インタビュー掲載(2024.2.7)

2018年3月31日土曜日

子安岩(岐阜県各務原市)


岐阜県各務原市那珂琴が丘町

当地にあった土山は、「琴が丘団地」の造成によりほとんどが原型を失われた。
ただ、その最西端はまだかつての土山の樹林帯を残し、そこに子安岩が現存する。

子安岩は「土山の七名石」の1つという。
他の六石は「兜岩」「観音岩」「蛙岩」「獅子岩/神楽岩」「烏帽子岩」「玉岩」といい、土地開発の中で消失したものもあるというが、全容はまだはっきり突き止められていない。

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土山の最西端の道路から、このような入口が通じている。

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子安岩

子安岩は4個の岩石が組み合わさり、その隙間がくぐれるようになっている。自然の産物か人為によるものかは不明。

妊婦がこの穴をくぐっておくと安産になると信じられた。
現在は、大人が這いつくばって通れるほどの隙間しかないが、濃尾地震(1891年)前は立ったまま通過することができたといい、地震により上部が崩れて現在の姿に変わったという。現状と原形の景観は異なることに注意したい。

なお、子安岩に隣接して山神の石碑が安置されている。

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出典

小林義徳 『那珂町史』 龍文堂 1964年


2018年3月29日木曜日

大頭龍神社(静岡県菊川市)


静岡県菊川市加茂

神社の概要

創建は詳らかではないが、延暦11年(792年)勧請の口碑が残る。
祭神は大物主大神・大山咋大神であり、当社の旧地名は加茂村白岩字馬場と呼んだことなどから、賀茂氏・大神氏の影響色濃い神社とされている。

野本寛一氏の『石の民俗』(雄山閣出版、1975年)では、大頭龍神社の例祭が石の祭祀に関わる特殊神事であることを明らかにしており、祭祀の様子を詳述している。
本項は氏の記述から要点を紹介したい。

大頭龍神社

例祭神事の次第

例祭は現在、8月第4日曜日に行われるが、元々は11月19~20日の2日間に行われていたという。

大頭龍神社では例祭の時に、竹と紙四手でできた御幣を氏子や崇敬者が大量に供える。
最盛期(戦前という)には26000本の御幣が大頭龍神社の鎮座する山を彩り真っ白だったという話が残る。

社殿の背後には小高い丘があり、御山(おやま)と呼び神聖視している。

大頭龍神社
御山

その頂上を「御天上」と称する。
御天上は禁足地であるが、例祭の「お山のぼり」という特殊神事の時のみ、御天上に足を踏み入れ神饌と祝詞が捧げられる。

大頭龍神社

御山御門から仰いだ御天上。入口には「これより内、入山をご遠慮下さい」と掲示がある。

御天上の中心には大小6個の自然石が群集しているらしい。
大きいものでも直径30㎝、小さいものが直径15㎝ほどである。

この自然石群の背後に1本の榊があり、これらを隠すように手前に竹で作った御簾が下げられる。
さらにその四方を竹垣で囲み、完全に外部からは目視できない構造にしている。
南東隅にだけ入口を作り、これを胎内潜り門と呼ぶ。この門から中腹の境内まで竹垣で仕切られた参道があり、その距離は約25mである。
境内側には御山御門という山門がある。

19日の午後8時頃、神職者は禊の後に境内の祓所に向かう。
祓所は3m四方の区間に円状の平石を敷き詰めた敷石の祭祀場であり、その祓所の北側に祝詞石と呼ばれる平石の上で祝詞を奏上する。
祝詞石はこの例祭の時だけに使用される岩石であり、祝詞石の奥には御天上の山が控えていることから、祝詞は御天上に対して捧げられたものとされる。

20日の午前4時頃になると「お山のぼり」が始まる。
部外者は参加できず、氏子も胎内潜り門の手前までしか入れない。
神職者は御天上内部に設置された神饌棚に七十五膳の強飯や魚のイナダ、大根などを供える。
その後、自然石群の手前に玉串が奉納され、地面に神酒が注がれ、祝詞が改めて奏上される。この神事の間はずっと無灯で無言、暗闇のなか執行されるという。

大頭龍神社の現在

極めて興味深い内容の祭祀である。
野本寛一氏は御天上の自然石群を磐座と評価しており、大神氏が司った三輪山祭祀と共通する形態と位置付けている。

ただし、この自然石群が磐座と断定できるかというとそうとも言えない。
自然石群は御簾と竹垣で完全に隠されており、神が人々の前にその姿を現す磐座としての役割とは完全に合致していない。この点ではむしろ、自然石群は姿を直接拝まざるべき石神そのものとも言える。
ただし、年1回という定期的間隔で神と交信するという祭祀のあり方は磐座的である。磐座と見る人もいれば石神と見る人もいる複合的事例なのかもしれない。


このような祭祀場をぜひ見たいと思い現在の大頭龍神社を訪れたのだが、野本氏が記録していた当時の祭祀場の状態とは様子が異なっていたことを記しておかなければならない。

野本氏は社殿の東に祓所と祝詞石が位置することを『石の民俗』の中で写真と共に図示もしているが、その場所には現在、本殿とロマネスクパーク大頭龍(神社境内にあるセレモニーホール)を結ぶ渡り廊下が建設されている(前掲写真参照)。
周辺も各種の石碑などが建っていて『石の民俗』に掲載された写真の祭祀施設はおろか、その名残すら確認できない。

大頭龍神社
御山御門の基壇部分に、円状の平石が敷き詰められているが…。

上写真の丸石の基壇は祓所を多少想起させる作りではあるが、『石の民俗』の写真に載っているものとは違うものである。

さらに野本氏によれば、祝詞石はもう1つあり、これは直径1mほどの平石で元々は本殿の手前にあったが、本殿と拝殿の間に幣殿を建てた際、祝詞石の場所を幣殿の西側に移転したという。
あらゆる祝詞はこの岩石の上で奏上されたという貴重な祭祀事例であるはずが、幣殿の西側を隈なく見渡しても、このもう1つの祝詞石さえも確認できなかった。

大頭龍神社
本殿横の玉垣内を覗いたところ、無造作に横倒しされている石造物があった。

大頭龍神社
境内には石材や石造物の一部が残されている。

大頭龍神社
詳細不明

どうやら野本氏の報告から現在までの間に、かなり神社の祭祀景観は変容してしまったようだ。
色々な事情があったのだろうが、岩石祭祀の観点から述べる限りは何とも残念と言うしかない。

御天上については現在も禁足が守られており、その旨の掲示もされており、御山御門から山頂を仰ぐと竹垣に囲われた一画を認めることができる。あの竹垣の中に自然石群や榊が控えているのだろう。

出典

野本寛一 『石の民俗』 雄山閣出版 1975年

2018年3月23日金曜日

七所社の不生石・日本武尊腰掛岩(愛知県名古屋市中村区)


愛知県名古屋市中村区岩塚町字上小路7番地

 応永32年(1425年)、熱田七社を勧請したことから七所社と呼ばれる。しかし、それ以前から神祠がまつられていたと伝えられ、『延喜式神名帳』に記載された御田神社の論社でもある。一般的には尾張三大奇祭の一つである「きねこさ祭」で有名な神社である。

 境内に奈良時代初期の築造と推定される3基の古墳が存在し、地名の「岩塚」はここから由来するとされる。

 天保14年(1843年)完成の『尾張志』の記述によると、塚の一つに縦4尺(約120cm)横3尺(約90cm)の岩が立っていて、これを不生石と呼んだという。
 ただし大正12年(1923年)に描かれた七所社境内図には既に不生石の記載はなく、代わりに「コシカケ石」という岩石が塚の前に描かれている。
 これは現在「日本武尊腰掛岩」として現存しており、日本武尊が東国平定から帰還の際、渡し舟が来るまでのあいだ腰掛けた岩石と伝えられている。
 腰掛岩は縦横寸法もおおよそ120×90cmであるため、不生石は日本武尊腰掛岩と同一物だった可能性があるが、確定には至らない。

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日本武尊腰掛岩

出典

坂重吉 「七所社に遺存の古石に就いて」 『尾張の遺跡と遺物』第42号 名古屋郷土研究会 1942年 (愛知県郷土資料刊行会 『尾張の遺跡と遺物』下巻 1982年版を参考とした)

石大神(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市小岐須町

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 小岐須渓谷の山中、御幣川の南岸に高さ113mの石灰岩の岩山があり、これを石大神(しゃくだいじん)と呼んでいる。
 『延喜式』神名帳に記載される「鈴鹿郡岩神社」の論社である。

 地元の伝説では、第31代敏達天皇がここに行幸した時、岩山の上に天照大神が出現したことから、敏達天皇は神器・古鏡・勾玉などを埋納して遥拝したと言い伝えられる(祓塚というものがあるという)。
 さらにこの時、白髪の翁が御幣川で鮎を釣ってこれを伊勢神宮に捧げたことから、以後、御幣川の鮎は伊勢神宮に捧げる「御贄」になった。安政2年(1855年)の御贄神事の記録も見つかっている。

 慶長19年(1614年)、石大神から神宮の御札が降ってきて近在の人々は喜び踊ったという。

 一時期は岩山の上に祠をまつっていたというが、明治時代の神社合祀の影響で椿大神社の管理となり、今は椿大神社の別宮となっている。

 石大神の周囲は石塊の採掘が盛んに行なわれており、景観の損傷が著しい。

 石大神の性格は、3つの類型の複合と考えられる。

  • BAABA類型.岩石の上に神が降臨した磐座(敏達天皇行幸時の伝承による)
  • BAABC類型.岩石の上に置かれた祠に神宿る磐座(一時期石大神の上に祠をまつっていたことから)
  • A類型.信仰対象(岩山そのものを石大神と呼んで信仰していることから)


参考文献

鈴峰の郷土誌編さん委員会(編) 『鈴峰の郷土誌』 鈴峰公民館 1993年


新道岩陰遺跡(三重県亀山市関町)


三重県亀山市関町新所字新道

■ 遺跡の立地


当遺跡は、鈴鹿川沿いの岩陰から、古墳時代前期(4世紀)の遺物が見つかった遺跡である。
祭祀遺跡・葬送遺跡・生活遺跡などの各説が入り乱れ、遺跡の性格は特定できていない。

遺跡は東海道の宿場町で著名な関宿に近接しており、遺跡の北100mには現・東海道、南200mには古代東海道の推定ルートが存在している。
つまり、当遺跡は交通の要衝にあることが分かるが、遺跡自体は、東海道から川沿いを歩いた中にあって到達には一手間かかる。遺跡への元来の到達手段は川経由だった可能性もあり、4世紀の遺跡ということも踏まえると、古代道との関連性はいまひとつはっきりしない。

遺跡は2つの川の合流点の近くにあり、これも大きな特徴として挙げられる。
鈴鹿山脈から流れてくる鈴鹿川と、伊賀地方から流れてくる加太川の2つが合流する地点があり、その合流点から鈴鹿川を遡っていくと川が大きく湾曲する。その湾曲地点に高さ約21m・幅約30mの長大な岩崖があり、この岩崖の下に僅かに残る平坦地に遺跡が位置する。
岩崖はややオーバーハングしているため庇のようになっており、このことから当遺跡は岩陰遺跡と命名されることになった。

岩崖の前面には落盤岩が折り重なっている。この折り重なりの隙間に、人一人が何とか潜り抜けられる「くぐり穴」があり、調査報告書ではこの「くぐり穴」を使って岩崖下の平坦地に出入りしていたのではないかという可能性を指摘している。
しかし、この落盤岩の形成時期が遺跡の前か後かが判然としていないため推測の域を出ない。

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北から新道岩陰遺跡を望む。前に流れるのが鈴鹿川。

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「くぐり穴」を抜けると、目の前に岩崖と平坦地が出現する。

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遺跡の南側を高所から撮影。岩崖と落盤岩の合間に平坦地が僅かに形成されている。

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遺跡の北側。岩崖(写真左側)が若干オーバーハングしている様子が分かる。

■ 発見された遺物とは


遺物が見つかった場所は、岩陰エリアの中でも特定の一部だけに偏っている。

岩崖の直下に5個の露岩があり、その最も東側の岩石(調査報告書ではA岩と呼称)と岩崖根元の間に砂が充填されており、ここから遺物の大半が見つかった。砂の充填には人為性が認められ、遺物の散布状況に偏りや傾向は認められない。
調査報告書では特に指摘していないが、岩崖下の平坦地の中でのこの発見状況はやや特異であり、原位置というよりかは、後世の再配置・整理の可能性も考えて良いだろう。

見つかった遺物は土師器・動物遺体の2種類に大別される。
土師器は細片を含めると100点以上で、甕が大半を占め、一部に壺と想定される破片、高杯あるいは杯と想定される破片があるが少数。
甕は、考古学の世界でS字甕と通称される濃尾平野で盛行した型式が過半数を占める一方、畿内系と呼ばれる布留式の甕も一定量見つかっており、いわば東海と近畿の両地域の型式が見つかったところに大きな特徴がある。いずれの型式も4世紀の製作と推定されており、これがそのまま遺跡の使用年代の根拠となっている。

動物遺体はタヌキ・シカ・鳥類(ヤマドリもしくはキジ)・カエル・カニ(モクズガニか)・魚類(?)の骨と、貝殻が見つかった。
シカは骨組織内に土が詰まっていたことから、人為的に骨を分離したということであり、食用に供された可能性が高い。
貝殻は58点採取され、中でもハマグリ・アカニシ・フトヘナタリ・ハイガイ・アサリなどの海産性の貝類が43点(74%)を占め、地産ではなく海から持ち込まれた貝類が多いことが特徴と言える。

ほか人為的に研磨したハマグリ製貝製品(貝輪?)が1点見つかっている。

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A岩と崖の間は砂に埋まり、いまだ遺物が散布している。
上写真は誰かが表採して岩石の上に置きっぱなしにされた土器片。
ここに限らずの話だが、遺跡と歴史を守るためには「そのまま」が鉄則。
遺物が眠っていても掘り出さず、手を付けずで。これもそのままにしておいた。

■ 遺跡の性格について


調査報告書では、遺跡の性格について下記の3つを可能性として挙げている。

a.祭祀遺跡(磐座)
b.葬所(人体埋葬地)
c.生活跡(山人等の非農耕民のキャンプ地)

aは岩崖を磐座とみなすものだが、遺物が生活臭の強いもので祭祀遺物と認定できるものがないこと、および磐座の一般的な成立が5世紀と考えられることから報告書では批判的に取り上げられている。
磐座の一般的な成立が5世紀という見解は、あくまでも考古学的に確認できる磐座遺跡が現時点では奈良県三輪山・静岡県渭伊神社境内遺跡・福島県建鉾山遺跡など5世紀を遡らないことによるものであり、金科玉条の鉄則という訳ではない。

それよりも管理人は、岩石の祭祀遺跡=磐座といきなり限定させてしまう、現今の考古学の解釈が気になる。せめて、先行研究として大場磐雄博士が提示した石神・磐境あたりには最低限思考を巡らせていただきたい。
とりわけ、当遺跡は岩崖と落盤岩に囲まれた平坦地という空間的な趣きの強い場なので、磐境要素を抜きにして語ることは考えられない。

bは古墳時代の遺跡でも岩陰・洞窟などにおける人体埋葬の事例があることから可能性が挙げられているが、調査報告書では肝心の人骨が未確認であり、遺物も副葬品としては無理があるとの理由で否定的である。

cは当遺跡の遺物構成から連想される最も素直な解釈であるが、調査報告書では古墳時代にキャンプ遺跡の類例がほぼ未確認であることと、遺跡が古代交通の要衝で東海系・畿内系が混ざり、海産性の貝類が見られるといった特殊性から「なお議論を要する」という結論に落ち着いている。

管理人の考えとしては、まずbは人骨未確認であるため積極的に押すことはできない。
aは岩石祭祀の研究をしている立場としては、逆に極めて慎重に取り扱う必要があると考えている。以下に批判点を列挙しておこう。

・調査報告書が指摘する通り、土器は生活用としての甕が主体であり、祭祀供献用と類推されやすい杯タイプがほとんどない。

・動物遺体も全て食用であり、種類も雑多であり、いわゆる神饌用とみなすにはあまりにも食材のこだわり・偏りがない。

・東海系・畿内系土器の混入、海産性と淡水性の貝類の混入はいずれも流通の範囲を示すものであり、祭祀性などの意味は持ちえない。

・2つの川の合流点に近いことは興味深いが、遺跡地はあくまでも合流点から北上した鈴鹿川沿いという立地であり、また、この地点は古代道沿いではないため古代交通要衝地という性格からも外れる。

・当遺跡に到達する方法は川を渡るパターンと、崖上の斜面から降りてくるパターンが想定されるが、前者は本格的な渡河となりこのようなアクセスをとる岩石祭祀の事例は稀である。また、後者は祭祀対象である岩崖の「上」から進入するというのが祭祀の構図として珍しい。基本的には祭祀対象の「下」から人は拝する。

祭祀遺跡を完全に否定するものではなく、気になる点もあることはあるが、それよりも批判的要素の方が多く、管理人としても祭祀遺跡説は積極的にはなれない。
遺物構成を素直に受け止める限り、現段階において余計な仮定を最も省いた可能性はcになると思う。

■ その他


新道岩陰遺跡の岩陰空間の北方は崖がせり出しており、そのまま北へ歩いていくのは至難だが、北50mほど歩くとまた別個の岩陰空間がある。

ここは岩盤が真っ二つに割れてその亀裂を岩陰空間としており、いわゆる「くぐり穴」的隙間も少なくとも2ヶ所ある。ここが調査されているのかどうかは報告書からは分からないが、ここも遺跡利用されていておかしくない。

ちなみにここには丸石を積んだ石垣や切削痕を持つ岩石などがあり、後世に人の手が介入した場所である。

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遺跡の北方にある別の岩陰空間

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上から下の岩陰を覗いた様子。両端に「くぐり穴」がある。

出典


望月和光・穂積裕昌 『新道岩陰遺跡』(関町埋蔵文化財調査報告書13) 三重県鈴鹿郡関町教育委員会 2003年

那智の七石(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)



熊野那智大社・那智大滝の存在で知られる那智山には、那智の七石と呼ばれる7体の岩石がある。

鏡石・唐斗石・平石・三ツ石・降石・笈掛石・烏石の7体のうち、平石・三ツ石・降石を実見できた。
鏡石・唐斗石は場所がやや離れていたため看過。
笈掛石は熊野那智退社と青岸渡寺の間にあるというが、工事中で幕などで覆われ見つけることができなかった。
烏石は大社の拝殿奥にあり正式参拝が必要とのこと。

かつて、この那智の七石についてまとめられた文章を立命館大学の文献史料室で見かけたことがあるが、その時に熟読せず複写もしなかったため、今となっては何の文献だったか思い出すこともできない。

那智七石
平石

那智七石
三ツ石

那智七石
降石

降石の背景には那智大滝も望むことができ、隠れた美景である。

2018年3月22日木曜日

パッション62号に掲載されました

「路傍の自然石考 後」と題した文を書きました。

http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/passion/pass62.pdf

前後編に分かれて、その後編です。
前編を読まないと意味不明な文ですので、前編と併せてご覧いただければと思います。

前編
http://www.yokkaichishibunkakyoukai.com/passion/pass61.pdf

読みにくくてすみません。