インタビュー掲載(2024.2.7)

2021年2月21日日曜日

真宮神社の列石群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市西尾


弥生墳丘墓~古墳時代の群集墳が分布する王墓山丘陵の南端に、真宮神社が鎮座する。
真宮は「しんみや」「まみや」両方の読み方が併存しているらしい。

社殿の周囲を51個の岩石が囲み、やや南北に広がる楕円の形に巡っている。





さながら環状列石内に佇む神社という表現がふさわしい。

社殿は南面しており、社殿の参道入口にあたる南側だけは、参道の石段が築かれているため列石は巡っていない。

石段が作られる前に、南側にも列石があったのかどうかは分からない。

この列石群は楕円状ながらも密に環状の配石を示し、人為的な遺構であることは疑いないが、その歴史的評価となると、解釈が難しい存在と言わざるを得ない。

周囲には真宮古墳群をはじめ王墓山の諸墳墓群が築かれているが、それをもって弥生時代の遺構と同列に扱うのは短絡的で、古墳・神社・列石のそれぞれの先後関係がわかっているわけではない。

真宮古墳群

横穴式石室の露頭の一部とされる。

慎重に述べるなら、神社と古墳と列石を安易にリンクすることは後回しにして、それぞれ別時期に造られた可能性を視野に、批判的検討がなされるべきだろう。

たとえば、神社の前身となる祭祀場がこの環状列石であり、その周りに古墳を造成したという解釈は恣意的である。

同様に、これら配石が元は古墳石材であり、墓域としての利用が終了したのち神社を創建し、その際に一種の玉垣として石材を再利用したという解釈も、対極的な意味で恣意的である。

いずれにしても、相対年代的な推定が許される資料が見つからないことには、アンタッチャブルな岩石案件として居続けるしかないだろう。

現状の景観としては、自然石をもって環状に区画した神社の玉垣事例として位置づけられる。「磐境」事例として呼ぶ向きもあるかもしれない。

この種の類例としては、他に滋賀県犬上郡多賀町の調宮神社滋賀県東近江市の船岡山徳島県三好郡東みよし町の金丸八幡神社など、数えるほどしか確認しておらず、珍しい資料と言える。

また、神社を抜きにしても、吉備地域には吉備津彦神社境内の五色島上「環状列石」、吉備の中山にかつてあったという11個の環状列石「内宮石」(現存せず)、吉備中央町(旧賀陽町)湯山の環状列石群など、時期と規模の大小の差はあるが、環状に岩石を並べる地域性のようなものが浮かび上がらなくはない。
それを「弧状」とまで言うと楯築遺跡の弧帯文石と絡めてしまいそうで、また恣意的の謗りを受けそうなのでこれまでにしておく。


境内にある石祠。下の岩石は「蛇頭岩」の名もあるらしいが、呼称の初出時期は不明。


2021年2月14日日曜日

尾針神社の「磐境の遺跡」(岡山県岡山市)


岡山県岡山市北区京山

江戸時代までは栗岡宮と呼ばれていた場所で、明治時代初頭、当社は『延喜式』神名帳記載の「備前国御野郡 尾針神社」に比定され、以後、尾針(おはり)神社を名乗るようになった。

尾針神社については他に論社もあり、栗岡宮の沿革も不明点が多いが、当地をかつて御津郡上伊福村と称し、伊福郷は尾張氏の流れを汲む伊福部氏の居住地だったと伝わることと、栗岡宮の相殿に尾針神社をまつっていたという記録もある。

そのような現尾針神社の本殿裏に「磐境の遺跡」と銘打たれた岩石群が散在している。






大小の岩石が散在しており、明確な環状配置や人為性は見出す向きもあるだろうが、そもそも岩石の状態が二次的な移動を受けている可能性を考慮していいだろう。

「遺跡」と名付けられているが、いわゆる埋蔵文化財登録はされていないようだ。
周辺一帯は上伊福西遺跡・尾針神社南遺跡として弥生時代~古墳時代の遺物包含地ではあるようだが、それをもってこの岩石群の歴史を弥生・古墳時代に直結させることは批判的に見たいと思う。

また、「磐境」の名も古記録に明記されているものではなく、おそらくここ100年の間に後世的に名付けられたものと類推される。

神社祭祀は時代により変容し、岩石の用途も単一ではない。岩石の横で祭祀が行われていたとしても、その岩石が磐座なのか磐境なのかと「鑑定」することは難しい。
尾針神社西隣の京山を始めとして周辺には古墳群も築造されており、古墳石室石材などの役割だった可能性もじゅうぶん想定される。

岩石や神社が、昔からそこに同じままの聖地として存在し続けるとは限らないことに注意しつつ、本例に関わるさらなる資料の登場を待ちたいところだ。

2021年2月7日日曜日

岩倉神社(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市日畑

足守川西岸、水田が広がる一帯のなか、丘状に盛り上がる森の中にここだけ巨岩が群集している。









1つ1つが巨大で、全体としてよく磨耗された丸っこい形状のものが多いが、スパッと割れた鋭角的な断面を持つものも所々で目立つ。

岩倉神社の北西には間宮神社から王墓山遺跡群(王墓の丘史跡公園)、楯築遺跡にいたる弥生墳丘墓の一群があり、足守川を挟んだ東岸には吉備の中山が近い。

岩倉神社の南に隣接した微高地上には、弥生時代の集落跡が検出された岩倉遺跡も存在する。

王墓山丘陵の南まではかつて内海が入り込んでいたと考えられ、岩倉神社の森は河口や岬に該当するような立地ではなかったかと推測されている。
社伝では、吉備津彦命のために船に積んでいた稲をここで下ろして献上したことから、この地を稲倉と呼び、それが岩倉に転訛したといわれているが、さすがに当地の岩倉の語源は、境内に群がる巨石を磐座に見立てて呼んだものと考えるのが妥当だろう。

巨岩群の成因については、かつて岬の岩礁だった頃の名残と見る説や、周囲の耕地開拓に伴い不要の岩石をここに集積したものが後世神聖視されたと見る説がある。

八木敏乗氏は『岡山の祭祀遺跡』(1990年)の中で以下のとおり言及している。

隣辺耕地造成に不用とされた周辺の巨石をここまで搬送集積した模様が察知される。その数、数十個におよび巨大な石が、累々と積み上げられ、水田地盤線より高さ10メートルばかり、土石をもって丘状に積み、築土の頂に盤状巨石を据え付け神石とした状況が、現地の状態などからして推考される。

もともとは稲作のために開拓されたときの土石の集積が、後世その経緯を見ずに生まれた世代からすると「偉観」となり、神聖視の対象に転じたという歴史的な重層性が考慮されている。

全国各地の平野部における巨石群集の類例を考える時にも、参考に資する考え方になるだろう。


参考文献


追記

コメント欄にて、滝おやじさんから「花崗岩類の地中風化によるコアストーン群が地表に露出し、その後に地震震動による破断を受けたもの」の説をいただきました。滝おやじさんは巨石を含めた地形観察の専門家であり、傾聴に値します。詳しくはコメント欄にてご覧ください。