2020年3月29日日曜日

笠置山の岩石信仰(京都府相楽郡笠置町)


京都府相楽郡笠置町大字笠置 笠置山

笠置山の巨岩群と弥生時代の磨製石剣について


笠置山(標高288m)には「薬師石」「文殊石」「弥勒石」「千手窟」「虚空蔵石」「胎内くぐり」「ゆるぎ石」「貝吹岩」など、高さ10m、20mを越える岩が多数存在している。
岩肌に彫られた磨崖仏を本尊とする笠置寺が建立されている。奈良時代、東大寺の僧である良弁と実忠らによって笠置寺の礎が築かれたという。鎌倉時代末、後醍醐天皇が笠置山に籠って戦火の舞台となった山としても知られる。

笠置山の巨岩群(一部)

笠置山の巨岩群(一部)

当山が山岳仏教において自然の巨岩を霊場とみなしたことは言を俟たないが、巨岩群のうち、弥勒石の前から弥生時代の有樋式磨製石剣片が見つかっている。

有樋式磨製石剣は、弥生時代の磨製石剣の中では後晩期に登場する型式で、非実用の剣とされ、一つの集落遺跡から1点~2点ほどしか出土しない傾向があるとされている。
その意味についてはここでは保留するほかないが、その有樋式磨製石剣が山中の巨岩前から見つかったこと自体は、極めて興味深い事実である。

一般的な解釈は、弥生時代から祭祀がおこなわれてきた場という考え方だろうが、弥生時代の巨石周辺の祭器埋納地については、主に青銅祭器埋納地において古代~中世以降の再埋納の痕跡が見つかっている事例もあり、事態はそう単純ではない。
古代や中世の人々にとっても、地中から出現した異形の遺物は、当時の世界観の中で宝器として再解釈された可能性にも思いを馳せないとならない。

笠置山出土の有樋式磨製石剣


薬師石・文殊石・弥勒石


笠置山の巨岩群は修行の場とされており、一周して戻ってこれるようになっている。その順番通りに従って紹介していこう。

行場に入ってすぐに出会うのが「薬師石」「文殊石」「弥勒石」の3体である。

薬師石

文殊石

文殊石上部

弥勒石

弥勒石下部

それぞれ薬師如来・文殊菩薩・弥勒菩薩に見立てられた摩崖仏であり、高さ10m~20mになるだろうか。笠置山の巨岩群の中では最も大きなグループに属する。
弥勒石は高さ約20m、幅約15mで、平滑面に弥勒菩薩を彫刻していたが、戦火により現在は光背部分が判別できる程度になっている。

弥勒石の前からは先述の磨製石剣だけではなく、平安時代の埋納経筒も見つかっている。
経筒は末法思想の流行った平安末期、世界が終っても釈迦の教えが途絶えないように、また、釈迦の入滅後現れると信じられていた弥勒仏のために、経文を地下深くに埋納するものであり、それが「弥勒」石の前から出ているというのは流石と言うほかない。

笠置石


笠置石は、天武天皇が大海人皇子時代に自らの笠を置いた石といい、笠置の名の由来となっている。
弥勒石の磨崖仏を刻んだのはこの大海人皇子だという逸話の他、一説には東大寺の僧である良弁・実忠の指導下で刻まれたものであるともいうが定かではない。

ただし、奈良県地獄谷の石仏や、高畑頭塔の石仏、さらには中国雲南省の石仏と線刻の様式が一緒であるといわれ、製作時期は奈良時代と考えられている。

笠置石?


千手窟


弥勒石からさらに奥に進むと、千手窟と呼ばれる場所にたどりつく。
巨岩と巨岩の隙間を窟に見立てた行場である。

千手窟

奈良の東大寺造営の時、必要な木材をこの辺りから調達し、笠置山の北を流れる木津川の水流を利用して奈良まで運ぶという計画があったが、日照りにより川の水量が少なく木材を運べない時があった。そこで東大寺造営に携わっていた実忠(先述)がこの千手窟で雨乞いの儀式を行ない、雨を降らせたと伝わる。

虚空蔵石


千手窟に接して虚空蔵石がそびえたつ。
弘法大師が一夜で彫った虚空蔵菩薩と伝えられ、笠置山の磨崖仏の中で最も保存状態良好な彫刻を見ることができる。

虚空蔵石



胎内くぐり


さらに進むと「胎内くぐり」が登場する。

胎内くぐり

岩石の積み重なりによってトンネル状になっており、これをくぐって身を清める。
いま天井部分に置かれているのは人工の切石だが、もともとは自然石が乗っていたといわれており、安政年間(1854~1860年)の地震で崩落したらしい。

付近には、名前は付いていないもののいくつか特徴的な岩々が見られた。ドルメン状の岩石の構造もここにある。




太鼓石


胎内くぐりの奥を進むと太鼓石がある。
叩くとポンポン鳴るから太鼓石とのこと。この命名には「物珍しさ」以上の認識は感じられない。ここも転石によってトンネル状になっている。

太鼓石


ゆるぎ石


太鼓石の次に出会うのがゆるぎ石。
名前の通り、人の力で揺れ動かすことのできる巨石とのことですが、私には揺り動かすことができなかった。
笠置山に攻め入ってきた軍勢に落石させるための石の一つだったともいわれている。

ゆるぎ石


平等石


一大岩盤が露出した場所で、この石の上からの見晴らしは随一と言って良い。

平等石

平等石の上から

平等石については全国各地の山岳霊場において同様の名称をもつ岩石があり、本来は「行道」石だった可能性がほぼ定説化している。
五来重氏『石の宗教』においても「行道岩」の一節が設けられ、「自然石を巡るという崇拝の方法があることに気付き、各所でその痕跡と可能性の存在をつきとめることができた」「いろいろの行場に『巡る宗教』の存在が確かめられる」とあるとおりである。

蟻の戸渡り


平等岩の少し先にある「蟻の戸渡り」も、岩と岩の狭い隙間をぬぐって通る場所であり、巨岩を通ることで巨岩から感得する行場なのだろう。

「蟻の戸渡り」はくぐるのに気を取られて写真未撮影。近くにあった巨岩の一つ。


貝吹岩


笠置山の巨岩行場巡りの最後に控えるのが貝吹岩である。

貝吹岩

元弘の戦い(1331年)の際、兵士たちの士気を高めるためにこの岩の上でほら貝を盛んに吹いた場所という。
しかし、修験者がこの岩の上でほら貝を吹いていたという話もあり、むしろこちらが元来のありかただろうか。
近くの京都府相楽郡加茂町の貝吹山頂上にある貝吹岩でも、僧侶をほら貝で集めた場所または修験者が行をした場所などといわれており、山岳霊場における貝吹岩の名称はこちらのほうが一般的である。

最後に


以上で行場の巨岩群の紹介を終えるが、ゆっくり見ても一周1時間ほどで巡ることができる。
笠置寺には境内に文化財収蔵庫があり公開されているので、こちらも見学しておくことをお薦めしたい。先述の磨製石剣や経筒もここに収められている。

参考文献


  • 笠置寺由緒書
  • 「蘇る巨石信仰と光の山・・・笠置山」(笠置町企画観光課発行のチラシ)
  • 現地看板
  • 五来重『石の宗教』講談社 2007年改訂版(初出は1988年角川書店版)


2020年3月24日火曜日

天座と橋谷の境にある大亀石/御座岩(京都府福知山市)


京都府福知山市大江町天座・橋谷

巨石の規模と古墳説


京都府福知山市(旧大江町)の最北部に、天座(あまざ)という集落がある。
この天座地区から隣の橋谷地区へ行くには峠をひとつ越えなければならない。この峠は、南西の天ヶ峰(標高632m)という山と、北東にある名も無き小山に挟まれた鞍部となっている。
この、北東の名も無き小山の頂上付近に「大亀石」または「御座岩」と呼ばれる巨石(以下、煩雑なので大亀石で統一する)とその周囲に大小無数の岩石が群がっている。




大亀石は、幅6.5~8m、奥行き4m、高さ2mほどの規模を誇る一枚岩である。
大亀石は古墳石室の天井石ではないかという説がある。付近の岩石群も石材の名残とみなされている。
ただ、墳丘の封土はもちろんのこと、周辺の地形に墳丘を造成した時にできる地形の削平跡なども確認できないためか、ここが古墳だったというわけではなく、近くの古墳の石材がこの場所に移されたのではないかという見方もある。

しかし、天井石にしても、突出してこれだけが大きすぎる気がする。

これを古墳とする1つの論拠に、大亀石付近から須恵器の完形品(6世紀の末頃の製作)が5点発見されているということが挙げられるが、畿内平野部の前方後円墳ならいざ知らず、丘陵上の小型円墳の横穴式石室に、これほどの巨大な天井石が使われたのだろうか。

また、大亀石の下部を観察すると、人工的な加工痕が見られる。しかし、この加工痕が古墳築造時につけられたという確証はない。後世になって石材採掘を試された痕かもしれない。


この場所に岩石群が密集している点も、丘陵頂部に位置しているから風化・浸食でこの山の岩質が露出した自然の光景とみてとることもじゅうぶんできる。
岩石群の分布は無秩序であり、自然露出の域は出ていない。

大亀石の祭祀的性格


現在、大亀石には二つの社祠が相対して建てられている。
橋谷集落側にあるのが愛宕神社で、天座集落側にあるのは御座岩神社という名でまつられている。御座岩神社の祭神は天照大神といわれている。
大亀石は天照大神の御座石で、そこから天座の地名が起こったと俗にいわれている。

御座岩神社(天座側)

愛宕神社(橋谷側)

集落と集落の境における峠近くの立地に、圧倒的な存在感をもつ巨石がある。
二つの集落は取り合いをすることなく、それぞれの集落の方向から巨石に社を添えてまつったのである。

大亀石は御座石の名をもつことから、元々は神が坐す磐座だった可能性がある。

それは立地環境の面からも積極的評価ができそうだ。
大亀石は山頂に立地しているが、それは尾根続きの小山であり、大亀石から南西方向を仰ぎ見ると、そこには約400mの比高差をもって天ヶ峰が聳え立つ。しかも、大亀石の地からはこの天ヶ峯は、北から西にかけてその山容を仰ぎ見ることができる。

つまり、大亀石は地域の最高地点という位置づけではなく、里と他界の境に鎮座するという点で、他界の神を迎える磐座にふさわしい地理的環境と言えるのである。

その神は、天ヶ峰からこの大亀石に降臨した可能性と、天照大神の信仰が大亀石祭祀時点まで遡れるなら高天原からの降臨だった可能性もあるだろう。
大亀石付近から見る天ヶ峯の山容

参考文献


  • 日本の鬼の交流博物館編『鬼力話伝』45 大江町役場 1996年


2020年3月23日月曜日

諸羽神社の琵琶石と岩坐(京都府京都市)


京都府京都市山科区四ノ宮中在地町

琵琶石



人康(さねやす)親王が琵琶を弾きながら座っていたといわれる、幅1m強の石。
人康親王は、仁明天皇(在位:833~850年)の第4皇子。若くして失明し、その後は山科で出家生活を送った。親王は文芸に秀でていたことから、同じ境遇におかれた盲人たちへ琵琶や詩歌を教えたという。

人康親王は人間であるものの、死後は崇敬の対象に高まり、琵琶法師の祖神に位置付けられるにいたった。
神格化した人康親王が、琵琶を弾いていた時に座っていたという神跡である。

かつては琵琶石の傍らに泉が湧き、石上には小石が積まれる習俗も見られたという。
これは盲人の法師らが、川原で拾った石を積んで塔として供養したものであると考えられている。

岩坐(いわくら)



琵琶石のすぐ右隣にある、高さ1.5m程の立板状の石。
琵琶石の知名度に反比例して、岩坐はどのようないわれがある岩石なのか情報不足である。

諸羽神社は貞観4年(862年)の創建で、天児屋根命、天太玉命の二柱をまつるという。山科の四の宮に位置付けられ、地名の由来ともなっている。
諸羽神社は山麓に鎮座しているので、里と山の境という点で磐座の立地としては相応しいが、この石の歴史としては、以下のような可能性が挙げられるだろうか。

  1. 諸羽神社の創建以前にさかのぼる磐座祭祀の場。
  2. 諸羽神社の創建以前からの磐座祭祀の場だが、神社創建に際して岩石を今の位置(境内奥隅)に動かした。
  3. 諸羽神社の主祭神とは別系統の神を境内にてまつった磐座。
  4. 元々、別の所で磐座として用いられていた岩石を、近隣を束ねる宮だったこの諸羽神社に遷した。
  5. 元々は別の機能・性格・用途の岩石を、後世に「岩坐」とみなしたもの。
  6. 諸羽神社創建後、神社の神聖性や歴史性を彩る目的で神聖な岩石を置こうという目的で、その種の岩石の名称として最も名が通っている「岩坐」を当てた。実際は社殿に祭神が宿っているので、岩坐とはいうものの磐座としての機能はないもの。

磐座の性質上、定期的に神を迎えるための祭礼がおこなわれる。そのような祭祀が残っているかも、上記の可能性の絞り込みには必要となってくるだろう。



参考文献

  • 藤本浩一『磐座紀行』向陽書房 1982年


2020年3月16日月曜日

山科の白石神社/白石大明神(京都府京都市)


京都府京都市山科区小山御坊ノ内町

山科区の北東部に位置する小山地区は、景勝地である音羽山の西麓に位置し、里には音羽川が流れる。

この小山地区の鎮守を白石神社という。白石大明神とも称する。
音羽山から伸びる低丘陵の南山裾に鎮座しており、まさに里と山の境にある。

白石神社入口。背後の里山は緩やかな三角形の山容。

境内に入ると、社殿よりもその右隣に社の規模をゆうに一回り二回り越える巨石が否応なく目につく。
高さ約5m、幅約8~9mの規模で、あえてたとえるなら船形をなしている。

白石神社境内

社殿脇の巨石。白石という。

白石の全景

白石神社は、大同年間(806~810年)に勧請されたとされている。
その後に出た『延喜式』神名帳に当社の記載がないのが気になる点だが、現在の白石神社の簡素な神社設備を考慮すると、当時の神社認定の条件からは外れる場所だったのかもしれない。

また祭神は「伊ざなきの命」「伊ざなみの尊」の二柱だが、巨石は1体であり、夫婦神を見出す要素はこの巨岩からは見いだせないのが気にかかる。
社伝では傍らの巨岩を白石と呼ぶことから白石神社の名があるというので、信仰の出発点にこの巨石があったことは否定しにくい。
里から山に入って、最初に目に入るのがこの巨大な白石だった。そんな立地と、巨石の存在を以て神域の形成条件が事足りていたとも言える。

巨石や巨岩を祭祀の対象とする神社において、岩石の手前に社を設けるパターン、岩石の上に社を設けるパターン、そして当社のように岩石の傍らに社を設けるパターンなど木造社殿と自然石の位置関係にはいくつかの類型が認められ、それらの違いは何に起因するものなのかという疑問点がある。
もちろんこれは、各事例における地理的制限なども加味して考えなければならない問題である。

なお、小山地区の音羽川沿いでは毎年2月9日に、藁で作った大蛇を霊木とされる松の木にかける「にのこう」という山の神の祭礼が行われている。

にのこうの藁蛇


2020年3月15日日曜日

山王神社の足跡石・座石・夫婦岩(京都府京都市)


京都府京都市右京区山ノ内宮脇町

山王神社は、滋賀県大津市日吉大社の神霊を白河天皇代にこの山ノ内の地に分祀して創建された。
山ノ内は比叡山延暦寺の寺領地であったことから、比叡山の地主神である山王神として日吉大社の分社が勧請された歴史がある。

山王神社境内の西側に「足跡石・座石」の看板が立てられ、2体の岩石が安置されている。親鸞上人が諸国行脚の折、この岩の上に座り、上人の足跡が残ったといわれる。
神や高僧の腰掛石は全国各地に見られ、その典型的な事例と言って良いだろう。


そして、社殿の前右方には「夫婦岩」の看板とともに、注連縄が巻かれた岩石が控えている。
夫婦岩は、右方の男岩(2m×2m)と左方の女岩(2m×1m)から構成され、その名のとおり陰陽の形状をなす縁結び、安産子授けの霊石である。



具体的な祭祀方法も残っているので、現地看板より以下引用する。

古説によると 両岩を撫でて子授けを祈り 両岩を左より三回廻って安産を祈る習慣がある
嬰児の初宮詣の時には神酒洗米梅干をお供えした後梅干の皮で鼻をつまみしわのよる迄長命で 鼻高出世を祈り 種は女岩中央窪みに納め 神酒を注ぎ 子孫繁栄を祈る習慣は今も伝えられている

現在こそ社殿前に置かれているが、元々は比叡山から飛んできた岩石で、本殿前にあったのが社殿造営時に現在地へ移されたという情報もある。
場所を動いても霊験は揺るがず、動産的な性質を持った霊石と言える。

2020年3月9日月曜日

衣笠山遺跡(京都府京都市)


京都府京都市北区衣笠衣笠山町

京都市北西部、立命館大学衣笠キャンパスの北にそびえる衣笠山。北には大文字山が位置し、北山と呼ばれる山々の一峰をなす。

衣笠山は標高201mで、麓からは100mほどだが、衣笠山の名は笠形ともお椀を伏せたような形や、第59代宇多天皇(在位887年~897年)が夏に衣笠山に白絹をかけて、雪山に擬したその風景を楽しんだという伝説などから由来するといわれる。

仁和寺あたりから撮影した衣笠山

衣笠山の周辺は、花山天皇~二条天皇までの平安時代の歴代天皇の葬送地となった。
衣笠山の手前には二条天皇陵、大文字山寄りには三条天皇陵、衣笠山の西奥方には堀川天皇陵・一条天皇陵・宇多天皇陵などがある。
衣笠山そのものには天皇陵が設けられていないものの、山自体が風葬などの葬送地として位置づけられている。

その衣笠山の山頂では平安時代の土器片が採集されており、衣笠山遺跡として知られている。
山頂からの景色は良く、京都市街から双ヶ丘・嵐山・松尾山なども一望できる。

山頂では、地山から岩盤が露出している。
そんなに目立つ規模ではなく、土壌に混ざって断続的に露岩が見られる程度である。
ただし一ヵ所だけ、比較的大小の岩が隆起しているところがある。

衣笠山頂上の露岩

真上から撮影

全景

一番高い岩で高さ50cmほどだろうか。かなり脆い石質なのか、小さな石礫が一帯に地表から浮いて散らばっている。このような状態なので、平安時代当時と現状の露岩状態でどれほど光景が異なっていたかは何とも言えない。
また、この露岩から少しだけ西に下った斜面に、岩盤が大きく崖状に広がっている箇所も見られた。

山頂直下西斜面の岩盤

平安時代の土器祭祀と岩石信仰をつなげることができるとしたら、この露岩や岩崖の辺りになるだろうか。
遺骸を葬り、魂を山上他界の祖霊へ昇華するための装置として、岩石はどのような役割を担ったのだろう。

なお、衣笠山の西山腹から山麓にかけては、数基からなる衣笠山古墳群(古墳時代後期の群集墳)が確認されている。
古墳時代においても葬送地としての性格は遡れるようである。

参考文献

五島邦治 1993 「広域概説 衣笠」『北区』(史料 京都の歴史 第6巻)平凡社

2020年3月8日日曜日

梅ヶ畑遺跡~自然石傍の銅鐸出土地と古代祭祀遺跡~(京都府京都市)


京都府京都市右京区梅ケ畑向ノ地町

梅ヶ畑遺跡の概要


梅ヶ畑は、京都盆地の北西部、嵯峨野地域の北部山地帯の中に位置する。
この梅ヶ畑地区の丘陵部にあったのが梅ヶ畑遺跡で、まず簡単に特徴を列挙すると次のとおりとなる。

  1. 弥生時代の銅鐸4点が、丘陵の巨岩裾の地表下から埋納されている状態で見つかった。
  2. そのすぐ近くで、古墳時代後期~終末期にかけて26基の御堂ヶ池群集墳が築造された。
  3. 丘陵頂部に高さ1.5mの岩塊があり、その南に敷石平坦部が作られ、そこと周辺の斜面から奈良時代中期(8世紀中葉)~平安時代前期(9世紀後葉)の多量の土器群、仏画線刻石製品1点が見つかった。

ひとつの丘陵において、1~3の順に、銅鐸埋納、古墳祭祀、仏教系祭祀といった、時代を越えた複合的祭祀行為が行なわれていたことは注目すべき点である。

1~3はそれぞれ祭祀の種類も目的も対象も異なっていただろうが、この一帯が特別な空間だと認識されたのには地理的な理由もあったのかもしれない。

地理的特徴の第一に「御堂ヶ池」の存在を挙げたい。
古墳時代の御堂ヶ池谷間群集墳は、この池の周りをある種囲むように築かれた。現在でこそ、池も古墳も道路・都市開発のために埋め立てられてしまったが、御堂ヶ池は往時は水の澄んだ大池だったという。

もう一つの特徴が「岩石」である。
弥生時代の銅鐸も、奈良~平安の仏教系祭祀遺物も、近くに露出していた自然石の近くから見つかっている。
銅鐸は丘陵中腹の「巨巌」(田辺昭三・佐原真氏「京都市梅が畑出土の銅鐸」1964年)の手前の地表下から見つかったと報告されている。そして、仏教系遺物は山頂に露出した岩塊を中心に、その手前に人為的に石を敷き、同心円状に遺物が散布したと報告されている。

このように、弥生時代と奈良・平安時代という両期間において、岩石が祭祀の目印的存在として用いられていることは、当時の岩石信仰を考えるにおいて示唆的な資料と言える。

梅ヶ畑遺跡の現状(現地報告)


梅ヶ畑遺跡はいずれも都市開発の途上で見つかったものであり、それがために、調査された後これらの遺跡は破壊された。

しかしそれでも、遺跡の周辺の丘陵はまだ一部生きており、山肌には露岩が残存している部分が見られるかもしれない。ここでは2004年に現地を訪れた時の状況を報告しておこう。

遺跡があった丘陵地は、山頂尾根のわずかな部分を残して、その南は宅地になっていた。西から北にかけてはゴルフ場が山を削っており、北から東にかけての山腹には、京都市の貯水池施設が広がっていた。

山頂尾根へ取りつくには、2つのルートが考えられる。

1つは、南西に広がる御堂ヶ池西山上群集墳のあたりから尾根経由で入っていく方法。しかし、入口も登山道もあったものではなく、なおかつ森がかなり鬱蒼としている。

そこで私は2つ目のルートとして、丘陵南の車道から直接、山頂尾根にアクセスした。
南の車道沿いには住宅地が広がっているが、その一区画にマンションとその駐車場が隣接する。駐車場の背後に丘陵斜面が直接つながっているので、そこから駆け上がればすぐ山頂尾根へ行ける。ここは樹木もそんなに茂っていない。
しかしもちろん駐車場へ勝手に入るわけにはいかないので、当時の管理人さんに一言断って通過の許可を得ている。現在も状況が同じかはわからず、ご注意いただきたい。

丘陵を直登すると、すぐ山腹に岩肌が帯状に広がっているのを確認できた。

丘陵南腹の岩盤

近くにある別の岩盤

この写真の岩盤は、報告書に記された銅鐸出土地点と大体同じ標高に位置している。
岩盤が帯状に伸びていたことから考えて、もしかしたらこの岩盤の東の延長線上に銅鐸出土の巨岩があったのかもしれない。
ただ、今回確認した岩盤は、麓の都市開発の際に土取りをしたところだといわれているので、原地形はとどめていない可能性が高い。したがって、今回確認した岩盤が、弥生時代の頃から露出していたかというと疑問で、土取りの際に露出した可能性も考えていいだろう。

山頂尾根にも足を踏み入れた。

山頂尾根。写真右奥に開けているのはゴルフ場。

山頂尾根は開発の手が入っていないので、山頂岩塊の調査地域を除いては、原地形をとどめていると思われる。その点を踏まえて注目したいのは、山頂尾根にはほとんど岩盤が出ていなかったという点である。
これが示すのは、自然石を伴わない地点は祭祀空間に選ばれず、とりわけ岩石が隆起していた場所において、銅鐸は埋められ、仏教系祭祀がおこなわれたという祭祀場選定の条件の可能性である。

肝心の銅鐸出土地と山頂岩塊の遺跡地点であるが、手前にバリケードがされていて立ち入ることはできなかった。
しかし少なくとも、この丘陵が岩盤の露出しやすい地質であることがわかったのは一つの収穫としたい。

バリケードによって遺跡地点に立ち入ることはできなさそう。

次に、梅ヶ畑遺跡に言及した各種文献を参考にして、本遺跡の時期ごとの性格と岩石信仰の関係について考えてみたい。

弥生時代~銅鐸出土地と巨岩巨石の関係について~


丘陵斜面の「巨巌」の地表下2mの地点において、入れ子状態になって2組状態で発見されたということが記録されている。
入れ子状態というのは、大きめの銅鐸の中に小さめの銅鐸を収納するという形で埋納していたということである。

確認されている銅鐸は、高さ20~30cm程の外縁付鈕式の銅鐸4点で、弥生時代中期初頭の製品と考えられている。いわゆる大型銅鐸ではなく、まだ鐘としての機能性が強かった段階での銅鐸と言える。

銅鐸を埋納することの意味についてはさまざまな仮説が出されており、ここでその結論を出すことは到底できない。

岩石信仰・岩石祭祀の観点から一点だけ言及するなら、巨石・巨岩の近くから銅鐸が出土する類例が複数見られることに、意味を見出すかどうかということである。

たとえば島根県教育委員会ほか編『青銅器埋納地調査報告書』(2002年)では広島県木宗山遺跡、島根県志谷奥遺跡、兵庫県和気遺跡などを巨石・巨岩近くの銅鐸埋納地の例に挙げている。
私の知る限りでは、滋賀県大岩山においても、山頂の大小の露岩群の裾から見つかっているほか、和歌山県神倉山遺跡・香川県鴨神社旧社地(明神原)遺跡なども、岩石の下から銅鐸が出土した場所として把握している。そしてもちろん梅ヶ畑も同種の類例となる。

銅鐸だけではなく、広島県大峯山遺跡は巨岩の下から銅鐸ではなく、銅剣2点と銅矛1点を出土している。島根県命主神社境内遺跡も巨石下から銅戈1点、兵庫県保久良神社境内遺跡の場合は、大小の石が集まる部分の裾から銅戈1点が見つかった。広島県質石遺跡も、岩石下から銅剣出土の事例だという。
このように、岩石に寄り添って見つかるのは銅鐸だけではなく、剣や矛など他の青銅祭器でも見られる。

一方で、銅鐸出土地における巨岩・巨石の例は特段多いというわけではなく、必須条件ではないこと、いくつかの例には中世以降の「再埋納」「加工」の跡が見られること(広島県木宗山遺跡・兵庫県和気遺跡・和歌山県神倉山遺跡)などから、銅鐸出土=弥生時代の遺跡と安直に判断できないという批判がある。

大野勝美氏『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』(1994年)は「巨石の下の銅鐸」の一節の中で上記事例の一部について批判検討し、高知県大谷権現銅鐸出土地の例などから、銅鐸が中近世に発見されて、寺社の所有物として配置を動かされたうえでまつられたものが、弥生時代当時のままの出土状況として勘違いされている恐れがあることを指摘しており、大いに気を付けないといけない視点である。
石橋茂登氏「銅鐸と寺院—出土後の扱いに関して―」(2010年)においても、奈良時代・平安時代の古文献において複数の銅鐸記事があり、それらが寺宝として新たな位置づけを担ったことが論じられている。

梅ヶ畑の場合は、入れ子状態で出土したというその埋納形態がポイントだろうか。
入れ子状態の埋納は、島根県加茂岩倉遺跡のように再埋納ではない銅鐸埋納地でも見られる弥生時代当時の埋納形態ではある。
一方で、後述するように当地は奈良・平安時代の仏教系祭祀の場でもあり、その際に巨岩下の銅鐸埋納に影響をおよぼした可能性も否定できない。

最後に、その評価はさておくとして、梅ヶ畑銅鐸出土地は山頂の岩塊ではなく、丘陵中腹の巨岩において埋納されたという立地も一言特記しておきたい。
いずれにしても、他遺跡における巨岩・巨石と青銅器埋納の関係をどう解釈するかによって、弥生時代の本遺跡の性格についても評価が変わってくるだろう。

古墳時代における梅ヶ畑の地


古墳時代の梅ヶ畑は、御堂ヶ池群集墳の存在を主とし、岩石信仰との関連はこれといって見られない。
弥生時代の銅鐸埋納を是とするか非とするかによっても見方が変わってくる。
否であればとりわけ言及することはないが、是であればすでに当地は巨岩への特別視があったという前提で古墳時代を見ないといけない。
梅ヶ畑の遺跡群には古墳が築かれず、遺跡の南の丘陵帯に古墳群が形成されたという事実がある。

鈴木敏弘氏の『和考研究』(1998年)では独自の持論が展開され、弥生時代後期に出現する墳丘墓には、地山から露出した岩盤・自然石群のすぐ近くに墳丘墓が築かれたり(岡山県女夫岩墳丘墓遺跡など)、墳丘墓自体に人為的に立石を並べる事例(岡山県楯築墳丘墓遺跡)があることから、古墳祭祀の成立には岩石祭祀(鈴木氏は磐座祭祀に限定)と密接な関連および影響があると主張している。
岐阜県瑞龍寺遺跡も、山頂の自然岩盤近くから弥生時代の埋葬主体が検出されており、こちらもその類例に属するのかもしれない。
私は鈴木氏説と意見の違うところもあるが、祖霊祭祀と岩石祭祀の併存は矛盾せず、むしろ相互に影響しあう関係であった可能性を示唆している。

奈良・平安時代の山岳祭祀遺跡としての梅ヶ畑


この時代の祭祀の様相に関しては、久世康博氏「山岳祭祀の基礎的研究-京都市右京区梅ヶ畑地区の遺跡群をめぐって-」(1998年)が参考になる。
この時代になって、丘陵山頂の岩塊の周辺から祭祀遺構・遺物が見つかるようになる。時期ごとにまとめると以下のとおりだ。


  • 奈良時代中期(8世紀中)の土器群・仏画線刻石は、山頂から西斜面にかけて散布している。
  • 平安時代初期(8世紀末~9世紀前)の土器群は、山頂から東斜面に散布している。最も出土量が多い。
  • 平安時代前期(9世紀後)の土器群は、岩塊南の整地層・敷石面から混在して分布する。


整地層の上面には焼土痕が見られ、焼土痕を南北に囲むように、直線状の柱穴列が2列検出された。
時期ごとで遺物の分布範囲が異なるという結果について、久世氏は次のように推測している。

まず、奈良時代の祭祀の性格を想定することには明言を避けているが、仏画線刻石の出土から、仏教の影響下に入ったことは明らかである。
また、山頂の岩塊という目立つモニュメントでありながらも、この時期以前の考古学的痕跡が一切見られない点を見ると、この時期までは丘陵頂部における禁足地観念が強かったのに対し、この時期以降は、山岳仏教における「山に登ることで霊力を会得する」という修行観が勝ったのだと考えられている。

そして、平安時代初期の出土遺物が最も多いことと、比較的短期間に多量の土器祭祀が行なわれたこと、時期的に平安遷都と合致することから、平安時代初期の祭祀跡は、都城守護のための祭祀行為だったのではないかと久世氏は推測する。

ただ個人的な疑問は、この時期の土器群の分布は東斜面にあるという点で、これを久世氏は東方向に祭祀が行なわれていた証だとするが、東方向に祭祀をするなら、司祭者は岩塊の手前で祭祀をする訳であって、土器を投棄する方向は岩塊を飛び越した東斜面にいくとは考えにくく、逆に司祭者よりも後ろの西斜面に投棄しそうでもある。
つまり、投棄の祭祀方向は平安京の向きと真逆の西方向の方が合致するのではないか。
といいつつ、私は土器の投棄方向と祭祀時の祭祀方向は直接関連しないと考える立場なので、その可否は本遺跡の性格自体に大きな影響をあたえない。
平安京建都に関わる祭祀だった可能性は、他に積極的な解釈ができない限りは肯定できるものである。

平安時代前期の祭祀については、久世氏は敷石遺構周辺に見られる柱穴痕や焼土痕から、修験道の護摩壇の祭祀を想定している。
護摩は、本尊の前に壇を設け、そこで火を焚きながら煩悩や邪悪なものを滅却するものだから、それなら焼土痕の説明もつく。同時期に奈良県大峰山寺境内から護摩壇遺構が検出され、それとある程度状況が類似しているということから、この解釈に異論はない。

最後に、久世氏の論文では一貫して山頂の岩塊を磐座とみなしているが、論文中に石神など他の岩石信仰への言及・検討は一切出てこないことから、おそらく久世氏は石神と磐座の区別をつけていないもの(あるいは石神信仰を看過しているもの)と思われる。

まとめ


類推や未確定内容が多いものの、簡単に整理しておく。


  • 弥生時代(中期初):丘陵中腹の巨岩において銅鐸埋納を行なった可能性。後世再埋納の可能性も他事例からありうる。
  • 古墳時代(後期~終末期):本遺跡の丘陵では古墳を築かず、南方に御堂ヶ池群集墳が盛行する。
  • 奈良時代中期:山岳仏教の影響で、山頂岩塊の前で直接祭祀を開始。
  • 平安時代初期:平安京遷都直後の都城守護祭祀か。
  • 平安時代前期:より修験道化し、岩塊前で護摩壇を設置した祭祀を行なった。
  • 10世紀以後:祭祀の痕跡が絶え、おそらく当地の祭祀空間としての性格は忘却されていったものと思われる。


弥生時代~古墳時代については、現在確認している考古資料のさらなる批判的検討の余地があるものの、奈良時代以降については、仏教における自然石祭祀の一事例として価値ある情報をふんだんに有している。
また、山頂と山腹に分かれながら、別々の岩石で異なる祭祀の痕跡が発見されているというのも貴重だ。
かえすがえすも、現在はその祭祀空間を形成していた岩石・池の景観を現地で観察することが難しいのが心惜しいことである。

北から望む梅ヶ畑遺跡の丘陵(写真中央)

参考文献


  • 石橋茂登「銅鐸と寺院—出土後の扱いに関して―」『千葉大学人文社会科学研究』21 2010年
  • 大野勝美『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』丸善名古屋出版サービスセンター1994年
  • 久世康博「山岳祭祀の基礎的研究-京都市右京区梅ヶ畑地区の遺跡群をめぐって-」『佛教史研究』No.35 1998年
  • 島根県教育委員会・島根県埋蔵文化財調査センター・島根県古代文化センター編『青銅器埋納地調査報告書』(島根県古代文化センター調査研究報告書12)島根県教育委員会 2002年
  • 鈴木敏弘『-特集-磐座祭祀から前方後円墳の誕生』(和考研究6)和考研究会 1998年
  • 高橋潔「梅ヶ畑祭祀遺跡」『京都市内遺跡立会調査概報』京都市文化市民局 1998年
  • 高橋潔「梅ヶ畑祭祀遺跡」『平成9年度京都市埋蔵文化財調査概要』京都市埋蔵文化財研究所 1999年
  • 田辺昭三・佐原真「京都市梅が畑出土の銅鐸」『日本考古学会昭和39年度大会研究発表要旨』1964年


2020年3月2日月曜日

児神社の石椅子と遍照寺山の巨岩群~広沢池周辺~(京都府京都市)


京都府京都市右京区嵯峨~山越 広沢池周辺

京都市西部に広がる嵯峨野に、古代からの人工池・広沢池がある。
その南西のほとりに児(ちご)神社が鎮座する。

児神社では、寛朝という大僧正(10世紀の人物)の侍児を祭神としている。

寛朝は、広沢池の北にそびえる遍照寺山の麓に遍照寺を創建したことでも知られているが、寛朝が昇天した後、その子は嘆き悲しみのあまり、広沢池に身を沈めてしまったと伝わる。
これを不憫に思った土地の人が、この子をまつったのが神社の始まりだという。

児神社境内には、僧正が広沢池のほとりで座禅をしていた時、その子が傍らで腰掛けていたという石椅子が残っており、聖跡化している。
いつの頃からか、寿命・安産・縁結びに霊験のある石として神聖視されるようになった。

石椅子

境内には、もう1体来歴不詳ながら、柵の中に囲われて大切そうにされている岩石がある。
七福神が供えられていることから、単なる岩石ではなく、祭祀事例の一つと考えて良いだろう。

玉垣に囲われた岩石

真上より撮影。

児神社から北を眺めると、池の背後に優美な遍照寺山がそびえている。
この南西中腹に、寛朝の坐禅石と呼ばれるものがあり、山麓からでもその姿を確認できるほどの巨岩である。

遍照寺山の頂上付近や付近の山々(長刀坂・朝原山)には、古墳時代後期の群集墳が築かれており、寛朝開山以前の当地の巨岩と祖霊信仰の関係性も気になるところである。

南方から望む遍照寺山
(冬季のため広沢池の水が抜かれている/坐禅石は西方に回ると拝める)

広沢池の東側は世界救世教が所有する庭園「平安郷」敷地内となっているが、敷地奥は遍照寺山の山裾に当たる。この谷間最奥部に、チャートの岩盤露出が大きく3か所にわたって確認されている。
周辺の古墳群(山越群集墳ほか)の石室石材と同じ石質と見られることから、採取したという痕跡は確認できないものの、石室石材の採取地のひとつではなかったかという可能性が指摘されている(立命館大学考古学研究会編『朝原山・長刀坂古墳群―京都市嵯峨野群集墳の分布・測量調査報告―』2004年)。
石材採取された岩盤かは確定ではないことから、近くにある松尾山の磐座と松尾山群集墳のように、当地も岩石信仰と古墳祭祀の関連性を考えさせられる立地関係とも言える。

遍照寺山南山裾、谷間最奥部のチャートの岩盤露頭

別の岩盤

別の岩盤

これらの岩盤群は、私がかつて山越群集墳の調査の一環で訪れた時に観察したものであるが、現在、平安郷では一般公開はされていないようなので注意されたい。