インタビュー掲載(2024.2.7)

2018年5月27日日曜日

妙石坊の高座石(山梨県南巨摩郡身延町)


山梨県南巨摩郡身延町

妙石坊高座石

七面山に坐す七面大明神が、女人に扮してこの場所で日蓮と出会った。

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日蓮はここで初めて説法を行い、それを聞いた七面大明神は法華経を守護する神となることを彼に約束した。

妙石坊高座石

その時、日蓮はこの石の上で説法をおこなったことから、高座石の名がある。

妙石坊高座石

境内にはその時の様子を描いた絵も掲示されている。

2018年5月24日木曜日

巖石神社(兵庫県宍粟市)


兵庫県宍粟市山崎町下町

巖石神社

山の端に立地。

巖石神社

巖石神社は「がんせき」と読むことが現地看板に書いてあるが、兵庫県神社庁のリストでは「いついし」と読み、「いわいし」と読む人もおり一定しない。

巨岩信仰数多あると言えど、巖石すなわち岩石神社というネーミングは全国的にも珍しいと思う。

いずれにしても社殿背後に屹立する岩壁のような一大岩塊をまつる場所であることは疑いない。

巖石神社

地元では「権現さん」と呼ぶことが多いらしい。
現地看板には修験道の影響によるもので平安時代からと書いてあったが、これはあくまでも一般的な学説を転記したものと思われ、「権現さん」と「巖石神社」の名称の先後関係は不明としておくほうが良い。

巖石神社

社の傍らに直立する「夫婦(みょうと)ヒノキ」は樹齢250年を超すといわれる。
これは巖石のほうが早い。

巖石神社

戦後新設されたと思われる「史跡 磐座」の石碑も立てられ、磐座の一般的な説明につづき、起源は2200年前であると刻字されていたが、何の根拠も書かれていない。

そもそも語りつがれてきた名前は「権現さん」であり「巖石」ではないのか。
半可通の磐座研究に基づいて建てられたものでも、現地にあれば権威性が自ずと帯びる。
罪深いことである。

2018年5月20日日曜日

種村季弘『不思議な石のはなし』(河出書房新社、1996年)

――ごろんところがした研磨も彫石も受けていない、不恰好な形の、どうかすると欠け目や傷だらけの石の不完全さそのものから、洗練された完全な石の一糸乱れぬ端正な純粋さにはない、汲めども尽きせぬ雑多な記憶がこんこんと湧き上がってくる。

著者の種村季弘氏は、本書を「ただの石のはなし」と一言でまとめる。

宝石や、有名人が持つ石に興味がないわけではないが、様式化されていない、系統立っていない石の「猥雑」さに「記憶の泉」を見出すのだという。

「どなたも同じような経験をされた覚えがおありではなかろうか」と種村氏は問いかけるが、どうだろうか。

種村氏がこのような理由で、ふと足を止めてしまった石の話をいくつかピックアップしよう。

■ 『北国巡杖記』

飢饉に困った村人が神に祈りをささげたところ、石のような真っ白なものが降ってきて、食べたら乳のように甘かった。これで命を長らえる人が多かった。

■ 『本草綱目』

石麪(いしそうめん)はめでたいもの。中国でも何度か石が麺になったという記録があり、さいたい飢饉のときに貧民が食べた。

■ 『日本霊異記』 下巻第三十一

美濃国の娘が処女解体して3年の後、石を2つ産んだ。1つはまだらの青色、もう1つは真っ青で、だんだん大きくなった。卜者に占ってもらったところ、これは伊奈婆大神の子であるということで、以後まつった。

■『日本霊異記』下巻第十九

肥後国の女が卵形の肉の塊を生んだ。不吉に思ってその肉を山の石の中に7日間置いておいたところ、肉の塊の中から女子が生まれた。
この女子には顎と生殖器がなかったが、7歳には法華経華厳経を暗誦し、嫁ぐことなく出家して人に敬われた。

なかなか不思議な話だが、古今東西の他の事例と兼ね合わせて、「石は食べる」「石は成長する」「石は産む」という石の類型化に持っていくには、ちょっと安直な気がして、もうすこし保留でいたい。

種村氏の指摘の中でぜひこれだけは取りあげておきたいのが、近代科学以前の人と石の関係についてである。

13世紀、博物学者のアルベルトゥス・マグヌスが著した『鉱物論』は、石を水と土の合成物と説いた。
水は透明で、土は不透明なものなので、その配合によって石の色や外見が変わると考えた。

これは科学的というよりも感性的な考え方で、まさに科学登場以前の論理である。
言い換えれば、この科学登場以前の論理に寄り添えなければ、当時の人を理解することはできないということを知る。

種村氏は言う。
「石は石、ではなくて、動物植物とじつに気まぐれにまじりあい、おたがいの間の境界をすりぬけて自在に交通しあうのである」

現在の科学的分類に囚われることで、その分類が現われる以前の「現実」が見えなくなる。
祭祀考古学でも、最近「依代」が折口信夫の分析概念であり、それに囚われることで依代とされてきた数々の事例の現実が捻じ曲げられていると指摘されることがある。

鉱物・植物・動物という括りも、科学的な事実はどうあれ、石は石、石以外は石以外という眼鏡をかけて目の前の対象を見ることで、その時点ですでに歴史研究者としては失格なのかもしれない。
当事者が、鉱物・植物・動物という括り、石と石でないものの括りをしていなかったり、自分自身と概念が違っていたら意味がないのだから。

食べ物と思っていた麺や、人間と思っていた赤ん坊ですら、石の研究として視点を向けなければいけない。そんな次元である。


先日、このようなツイートを見かけた。
何年前とは言えないが、以前の自分なら科学的ではないという考えに囚われていたかもしれないが、そもそも歴史的研究において、科学的態度はあって良いが、その事象自体が科学的かどうかを研究対象にあてることは別の話であると、今なら理解できる。

もちろん上記ツイートの説も仮定を前提とした話なので、否定または肯定という両極に偏ることも適切ではない。
そうだったかもしれないな、という気づきにとどめておくのが、今の私の気持ちである。

昔の人の気持ちをすでに理解できたかどうかなんて、おこがましい。

2018年5月16日水曜日

『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』紹介

毎日新聞の記事です。

「伊勢志摩百物語第3集が完成 皇学館大生ら作成 /三重」(毎日新聞2018年5月15日 地方版)
http://mainichi.jp/articles/20180515/ddl/k24/040/142000c

この記事の中で、第2集が「磐座の聖地めぐり」として去年発刊されていたことを知りました。

web上で閲覧できるようになっていますので、皆様にもご紹介します。

皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』(2017年)
https://www.kogakkan-u.ac.jp/campusview/catalog/isesima100monogatari_02/#page=1
*閲覧にはAdobe Flash Playerが必要

次の13カ所が取り上げられています。
  1. 舟神龍宮の積み石 *初耳
  2. 鏡石
  3. 剣岩 *初耳
  4. つづら石 *初耳
  5. 破石 *初耳
  6. 千引石
  7. 乙女岩 *初耳
  8. 美多羅志神社のハート石 *初耳
  9. 浦神社の磐境 *初耳
  10. なで石 *初耳
  11. 清正石 *初耳
  12. 長原の浮石 *初耳
  13. 鸚鵡岩

伊勢神宮の石々や、二見の夫婦岩、相差の石神さん、天岩戸などの著名どころはありません。事例を網羅するタイプの冊子ではないということですね。

13か所中、10カ所は初めて知りました。
いつも言うことですが、地元の調査には勝てない・・・。
岩石信仰が、どれほどありふれて存在しているかということです。

ハート石は、ちょっといただけないかなあ・・・。
流行りのハート石と書いてありましたが、注釈もないので何それと思って検索したら、たしかにハート石さがしが流行っているみたいですね。



岩石信仰アプローチからでは、このトレンドが私の網にかからなかったことにショック。
己の不明を恥じるばかりです。

2018年5月4日金曜日

白山とダンノダイラ~三輪山の奥~(奈良県桜井市)



奈良県桜井市辻728番地に、眞言律宗 巻向山 奥不動寺という寺がある。

奥不動寺

ここは、大神神社の神体山で著名な三輪山(標高467m)と巻向山(標高567m)の間に位置する。
三輪山の知名度に反して、この三輪山の奥にある奥不動寺の一帯が取り上げられる機会は少ない。
本項では、白山とダンノダイラの2ヶ所の奥三輪を紹介する。

■ 白山


奥不動寺から北に山道があり、急登を3分で景色が一変する。

白山

白山

白山

白山

この岩山を白山(標高486m)と呼ぶ。

周囲が緑に囲まれた中で、ここだけが一面真っ白の岩峰と化している。
表土が流出して、地中の岩盤が一面に露出したものと思われる。
歩いているだけでも岩盤はボロボロ剥離する地形だが、なぜここだけこのようなことになってしまったのか。

その位置的な近さから、奥不動寺の霊場としてうってつけだが、奥不動寺によって特に行場や信仰の場を示すものはない。

白山
上写真の奥方に(直接は見えないが)三輪山が位置する。

昔もこのような岩山だったと仮定して、三輪山をまつっていた人々がこの白山を知っていたら、三輪山最奥部の聖域として神聖視されていたのではないかというインパクトがある。
むしろ、奥津磐座を知るはずの三輪山の祭祀主体が、少し歩けばたどりつくこの圧倒的聖域を知らないということがありうるのだろうか。

まったく古代史に登場しない場所である。

白山

白山

桜井市文化財協会の中村利光氏の「ちょっと寄り道第5回 山頂が一面蒼白の白山」「桜井市立埋蔵文化財センター」内)によれば、白山には天狗岩という立岩があると記している。


ダンノダイラ


奥不動寺の東方約500m地点に広がる緩やかな山腹一帯をダンノダイラといい、その東端に「磐座」としてまつられた露岩がある。
ここは桜井市の出雲地区に属する。




ダンノダイラについては、現地に「野見宿禰顕彰会」という団体が作った懇切丁寧な解説板があり、奥不動寺からも案内標識が充実している。
以下はこの現地解説板に基づいて紹介をする。

嘉永年間(1848~1854年)に作成されたという「和州式上郡出雲村古地図」によると、巻向山の中腹にダンノダイラという地名があり、ここは明治時代の初め頃まで人々が住み、その宅地や田の跡が残っているという。
ダンノダイラ上方には湧水沼があり、そこから流れた小川と思しき流水路跡がダンノダイラに現存していることから、確かに人がかつて住んでいたのだろう。
信憑性は定かではないが、小川跡からは6~12世紀の土器片も採集されたという情報もある。

ダンノダイラ
ダンノダイラに残る小川跡

ダンノダイラの南麓には出雲村(桜井市出雲地区)がある。
明治の初め頃までは、年に一度出雲村の人々がダンノダイラへ登り飲み食いや相撲をして遊ぶという風習があったと、1964年に村の年配の方の証言があったことが記録されている。
出雲村の十二柱神社にはかつて社殿がなく、ダンノダイラにある「磐座」を拝む場だったという。

このようにダンノダイラは麓の出雲村と関係が深いとされる場所で、中にはここが古代の出雲ムラで、日本神話の出雲国神話や『日本書紀』の野見宿禰伝説の舞台となったという仮説もあるが、そこまで話が進むとやや批判的に見なければいけない。

ダンノダイラの「磐座」は、急傾斜面の山肌に露出する岩崖である。
岩崖の上にある2~3体の岩にも供献皿や注連縄が残され、まとめて神聖視されている。

ダンノダイラ

ダンノダイラ

ダンノダイラの中央やや西寄りに、「天壇」と名付けられた場所がある。
マウンド(といってもかなり緩やかで自然地形の延長線上)の頂部に集石が残る。

天壇とは、中国の天子が冬至の日に天帝をまつるために設けた祭壇のことで、その日本式天壇に該当すると皇學館大學の村野豪先生が述べたという解説が現地に立てられている。
前提条件がいろいろとわからないので素直に納得はできないが、集石があるのは確かである。

ダンノダイラ
「天壇」

ダンノダイラも郷土研究が入り混じりミステリアスな現状となっているが、個人的にはその郷土史家にさえ何も語られない白山に、より関心を惹かれる。

2018年5月3日木曜日

足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、1983年)

――石はどうやら形態・規模はちがっていても、原初的なものをわたしたちに伝えるらしい。

詩人は、石を原初的なもののイメージとして取り上げることがある。

これはガストン・バシュラールの一連の著作にも取り上げられているとおりであり、このブログでも何度か紹介してきた。
ガストン・バシュラール「岩石」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その1 

ここでいう「原初」とは、地球創成期への興味関心を表すといわれている。

足立巻一氏は、詩人の草野心平氏が「地球創成期への郷愁」とたとえたのに対して、やや異なる気持ちを抱いたらしい。
いわく、地球への郷愁というよりも人間の原初の心に惹かれる、らしい。
しかも、人間の原初の生活に「悲哀」「哀感」が見えるらしい。

――わたしは墓に、霊魂が眠っているとは信じない。しかし、墓にはその人の全体験が凝縮している

墓石に霊魂は宿らないが、人の生涯を象徴するものが石の造形だと足立氏は考える。
人が祖霊になるのならば、神の生涯を象徴するのも石だろうか。
古墳祭祀も、墳丘が被葬者の権力を象徴していることは考古学者が指摘する通りだ。
それは、横穴式石室の規格にすら表れている。
ひいては、神の墓が石である事例も各地で見られる現象である。
ただし、石の造形がどこまで生涯を語りきれるかはわからない。

――磐座とは、物を言う岩や木が沈黙し、朝の太陽を受け、存在そのものが生命の輝きであり美である世界であらねばならない。

これは解釈が難しい一文である。
足立氏はまた『祝詞』の一節「語問ひし磐根樹立」を引き、岩や木がものをいうということを「幻想」と評する。

神が磐座に降臨する時、岩も木もものをいうのをやめ、ぴたりと鎮まるという。
この時の磐座は、単なる施設ではなく、ひとつの意思をもった生き物としてみなされている。
もっと言えば、あらゆる石が生き物としてあるのが足立氏の世界観である。

目に見えないものである神を、目に見える石に降ろすという論理のために必要な理解のしかたとして、私は受け止めている。
ただ、あらゆる石が生き物であるなら、祭祀の石が特別視されるのはなぜか。
石にも区別があり、峻別されている現実がある。

――磐境の解釈には諸説がある。磐座と同じものだとする説、磐座は岩石の御座をいい、磐境はその区域を広くいうとする説、あるいは磐座を自然の神座とし、磐境を人工のそれとする説などである。わたしは自然と人工という第三説を採りたい。

私は大場磐雄博士以来の第二説を肯定する立場だが、足立氏は磐座を自然の岩、磐境を人工の岩による祭場とみなす。

これについては、人工の磐座の例が多く見られることをもってじゅうぶんな反証となると思われるが、磐境は区域を区画することから人工物となることは自明とも言える。
ただし、自然の岩塊を結界石とみなす例も管見では把握しており、洞穴も自然の結界をなしていることから、聖域を区画するものは自然物でも成り立つことは疑いない。
それを磐境という言葉で一括するか、岩屋や結界などと別の概念で把握するかの違いといったところだろう。

私は磐境という言葉で一括することはしないが、機能的には同じ概念を、地域と時間が変われば言葉が変わるとみなすものである。

――「石だけならホンモノの龍安寺にも負けへん。庭師は川の石のほうがうんと安上がりやいいよったが、川石は卑しうてアカン」

上は、龍安寺の石庭をうんと小型にした庭を自宅につくった足立氏の友人の言とのこと。
足立氏は「この頓狂な男が川石を軽蔑し、生駒石を絶賛する口調がおかしかった」と評す。
川石はまさに悲哀の存在である。

庭師や石工、愛石家たちが「味がある」と品評するポイントや、名石として指定する基準はある程度定まっているように思えるが、内心穏やかな気持ちにはならない。

――「あの石のことは言うてはならんことになっておる。この村では・・・・・・な」

それは、奈良県の生駒谷・大門の集落にある大福寺の下にあった棚田の中の3つの石のことである。

村人は三体石と呼び、かつては毎朝手を合わせていた信仰の対象だったが、その下で石材業者が名石・生駒石を採掘していたところ、三体石のうちの一体が転落し、今の場所に転がりこんだのだと語りつがれている。
この「事件」があって以降、三体石は「村の禁忌」となって、いわゆる「お言わず様」と化した。

足立氏は初めてこの石を見た時の衝撃を次のとおり記している。

――その石を見かけた途端、立ちすくむような気分になった。(略)千枚田のような田のなかに坐っており、まことに異様であった。(略)自然石とは思えないほどの球体である。雨露にさらされて黒ずみながら、きのう天から落下したばかりのような恰好でどっしりと田に坐りこみ、重量感と威厳と、大らかなユーモアを示しており、まったくおかしい石であった。

巨石信仰に対する、一つの具体的な回答かもしれない。
足立氏は7年後にもこの石を見るために再訪している。

本書にはその石の写真も掲載されているが、写真からでも惹きつける存在感を感じる。
実見してみたいという気持ちにさせられた。

この石の下には「地蔵さん」という石があり、そちらは梵字や名が刻まれ、菜の花がいっぱい供えられていた。石仏の雑誌にも取り上げられており、詳細な解説もあるようだ。

――だが、わたしの好きな、そのまるく大きい石については触れられていない。石仏でないので当然ではあるが――。

足立氏の悲哀は、単なる判官贔屓と片付けられない哀感だろう。
足立氏はこの感情を、あとがきで「石が好きになったのは老いぼれたしるし」ではなく、「石に寄せるわたしの雑歌」とまとめている。

足立氏は詩や歌を、目に見えないものを目に見えるようにしたもので、祈りと同質のものと154ページで示している。
ひとりの岩石信仰の当事者の物語として読むことができる本である。

2018年5月2日水曜日

福良八幡宮/福良八幡神社(兵庫県南あわじ市)



兵庫県南あわじ市福良に鎮座する、福良地区の産土神。

福良八幡宮

境内に「陰陽石」がある。

福良八幡宮

「往昔福良の浦人 鳴門の海より陰陽石を求め ここ八幡鎮守の聖地にまつる 郷人すべて日夕これを礼拝祈願すればその霊験あらたかなるべし」(現地看板より)

海中より出た石を祭祀の石とする文化は、千葉県印西市の世直し石尊、岐阜県各務原市の御井神社神璽、京都市北区松ヶ崎町の岩上神社などに類例がある。

福良八幡宮

陰陽石に隣接して「跨石(またげいし)」もある。
京都市右京区の梅宮大社にも「またげ石」があり、そちらは石をまたぐと子を授かるという霊験をもつことから、当地の跨石も共通した信仰形態と推測される。

福良八幡宮

上写真の樹木後ろ、社殿玉垣の角に見える岩塊は、地元の方いわく経塚とのこと。

福良八幡宮

女神輿を保管する倉庫前にあるこの石も経塚とのこと。

神職さんは不在だったが、この地元の方は福良八幡宮について詳しい方で、神社のあれこれをうかがうことができた。
上写真の経塚後ろには女神輿が2基収納されているが、神輿の御神体は海中からとれた丸石だったと教えていただいた。
石は布にくるまれ、石そのものを見ることはできなかったらしい。
また、この2つの石は個人所蔵であり、ある時期からその石を宅内から持ち出すことは許されなくなったそうである。

神社や神輿の御神体がこのような石であったという話は時折見聞きする。
これらの石を岩石信仰に含めると事例数は膨大に膨れ上がると予想されるが、名もなき石であること、ご神体の特性上秘匿されることから、記録としてたどるのは至難の業だと思われる。
しかし、誰も調査していない(=歴史の消失につながる)一大テーマではないか?

福良八幡宮

福良八幡宮に隣り合う住吉神社では、鳥居横に岩盤が露出している。
隣家の方が大切にお手入れされているという。