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2024年11月10日

鹿島神宮の要石と鏡石(茨城県鹿嶋市)


茨城県鹿嶋市宮中

鹿島社例傳記にいふ

奥の院奥ノ石御座有。是俗カナメ石ト云。號山宮。大明神降給シ時、此石ニ御座侍

との初傳は注意すべきもので、蓋し要石の本体を物語るものとすべきであらう。なほこれに関聯して更に附言すべきは、現在同宮御本殿の眞裏約十間餘を隔て、外玉垣に接して存する「鏡石」についてである。石は地上高約一尺餘、圓形を呈し表面径二尺四寸を有する圓盤状のもので、別に玉垣を以て囲み神聖視せられてゐる。由来に就いては不明であるが、その表面が平滑で圓形を呈し、鏡に似てゐる點からかく稱したものと推定せられる。殊に面白いのは今の本殿に接した直後には、神木と稱する一巨木が聳立して居り、それと一直線上の後方に鏡石が存在することで、恐らくは最初要石と同様、本宮の原始信仰を物語る磐座及び神籬を如實に示すものではあるまいかと推定せられるのである。

大場磐雄「磐座・磐境等の考古学的考察」『考古学雑誌』32-8 1942年

要石

鹿島神宮本殿裏。写真の「一巨木」の延長線上に鏡石があるか。
大場磐雄博士が1943年8月13日に撮影した要石。現在と異なり要石の周りは苔生す(要石/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)

大場磐雄博士が撮影した鏡石(鏡石/國學院大學博物館所蔵/クリエイティブ・コモンズ・ライセンス済資料)


2020年10月19日

大洗磯前神社(茨城県東茨城郡大洗町)


茨城県東茨城郡大洗町磯浜町


大洗海岸に出現した「怪石」

大洗海岸

斉衡3年(856年)12月戊戌日(29日)の夜、海上に光の柱が立っているのが目撃された。

翌朝、その海のほとりに2体の「怪石」があった。
高さは両方とも1尺(約30cm)ほどで、人間ではなく神の造形だった。

さらに翌日になると、その周囲に20個あまりの小石が、まるで2体の「怪石」に付き従うかのように集まっていた。
これらの小石は彩色おびただしく、見た目は沙門(僧)のようだったが、耳と目だけはなかった。

この時、ある人に神が憑依し、「我々は大奈母知命(オオナモチノミコト)と少比古奈命(スクナヒコナノミコト)である。昔この国を造って東の海へ去っていたが、再びこの国の民を救うために帰ってきた」と語った。

これを受け、国司は朝廷に上奏し、翌天安元年(857年)8月に大洗磯前神社が創建された。


以上は、『日本文徳天皇実録』(879年完成)に記された大洗磯前神社の創建由来となっている。

時期がはっきりしており、神の現れた経緯も具体的である。文字どおりの実録としてはありえず、誰彼による作為性はあるものの原型となる出来事はあったのだろう。

当時の「神の現れ方」や「ある事物が神としてまつられる流れ」を考える上において、非常に貴重な資料の一つと思われる。

大洗磯前神社より大洗海岸を望む


怪石が果たした役割


この「怪石」を岩石信仰の観点から考えると、どのような存在として位置づけることができるだろうか。

神の姿形として語られることから、石神の事例と一見考えられる。

しかし、怪石自身はあまり動的な行動をしていない。記録中ではまるで置き物のような扱いとなっていることに注意したい。
声を発するのも、怪石自身ではなく、人を介して発している。実際の事象として岩石が音声を発するわけはないが、物語上の作りとしては岩石が話していてもいいはずなのに、それをしない。


物語上、石自身に意思も垣間見られない。意思を発しているのは、石の背景に控えるオオナモチノミコトとスクナヒコナノミコトである。

まるで、普段は人間にとって「不可視」な神が、肉体は岩石を使い、言語は人間の口を借りることで「可視化」させているかのようだ。

人間の側から論理立てれば、怪石は、神をイメージさせやすくするために用意した視覚的な肉体であり、視点を集中させるための対象物である。


これを「神そのもの」と言えるかというと、少し違う気がする。
むしろ、怪石は神と人がコミュニケーションするために登場した「媒体」であり、その役割は「一時的に人間達に見せる体」だったと位置づけられる。


しかし、石神的な性格も消せないのが本事例の特徴的なところである。反証要素を列挙しよう。

  • 物語において、光の柱を放ったのは誰なのか。2神が降臨した時の光と考えるのが自然だが、怪石自身が発光して光の柱を出したという可能性も否定できない。
  • 怪石は自ら動いて現れたのか、それとも形而上の2神が用意してそこに出現させたのか、どちらともとれる。
  • 怪石の翌日に現れた小石の位置付けについて。これも2神が用意したとも解釈できるが、一方で怪石自身が行動してはべらせたと解釈できたり、怪石が分裂・増殖してつくったという「成長・増大する石」伝承の見方で解釈することもできる。


受け取り方によっては石神的要素も見え隠れする。
そのような両機能の境界線に立つ事例と言えるだろう。

すなわち、1つの類型機能だけで性格付けすることを避けないといけない。
一見矛盾しあう複数の要素は、内包し得るのだということを示唆しているだろう。


現在の怪石の所在


現在、この怪石たちがどこにあるのか、よくわからない。
神社創建後、本殿の中に移されたのだろうか。しかし、記録の中に石の行方が書かれているわけではない。

大洗磯前神社


もし本殿に移されたのなら石神的といえるが、そうではなくそのまま放置されていたり、撤収処理されたのならば、怪石は神そのものというより、やはり祭祀の時に使った道具(媒体)としての側面が強くなる。


ちなみに、怪石の周りに出現した20個余りの「小石」は、怪石の神聖性をより高めるために付き従った「陪従者的存在」として捉えることができる。

本体の神聖性を高めるために、別の岩石が置かれるというのは珍しく聞こえるが、『出雲国風土記』にも、石神の側に小さな石神が百余りあるという記述があり、このような岩石同士の力関係の差を利用した発想を、当時の記録から読み取ることができる。


神磯


大洗磯前神社沿いの海岸に岩礁があり、これを神磯と呼んでいる。
祭神降臨の地と語られており、ここが件の怪石が現れた場所とされたのだろう。





今も神磯は、元旦に日の出奉拝祭祀が執り行われている。
祭祀空間としての岩礁であり、その空間テリトリーを視覚的に示す岩石と言って良い。空間的な広がりを持つ、自然の磐境といった位置づけである。


もちろん、祭神降臨の旧跡という意味では、この神磯は聖跡としての要素も忘れてはいけない。

怪石が神磯の上に出現したと思考実験した場合、岩石の上に別の岩石が乗った構造ともなる。これはどのように理解するべきか。

わかりやすい理解は、いわゆる磐座の上に磐座を乗せたというものだろうか。
怪石を磐座と呼んでいいかは、前述の議論を踏まえれば石神要素も相待った存在であり粗っぽい評価だが、物語の構成上、怪石は置き物的存在であり一時的な神の体としての性質もなくはない。それを通俗的に磐座と呼んでいるものと、広い意味での機能は一緒と見ることもできる。

怪石は、座所ではなく憑依物としての体であるため「座」という漢字を当てることは適切ではない。あえていうなら、神磯が座としての岩石であり、そこに体としての怪石がやってきたという構図である。

これ以上の資料が揃わないと何とも言えないが、岩石を語る時に1つの機能には収まらないというのが、難しくややこしいところだろう。


参考文献


2020年10月4日

石船神社(茨城県東茨城郡城里町)


茨城県東茨城郡城里町大字岩船

延喜式内社。「いしふね」と読む。
「石船」は地名および神社名となっているが、境内を流れる岩船川に船形の岩石があること、祭神が鳥石楠船命(天鳥船命)であることなど、複数の由来が想定される。

岩船川

石船神社はこの岩船川沿いに鎮まるため、無数の岩の群れが認められるが、現地で次の3つを確認することができた。


兜石

兜石

石船神社の特徴として、拝殿の裏には本殿がない。

その代わりとして、兜石と呼ばれる岩塊が、拝殿裏に囲まれた玉垣の中に控えている。
悪神が来た時に、兜石を見せて脅かすため玉垣の中に隠したという理由が付帯されている。

岩石自体に、悪神を脅かさせる霊威があるということが読み取ることができる。
また、祭祀対象が坐す本殿に位置すること、半ば秘匿されていることなどを考えあわせると、岩石そのものに畏れを抱く石神としての性格が認められる。

祭神の鳥石楠船命が、この岩石を指すかというとそこはやや不明瞭な部分がある。
本殿なき当社において、祭神がどこに鎮まっているのかという問題は再検討されても良いだろう。

兜石の下部(玉垣の隙間から撮影)

石船神社拝殿奥。玉垣内に兜石が控える。


船形の岩石

上方より撮影。注連が巡られ神聖視は間違いない。

石の上面。真ん中の窪みに水が溜まる。

岩船川のほとりにある船形の岩石。石船の由来に相当する石なのか、調べても今一つはっきりしない。

岩石の名称もはっきりしないが、件の岩石に該当するなら「石船」なのだろう。
疑問点としては、神社の中心的な位置づけは後述する兜石なので、社名を背負う岩石として現在の位置が必ずしも中心的とは言い難いものがある。
もちろん現状の印象を記すのみであり、時期によって神社の景観や各種構造物の配置が異なっていた可能性もじゅうぶん考慮したいところ。

岩石の頂面には水溜りがある。
日照りの時、この水をすくって祈願すると雨が降るといわれ、雨乞い石としての性質を今に伝えている。


矢の根石


参道に「矢の根石」がある。

源義家が怪物に向かって矢を射たところ、この石に刺さっていたという伝説が残る。

源義家伝説において、義家は神聖視と特別視の狭間に立つ人物と言っても良いだろう。
人によって、尊敬の対象から、神格化の対象もありえたような、中間的存在だったのではないか。

そのような人物の旧跡となる矢の根石も、同様に神聖視と特別視の狭間にある事例と言える。


2020年9月20日

大甕神社の宿魂石・神籠石(茨城県日立市)


茨城県日立市大みか町
大甕神社。宿魂石の石碑が建つが、宿魂石は背後の岩石だけでなく岩山全体を指す。




上写真の左に見切れている岩石が神籠石。探訪時は注連縄もなく特定できなかった。

天津甕星が石化した事例として知られる。

高天原から降臨した武甕槌神と経津主神に対し、常陸の天津甕星、またの名を天香香背男と名乗る星神が強く抵抗した。

武甕槌神・経津主神はこれに手を焼き、文武に優れた武葉槌命を派遣することで、とうとう天津甕星を服することができた。

天津甕星は岩石に姿を変えたが、その後も、日に日に岩石が大きくなる。

そこで、武葉槌命は岩石を蹴り上げて破壊し、その上に社を建てることで、まつろわぬ星神を鎮めた。

これが大甕神社の始まりといわれ、社殿の下に鎮まる岩盤(岩山全体)を宿魂石(しゅくこんせき)と呼んでいる。


また、神籠石(しんろうせき。神篭岩とも表記)という岩石が、拝殿向かって左手前にある。落ちそうで落ちそうでないことが神秘とされたとの神社公式説明が付される。神籠石に布を打ちつけると、布が長持ちするという信仰も付帯しているという。