市教育委員会文化財保護課・編『桐生市埋蔵文化財分布地図・地名表』(1994年)に史跡登録された「川越石」はこの神籠石と同一物を指すものと思われるが、地図に落とされた位置は全く別の谷間であり、遺跡地図が示す場所が間違っている。後学の方が騙されないようにここにはっきり記しておく。

神籠石へのアクセスルート


神籠石
賀茂神社前に掲示された神籠石の位置を示す地図。
この地図だけでは到底辿りつけないだろう。

神籠石
神籠石に取りつくルートは山荒れが激しく、倒木とブッシュに見舞われる。特に夏に訪れる時は注意である。

神籠石
2010年時点での神籠石。2009年に建てられた看板が健在。

神籠石
看板裏に刻まれたメッセージ。いろいろなストーリーがあって立てられた。

神籠石
神籠石近景。元来は頂面が水平で、戦後の台風で斜めに傾いてしまったという。


2019年4月15日追記


この桐生の神籠石を実地踏査した大場磐雄氏の研究メモ『楽石雑筆』巻15(昭和12年)によると、すでに大場氏が来たときには場所もよくわからなくなっており大場氏たちが探す有様だった(地元民が同行していなかったからか)。
大場氏たちは踏査の末、石下から水が湧き出る方形のこの神籠石を木葉の下から見つけた。すでに祭祀が行われていなかったような様子である。
宮司の方が私に語った、昭和20年代の台風によって祭祀が途絶えたあたりの話がどこまで事実かは冷静に見ないといけない。

参考文献




2017年3月16日木曜日

富士河口湖の皮籠石(かわごいし/かあごいし/かむごいし)



所在地

山梨県南都留郡富士河口湖町小立字皮籠石

出典

・古代山城研究会代表 向井一雄氏が現地調査された内容を管理人がうかがって編集

・「富士河口湖町小立土地区画整理組合HP」 2013年8月16日アクセス

情報

・『ふるさとの地名考(河口湖の文化財第5集)』(河口湖町 1986)に当地の「籠石(かむごいし)」の地名が取り上げられており、かつて明治~昭和20年代までは皮籠石の表記だったという。

・「かあごいし」とも音読したといい、当地は岩石が散在する場所だったと記載されている。

・享保年間の古文書に、日蓮上人が法座石・鼻曲石(像鼻石)・硯石・経石・たて石・へび石・かわご石の七ッ石を名付けたと記されているという(未見)。この内のかわご石が当地の皮籠石とされる。

・当地は平成21年頃から土地開発工事が入り(事業開始自体は平成17年からともいう)、現在は商業施設・住宅団地が造成されている。

・富士河口湖町都市整備課の中に、開発前に字皮籠石に岩石があったことを知る方がおり、山林だったところに細い道が通り、その傍らに長さ1m大の平たい岩があったという。一部が盛り上がっており、人が座れるような形状だったという。

・その岩石はかなり風化・摩耗している様子で、開発工事により撤去・処分されたという。特に記録・写真なども残されていない様子なので、本項で皮籠石の歴史を記録保存しておく。

・皮籠石水源として知られる採水地の1つで、岩石と水源の関係を考える1つのケースになるかもしれない。