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2023年4月16日

薩摩の「タノカンサァ/田のかんさぁ/田の神様」

隼人歴史民俗資料館展示の「田の神像」(写真左右)

タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。


松田誠氏「田の神さぁの祈り―霧島市のタノカンサァ―」(『霧島市の田のかんさぁ』鹿児島県霧島市教育委員会、2010年)によると、18世紀代から薩摩藩の関与のもと藩内に普及したものと考えられている。

田の神の像容は統一的ではなく、特に初期は仏像・神像・神職・僧などのバリエーションに富み、造立者の希望にある程度委ねられていたらしい。

松田氏によると、薩摩藩としては勧農の目的で田の神の造立を薦めたというが、初期のタノカンサァは造立目的も五穀豊穣などの農業関係に限らず、設置場所も田んぼだけでなく山地・平野部など一定した傾向を持たなかったとされる。

最終的には神名のあらわすとおり田の収穫を祈るための神像ばかりとなっていくが、出発地点は必ずしも田の信仰だけではなかった様子がうかがわれる。


タノカンサァは庚申などの他の信仰とも混ざって造立されているものがあり、中には陽石の輪郭にもみえることから生殖器信仰との関連で説かれることもあるという。

ただし、松田氏は「そのものズバリ」という形は認められないということから、「作為はないと見たい」と結論づけている。


冒頭に掲げた写真のとおり、タノカンサァには白く化粧を施したものと、石肌のままでまつったものがある。岩石信仰の観点からみれば、前者は岩石の物質性を第一とはしておらず、後者は岩石の視覚性が優先されている。

同様に、タノカンサァには一か所に安置するタイプと、年ごとに地区で家々を持ち回りして運びまつるタイプがある。

後者は持ち運びできるサイズということになるが、それでも持ち運ぶために小型化するというわけではなく、運搬には難儀する例が多かったという。


鹿児島県でタノカンサァのことをご教示いただいた窪壮一朗氏からは、「なぜ人々は、運搬に必ずしも適さない重い石材で、わざわざタノカンサァを作ったのか」と疑問を投げかけられた。

そこに、岩石でなければならない精神的な要因があったかもしれないが、私にはまだわからない。

運搬していた当事者の方々も、特に時代が下れば下るほど「昔からしていることだから」というところが実際のところで、言語化できていなかったことが多かったと思う。

苦労して望みをかなえること、思い通りにいかず岩石に抵抗されながら祭祀行為をおこなうというところに、岩石ならではの信仰要因は一般化できる余地はあるが、自らの家に石像を持ち込んでまつろうとした最初期の人々にしかわからない価値観かもしれない。


2022年9月4日

駒宮神社の岩石信仰(宮崎県日南市)


宮崎県日南市平山


「神武天皇少宮址」と称され、神日本磐余彦が幼い頃に居を構えた場所との由縁が伝わる。
神日本磐余彦が龍神から「龍石(たついし)」という馬を授かり、近くに「立石(たていし)」の地名が残るなど、これらは馬の名にちなむものではあるが当社には岩石の聖跡も残る。

御鉾の窟(みほこのいわや)




「神社ノ後方ニ大岩有リ。天皇後ニ宮崎ノ宮ニ向ヒ玉フ時、此ノ岩ノ下ニ御鉾ヲ納メ玉フト伝フ。旧時御神体トシテ奉祀サレシモノト傳フ。」(神社由緒記)

海岸の岩壁が、海食・風食によって窟状の窪みを発して祭祀の場となった点は、その景観も含めて紀伊熊野の花窟などを彷彿させる。

窪みに龍神の姿が見えるというが…(現地看板)

石祠の左奥に浮かび上がるのが「龍神の姿」の部分か。

他の現地看板によれば「近年ご参拝の方々からこれは陰陽石ではないかとのお声が異口同音に多く寄せられ」とのことで、丸石(銭石)が発見されたのは平成30年10月とあった。陰陽石は現代の岩石信仰と言えるが、岩壁への銭石祭祀は熊野の丸石祭祀と共通性がある。

陰陽石と目される部分。丸石の奉納も見られる。

御鉾の窟跡の手前に広がる立石群の整備。情報収集不足につき詳細不明。

草履石・駒形石

社殿がある境内からやや北の平山川沿いにある。

草履石は「神武天皇が少宮に上がる際に足を洗った場所」、駒形石は「龍石の足を洗った場所」という(産経新聞2020年12月2日付記事「ゆかりの地から見る神話の風景 第6部 四皇子誕生と神武天皇②」)。
神社境内の案内板では「天皇のお草履の跡」「龍石の足跡」ともいう。


草履石・駒形石の二つの岩石に分かれる印象を受けるが、現地の玉垣内には1体の岩石しか見受けられない。隣接する石碑にも草履石・駒形石の二名が併記される。同一の岩石を草履石・駒形石と呼んだものか。


2022年8月28日

鵜戸神宮の岩石信仰(宮崎県日南市)


宮崎県日南市宮浦


鵜戸窟(うどのいわや)/御窟/霊窟

窟の入口

窟の奥から入口に向かって撮影

窟の上部の一部

鵜戸神宮社殿

「海岸に臨んで大なる靈窟あり、是れを鵜戶窟と云ふ、即ち鷓鴣草葺不合尊降誕の地なりと云ふ。」(鵜戸神宮社務所 1942年)


御乳岩/御乳石(おちちいわ/おちちいし)


「女人産して乳の足らざるに霊験ありといふ。」(鵜戸神宮社務所 1942年)


御霊石(ごれいせき)


「この御霊石は、室町時代中頃より祀られており、鵜戸山大権現仁王護国寺の信仰のなごりと思われる。願い事は諸願成就し、国家安泰を祈祷して、霊験あらたかと伝えられている。」(現地看板)


神舡石(しんこうせき/みさねばへ)/御船岩/御舟岩

写真右の岩礁が神舡石か。

「一番北にあるのを神舡石といふ。今は御船岩といふ。」(鵜戸神宮社務所 1942年)


桝形岩/亀石/亀石桝形岩

注連縄に囲われた中に「桝形」がある。

「運玉」を投げて桝形に入れば祈願成就というが(1個入りました)

「古くより参拝者は亀石の桝形穴に向かってお金を投げ入れる風習がありました。ところが昭和二十七年頃、落ちたお金を求め崖を降り磯に出る子がいて問題となりました。賽銭に変わるものをと、鵜戸神宮共に試行錯誤した結果、昭和二十九年に粘土を丸め運の文字を刻し、素焼きにした『運玉』が誕生いたしました。」(現地看板)

かつては「観音ばへ」(鵜戸神宮社務所 1942年)とも呼ばれたものかどうか未確定。


二柱岩

現地に明確な標示がないので推定。

「五名石」の一つという。


扇ばへ/扇岩

推定(自信なし)

「五名石」の一つという。


雀ばへ/雀岩

推定(自信なし)

「五名石」の一つという。


女夫ばへ/夫婦岩

推定(自信なし)

「五名石」の一つという。


神犬石(いぬいし)



「八丁坂(本参道)から、御本殿を御守護するように見えることから神犬石と呼ばれている。」(現地看板)

神犬石近くにある丸石(上に鎌が置かれていた)


鵜戸山八丁坂の石段と階段供養塔

摩耗した石段

八丁坂の頂上を少しだけ西に下ると石碑が存在する。

「奉寄進階石供養塔」と刻まれている様子。

「石段に近づいてハッと驚いた。石段は、一段に石三つを並べる形で作られ、それがずっと上部へ続いている。その一つ一つの石が、長い間の参拝者の歩みによってみごとに摩滅し、それが前夜の雨の湿気を含んで一つ一つ鈍い光を発しているのである。三列の石の中ではどの段も真中の段が著しく減っている。いったいこの石段を何人の人が歩いてきたのだろう。そしてどんな思いを抱いて歩んだのだろう。鵜戸山には、階段供養塔がある。それには、寛政七年(一七九五)と刻まれているのだから、それ以前に、石段は供養されねばならぬほど摩耗していたのである。まさに信仰の力と言うべきか。」(野本 1982年)


不動窟/波切不動尊/波切神社

鵜戸神宮境内から片道徒歩20分とのこと。時間が足らずやむなく諦めた。

「昔はここに不動尊を安置してゐたので不動窟と呼んでゐる。」(鵜戸神宮社務所 1942年)


鵜居石/鵜ノ石(ていこいし/うのいし)

「彦火々出見尊が釣糸を垂れ給ひしところと傳へてゐる。石は鵜戸山の南北兩海岸にある。」(鵜戸神宮社務所 1942年)

鵜戸神宮社務所で授与している由緒書掲載の絵地図によれば、鵜居石は鵜戸神宮南の千畳敷の近くの海上にあり、鵜ノ石は波切神社のさらに北の海上に描かれている。両方とも未訪。


参考文献

  • 官幣大社鵜戸神宮社務所・編『鵜戸の宮居』1942年
  • 野本寛一『石と日本人』樹石社 1982年


2022年8月8日

ガンガン石(宮崎県延岡市)


宮崎県延岡市大貫町




鳥居龍蔵『上代の日向延岡』(鳥居人類学研究所 1935)において以下のとおり報告されている。

南方村野地に、ガンガン石と称するものがある。(略)天然の露出岩石の上に、数枚の巨石を置いたものである。この石は人が手で揺がすと揺ぐので、ガンガン石といはれ、巨石として祀られて居る。私はこれは巨石遺跡ではなからうかと思ひ、調査に赴いたのであった。
このガンガン石は一見自然の岩のやうに見えるが、一巨岩の上に他の巨石を積み重ねて居るからこれは人為になったものと思はれる。これを村人が古くからガンガン石と称するのは、それが揺れて音を発するから斯く云ふのであって、こは上に巨石を人為で置いてある証拠である。さればガンガン石はまさしく巨石遺跡として見るべきものである。(鳥居、1935年、p.165)

鳥居は同書において、延岡市に数多くの巨石遺跡があることを報告しており、現在も残る代表的な事例の一つとして知られる。

興味深いのは、ガンガン石の傍らに小祠があり、その中に高さ3尺4寸(約1m)の地蔵形の石像があり、鳥居はこれを筑紫国造磐井の墓で知られる岩戸山古墳の石人と類似すると指摘した。
鳥居が訪れた時は、ガンガン石の祠の後ろに円墳が存在し、その円墳に付随するものだったのではないかと推測している。

この「石人」は通称「野地の石人」と呼ばれ、現在は愛宕地蔵の名で堂内にまつられている。

ガンガン石が人為的な遺構であるか、人為的としてそれがいつの構築か、野地の石人が真に岩戸山古墳のそれと同形式か、多くのことが置き去りにされたまま存在している。


2022年7月31日

竹之原神社/石神大明神(宮崎県西臼杵郡日之影町)


宮崎県西臼杵郡日之影町七折


竹の原(竹ノ原)地区の産土神で、かつて存在した高千穂郷八十八社の一つ。

現在は竹之原神社の名だが、江戸時代までは石神大明神を称していた。

社殿の背後、丘陵頂部に高さ約3mの立石状の岩石をまつっており、これが神号の由来となった石神大明神と推定される。




当地の歴史に関する情報は僅少ながら、Facebookアカウント「日之影町の神社」さんの投稿が最も詳しいと思われるので紹介する。



石神大明神に関するポイントをまとめると次のとおり。


  • 高さは9尺(約3m)。二つの岩石からなる。
  • 石神様と呼ばれていた。
  • もともとは村の下にあったのを丘の頂上に移してまつった。
  • もともとは二つの岩石の間を通り抜けるくらいの隙間があったが、年々、岩石が大きくなり通り抜けができなくなった。
  • 石神に接して置かれた石祠の一つ「伊佐賀嶽大明神」の「伊佐賀」は、「磐境」から由来する可能性がある。


そこにあった自然石をまつらず、まつる岩石を持ってきたという伝説が類例少なく珍しい。

事実がどうであったかは未検証ながら、集落がまつりたい場所にまつるべき神体がなければ用意するということはあるだろう。高さ3mの2体の岩石を麓から上げる労を得たかどうかはわからない。

年々岩石が成長するという成長石(生長石)信仰は各地に類例多く、また、施設としての磐座ではなく信仰対象としての石神の性格をじゅうぶんに伝えるものである。

「伊佐賀嶽大明神(右)」「山神(左)」の石祠。二基の石祠の間に由来不明の丸石もある。

竹之原神社の表参道は、集落をV字に迂回するように存在。

竹の原大師堂の横から上る裏参道のほうが近い。

裏参道の小径


2022年7月23日

夜泣き石(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井

 



『神々の坐す里 高千穂の神社』(高千穂町観光協会、2007年)や『高千穂の神話と伝説』(21世紀TAKACHIHO、発行年不明)などの高千穂の観光ガイドに明記される「夜泣き石」だが、内容説明は現地看板(上画像)が最も詳しい。

夜泣き石には、石が泣くパターンと、赤ん坊の夜泣きを石が止めるパターンの2つがあるが、その両方を併せ持った事例である。


天村雲命が水を湧かせたという「天真名井」のすぐ近くにあるが、関係性は不明。

「古くは天真名井の下を流れる神代川の清流にあり」とのことなので、もともとは現在地にはなかったらしい。川の下から、川の上へ移設したということになる。


また、『神々の坐す里 高千穂の神社』(2007年)掲載の写真では、夜泣き石の周りに木製の玉垣を建てて前を注連縄でわたしているが、現況はその玉垣が見当たらず、注連縄らしき残骸が岩石の上に横たわっていた。

横を流れる川も近年護岸工事されたと思われる状態で、夜泣き石の周辺景観は落ち着かないようだ。

夜泣き石と川の現況

天真名井

天真名井の現地看板

夜泣き石と天真名井(写真右奥)の位置関係


2022年6月27日

高千穂神社の鎮石(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井

 




現地説明板によれば、「垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際用いられた鎮石」とあるが、神社を建てた時に用いた鎮石とはどのような使いかたをしたものか。

場所は離れるが、愛知県名古屋市の物部神社にも神武天皇が国の鎮めとして置いた石があり、これを要石や石神と呼んでいる。

物部神社/石神堂(愛知県名古屋市)

物部神社が建てられたのも奇しくも垂仁天皇代となっているが、礎(石据え)として、巨岩でもない単体の岩石を置くという論理は、神社鎮座の一種の作法としてある程度認知されていたことが窺える。


ならびに、

「鹿島神宮御社殿御造営の際高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」との由来も書かれているが、要石に関する歴史の中では、あまり知られている話ではない。

高千穂神社の由緒書にも他の史跡は細かく書かれているものの鎮石は記載されておらず、第三者が記した歴史記録にもまだ出会えていない。

鹿島神宮側の見解も尋ねてみたいところである。

高千穂神社境内の夫婦杉。賽銭箱の前に二個の岩石が見える。