インタビュー掲載(2024.2.7)

2019年10月27日日曜日

赤岩山赤岩寺の赤岩/大岩(愛知県豊橋市)


愛知県豊橋市多米町字赤岩山

赤岩山赤岩寺は、神亀3年(762年)に聖武天皇の勅願で行基により開基されたという。
山号の由来となる「赤岩」と目される岩が、寺の背後にそびえる赤岩山に現存している。
麓からでも、山中にむき出しになった岩の姿が確認できる。

手前の山の中腹に、岩がチラッと見える。

赤岩寺山門に立つ「赤岩山緑地案内図」に「大岩」という名前が載っている。
地図を頼りに、寺の境内を突っ切る赤岩川に沿って上流へ約15分山を登っていくと、ちょうど水源の砂防ダムの左手に広大な岩崖が露出している。
立地としては山腹谷間の川沿いである。




広大な岩崖のなかに、一部の岩肌が赤々しく色づいている。
明確にこの岩崖が「赤岩」と証する記録はないらしいが、間違いなくこれが地名発祥の「赤岩」であると判断して問題ないだろう。
赤岩を山号に用いた当寺は、本尊とはまた別の信仰要素として岩石信仰が彩られている。


「赤岩」の裾に目を移すと、地蔵がまつられているが、自然岩のうえに転石を置き、その上に造形を施した頭部が据えられている。


崖の合間にも役行者の石像がしつらえられている。



赤岩の上に斬りとおすように、愛宕神社の社殿が建てられている。

記録はないながらも「赤岩」が数多の信仰の支点として続いてきたことが如実に示されている。

2019年10月22日火曜日

店内における岩石信仰

愛知県名古屋市   居酒屋 樞(くるる)店内の「くるる石」

三重県四日市市 すしダイニング店内

飲食店や企業内などに岩石が置かれている場合があります。
それは、オーナーのコレクションだったり、水石や盆石の類、はたまた、現代に誕生した新たな岩石信仰の例かもしれません。

しかし、このような「店内」における岩石信仰の調査はほとんどなされていません。

そこでこのページでは、日本全国のあらゆる種類のお店・企業における岩石の分布図をみなさんといっしょに作りたいです。




皆様からの情報を広く募集いたします


皆様が足を運ばれた「お店」で岩石の目撃情報がございましたら、以下のフォームから教えてください。
皆様から頂いた情報は、本ブログおよび、上のGoogleマップにて公開させていただきたく存じます。

※留意事項
  • 岩石信仰か否かは判断が付きにくいケースが多いので、店内に置かれた岩石であればご投稿ください。
  • お店・企業は私有地です。所有者の方から非公開の意思があった場合は無理をなさらないでください。
  • 鉱物ショップなどの売り物の岩石は除きます。
  • 個人宅や宗教施設所蔵の岩石は、非公開やデリケート情報である場合が多いので除外します。

投稿はこちらのフォームからお願いします。
(Googleフォームにて作成しております)

2019年10月15日火曜日

三嶋大社の名石(静岡県三島市)


静岡県三島市大宮町

『続日本後紀』(869年完成)にその名があり、伊豆国一宮として知られる三嶋大社。
境内に「名石」として「源頼朝・北条政子腰掛石」「たたり石」「牛石」の3つが残されている。

源頼朝・北条政子腰掛石


治承4年(1180年)、源頼朝・北条政子が平家追討を祈念して三嶋大社に百日参りを行った時、休息のために腰かけていたという岩石。
左が頼朝、右が政子の腰掛石とされている。


たたり石


三島七石の1つ。
元来は旧東海道のど真ん中にあったといわれ、この岩石で道の中央を塞ぐことで、道行く人の往来を交通整理する役目を果たしたと推測されている。糸のもつれを防ぐ道具である「たたり」が語源といわれる。
その後、道の中央にあるのが邪魔ということで岩石を動かそうとしたところ、災いが起こるようになったといい、中には死んだ人もいるという。この場合の「たたり」は「祟り」から由来する伝承と思われる。それでも大正3年(1914年)には、道路工事により現在の神社境内に移転されるに至った。
現在では交通安全の霊験があると考えられ、祟りの岩石から恩恵の岩石へ性格が転化した。


牛石


先に紹介した三島七石は、一般的に鬼石・蛙石・市子石・たたり石・笠置石・蛇石・耳石の7つを指すとされているが、三嶋大社『三嶋大社<略史>』改訂版(三嶋大社、2001年)によれば、境内にある牛石も三島七石の1つに数えられるという。
これのみ境内看板がないので、神職の方に案内していただいたところ、参道脇の植樹の囲い石に半ば同化していて、地中から僅かに頂面が顔を出しているだけの岩石だった。
地中は掘っていないのでどれぐらいの深さかもわからないという。

『広報みしま』平成28年9月1日号によると、次の由来が記されている。

頼朝が大社へ参詣したある日、背後に怪物が現れたため切りつけたところ、あとには刀傷を負った牛のような形の石が残っていた、という伝承があります。

これが牛石。えっどれか分からないって?

植樹の囲い石とは少し様子の異なる、こちら。


参考文献


三嶋大社『三嶋大社<略史>』改訂版(三嶋大社、2001年)
三島市観光協会「三島七石」「三島市観光協会」サイト内)→2011年8月7日アクセス


2019年10月14日月曜日

粟ヶ岳の地獄穴と磐座群(静岡県掛川市)


静岡県掛川市初馬

標高532mの粟ヶ岳の山頂に、延喜式内社・阿波々神社が鎮座する。
山の麓ではなく、山頂近くに鎮まる神社は、山岳仏教以前における山宮・山頂祭祀の実例と言って良い。

神社の南斜面は市天然記念物の照葉樹林が広がり、この社叢の中に磐座が埋もれている。





山頂やや下に、明治の神仏分離により廃寺となった無間山観音寺があった。
ここにあった梵鐘をつくと現世に巨万の富を得、その代わり来世は無間地獄に落ちると信じられていた。
欲深き人がわらわらとこの鐘をつきに来て、来世どころかそのまま足を踏み外して地獄に落ちる人が続出したことから、これを見かねた観音寺の住職が鐘を山頂にある井戸の底に沈めた。その後は、井戸に榊を垂らせば鐘をついたのと同じ効果があるという話が生まれた。

これは遠州七不思議の一つに数えられ、粟ヶ岳の別名である無間山はこの無間地獄から由来する。

無間山観音寺跡

旧社地の前の石段(手入れが行き届いていないこともあり現在使用禁止)を下りたところに無間山観音寺跡がある。

補修を繰り返しながら、とうとう管理を放棄されたお堂の残骸が残っている。でありながら、堂の一画に皿や瓶が寄せ集められ、花が供えられているところに一抹の信仰も感じられる。

境内に放置された石仏は何気なく見ると天明2年(1782年)のもの。諸行無常、もののあはれの世界を地で行く空間だ。

さて、磐座群の中心部に「地獄穴」がある。
これは人々が地獄へ落ちた地獄穴と呼ばれ、岩の裂け目の奥は知る人ぞなしとのこと。
この中に石などを投げ込んだり岩石の上に足を踏み入れたりなどすると神罰が当たると、境内各所に注意が書かれている。

地獄穴(写真右下)

この岩群がいつから「磐座」と呼ばれているかは検討の余地があるが、地獄穴の亀裂は異界との出入り(いや、一方通行か)ができる「ゲート」であったことは間違いない。
仏教説話に彩られた地獄穴が、いつから「ゲート」として神聖視されてきたかが、当地の岩石信仰を語る上で最も重要なポイントである。


磐座群の南限には人工的に整形された平坦地形があり、ここは「古代祭祀跡」と呼ばれている。現地の掲示によると、社殿がない時代の祭り場だった場所と説明されている。

所感では、磐座地帯からある程度離すのではなく、むしろ磐座地帯にやや切り込むように大幅な地形改変を加えている。
これは社殿祭祀以前の自然物信仰の祭り場の跡と言うより、おそらく仏教の影響による木造建築物が建てられていたのではないか。推測が許されるなら、社殿祭祀としての阿波々神社の最初の鎮座地かもしれない。


また、『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』(1987年)によると、粟ヶ岳は緩やかなお椀形の山容と評され、海上からもその姿を見ることができることから、古くは漁師や船人の見立て・山アテのランドマークとして、そして現在は林野庁から航行目標の保安林として指定を受けるなど海上交通の要だという。

粟ヶ岳という名前が示すようにこの地方では粟作がかつて盛んで、阿波々神社は粟の穀霊をまつっていたものという説もある。粟ヶ岳は菊川の水源でもあり、粟を中心とした作物の生産神として信仰されたのが最初ではなかったかと考えられている。

また、静岡新聞社の連載記事を書籍化した『石は語る』(2003年)では、榛原高校の中村肇教諭のコメントを掲載しており興味深い。以下引用する。

「江戸時代の東海道名所図会に描かれた粟ヶ岳を見ると、山頂に木はなく、石は露出しています。磐座としてはその方が都合がいい。専門家の話から推測すると、ここの木はせいぜい樹齢三百年といったところでしょうか」

現在の光景を過去のある時点の光景と同一視してはいけないという警句であり、傾聴に値する。

参考文献


  • 神社由緒書・現地解説板
  • 谷川健一編「阿波々神社」『日本の神々-神社と聖地- 10 東海』 白水社 1987年
  • 静岡新聞社著・発行『石は語る』(2003年)


2019年10月13日日曜日

吉備の中山、吉備津彦神社、吉備津神社の岩石信仰(岡山県岡山市)


岡山県岡山市吉備津~一宮

吉備の中山と吉備中山


吉備の中山は標高175mの龍王山(別称・権現山)を最高峰とする低山だが、山中には他にも複数の峯が林立しており一大山塊の様相を呈する。

吉備の中山

現在は「吉備中山」と書くことが多いが、薬師寺慎一氏『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると平安時代の歌集などでは「吉備の中山」という表記が一般的だったという。本ページもそれにならって「吉備の中山」の表記に統一したい。

吉備の中山の北東麓には備前国一宮吉備津彦神社、北西麓には備中国一宮吉備津神社が鎮座する。
1つの山を分け合って2つの一宮が鎮座するのがこの山の大きな特徴で、その理由はかつて吉備の中山が旧・吉備国全体にとっての聖山だったものが、大和朝廷により備前国・備中国に分割されたからと考えられている。
吉備の中山は現在平野上の里山の趣だが、古代は吉備中山のすぐ南まで海岸線が来ており、交通上の山アテとしても重宝された可能性が指摘されている。


吉備津彦神社境内の岩石信仰


■ 環状列石

備前国一宮吉備津彦神社の境内には神池という広大な池がある。
その中に、鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配されて庭園となっている。このうち最も東に浮かぶ五色島に整美な環状列石が存在する。


写真のとおり、20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
批判的に見るならば、この庭園を築いた時に造られた産物であり、環状列石という言葉から連想するような、たとえば縄文時代に遡るような所産ではない可能性が高い。

庭園自体の築造年代は不詳だが、3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれる。


■ 八島殿

吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。

『古代御社図』にある八島殿(現地解説板より)

薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』によれば、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけないとある。

薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩を確認したという。私は未見だが、これが八島殿の神座だったのではないかと薬師寺氏は推測している。

供物台石として用いられたことが分かる岩石祭祀事例であると同時に、神の使いあるいは神の象徴が一時的に現れる場としても語られていることがわかる。


■ 忠魂碑台石

境内南に忠魂碑が立てられている。
碑に使われた台石だが、かつて背後の一段高い場所から移設してきたものだといわれている。
薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと指摘する。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもので、私は積極的に支持はできないが候補として紹介しておく。


吉備津神社境内の岩石信仰


■ 矢置岩/矢置石/箭置石

矢置岩・矢置石・箭置石など、複数の表記がある岩石。


備中国一宮吉備津神社の北参道口にあり、温羅(うら)という鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝説が付帯する。

と同時に、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序を簡略化してまとめる。


  1. 前日に祭場の掃除をしておく。
  2. 2本の矢を箭置石の上に置く。
  3. 神主がその矢を持って本殿に参る。
  4. 本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
  5. 再び矢を持って本殿に参る。
  6. 桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。


神への奉献物である矢を置く供物台石として機能していることがわかる。


■ 矢納宮石

江戸時代に描かれたとされる境内絵図には、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社だという。

桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所である。
矢納宮石も、矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石と思われるが、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明だ。


■ 岩山宮

中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社だという。
現在は社殿の中に岩がまつられているため、外から岩の様子を確認するはできないが、岩石祭祀→社殿祭祀への変遷を示す事例。



■ 金比羅の露岩

江戸時代の境内絵図では、山腹に「金比羅」という字とともに、祠の絵とその背後に屏風のごとく覆う岩が描かれている。

この金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず、完全に信仰が途絶えたようだ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩が現存し、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。

ここにかつて金比羅の祠がまつられていたことは明らかとなったが、背後の露岩を岩石信仰と認められるかどうか。
絵図に描画されているのは、単に視覚的に印象に残ったからランドマークとして描いたのか、岩が神聖視されていたからなのか読み取れない。
ただ、薬師寺氏が古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という話があったらしい。


吉備の中山の岩石信仰


■ 穴観音

大吉備津彦命墓として宮内庁指定されている中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
その後円部の東に5体ほどの岩石が群集している。

岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。


一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。
しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
穴観音の岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた単立の岩塊である。私は明らかに古墳築造後の所産であると考える。


■ 鏡岩

山頂からやや西に下った山頂直下と言えるところに、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している。

その内の1体を鏡岩と呼んでおり、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ、表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面は見られない。

薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』に未登場であることから、もしかしたら近年の命名の可能性もある。




■ 八畳岩/奥宮磐座

標高162mピークのほぼ山頂に立地。
そこには奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。


特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていることだ。
岩の根元には岩陰状の窪みもあり、そこを祭具埋納の場所としたのかとも思わせる。祭祀方向も、山の斜面下側からということがわかっている。

しかし、土師器と一言でいっても、その製作は古墳時代から江戸時代まで幅広い。はたしていつの遺物なのか、今はどこに保存されているのか、重要な考古学的情報なだけにもう少し情報公開があっても良いだろう。


■ 環状石籬(かんじょうせきり)

環状石籬という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。

前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群だろう。意図的に環状に岩石を並べたという様子はうかがえない。薬師寺氏の著書には未登場。



■ お休み岩

誰が休むのか沿革不明。薬師寺氏著書未登場。



■ 元宮磐座

標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mの単立岩で、元宮磐座という名前からはただ事ではない重要性を感じさせるが、先述の奥宮磐座との名称の近似性や対応関係は不明。
また、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場というのが気になる。平成時代になってからまつられるようになったという話も聞く。


こう思うに、吉備の中山の岩石祭祀事例には、近年名付けられた「イワクラ」と、古来から祭られてきた「磐座」が混在している恐れがある。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こしという意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石ということは間違いはない。
たとえば、毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われており、元宮磐座はその巡拝コースに入っている。

けれども、一つ一つの事例の歴史資料として差があるのならば、それを峻別しておかないと、あれもこれも太古の磐座では岩石も古代の人々も浮かばれないだろう。
人々の記憶の風化というのは恐ろしく早い。50年もすれば、すべての記憶は玉石混交になってしまう。
特に信仰というものは心の中の見えない世界観であるため、慎重に取り扱わなければその歴史的価値をすぐに取り違えてしまう危険性がある。
岩石に名前を新たに付ける方々にも、多少なりともその意識が共通認識として広がることを祈りたい。


■ 経塚

龍王山頂上に立地。
経塚とは、経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めたもの。これも岩石祭祀である。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作の推定。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進とされている。



■ 権現岩/権現の神座/盗人岩/天柱岩

山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という虹が刻まれており天柱岩の名前があるが、これは山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、かつては盗人岩と呼ばれ、江戸時代の文献や絵図においては権現岩、権現の神座といった名称で記されていた。

岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されている。



■ 夫婦岩

元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中、「夫婦岩」への標識と分岐に出会う。
この分岐は吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道で、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。


なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。
立岩の手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺の著書には未登場。


■ 不動岩

前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教だが、福田海ができる前ここは有木神社という神社が鎮座し、背後の峰を有木山と呼んでいた。

有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
このことから、不動岩も自然岩であるために有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた場所だったのではないかと考えられている。


■ 内宮石

『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」として記述があり、江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており傍らに「内宮石」と記されている場所がある。

内宮は明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡がない。
1989年に薬師寺氏らが踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が確認されている。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。

平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかは若干の検討の余地を残すが、重要なのは、吉備の中山に散見される「環状列石」という一種の祭祀形態が戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代の吉備で環状に岩石を並べ祭場とする発想があったと裏付けられたことだ。
この事実は、備前吉備津彦神社の五色島にある環状列石も同様の発想に基づくものだということを補強し、吉備における環状列石思想の成立は研究する価値がある。


■ 影向石

吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、新宮は明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。


■ 「S山」山頂遺跡

「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。

ここにはイワクラと思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったそうである。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。


参考文献


  • 薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
  • 八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年
  • 「吉備の中山を守る会」ホームページ 2022年1月3日閲覧 ※吉備の中山の旧跡に説明看板を立てている会で、説明文は資料第一主義の客観的な記述になっている。


2019年10月12日土曜日

堀秀道『宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか』(どうぶつ社 2006年)を読んで


鉱物科学研究所所長の堀秀道氏の著書。
「宮沢賢治はなぜ石が好きになったのか」はかなりインパクトがあるが、実は宮沢賢治の話は300頁のうちの冒頭約10頁だけという、恐ろしくリスキーなタイトルである。

章立ては次のとおり。


  • パート1 石と芸術家の物語(宮沢賢治・ミケルアンジェロ・モーツァルト・ゲーテほか)
  • パート2 石と歴史の物語(吉良上野介・イスラム・石の都・平賀源内・石神問答ほか)
  • パート3 石をめぐる人々の物語(ミネラルショー・コレクション・産地ほか)
  • パート4 誕生石の謎(ざくろ石・紫水晶・血石・ダイヤモンドほか)
  • パート5 不思議な石の物語(砂漠のバラ、インド魔術、火星の石、鑑定の基礎知識ほか)


堀氏がこれまで様々な雑誌等に寄稿した石の文章も収録されている。
本書で興味深かった記述をいくつか紹介していこう。

宮沢賢治が石を好きになった理由


本書のタイトルに対する回答はあるのか。

なにしろ彼は子供の頃から変わっていたから……ではちっとも答えになっていないではないか。文献上に私はついに答えを見付けることができなかった。

結論からいうと No. だった。
でも、他人さまの心のうちなど他人がそうそうわかるはずないので、むしろ良心的な回答と言える。

賢治が生まれた北上川へ行き、北上川ダイヤモンドが分布する白い浅瀬が朝夕照らされる光景に賢治の原点を見たとも現地での所感を綴る堀氏だが、これはエッセイ的表現か。
この光景を見た人ならだれでも石好きになってしまうが、誰しもがそういうわけではないことからも、感受性とやらに根本原因がありそうな気がする。

鉱物と岩石の定義


鉱物学者としての知識が開陳され、本書の安定感に一役買っているのも特徴だろう。
たとえば、墓石の観察を通して鉱物と岩石の定義について触れるページがある。

 一定の化学組成をもち一定の原子(またはイオン)配列をもつものを「鉱物」という。鉱物は原則的に結晶をしている(例えば水晶)。その大きさは顕微鏡サイズから大きくて数メートル大で、一〇メートルを超すような例は本当に例外的である。したがって、地層を作ったり、山を形成しているものは鉱物ではなく、鉱物の集合体である。この集合体を「岩石」という。
 漢字の「岩」が石と山から出来ているのはこの関係を文字通り表現している。
 鉱物の名前には黄鉄鉱のように「鉱」が金属系に付き、方解石のように非金属系には「石」が付くのが日本の習慣で、国際性はないが、悪くはないと思う。

わかりやすい。
おかげで、エッセイとして確信犯的に記している部分まで、まるで客観的な根拠があるかのような迫力がある(上記例では、岩が石と山の関係を表すという部分)。

鉱物を包含する概念として岩石があることは、岩石信仰の範囲を考えるうえでも重要である。

鉱物収集はスポーツか


ロシアの鉱物学者フェルスマンが鉱物収集をスポーツとたとえた。
堀氏はそこから話を広げ、スポーツに取り組む際のルールについて四か条を提示している。

一、採集した石を他の場所へ捨てない……A地点の石をB地点へ捨て、それを別の人がB地点の石として採集することのないようにします。
一、必要以上に採集しない……石は二度とできませんし、あなただけの産地でもありません。必要最小限度に止めます。
一、採集品に責任を持つ……地球の一片を自分の責任でもってきたのですから、その責任をまっとうするよう心掛けたいものです。よく見、よく調べ、よく保管することです。そして新事実があれば公表することです。採集品を捨てたり、放置するようでは、あなたは知的スポーツを楽しむエリートから自然を破壊する無頼漢に堕落してしまいます。
一、天然記念物などで規制された場所へは立ち入らない。

堀氏の石への哲学がにじみ出た、メッセージ性のある部分と感じた。
鉱物学者らしいと思うのは、「新事実があれば公表すること」のあたり。新たな発見をオープンにしてほしいという、学問への誠実さがこう書かせている。

一方で、ルールをつくることで、それ以外の行動が許されないというのも創造性を失わせてしまう。
最初の二か条と四か条目はまさにその通りでうなずけるが、三か条目は異論も許されていいだろう。
たとえば、私は自分の石を所有しているが、その石をよく調べようというところに本質を置いていない(特に、鉱物的な意味で)。
また、石を愛する人が外部に積極的に石への思いを発表する必要もないと思っている。石の信仰を保持する人の中には、石を非公開とすることもあり、その思いもまた尊重されるべきである。もちろん、研究という視点で見れば損失であるが、研究者のエゴであることも認めなければならない。

石を愛する人がすべて鉱物的な探究心を持つ人なら堀氏のルールに沿えるが、そうではない。現に私は堀氏の興味関心とはまた異なる眼で岩石を見ているため、三カ条目はやや限定的な石のオーディエンスに向けたメッセージに感じた。

石を公開する人と公開しない人、石を採集しながら保管がずさんな人、新しい石をどんどん欲しがる人、石の組成を学問的に追求したい人、そんな人々の心の動きに興味がある人…石に対峙して生まれる人のリアクションは色々だろう。
それを人のルールで規制することはクリエイティブではなく、本来の人と石の関係からは恣意的な軌道修正が入っている。

堀氏は別頁で、鉱物への認識に対して「国民の大多数が旧石器時代を脱却していない」と語るが、発展段階説が唯一の正解でもないだろう。
原初的な世界がむき出しになっているのならば、それはそれで貴重な他者として「介入せず」「尊重する」まなざしをむければ良い。


2019年10月8日火曜日

出雲大神宮の岩石信仰(京都府亀岡市)


京都府亀岡市千歳町出雲

出雲大神宮は丹波国一宮として著名である。
創建の時期や、島根県出雲大社(明治以前の旧名・杵築大社)との先後関係はまだはっきりしていないが、大国主命と后神の三穂津姫命を主祭神とする。
当社の語るところによれば、和銅年間に大国主命を当社から出雲国に遷座したのが島根県出雲大社の始まりであり、その由縁から当社を「元出雲」と呼ぶと伝わる。
また、『延喜式』神名帳には「出雲神社」として記載され、丹波の地にありながら「出雲」の名は古くから伝わることがわかる。千年宮の通称も持つ。

神社の背後には、御蔭山(御影山とも。周辺山塊一帯を含めて千年山とも)がそびえ、ここは国常立尊の神陵と信じられて禁足地に指定されている。
この山も含め、神社境内の山麓~山裾には数ヶ所の磐座が分布しており、かつては山岳信仰と岩石祭祀の場として信仰が盛んだったことを推測させる。

出雲大神宮と御蔭山


下画像のA~Jの順に、岩石祭祀の事例を紹介していこう。



A地点 夫婦岩


縁結びの御神石。
社殿前の開けた境内に位置すること、夫婦岩は基壇の上に安置されていることから、この霊石はいずれかの時代に持ち運ばれ、夫婦神をまつる神社としてふさわしい形状としてご利益のある霊石としてまつられることになったと推測される。

夫婦岩


B地点


拝殿の脇に船形の岩石があり、それに寄り添うように樹木が植えられている。
そして、この岩石と樹木はセットになって注連縄の結界を張られ、神聖視されていることがわかる。



C地点


社殿前の開けた広場から、神体山の方へ道が続いている。
その入口に注連縄の巻かれた岩石がある。



D地点 春日社


アメノコヤネノミコト・タケミカズチノミコトをまつる境内社・春日社。
現地にあるのは社殿ではなく、玉垣に囲われた岩石である。

春日社

岩石が社殿の代わりを果たしている。それは、岩石が神そのものと見るより、岩石という神殿を通して形而上の祭神をまつっているという考え方のほうが適している。

しかし、それは現状での神への認識であり、むしろ岩石を社殿の代わりとみなすのは社殿祭祀以後の考え方であり、社殿以前の岩石信仰において、この岩石がどのような認識にあったのかはまた別である。

かつては祭祀の度に神を招いていた磐座が、やがて神の常在化・固定化と共に、常に神宿る磐座として、表面上は石神と同一視される存在になったのかもしれない。

しかし、石神は岩石自体に神の性格を求めるものだが、現状では春日信仰の影響下で神が語られている。

E地点 磐座


春日社の左方奥にごろんと転がる巨岩。
神社側が「磐座」と公式に名付けているものの一つである。

磐座

起伏の少ない「安定的」な地形に対して、今にも転がりそうな「不安定」な巨岩。
このアンバランスなコントラストが、他になかなか見ない独特の存在感を醸し出している。

ネット上の記事を接する限り、パワースポットブームに沸いたここ10年で、出雲大神宮の磐座では最も代表的な存在になったように感じる。

巨岩の手前には神体山から沢が流れてきており、水辺の祭祀の場としてもふさわしい。



F地点 車塚古墳


これは古墳であり、5~6世紀の前方後円墳と推定されている。
前方部は損壊甚だしいが後円部の残りは良く、円丘部分が確認できる。横穴式石室が開口しており、内部の様子を拝観できる。
成務天皇代の由縁が口碑として伝わっているという。

磐座のすぐ傍らにあるが、磐座祭祀と古墳祭祀のどちらが先に始まったかという前後関係は不明である。ただいずれにしても、磐座と古墳が同じ場所に「同居」しているという現状自体は全国各地で散見されるので、重要な事象として頭に入れておきたい。

車塚古墳


G地点 みかげの滝


岩石の集積のさせ方から見て、御蔭山から流れてくる水の通り道をおそらくは人工的に滝にした場所。

みかげの滝


H地点


みかげの滝から、素戔嗚命・櫛稲田姫命の夫婦神をまつる「上の社」へ至る道を登っていく途中で出会う岩石。
坂道の屈曲点に目印代わりの如く注連縄を巻く姿は、C地点などと共通する。



I地点


「C地点~上の社」「真名井の水~笑殿社」の2つのルートの合流点にたたずむ岩石。
このように、C・H・I地点の岩石はそれぞれ道のランドマーク的存在として注連縄を巻かれている感がある。
奥の方にも3~4個の岩石が顔を出しているのを確認できた。



J地点 磐座


I地点から北に進路をとり、杉が立ち並ぶ御蔭山参道を5~10分ほど歩くと、J地点の「磐座」に到着する。
E地点と並んで、神社側が公式に「磐座」と名付けている場所である。

地理的環境としては、御蔭山への本格的な山道となる直前に位置し、里と山の境界線たる山裾と呼んでふさわしい立地と言える。

若干周辺地形から膨れ上がった微高地上に、10体をゆうに越える数の岩石が群集している。
「岩群(いわむら)」と呼びたい光景がそこに広がる。

岩群の一番手前に置かれた岩石には注連縄が張られており、微高地の頂き付近にある巨岩の上には、小石が積まれているものもあった。
そして、最も奥方には高さ・幅ともに約3mを越える巨岩も控えていた。

2002年撮影

2002年探訪時は、自由にこのJ地点の磐座に参拝することができたが、2009年再訪時にはI地点にゲートが置かれていて立入禁止になっていた。今は許可制のようだ。
理由は、どうやら磐座を打ち欠いて石片を持って帰った不届者がいたらしい。何をやっているのかという気分だが、歴史の重みも他者への配慮も顧みない自分本位な人にならないためにも、歴史を知ることは大事。その一端を担うためにも、当ブログでは歴史学に基づいた記述を引き続き心がけていきたい。


2019年10月7日月曜日

内部の「なぞの石神」は現存した(三重県四日市市)


三重県四日市市貝家町

「なぞの石神」とは?


1985年、四日市内部(うつべ)地区で活動していた内部郷土史研究会が「内部旧跡案内図」という地図を作製した。

内部郷土史研究会「内部旧跡案内図」(1985年)一部抜粋

同地図より


この地図の番号5に「なぞの石神」と書かれた場所がある。

上地図のとおり貝家町に位置するが、曖昧な地図である。
現地は山林と住宅地が入りまざるエリアで、この地図だけで場所を特定することは困難である。

うつべ町かど博物館運営委員会・編『内部の史跡・旧跡案内 わが町再発見』(2013年)によると、1985年の「内部旧跡案内図」は、今となっては所在がわからなくなっているものが多いため、うつべ町かど博物館が2009年に新たに追跡調査をして、現在の地図上にマッピングしたのだという。

その調査結果、「なぞの石神」はリストから省かれた。
1985年当時で「なぞ」と呼ばれているような存在であり、追跡調査でも特定できなかったのだから、これはもはや歴史消滅に近い状態である。

聞き取り調査


そこで、追跡調査の仔細を確認するためにうつべ町かど博物館を伺ったところ、内部地区の歴史を調査され『うつべ歴史覚書』を2017年に上梓された稲垣哲郎さんとお会いできた。

稲垣さんによれば、「なぞの石神」については貝家町で調査をした際、同町の歴史に詳しい方が「わからない」と述べたそうで、それで現在の史跡マップからは省いているとのお返事だった。

博物館を出て、次は現地で調査をおこなった。
「なぞの石神」は旧跡「なこの坂」の西に位置するようなので、なこの坂周辺でも一軒ずつ訪問して聞き取りをおこなった。

なこの坂

最近現地に銘板が設置された。

一帯はもともと山林を切り開いた宅地であるため土地の人が少ないなか、同地で生まれ地区の最高齢として紹介された85歳の男性や、鎮守・加富神社の氏子総代をされている男性、内部で史跡看板を立てた方など数名からお話を伺った。
しかし、いずれの方も石神はご存知なかった。

約35年ぶりの確認


いわゆる地元の最長老格や、歴史に詳しい地元の方が知らないという結果にやや心が折れかけながら、あきらめきれず路地という路地を歩いたところ、突如、路傍の石が目に入った。

写真左下に注目。

高さ約25cmで、何も刻まれておらず、本当に何の変哲もない石だ。







町内ではもっと大きな岩石にたくさん出会ったが、この石の手前には、何かを立てていたであろうコンクリ製の基壇が二基横並びしている。おそらく花を手向けていた祭祀跡ではないか。

ちょうど、道路を挟んだ向かい側の隣家に男性がおられたので、思わず声をかけた。
この方は、この石にまつわる物語をご存知だった。

いわく、この石はもともと坂(なこの坂と思われるが、なこの坂と言っても通じなかった)の途中にあり、子どもの頃からまつられていた石だという。
やはりただの石ではなく、位置的にも「なぞの石神」と認めて良い。

そして数十年前、山林を切り開いて今の宅地を開発した時、土建屋の社長さんがこの石を坂から現在地(会社の敷地)に移設したそうである。
移設したその社長も会社も今はなく、残ったのはこの石と、その経緯を見ていた隣家の方だけということである。

自然石とのつきあいかた


隣家の方は、この石の詳しい由来を知らないとのことだったが、35年前ですでに「なぞの石神」なのである。
かろうじて石自体は消滅しておらず、その経緯も今回記録にとどめることで、石の歴史の寿命を延ばせたことを幸いと考えたい。

自然石信仰は、たとえば地域で一番大きい石だったら神とされるものではない。
石には彫刻も文字も刻まれないから、歴史に造形が深い人が意識する存在とは限らないことにも注意したい。
とりわけ、巨石でも奇岩でもない路傍の自然石は、ものの本からも除外されやすい。そんな周縁外の存在にこそ、眼を向ける意識が求められる。

自然石の歴史に出会うためには、自然石を通して「人の歴史」を見た人に出会うしかない。
地区の中でその人だけが知っていて、その家族やご近所はすでに知らないという、そんな一筋の光明にまなざしを向けることで自然石とつきあうことができる。

あらためて、「なぞの石神」が内部や四日市の旧跡として再び認知されることを願って、ここに所在地と現状を記録しておいた。

参考文献