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2020年8月16日

玉作湯神社の眞玉と、願い石・叶い石の祭祀~玉と石と~(島根県松江市)


島根県松江市玉湯町玉造字宮ノ上


玉作湯の地の歴史

「史跡出雲玉作跡 宮ノ上地区」として史跡指定されている、全国的にも有名な玉作遺跡に玉作湯神社が建つ。

神社の裏山にあたる花仙山は玉石の産出地として知られ、谷を流れる玉湯川流域は全国有数の温泉郷・玉作温泉がひろがり湧泉地でもある。

弥生時代終末期から古墳時代にかけての玉類、玉の未完成品、砥石、それに伴う建物遺構など、玉作りの跡が見られたほか、周辺には約60基の古墳群が分布して、当地が祭政の一大地であったことをうかがわせる。

そして、『出雲国風土記』『延喜式』神名帳に記された玉作湯神社の存在から、奈良時代において連綿とつながる玉と神湯(現・玉作温泉)の信仰がわかり、さらに近世においても当地は松江藩の別荘屋敷跡・庭園施設跡が発掘調査で明らかになっている。


眞玉と、願い石・叶い石

玉作湯神社境内に、「眞玉(願い石)」と標示された岩石がまつられている。



後ろの石碑状の立石の意味も気になるところだが、眞玉は手前の黒光りした丸石を指す。

「大己貴命 湯山主之大神」の石碑が建つので、眞玉の神格を示すのだろう。いつまで遡れる信仰なのかはわからない。

隣接して、「願い石」「叶い石」の祈願方法を説明した看板が立つ。



この祈願方法は比較的最近に考案された新しい祭祀であることがわかっており、玉作湯神社の宮司さんもインタビューでそのことをおっしゃっている。


「より多くの方に護身徳を受けて頂いたらよいのではないか?ということで…昔から境内に祀られて、大変ご利益があるとされていた、眞玉(直径60㎝ほどのボール状)を「願い石」として、またそれに対して、社務所で「叶い石」という小指の頭ほどの小さな石を授けまして、“叶い石を願い石に触れ合わせて願い事をする”といったような御祈願の形を整えたわけです。」
「島根県 玉作湯神社」(2019年11月8日)「NEXCO西日本 ドライブエスコート」より 


全国的にも同種の祈願方法が同時期に認められており(愛知県岩倉市新溝神社例など)、当時のパワースポットブームの影響を受けたものとも言えるが、真意は神徳の広い授与があるようにとの願いにあり、新たな岩石信仰の一つの形として尊重されるべきものである。

それと同時に、基層が「願い石」の名ではなく「眞玉」のほうにあり、基層の信仰記録が忠実に後世に伝えられていくことも願いたい。


玉石の信仰と自然石の信仰と


眞玉の隣には「御守石」として、碧玉の青メノウが安置されている。

こちらもおそらく願い石・叶い石の整備の前後に新しく置かれた信仰の石と思われるが、こちらはいわゆる価値ある玉石である。

眞玉は丸石信仰としての系譜に位置付けることもできるが、石としての現代的価値は、横のメノウが勝るのだろう。
参拝者の人々の中にも、もしかしたら眞玉よりも御守石に心惹かれる人もいるかもしれない。

逆説的に、玉石に囲まれた当地において、玉石の形(丸石)をしながら石種は異なる眞玉が、神格を帯びる存在となったことに一種の凄みがある。
何らかの、価値観の逆転、はたまた、優先したものの違いがあるわけである。

先述のとおり、当地からは江戸時代の庭園施設やそれに伴う石垣や石塁も見つかっており、玉石以外の石の利用も見られる。
眞玉を、そのような自然石の利用の歴史の中でとらえなおすこともできる。


参考文献

玉湯町教育委員会 『史跡出雲玉作跡 -宮ノ上地区- 第1次発掘調査概報』1984年

島根県松江市教育員会『史跡出雲玉作跡』(松江市文化財調査報告書124)2009年


2020年8月15日

加茂岩倉遺跡と大岩(島根県雲南市)

島根県雲南市加茂町岩倉


弥生時代の銅鐸群が一括出土した遺跡として有名な加茂岩倉遺跡。

祭祀遺跡との関係でしばしば語られるのが、地名の由来といわれる「岩倉」の存在である。




遺跡地の谷間からは約500m北東の麓の位置に、「大岩」と標示の打たれた岩石がある。


江戸時代には「岩窟」で「宝蔵」と冠された岩石だが、岩屋状の内部空間を直接持っているわけではない。
地中に金鶏がいる、のくだりを考慮すれば、さしずめ岩石は蓋の働きを担っている。

どちらかといえば、想像力を豊かにして、岩石の塊の内部や下部に内部空間をイメージしたタイプの「岩倉」と言えるだろう。


この大岩を岩倉、すなわち磐座祭祀の跡ととらえて、弥生時代の銅鐸の近くに巨石祭祀・磐座祭祀があったと考える立場もあるが、どうだろうか。


岩石と青銅器の距離関係の近さ、イコール、関連性と言えるかどうか。

まず、「近さ」の定義づけが難しい。

加茂岩倉遺跡と大岩の距離である、約500mを「近い」とみなすのは、個々人で評価が分かれるのではないだろうか。


そのようなときは、自分の主観とは逆の、批判的な評価を下すのが学問的な態度と言える。

大岩と加茂岩倉遺跡は、それぞれ肉眼で目視できる関係ではない。
それぞれの立地環境にも違いがある。

このように、マイナス要素を挙げて、それらが解決されるまでは肯定的評価を避けたい。


次に、遺跡と大岩が近くても、近いからという理由だけで、大岩が弥生時代の祭祀遺跡と認めるには論理の飛躍がある。

大岩が自然石である限りは、大岩が弥生時代に存在したことは間違いないだろう。
しかし、大岩の周りから遺物は見つかっていない。
「岩倉」の地名が、弥生時代に遡ると決まったわけでもない。

大岩と銅鐸の関係性を述べるなら、むしろ大岩にくっつくくらいの距離で銅鐸出土地は形成されるのではないか。

距離を離したという事実は、大岩と銅鐸のある意味での「違い」を示すものでもある。

仮に大岩と銅鐸を同じ弥生時代の祭祀と肯定した場合、それぞれ別々の対象となっているわけだから、どのような祭祀や信仰の世界観を想定しているのか。

これは、銅鐸祭祀というものの目的や詳細がはっきりわかっていないことにも起因する、大きな問題である。
(しばしば、銅鐸=依代、銅鐸=奉献品といった解釈があるが、これらはまだまったく証明されていないと言って良い)

加茂岩倉遺跡



2020年8月2日

『出雲国風土記』猪石・犬石の二つの伝承地~石宮神社と女夫岩遺跡~(島根県松江市)


島根県松江市宍道町白石

『出雲国風土記』に次の記述がある。

「天の下造らしし大神の命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり。猪を追ひし犬の像は其の形、石と為りて猪・犬に異なることなし。今に至るまで猶あり。故、宍道といふ。」
(秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年より)

この猪の像と犬の像の伝承地とされる場所が2ヶ所ある。
錦田剛志氏「『出雲国風土記』にみる岩石と神祭り―二、三の覚書―」(『東アジアの古代文化』112号 2002年)の記述を参考にしながら紹介したい。

石宮神社(いしのみやじんじゃ)


1ヶ所目が、石宮神社にまつられる犬石(いぬいし)・猪石(ししいし)である。

石宮神社は本殿をもたず、拝殿の裏のちょうど本殿の位置にあたる場所に、犬石が安置されている。



長さ約1.8m、幅約1.5m、高さ約1.1mをはかる。
立石状で、玉垣に囲われているから目には止まるが、神社境内に散在する巨石の中で特段大きいというわけではなく、これを巨石と呼ぶかどうかは人によって受け止め方が異なるだろう。

境内の入口付近には、犬石を上回る大きさの巨石が集まり、そのうち、階段の両脇にある同規模の2体を総称して猪石と呼んでいる。



いずれも長さ約5m、幅約4m、高さ約2.5mほどである。

女夫岩遺跡(めおといわいせき)


もう一つの伝承地が、考古学的調査が行われ、古墳時代中~後期の遺物が見つかった女夫岩遺跡である。
宍岩または女夫岩と呼ばれる2つの岩の下方斜面から5世紀後半~7世紀頃と考えられる土師器や須恵器が見つかり、古墳時代の岩石に対する祭祀遺跡の例として著名な存在でもある。
高速道路建設で破壊される予定の場所だったが、その考古学的価値が認められて、道路を遺跡下のトンネルで通すことで現状保存されたという経緯でも珍しい文化財とされる。




宍岩は山中に2つの岩が横並びになっており、石宮神社よりは『出雲国風土記』が書くような「(南の)山」という表現が似合う。

当地は大森神社境内地になっており、以前から聖地とされていたことは近世~幕末の千家国造家保管の絵図の存在からもわかる。
絵図については、女夫岩遺跡の発掘調査報告書である、島根県教育委員会・宍道町教育委員会『島根県指定史跡 宍道・女夫岩遺跡』(島根県教育委員会 1999年)に掲載されている。
絵図および調査結果の詳細はPDFがオンライン公開されているので下記リンクにて参照されたい。

この絵図には、本岩の名称が獅子岩・女夫岩・宍像岩の3種類が併記されており、二つの岩をそれぞれ「南の宍像」「北の宍像」と称していたこと、さらに二つの岩のやや下方斜面にある別の岩石を犬石と呼ぶ人もいたことが記されている。
石宮神社と同じく、猪の像は二体で1セットであり、風土記が記す「南の山に二つあり」を忠実に踏襲している。

また、絵図の手前に描かれた犬石とされる岩石は、現在現地ではどの岩石を指すのかはっきりしない。
そのかわり、現地にはテラス状になった石積みの壇が形成されており、発掘調査ではこの壇状地形が近世以降の築造ではないかと推定されている。築造時に犬石については原状変更された可能性もあるだろう。

風土記の猪石・犬石の比定論争


錦田剛志氏の前掲論文(2002年)では、比定論争が下記のとおり整理されている。

  • 石宮神社の犬石を犬の像、猪石を猪の像とする説・・・服部旦氏「『出雲国風土記』の数量表現の信憑性、ならびに数量表現をめぐる編纂過程の一考察—意宇郡宍道郷所造天下大神命の猪像石・犬像石の同定を手がかりとして―」『古代文化研究』第二号(1994年)
  • 女夫岩を猪の像とする説
  • 女夫岩を猪の像として、石宮神社の犬石を犬の像とする説・・・関和彦氏「新・古代出雲史—『出雲国風土記』再考—」(藤原書店 2001年)

錦田氏は、原文の解釈がどうとでも読める部分を残していることを指摘して、結論を保留している。

複数の候補地がある以上、どちらかがどちらかの影響を受けて、または、お互いが別の何か(それは失われた原形の猪像・犬像の可能性さえある)からの影響を受けて伝承が形成・変容しているかもしれない。
現在残る岩石と、遠く離れた当時の記録を結び付ける作業は、これほどまでに難しく、危険な行為ということである。