2019年11月25日月曜日

奈良県宇陀市榛原内牧における岩石信仰の文献調査

先日、ちくま学芸文庫から再刊された筑紫申真氏の『日本の神話』(原著は1964年発表)を読みました。
そのなかで、下記の記述が目にとまりました。

「磐余のすぐ東がわには、広大な磐境の遺跡がある。高城岳を中心とする宇陀郡内牧の、神籠石とおぼしき山岳信仰の遺跡は注目に値する。」

そのような「遺跡」があるとは寡聞にして知らず、これの典拠はなんだろうと探してみました。筑紫氏も出典を書いてくれればいいのですが。

結果、竹野次郎氏著『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』(皇祖聖蹟莬田高城顕彰會、1937年)という文献を発見。図書館で探すより、古本で買ったほうが易かったので取り寄せました。


薄い冊子です。
奈良県宇陀郡内牧村は、現在の行政区分で宇陀市榛原内牧となっている場所です。

目次を開けます。



見出しに、磐境のオンパレードです。
本文を読んでいくと、磐境はストーンサークルや神籠石の用語と同じ使われかたをしていました。

「神籠石と認められ」「磐境の神籠石かと思はれる」などの記述から、磐境や神籠石という呼称はストーンサークルと同様、地元で古来から呼ばれていた名前ではなく、当時の学者が好んで使用していた学術名称のようなものと考えたほうがいいでしょう。
なお、これは学史上、神籠石論争の影響を受けたものであり、現在の研究状況では神籠石や磐境を安易に宗教上の施設名称として用いることは学問的ではないとみなされています。

さて、本書を一読しましたが、戦前の神武天皇顕彰による影響や、当時の研究水準云々から、すべてを信じることはもちろんできません。
しかし、内牧地区の数々の「磐境」や立石、岩窟が紹介されているなかで、各地の地元の伝承や小字の説明が収録されています。「だだおし」「ジョウセン岩」「玉石」など、元の名前がついている岩石も見られます。
それらの情報は「磐境」と学者に呼ばれてしまう前の本来の岩石信仰につながる記録として、もう一度陽の目をあてる必要があるのではないかと思うのです。

本書にはこのような地図も付属していました。



見にくいですが、赤字で内牧地区の旧跡が細かく注記されています。

本書収録から90年超の歳月がたちました。
はたして、これらの旧跡のうち、いくつの旧跡が残り、いくつの旧跡が失われたでしょうか。

なにぶん、磐座・巨石の愛好家の間でも、この内牧の岩石信仰事例の数々はほとんど知られていないと思います。
関連文献、webの探訪記などを見ても、精々取り上げられていて内牧地区南方の「嶽の立石」ぐらいでした。
本書収録の「磐境」たちは、それほどに、認識の外に置かれているような存在と言って差し支えないでしょう。

まずは実地踏査をする前の予備調査として、本書から抽出した岩石祭祀事例のリストとおおまかな位置を、Googleマップ上に落としてみました。
下のマップでご確認ください。



Googleマップはゼンリン地図を使用しなくなったので、地方山間部の等高線など詳細情報がなくなってしまい、明らかに後退してしまいました。

そういうこともあり、位置はすべて「だいたいこのへん」で落としただけなので当てにしすぎないでください。
実地踏査で確認出来たら、随時、正確な位置に修正する予定です。

神武天皇伝説との絡みから、冒頭で紹介した筑紫氏は「磐余のすぐ東がわ」と記していますが、マップをご覧のとおり、むしろ室生寺の西に位置するととらえたほうが適切かもしれません。

私も時機到来したら現地を訪れる予定ですが、もしすでに当地を訪れた方、これから訪れる方、内牧の岩石信仰に詳しい方がおられたら情報を何なりとお寄せください。


2019年11月24日日曜日

岩神町の岩神社(愛知県豊田市)


愛知県豊田市岩神町

岩神町は、古くは足助町大字岩神として知られた地名であり、岩神は「やがみ」と読む。

この岩神町に、岩神山大日堂と村社の若一神社がある。
その裏山に続く踏み跡を5分ほど登ると、尾根上から谷間にかけて複数の露岩が苔むして鎮座している。

「岩神社」の標示

自然の露岩のなかに石祠を建てる。神の宿りかたは如何。

石祠後ろの巨岩を信仰の中心としたことが伝わる。

岩神社 全景

傍らに献じられた石燈籠には「天保五午年」(1835年)の記年銘があり、少なくとも江戸時代からの信仰を伝えている。

岩神社は元宮とも奥の院とも呼ばれている。
若一神社にとっての元宮で、大日堂にとっての奥の院だろうか。

岩神の名は、岩そのものが神であることを示すが、その岩神の前に石祠を建てることで、神は祠に宿る構図に変容した。
また、この石祠は岩神に献じられた祭具(神の住まい)とみなすこともできるだろう。

参考文献

中根洋治 「五六 足助町岩神」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年

雨乞石/水神さん(愛知県豊田市)


愛知県豊田市近岡町小原

旧足助町内を流れる巴川の川沿いに、雨乞石とも水神さんとも呼ばれる岩石が残っている。

南から撮影。橋のたもとにあり、特別な石とわかるように2本の杭が立つ。

北から撮影。石の奥に巴川が流れる。

もともと川の中に沈んでいた岩石が、一夜の内に現在の場所に動いたものといわれ、名前の通り、雨乞いや水の神様として信仰された。

この伝説からは、岩石自体に主体的な意思が認められ、石神としての神格を感じさせる。
同時に、石神が水中から現れたという流れも伝えている。

長期にわたり雨が降らない時は、この岩石の上で神官が祝詞をあげたり、岩石を川の中に引き入れて願掛けをしたといわれる。
昭和初期まではこのような祭祀が行われたといわれる。

岩石の上に司祭者があがるという構図は、石神だけでなく磐座や司祭者の台座としての機能も融合したものと思われる。
岩石を川の中に入れるということは、この岩石は幾度か場所を行き来したと解することができ、それが道具としての使われ方なのか、石神が元いた場所へ往還することを象徴していたのか、これも複数の解釈が可能だろう。

おそらくは、長い時間の経過の中で、いろいろな人々の心理的要請が混ざり合った結果なのだと思う。

参考文献

中根洋治 「一〇五 足助町追分の雨乞石」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年

2019年11月18日月曜日

石巻山の岩石信仰(愛知県豊橋市)


愛知県豊橋市石巻町

石巻山は標高358mの山で、西麓からは三角形の山容がよく目立つ。
また、山頂からの眺望も豊橋一円を見渡せる好立地で、山頂一帯は石灰岩の岩峰が屹立しており低山らしからぬ奇観をなす。

石巻山
石巻山頂上の石灰岩群

石巻山と三河本宮山(標高789m)の間には、背比べ伝説が言い伝えられている。
石巻山と本宮山がお互いに、自分の方が山が高いと言い張り喧嘩になった。決着をつけるために山と山の間に樋を横渡しし、水を流して流れ落ちた方が山が低いので負けということになった。結果、石巻山の方に水が流れてきたので石巻山が負けた。
石巻山は悔しがり、もし石巻山に登る人が小石を持ってきたら、疲れることなく登れるようにするばかりか、小石を山に置いていき山を高くしてくれたら願いごとを叶えると述べた。逆に、石巻山から石を持って帰ると頭痛など祟りに遭うようにもなった。

山の神の相反する性格が込められた民話だが、山腹に延喜式内社である石巻神社上社(奥宮)、山裾に石巻神社下社がまつられており、古代からの聖山だったことを証明している。

大場磐雄氏が昭和19年11月4日、石巻山を訪れてその時の貴重な記録を残しているので以下に引用したい(森貞次郎解説『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 1977年)

先ず不動岩に出で、清水を掬し、更に磊々たる巨巌の起伏するを通過し、姥の足跡爪跡と称する辺を見、風穴を一見し頂上に至る、この辺一帯は石灰岩の露頭にて特に最頂は三つの尖れる大巨巌聳立せり。西より数えて天狗岩、雄岩、雌岩と名づく。天狗岩最も大なり。その最頂端によぢ登れば四辺を見通して眺望よろし。雨乞の際は雌岩上に材木を積み、火を焚き雄岩上にて祭祀を行うなりという。なお聞く所によれば石巻山の中腹に腰巻岩と称する巨巌囲繞して露出せりという。即ち石巻神社の起れる所以とす。

不動岩、山頂の祭祀、腰巻岩の話などはあまり知られていないように思える。
これら、石巻山の岩石信仰について現地の写真とともに紹介していこう。

石巻山中腹に広がる岩盤


奥の院


石巻神社上社から5~10分ほどさらに山を登ると「奥の院」と呼ばれる場所がある。

ここには広大な石灰岩が岩崖のごとく広がっており、その裾部に「このしろ池」という湧水がある。岩崖に寄り添うように不動尊・竜神社・天狗社の3つの祠がまつられており、これを総称して奥の院と呼んでいるようだ。

写真右奥が不動尊。写真左下の岩陰にこのしろ池がある。

不動尊と背後の岩崖

天狗社

石巻山は山麓から山腹まで緑色岩、山腹から山頂までが石灰岩で構成されているが、奥の院の岩崖がちょうど石灰岩と緑色岩の境目とされる。

さて、この奥の院の岩崖が、大場氏の書き残した不動岩ではないか。
大場氏は、奥宮の次にこの不動岩を記し、そこで清水を掬ったとある。奥の院には不動尊の堂もあり、不動尊の岩崖を不動岩と呼んだ可能性が高い。


石巻の蛇穴


直径60㎝ほどの岩穴が開いており、奥行は約13mという。
神の使いである大蛇が住んでいた岩穴と伝えられ、風化と水食によって形成された穴である。
大場氏が記した「風穴」に当たるだろう。



ダイダラボッチの足跡


ダイダラボッチは、石巻山と三河本宮山に足をかけて小便をして、それが県内を流れる豊川になったという伝説がある。
その時、片足をかけた足跡とされるものが岩盤に残っている。実際はこれも水食による形成と考えられている。
興味深いのは、大場氏探訪時にはどうやらこれが「姥の足跡爪跡」のようだったこと。当時と現代の微妙な揺らぎを感じる。



上天狗・下天狗


山頂近くに2つの露岩があり、東側に上天狗の石碑、西側に下天狗の石碑が露岩上に立てられている。
石巻山にいた天狗伝説に基づくもので、奥の院にある天狗社との関係深い旧跡と推測されるが、大場氏はこの上天狗・下天狗について何も記していない。

下天狗(左)と上天狗(右)

山頂


山頂は雌岩・雄岩・天狗岩の3つの岩峰から構成される。
背比べ伝説では、石巻山に水が流れ込んできた際、山頂の土が洗い流されたためにこれらの岩峰が露出する形になったのだと説明されている。

雄岩に取りつく梯子

梯子を登りきると雄岩に出る(頂上部)

天狗岩(雄岩とは崖状の亀裂で隔てられていて行くことができない)


麓の眺望

雌岩が一番東側、雄岩が真ん中、天狗岩が一番西側で、通常、登山道として登ることができるのは真ん中の雄岩だけである。
他の2つは本格的な岩壁登攀をしないと上に行けないが、石巻山は信仰の山で国指定天然記念物でもあるため、ボルトなどを打ちつけたりするなどロッククライミングは禁止されている。
そんな難岩場たる雌岩に、かつて材木を積んで火焚きする祭祀があったと大場氏が書き残している。
また、雄岩の南面には弘法窟(上人洞)と呼ばれる穴があり、弘法大師が修行をしていた場所なのだというが、どうやって行くのか道の取りつきがわからなかった。


以上、さまざまな岩石信仰の場を紹介したが、総じて修験道の影響下にある行場として各種岩場が神聖視されていたことは明らかと言えるだろう。
さらにその基層には、延喜式内社の石巻神社の祭祀が控えている。一点注目したいのは、石巻神社は麓の下社と山腹の上社に分かれている点。下社と上社のどちらが先でどちらが後なのか(ないしは同時なのか)は不明だが、山頂の巨岩群の存在も考え合わせると、この山では修験道以前から、ある程度山の中に入ったうえで祭祀がおこなわれていた可能性を指摘できる。
神体山=禁足地という通念への一つのアンチテーゼとしてとらえたい場所である。


「磐座の森」(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市山岡町馬場山田

2004年に恵那市に合併された旧・山岡町には、多くの奇岩怪石があるということで巨石・磐座愛好者の間ではよく知られていた。

地元でもこれらは何なのかと研究会が発足され、全国各地からも愛好者が注目し始めたことから、1999年にはイワクラサミットin山岡が開催された。
これは以後現在まで継続して開催されているイワクラサミットの第1回目であり、イワクラ(磐座)学会が結成される原動力にもなった記念碑的な出来事とも言えるだろう。

サミットにあわせ、山岡町も町おこしを兼ねて町内各地にある巨石群の整備などを行なった。
そのシンボル的存在とも言えるのが「磐座の森」であり、山中の谷間から尾根上にかけて露出する奇岩怪石を「太古の磐座」とみなしたものである。

現地には多くの岩石に名前が付けられているが、歴史学的な側面からの研究に欠けており、考古資料、古文献記録、民俗儀礼の存在をまったく聞かないのが難点である。
また、市町村合併もあってか現在に至るまでの継続的な調査が途絶えているため、これらの岩石群が歴史的価値を持つものなのかどうかは保留せざるをえない。

「磐座の森」案内図。遊歩道入口→出口の順(反時計回り)に紹介していこう。


■ 大目玉石/大岩目玉石

目玉のような凹凸があるとして命名された岩石。岩石の上面を見たが凹凸は微妙な具合。



■ ストーンシート/神座(その1)

祭祀の座と目されて命名された岩石。



■ ストーンシート/神座(その2)

その1と同じく、祭祀の座と目されて命名された岩石。



■ 祭壇石

祭祀の座と目されて命名された岩石。特定できず。


■ 栗石

単体の巨石。名前の付け方が他と異なるため何らかの由来がありそうだが、情報収集不足につき不明。



■ 狛犬形岩偶

狛犬のような岩偶ということで命名された岩石。特定できず。


■ 石舞台

まるで古墳の石室のような構造を見せることから命名された岩石。



■ 目玉石

目玉のような凹凸があるとして命名された岩石。こちらも凹凸は明瞭でない。



■ 磐座/神座

祭祀の座と目されて命名された岩石。特定できず。


■ 大岩御神体石

斜面上に単独で屹立する大岩。その存在感から命名されたと思われる岩石。



■ メンヒル

岩石の柱状の様子から命名された岩石。



■ ドルメン

机状・鳥居状の構造を見せることから命名された岩石。本例の場合は亀裂によるものと推測される。



■ 人工文様石

人工風の文様があるらしいことから命名された岩石。特定できず。


■ 御神体石

その雰囲気から命名されたと思われる岩石。特定できず。


■ メンヒル

柱状の様子から命名された岩石。下に紹介した賈鳴石に隣接している。


■ 賈鳴石/組石遺構

積石のような構造物。名称の由来は情報収集不足につき不明。

賈鳴石。写真右奥が上で紹介したメンヒル。


■ 天の岩戸

岩門のような構造を見せることから命名された岩石。




そのほか、山岡町内には以下の巨石群の存在が報告されている。未訪のため名前と住所のみ記載する(現地には一切案内がなく、存在を知る案内人に連れていってもらわないと到達は困難と思われる)。

・雨洗美巨石群(岐阜県恵那市山岡町雨洗美) 環状に取り巻く巨石群や杯状穴があるという。
・源太洞巨石群(岐阜県恵那市山岡町源太洞) 石段や石門を思わせる構造物があるという。
・大久手渓谷(岐阜県恵那市山岡町大久手) 渓谷の巨石群。景勝。
・別荘巨石群(岐阜県恵那市山岡町別荘) ピラミッド形の巨石があるという。
・野田巨石群(岐阜県恵那市山岡町野田) 岩偶のような巨石があるという。
・奥小屋巨石群(岐阜県恵那市山岡町奥小屋) 文様のようなものを持つ巨石があるという。
・石戸神殿巨石群(岐阜県恵那市山岡町石戸) 神殿のような石組構造や石段を持つという。


2019年11月10日日曜日

山神遺跡/鍛冶屋の山の神(三重県伊賀市)


三重県伊賀市鍛冶屋猪ノ坂3891



場所は、青蓮寺用水の東にこんもりと繁る標高222.9mの丘陵上にある。


麓からは比高差30mほどである。

丘の頂上から南へ斜面が傾斜しだす位置に、1体の巨石を中心にして、その周辺に小ぶりの岩石群が不規則ながらやや弧状に散在している。




中心となる巨石は、元は同じ岩塊だったと思われるものが2つに割れていて、それとは別で、まるで巨石を立てたかのように別の岩塊が当てられている。人為性の有無は、これでも何とも言えない。



また、中心の巨石の岩肌には、岩脈のような帯状の線がうっすらと見えている。


さて、巨石の北に接して、まつり場が残っている。
巨石の北は頂上側なので、巨石を斜面の下からまつるのではなく、斜面の上からまつるのが興味深い。


巨石に接する三本の幹は枯死しているが、根はそのまま残されている。


写真では祭祀場は荒れているように見えるが、現役の祭祀場である。
その証拠に巨石群の南端には、当地で色濃い山の神信仰の祭祀具「カギヒキ(鍵引き)」が残されている。


この巨石は「山の神」と呼ばれ、古墳時代の祭祀遺跡ではないかとされている。

この遺跡の存在は、kokoroさんのブログ「神社の世紀」の記事「山神遺跡の磐座」で知った。
kokoroさんは『三重県上野市遺跡地図』(1992年)でその存在を知ったというが、同地図が近くに蔵書されていないので、代わりに『三重県遺跡地図』(三重県教育委員会、1970年)を開けたところ、ほぼ同じ記述に出会った。
三重県遺跡地図のほうが出版年が古く、こちらが出典元となりそうだ。1970年当時にはすでに遺跡として指定されていたことがわかる。
下に記述を引用しよう。


  • 遺跡名 山神遺跡
  • 所在地 鍛冶屋猪ノ坂3891
  • 県遺跡番号 4070
  • 市町村遺跡番号 244
  • 種別 遺物包含地
  • 時代 古墳時代
  • 規模・現状・遺構 巨石の山の神の前面から、皿形土器が出る
  • 出土遺物 土師器片


山神遺跡のよみがなは記載されていないが、遺跡名にとらわれず本来の岩石の名称としては「山の神」で良いだろう。

巨石の前面から土器が出たとある。
前面は、現在の祭祀方向の北側なのか、それとも斜面下方向なのかはわからない。
古墳時代の遺物ということであるが、皿形土器が出て出土遺物として土師器片とあるので、皿形土器=土師器片の可能性が高い。

状況からみて、発掘による出土ではなく、表面採集による発見と思われる。
図面、出土点数、現在の保管者など詳細情報は未記載。
つまり、この皿形の土師器片がどのような破片かわからず、批判的に見るならばこの土師器片が古墳時代と推定した根拠には欠けると言わざるを得ない。
土師器とは素焼き土器であり、中近世に下る製作物もあるので、編年的特徴が明確でない限りは、この年代特定をやすやすと信じられないものがある。

"古墳時代の磐座祭祀遺跡"……。

巨石祭祀がすべて磐座ということはないし、土器の破片1点をもって祭祀用の土器とまで言いきるのも危ない。表面採集の土器であれば、土器の製作年代=岩石の祭祀年代とも限らない。
このように、自分の価値観に都合のいい情報がそろっているときほど、批判的に見る部分はないか逡巡したい。

一応付記すると、『三重県埋蔵文化財センター年報』7(三重県埋蔵文化財センター、1996年)p.56に、山神遺跡の追加情報と思しきものが僅かながらある。
農業集落排水事業の一環で「上野市菖蒲池 山神遺跡」の工事立会があり、結果は「遺構・遺物なし」とのことである。
上野市菖蒲池は現・伊賀市菖蒲池で山神遺跡のすぐ西の字である。
厳密には山神遺跡は菖蒲池ではなく字鍛冶屋の端に立地するのだが、遺跡番号が244と書いてあり三重県遺跡地図のそれと一緒なので、同じ遺跡のことを指すと思われる。

山の神の巨石は丘頂上にあり今も開発されていない山林中にあるので、巨石に接して工事立会をしたとは限らず、遺跡包含地として指定されているエリア内のどこかで工事して遺構・遺物が検出されなかったのかもしれない。

それでも、追加調査ともいえる1996年の工事立会で、地中から特に遺構は見つからなかったという事実を踏まえるなら、本遺跡を群馬県西大室丸山遺跡静岡県渭伊神社境内遺跡のような、発掘調査で古墳時代の遺物・遺構が地中から出土した遺跡群と同列に並べることはまだ避けたほうが良いだろう。


2019年11月3日日曜日

春日大社と御蓋山の岩石信仰(奈良県奈良市)


奈良県奈良市春日野町 春日大社・御蓋山一帯

春日大社の岩石信仰については、大場磐雄氏が「日本に於ける石信仰の考古学的考察」(『國學院大學日本文化研究所紀要』第八輯、1961年)において、南門前に存在する赤童子出現石を神の降臨する磐座と報告しており、これが昭和から平成のある時期まではもっとも有名な存在だった。

しかし、近年では春日神社本殿の磐座の公開など、ほかにも岩石信仰の事例と類推される場所があり、それは春日大社裏山の御蓋山(みかさやま)の山中にもおよぶ。
そのいくつかは禁足地のため、全貌は不明な点が多いが、今まで収集した情報をここに整理しておこう。

赤童子出現石/若宮出現石/額塚


南門の手前に、柵で囲われた小石がある。



大きく分けて2種類の伝説が付帯している。
1つは、赤童子(境内摂社の若宮神社の祭神とされる)が降臨した磐座という説で「赤童子出現石」「若宮出現石」の名の由来となる。
もう1つは、宝亀3年(772年)の雷火によって落下した社額を埋納した塚という説があり、「額塚」の名の由来となる。

大きさこそ小規模だが、磐座の事例としても比較的著名なものとして知られ、僅かな露頭という形態も茨城県鹿島神宮の要石などの小型磐座事例群を想起させる。

水谷神社の二つの石


春日大社境内の北側に、摂社の水谷(みずや)神社が鎮座する。

大場磐雄氏の『楽石雑筆』巻四十一によると、昭和37年10月28に大場氏は水谷神社を訪れ、以下の記述を残している。

水谷神社(摂社)にゆき、本殿下の陽石を見る、これは同社境外(道を隔てて)に存する陰石と相対するものにてその形状出現石に類し、同じく石灰を以て塗れり。
(茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会、2016年)

水谷神社の本殿下と、道を隔てたところに二つの石があり、大場氏はそれを陰石と陰石に見立てている。
その見立てが正しいかは批判的に見たほうがいいが、現在はその陰石のほうを「子授石」と名付けてまつっている。



今は子宝の霊験を有する神石と信じられており、岩石の形状を女陰に擬したものであることに疑いはない。
岩石は石壇の一部に組み込まれていて元来どのような出自を持つのかは不明である。

一方、水谷神社の本殿の土台基礎部分に注目すると、井桁に組んだ土台の中央部に、木材に半ば押しつぶされているかのような岩塊が確認できる。


大場氏が「石灰を以て塗れり」と記したように、漆喰で塗り固められている。
全国各地にも類を見ない「特異」な岩石信仰のありかただが、数少ない類例が後述する春日大社の本殿玉垣内にある。
漆喰で塗り固めるという共通項は、そのままこの二者が同一の意図をもって認知された存在だったことを示している。

石荒神社


春日大社の境外末社。
若草山の南東裾、若草山の入山ゲート(有料区域)内にあり、野上神社と隣り合って石荒(いしこう)神社が鎮座している。
野上神社は祠を有するが、石荒神社は祠を持たず岩石をそのまま神社としてまつる場である。
祭神は火産霊神で、春日大社の式年造替の折には荒神祓之儀が執行され、神職の身を清める場という。

写真左が石荒神社。右は野上神社。背後は若草山。



御蓋山の石敷遺構(禁足地)


御蓋山は春日大社の背後にそびえる春日山の別称で、標高297mを測る。
春日大社から神山として聖域視されているため、現在は禁足地に指定されている。

この御蓋山には、山頂から山腹にかけて広大な規模の「石敷」の存在が報告されている。
禁足地ではあるが、石敷の分布状況が、春日顕彰会『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』(1979年)で図化されている。

春日大社祭祀遺跡分布図(春日顕彰会『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』1979年に所収)

上の図をご覧いただきたい。
御蓋山南麓に鎮座する紀伊神社(春日大社境内摂社)の辺りから、御蓋山の山頂やや東を経由して、北麓の水谷川(吉城川)付近にかけてまで、石敷の分布が網掛け表示で図化されているのがわかるだろうか。
等高線を追う限り、複数の尾根と谷間を横断する石敷である。

三宅和朗氏『古代の神社と祭り』(吉川弘文館、2001年)によれば、石敷とは別に、山中3ヶ所に広場のような場所もあるといい、石敷に用いられた岩石も花崗岩以外は御蓋山で採れない石種であることから、これは人工的な遺構であり磐境の一種ではないかと述べている。
春日大社国宝殿内にも、御蓋山に「石敷の道」を描画した絵が展示されている。

かつて、この石敷を実際に見たという方から情報をいただいたことがある。
その方によると、石敷は図化された北斜面・南斜面だけではなく、西斜面にも石敷が残っているという。

写真も見させていただいたが、確かに、列状に無数の石が続いている。
第一印象は奈良県山添村の鍋倉渓に近いが、御蓋山の石敷は鍋倉渓の石よりも1個1個が一回り小さい。また、鍋倉渓はその名のとおり渓流(谷間)に落ち集まった自然の景観だが、御蓋山の石敷は谷間だけでなく尾根にも分布しており、自然の石の流れに反している。
以上の点からも、御蓋山の石敷は人為遺構という説に賛同できる。

人為の造作であるなら、なんと壮大な規模だろうか。

いわゆる、山の等高線に沿って囲繞するタイプの磐境ではないのも特異である。
この種の類例を他に求めるなら、三重県南伊勢町の龍仙山の神籠石が頭に浮かぶ。龍仙山も、山の頂上から麓にかけて石の列が見られる。
しかし、龍仙山の石は御蓋山の石より一回り大きく、また、石は立石状のものもあり石の大きさもあまり一定していない。また、石の敷詰め具合も粗いところがあり、この点が御蓋山とは異なる。

御蓋山の石敷は、やや小ぶりのゴロ石を敷き詰めた感があり、1個1個の岩石の大きさも差はあるものの、ある程度大きさを揃えているような向きがある。
「石敷の道」とはいうが、人がこの上を歩くにはやや歩きにくそうである。ならば、神が歩く道なのか。それとも、道ではなく境を示すものなのか。いわゆる文献上の記録というものはないらしく、謎に包まれた存在である。

考古学的資料として、御蓋山から見つかった複数の経塚関係遺物がある。
前掲書『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』によると、青銅製・瓦質の経筒、石製・陶製・瓦質の経筒外容器、仏が線刻された穿孔つきの和鏡(懸仏としたものか)、北宋銭などが御蓋山頂上の本宮神社に接して採集されている。
同書によれば、出土遺物を通観するかぎり吉野金峯山経塚・伊勢朝熊山経塚・紀伊那智山経塚・比叡山如法堂地経塚と類似していると記す。
北宋銭は11~12世紀の鋳造だが、日本に伝世したことを踏まえれば鎌倉時代の埋納経塚と推測されるだろうか。

以上のことから御蓋山頂に経塚が築かれたことは明らかだが、石敷遺構が経塚と同時期の産物という証拠にはならない。
より一層の多方面からの研究が求められる岩石祭祀事例と言える。


春日大社の他の岩石祭祀事例


前掲『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』には、もうひとつ注目すべき情報がある。

春日大社祭祀遺跡分布図を見ると、春日大社から御蓋山にかけて複数の地点に「×」印が打たれている。
凡例を見ると「×」印は「磐座」を指す。

私が数えたところでは、地図中の「×」印は次のとおりである。

御蓋山…山頂本宮神社南東に2か所
春日大社周辺…10か所

合計12か所の「磐座」を数える。
すべてが本来の意味での「磐座」と認めるのは尚早で、いわゆる「神聖な岩石」という意味合いでの名称として把握しておきたい。

この12か所のなかには、先述した水谷神社や赤童子出現石、石荒神社の例も含まれているが、私がまだ見ていないものも多い。

そのうちの一つは、2015年に特別公開された本殿玉垣内の「大宮磐座」である。

謎の磐座が初公開!『国宝御本殿特別公開』春日大社「第六十次式年造替特別公開」 | 奈良県 | LINEトラベルjp 旅行ガイド

漆喰で塗り固められた岩石で、かつ、社殿に接して切り合うように存在しているという2点が、水谷神社の本殿下の岩石と共通している。

また春日大社を訪れる機会に、今回の記録まとめを元にひとつひとつの岩石を拝見したいと思う。