2022年6月27日月曜日

高千穂神社の鎮石(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井

 




現地説明板によれば、「垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際用いられた鎮石」とあるが、神社を建てた時に用いた鎮石とはどのような使いかたをしたものか。

場所は離れるが、愛知県名古屋市の物部神社にも神武天皇が国の鎮めとして置いた石があり、これを要石や石神と呼んでいる。

物部神社/石神堂(愛知県名古屋市)

物部神社が建てられたのも奇しくも垂仁天皇代となっているが、礎(石据え)として、巨岩でもない単体の岩石を置くという論理は、神社鎮座の一種の作法としてある程度認知されていたことが窺える。


ならびに、

「鹿島神宮御社殿御造営の際高千穂宮より鎮石が贈られ同宮神域に要石として現存しています」との由来も書かれているが、要石に関する歴史の中では、あまり知られている話ではない。

高千穂神社の由緒書にも他の史跡は細かく書かれているものの鎮石は記載されておらず、第三者が記した歴史記録にもまだ出会えていない。

鹿島神宮側の見解も尋ねてみたいところである。

高千穂神社境内の夫婦杉。賽銭箱の前に二個の岩石が見える。


2022年6月20日月曜日

高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井


鬼の窟/鬼の岩屋

鬼の窟 五ヶ瀬川の東岸にあり、奇巖筍の如く相並び、河中に突出するもの九つ、其間に深谷八、其中部に一窟あり蘭郷と稱す、上古鬼八と云ふ者の住みし処なりと云ひ傳ふ(日吉 1899年)
高千穂峡は、鬼八と呼ばれた鬼の棲む伝説地として知られる。

前掲文にある「蘭郷」は現「あららぎの里」のことであり、今も茶屋や駐車場の地名としてその名を残す。

現地には「神橋」があり、そこにも「鬼の岩屋」の説明板が立つが、神橋の建つ場所自体が鬼の窟というわけではない。
神橋から北を望んだ、五ヶ瀬川の東岸のどこかに窟があるらしい。九つ突出する岩峰のうち、六つ目の峰の傍らに窟が存在するという情報もある(甲斐 1917年)。

※高千穂神社から神橋にいたる高千穂峡自然遊歩道から鬼の窟へたどり着けたらしいが、それを明記するwebページがなく現在は行けるのかどうかわからない。

五ヶ瀬川と神橋(写真中央上)。その奥に鬼の窟があるという。

神硯の岩


「新橋を渡りて右に十間余なる岩硯の如くなる有り。何共名あらず予硯石を名付けて可也といひし」(高山彦九朗1792年7月17日『筑紫日誌』。現地看板より引用)
この説明によれば、寛政4年(1792年)に高山彦九朗が「硯石」と名付けたということになる。
それ以前には何らの名もなかったとあるが、神硯(みすずり)の名を帯びてからは神代につながる名跡として信じられる手合いもあったのではないかと思われる。

仙人の屏風岩


高さ70mといわれ、その屏風状の岩肌から名付けられた名称とみて良い。
「仙人」の詳細はわからず、高千穂の神仙にかかわるものか、一般的イメージに基づく後世の付会か。

鬼八の力石/鬼の投石


鬼八の力石(写真下手前)と屏風岩(写真上奥)
鬼の投石 鬼の力石と稱するもの、泰然として坐せり。 彼岸より鬼の投たるものと云ひ傳ふ。(甲斐 1917年)
前掲文では、見出しが「鬼の投石」で本文中が「鬼の力石」で表記の揺らぎがある(近代文献にはよくある)。さらに現在は「鬼八の」力石の名が通っている。
先述の鬼八が、高千穂神社祭神の三毛入野命と戦った時に投げた石ともいう。

酒の泉

七つが池對岸の岩壁に酒の泉なるものあり。黃水浦出し、神代の酒の泉なりと傳ふ。今に綠靑色の跡を殘せり。(甲斐 1917年)
現地看板には、七つヶ池の岩のうねりに泉酒が出るとある。
現地の池は草木が繁茂し、前掲文に記された緑青色の跡を確認できなかった。

月形・日形


斷岸絕壁、空を蔽ふが如き懸崖あり。遙かに靑天を仰ぎ見る處に、左右稍隔りて月形日形あり。左方を月形とし右を日形と云ふ。自然の奇岩實に奇とすべし。故事に傳へなし。(甲斐 1917年)
1917年の文献には「故事に伝えなし」とわざわざ付記されているが、現在の説明板には、下画像のとおり素戔嗚尊が天照大神への詫び誓約の跡であるとした「伝説」が書かれており齟齬がある。

現地看板の「伝説」

参考文献に挙げた1899年の文献にも上記のような伝説は記されておらず、ただ月形日形と呼ばれることが書かれるだけである。
1917年~1945年の間に神跡顕彰の動きが進んだとしたら、その期間に「伝説の創造」がおこなわれた可能性もある。

月形日形が描かれたという江戸時代の絵図は、下記事によると樋口種実が文久3年(1863年)に記した『高千穂庄神跡明細記』にあるらしい。

関口泰著『高千穂峰』(1940年)に『高千穂庄神跡明細記』が付録としてついているので確認したところ、月形日形の項目には「故事は傳へなし」の一文があった。
江戸後期の国学者がまとめた神跡において故事がないのであるなら、やはり伝説は新たに付加された可能性が高い。

参考文献

  • 日吉昇(編)『日州名所案内』私家版 1899年
  • 甲斐勝美『日向高千穂旧跡勝地案内』奈須機先堂 1917年
  • 関口泰『高千穂峰』社会及国家編輯部 1940年


2022年6月12日日曜日

日本の岩石信仰と海外の岩石信仰の違いとは?

6月6日(月)放送のテレビ番組「ニッポン視察団」に、岩石信仰の関連でコメント出演しました。

最新!外国人が選ぶ「鎌倉・江の島の名所名物ベスト20」3時間SP
https://www.tv-asahi.co.jp/shisatsudan/backnumber/2022/0111/


19位の葛原岡神社にある「縁結び石」の特集に関して、岩石信仰の簡易な解説をいたしました。

岩石信仰のイメージ画像も4か所流れました。

  1. 二見興玉神社の夫婦岩(三重県伊勢市)
  2. 玉比咩神社の玉石(岡山県玉野市)
  3. 岩崎山の五枚岩(愛知県小牧市)
  4. 雁峯山の石座石(愛知県新城市)


これらの写真も私の提供です。

実際は13枚送って、ディレクターさんにチョイスしていただきました。

13枚の岩石は大小さまざま特徴もさまざまでしたが、どれをザ・岩石信仰と感じたかという思考過程自体を興味深く感じました。


さて、葛原岡神社には「魔去る石」という岩石祭祀もあります。

http://www.kuzuharaoka.jp/institution.html(葛原岡神社公式ホームページ)


神社公式によると、縁結び石については平成22年に神を迎えて祭祀したとのことで、現代の岩石信仰の一例と見て良いと思います。


ただ、番組の趣旨としては、そういった歴史的な起源に関するものではありませんでした。

外国人観光客がこれらの岩石を見て、自然の石をまつるとはユニークだと感じていることに対して、外国と日本との対比で専門家としてコメントできないかということでした。


依頼を受けた当初お答えしたのは、私は日本国内の岩石信仰を主としているため、海外のことを悉皆的に把握していないという頼りない返答でした。


断定できないことが多いので、「かもしれない」「わからない」といった、ぼやけた回答になる。

あと、話が長くなる。
(これは、私の性分ですね)

つくづく、メディアで使いにくいコメントしかできない私を使ってくださり恐縮でした。


放送されたコメントは数秒間ですが、実際は40分ほど話しました。

一つ目は、日本の岩石信仰についてのコメント。

「少なくとも、国内最古級の文献の『古事記』『日本書紀』には、岩や石を聖なるものとして崇めていたことが記されています。」

そのあと、古墳時代より前についてどこまで遡れるかには諸説あるといったくだりを長々と話しました。要領を得ないのでこれはカットで当然。


二つ目は、海外の反応についてのコメント。

「自然の石をそのまま崇めるという日本での光景に、外国人の方も珍しさやユニークさを感じたのではないでしょうか。」

この直前にカットされたセリフには、

「海外では、石を人工的に加工して、神殿や祭壇にするといった使い方が多いようですが」

という一言がありました。


番組でインタビューされた海外の方が、

「キリスト教に神様はひとりなので、日本のように自然の石に願いを込める文化は珍しい」

とのコメントをされていて、それを受けての私の返答でした。


スタジオの芸能人の方からも同様の旨の解説がありました。

私のコメントのポイントは「海外では、石を人工的に加工して、神殿や祭壇にするといった使い方が多いようですが」の「ようですが」の部分です。

断言はしませんでした。

海外にも石に願いを込める事例はあり、人工的な石だけでなく、自然の石に対しても神秘感や聖なるものとして扱った可能性が(私が寡聞にして知らないだけで)ゼロではないだろうと考えたのが理由です。


海外の方ご自身も自覚されていないかもしれませんが、たとえばヨーロッパでは宝石信仰があります。

宝石は単なる装飾品ではなく、かつて「天体の光が凝縮したもの」と信じる人々もいました。

宝石が天の上の世界(天体)とつながっていて、天上界の力を借りられるという信仰は、ギリシャ・ローマ時代よりも以前、古代バビロニアまで遡ることができるといいます。

十字軍の際、兵士がガーネットを携えたり、ナポレオンが、出征の時ダイヤモンドを携えていたのは、石に願いを込める信仰と言えます。

創造主としての神に願いをこめるのとは別で、天使の象徴としての石に願いを込め、その加護を信じるのは成り立つということです。

参考:「うごめく石 気まぐれな魔女~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その8~」


また、数々の錬金術師の残した考えでは、石には霊が宿っており、石を割り砕いて、中に入っている霊を取り出すことで、金以外の物質を金に転化することができると信じられていました。

石にこもる霊は創造主的な神そのものではなく、その神がこの地上世界の各所に姿形を変えて散りばめた"神の意思の一片"としての霊となり、これもまたキリスト教世界観のなかで成立する考えかたです。


哲学者のユングは、こういった石に霊性を認める解釈をしています。

人間を含めた動物は、創造主が創った「神の小片」ではあるが、神の意思からは独立し、自分たちの意思で動き回り、選択ができる存在だったと。

石には、意味のある石と意味のない石が混在していて、その造形や外見も時には機械的に見えるものもあればそうとも言えないものもあり、一言で言えば「混乱(カオス)」であると。

石には底知れないものを感じるということで、あくまでもユング自身の解釈ですが、石は「霊の具現」を含んでいるとみたのです。

参考:「石に語らせる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その4~」



海外は石を人工的に利用して、日本は自然の石を信仰するというテーゼも絶対と言えるでしょうか。

どうも、そんなに明快に二分できる世界観ではなさそうです。


たしかに、海外において自然の奇岩はあれど、それを神様にしているかというとよくわかりません。

アボリジニが崇めるウルルも自然の巨大な一枚岩ですが、間違いなく岩の聖地ですが、これが神そのものかと短絡することは控えたいです。


ヨーロッパではどうでしょうか。

ポルトガルのモンサントは、巨石群に町が取り込まれているかのように存在する場所として有名です。現状ではそれは奇岩の景勝としてありますが、かつてはキリスト教以前の巨石信仰だったという俗説もあるようです。

説なので断定ではないですが、自然の石を信仰していた可能性があるなら、「海外には自然の岩石を崇める文化はない」と言えないことになります。


そもそも、番組では欧米圏内のキリスト教世界観でのインタビューに限られている様子でした。

たとえばイスラム教に目を転じれば、聖地メッカのカアバ神殿に安置された「黒石」があります。

この黒石をどのように理解するかも難しい問題で即断できませんが、絶対主とは別で、岩石を素材にした信仰は並立しうるものであることが伝わります。


さらに、アジアを視野に入れると様相は一変するでしょう。

たとえばモンゴル〜中央アジアに分布していたオイラト人の岩石信仰については、下記の論文が詳しいです。

参考:「オイラトの英雄民話、英雄叙事詩における岩石崇拝の観念(1)」


そもそも、日本の岩石信仰が日本独自かというとそうとは言えず、朝鮮半島でも日本列島の古墳時代と同時代の岩陰や岩石の祭祀遺跡が複数報告されています。

このように、アジアには自然の石に神宿るとする岩石信仰が確実に存在するので、この点を踏まえれば、「海外に自然の石をまつる信仰はない」とは言えなくなるでしょう。


ただし、小泉八雲(ラプカディオ・ハーン)は、明治時代に来日してかつて次の発言を残しました。

参考:「小泉八雲「日本の庭―抄―」~『日本の名随筆 石』を読む その7~」

「とくに日本の国は、石の形に暗示的なものが多い国だ。(略)天然物の形からくる暗示が、こんなふうに認識されている国では、おそらくそういうこともあろうと想像されるとおり、日本の国には、石に関する奇妙な信仰や迷信がじつにたくさんある。」


つまり、海外の人、特に、欧米のキリスト教世界観に根差すと、自然の岩石を神のように同一視するということは考えられなくなるようです。

先述したように、実際には海外に自然の岩石への神聖視が認められる事例があったとしても、それはあまり意識下に置かれることはなく、いざ日本で自然石信仰に出会い、珍しいものとして驚く気持ち自体は理解できるところです。

したがって、

「海外では、石を加工して神殿や祭壇を作るような場面も多いので、日本で石をそのまま崇めるのを見て、海外の方もユニークに思うのかもしれませんね。」

というニュアンスで、共感するコメントをさせていただきました。


ちなみに、葛原岡神社の「縁結び石」「魔去る石」は現在の整備状況を考慮すると、自然露出そのままの岩石というより、動かして今の位置に据えた岩石信仰と言えるでしょう。

また、岩石=神というよりも、岩石を用いて縁結びや厄除けを祈願する「祭祀施設」としての岩石ではないでしょうか。

そういう意味では、いよいよヨーロッパの宝石に対して期待する心や、巨石を使って神殿や祭祀施設を構築する機能と、そこまで変わるところはないとさえ思ってしまいます。


特定の場所における特定のインタビューという条件下で集計すれば、当然偏りもあろうと思います。

日本の中でさえ、そもそも岩石を信仰するという世界自体がそんなに知られていないのですから…。

(家族以外では、出演後に周りの人々から岩石信仰のことで声を掛けられることはありませんでした…まだまだ精進です)


2022年6月6日月曜日

天岩戸神社の岩石信仰(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸


天岩戸神社西本宮の「天岩戸」

長里清『九州文化大観』(1940年)という文献に、岩戸村の史跡伝承地がまとめられている。戦前当時の情報を伝えるものとして以下引用する。

「天岩戸といふ穴あり、奥行き五間、幅十間程あり、(略)その遥拝の所に天岩戸神社があつて、天岩窟を以て御神體として奉斎してゐる。」(長里 1940年)

天岩戸神社西本宮。本殿裏に岩戸川が流れ、川を挟んだ対岸に天岩戸が存在する。

天岩戸は撮影禁止を遵守の上で拝観可能。

天岩戸を実見した印象を記すと、今まで接した岩石祭祀事例のなかでは奈良県宇陀市の室生龍穴に似ていた。どちらも川の対岸から拝観するが、天岩戸のほうがさらに遠くから遥拝する形である。


天岩戸神社西本宮の社務所および徴古館には、神社境内および周辺から採集されたという各種の遺物が収蔵されており、見学できる。

社務所に公開されている採集遺物の一部。

「古代文字石勾玉、石斧、石鏃、彌生式土器等此地方からの出土品を社務所に収蔵してある。」(長里 1940年)とあるように、かつては「古代文字石」の存在でもある種有名だった。

本石は岩戸蓋石や岩戸碑文などともいわれるもので、いわゆる神代文字が刻まれた平石である。戦後に消失したというが写真や拓本が残っている。

この神代文字が、いつどのような意図で刻まれたものかは不明ながら、神聖性を醸成するために用いられた岩石であり該時の歴史を伝える文化財であったことは言を俟たない。


天浮橋

「此所(管理人注:天岩戸のこと)より五丁許下流に三十間程の石張出したる所あり、天浮橋といふ、此邊に横穴あり、頗る大なり土俗之を蝙蝠穴といふ」(長里 1940年)

五丁というから、天岩戸より約500m下流に位置するところに天浮橋と呼ばれる、石の張り出した場所がある。そこには蝙蝠(こうもり)穴という横穴もあるらしい。

500m下流というと、現在、天岩戸神社西本宮と東本宮の間にかかる岩戸橋よりも下流側に位置すると思われる。

また、他の文献には次のとおり記される。

「河中に西より東に突出せる一大岩石あり。天の浮橋と云ふ。河水この下を潜ると云へり。又曰く、笹戸橋より一丁程川下にあたりて、晴天の朝、自然と橋の形の水面に寫つるを見ることあり。之影を天浮橋の影なりとも云ひ傳へたるものなりと雖も故事なし。」(甲斐 1917年)

岩石が橋のように長く突き出ているだけでなく、時には橋のごとき姿を水面に写す逸話も付帯している。

笹戸橋の調べが足りていないが、笹戸橋が現岩戸橋を指すなら(付近に岩戸橋以外の橋が見当たらない)、やはり天浮橋は橋の下流に属すものと推測される。

岩戸橋より南側の下流を撮影。写真上部奥方に両岸から狭まった岩は見えるが…。

さて、この天浮橋については地元の方でも関心をもつ方がいらっしゃるようで、ブログ記事にその詳細を挙げている。


「高千穂日記(ブログ版)」
http://muzina-press.cocolog-nifty.com/blog/cat23047329/index.html(2022年6月5日閲覧)


ブログには天浮橋が掲載された古い観光地図の画像も載っており、やはり岩戸橋の下流に位置して、しかも橋から何とか見えるようだ。しかし、いつぞやの大水で浮橋は土砂に埋まったともいうので、現状で確認するのは難しいかもしれない。

上記ブログによると、天浮橋をまとめた調査報告書を作成されたそうでpdfをネット上にも発表されていたとのことだが、niftyホームページサービス閉鎖に伴い2022年現在ではpdfの内容を閲覧することができないのは残念である。


御塩/御汐

「氏神社の直下舊岩戸橋の西詰の岩壁に、岩塩の噴出して附着してゐるのを見る事ができる。それは古来大神宮の御塩と稱してゐるのである。」(長里 1940年)

氏神社とは、現・天岩戸神社東本宮の旧称である。

この御塩に関しては、天岩戸神社西本宮の元宮司の佐藤延生氏から存在をご教示いただいた。

岩戸橋から見えるというお話ではあったが、天浮橋と同様、橋から川を眺めるだけでは大小の川原石の群在であり、そのどれかを特定するのは難しい。

岩戸橋から北側の上流を撮影。西詰の岩壁というが…。

岩戸川の両岸には社叢が繁茂して、岸を肉眼で確認することは難しい。


天安河原の仰慕窟




「天岩戸の前面を流れる岩戸川筋を、一名に天安河原と稱してゐる。此の上流に石窟があって(天岩戸神社より東北へ約三丁)天尾羽張神在ませし所とも云はれ、八百萬神、岩戸開の神謀りの遺蹟とも傳ふているところで、廣さ百畳に近く岩窟の奥には小石祠を存してゐる。」(長里 1940年)

天岩戸神社の天安河原といえば高千穂を代表する名所としても知られるが、上記の文章を読むかぎり、天安河原は川筋を指すようで、岩窟自体は仰慕窟(ぎょうぼがいわや)と呼ぶのが正確である。

また、天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)が在した所という記述にも注目したい。

天尾羽張神は『古事記』において「天安河の河上の天石屋」に坐す神として登場するのが本記述の所以と思われるが、現在、天安河原宮にまつられる主祭神は思兼神(おもいかねのかみ)および八百萬神と社頭掲示にあり、戦前文献との若干の異同が見られる。

「襁褓窟あり。入口の高さ奥行三十間に近かく稀有の大洞窟となす。」(甲斐 1917年)

襁褓窟のほか、協議ヶ窟などの別称もあるようだが、いずれも同音の当て字と見て良いだろう。

天安河原に見られる積石の習俗。これらの石にも数々の古俗や物語が存在した可能性もある。


光明石/光石

2022年に放送されたNHK・BSの番組「ニッポン創世神々の道をたどる 宮崎高千穂神話と暮らす」で取り上げられた存在である。

番組によると、天岩戸開きの時にその光明が照らされた尾根があり、上部に「光明石」という大石があり光り輝いたという。さらに、その石の地名は「光石」と呼ばれ、麓の家には光石の屋号を有するお宅が健在である。そのお宅の方によると、家の前にある岩塊がかつて光ったから光石と呼んだという話も番組内で語っていた。

しかし、光石の語源となった光明石は光石の屋号の上の山にあったはずということで、地元の有志が数十年ぶりに山中を踏査してそれらしき岩石を見つける一連の様子を、取材班が同行していた。


先出の天岩戸神社・佐藤元宮司に光明石のことを尋ねたところ、ご自身は実見したことがないとのことだが、日差尾(ひさしお)という、その光明が当たったという尾根の地名が残っており、光石を踏査して整備を考えている方をご紹介いただいた。

高千穂町内の会社「ひむか造園土木」の経営者である佐藤光氏がその方で、お電話で会話したところによると以下のとおりである。

  • 高千穂町の天岩戸温泉の裏に天香具山という山があり、その山の北方の尾根に光明石はあるらしい。
  • 光明石と思しき岩石は確認済で、天岩戸神社の天岩戸と対照的な位置にある岩塊がそれではないかとみる。付近から石片も採取した。石英が混じるので日が差すと光ったのではないかとのこと。
  • 光明石へ至る道はない。しかし、道を整備する必要があると考えている。山が荒れているため、現状近づくことは難しく、整備も進んでいない。
  • また整備の段になったらご連絡をいただけるとのこと。


件の天香具山は「岩戸開の際に神々が眞榊及上石を採つたと云ふ傳説を持つてゐる」(長里 1940年)場所で、当地における天岩戸伝説の萌芽・成立がどのような実相であったかによって、これら岩石信仰や旧跡の歴史的位置づけも大きく変わってくることだろう。

(通説的に日本神話の高千穂のモデルは、鹿児島県・宮崎県境にそびえる霧島連峰の高千穂峰のほうが有力とされることに注意したい)


瀬織津姫の窟

前述の番組には出典不明の文献(明治時代の話が書かれてあったので大正時代以降の作か)が画面に映し出されており、そこには光明石の由来を記す日差尾の紹介文と共に、「瀬織津姫の窟」なる場所も記されていた。

それによると「瀬織津姫の窟は、天岩戸の南約五町岩戸川の支流永野内川の南岸岸壁中にあり。(略)奥深くして際限なし。上古瀬織津姫の住坐玉いし所なりと伝う」という。


参考文献

  • 長里清『九州文化大観』日本文化研究会 1940年
  • 甲斐勝美『日向高千穂旧跡勝地案内』奈須機先堂 1917年