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2026年7月19日

力釘石/弁慶の力釘(奈良県吉野郡吉野町)


奈良県吉野郡吉野町吉野山 吉水神社


石の長者、木内石亭による石の博物誌『雲根志』に登場する石らしい。


力釘石
大和國大峯山の梺にあり諸書に出るゆへこゝに略せり
木内小繁 著 ほか『雲根志』上巻,日本古典全集刊行会,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1259959 (参照 2026-07-19)


江戸時代、すでに有名だったことが窺われる。

しかし、詳細が略されたことで現在においては逆に追跡しにくい存在となりうる。幸運にも本石は吉水神社境内に存する「弁慶の力釘」と呼ばれているものを指すと考えられている。


大峯山の麓、力釘石は吉野郡吉野町吉水神社に弁慶の力釘石と言われているものを指すのであろう。苔むしたさしわたし70㎝程の緑色砂岩中に今はさびた鉄釘二本が打ち込んである。弁慶が力自慢のために打ち込んだものだと伝えられている。
日本地学研究会・地学研究編集部 編集・監修『地学研究』23(1/2),日本地学研究会,1972-02. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3222588 (参照 2026-07-19)


義経たちが潜んだ吉水神社は、当時は吉水院という修験者の寺で、瀬古川の渓谷の上の小高い地点にある。境内には「弁慶の力釘」とか「義経の馬脚跡」などの遺跡が点在
大塚雅春 著『歴史風土記』,潮出版社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12207844 (参照 2026-07-19)


義経の馬脚跡はおそらく岩石に蹄状の窪みが残った岩石と目されるが、探訪当時は存在を知らず見逃した。

釘を埋めた奇石に比べると知名度に差があり、それが同じ自然石でも文化の伝承具合に軽重が見られる一因となるようである。

力釘石/弁慶の力釘(柵内)

2本の釘穴


2026年6月28日

高鴨神社の大黒石(奈良県御所市)

奈良県御所市鴨神

境内に大黒石と刻せる黒色烏帽子形奇石あり。
奈良県南葛城郡 編『奈良県南葛城郡誌』,南葛城郡,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/980729 (参照 2026-06-28)


2025年4月30日

チジュウサン(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町上脇垣内


岸田史生氏「垣内をめぐる村落祭祀と座―奈良市大柳生町の事例より―」(『鷹陵史学』第24号、1998年)において「チジュウサン」と記された場所。

「弥勒の道プロジェクト」(@mirokunomichi)さんのXポストで存在を知り、所在地の詳細やお持ちの情報について多大な情報提供をいただいた。ここに記して謝意を表したい。


アクセスについては、ご教示いただいたオープンデータ地図「OpenStreetMap」に位置が公開されておりわかりやすい(下記URL)。この地図どおりに行けば辿りつける。麓から徒歩約15~20分。

https://www.openstreetmap.org/?#map=17/34.707725/135.922154

チリュウ神社・チリウ神社の仮称もあるが、地元の方が実際に何と呼んでいるかはわからない(探訪時、現地の方とお会いすることができなかった)。したがって前掲文献に明記されたチジュウサンを本記事では採用する。





現地に立った所感としては、山の中腹でここにだけ岩塊が群集しており、その特異さから岩石ありきの信仰の地として成立したことは疑いない。

まるでかき集めたかのようにも見えるが、産総研が公開する「20万分の1日本シームレス地質図」を見ると、当地は花崗岩地帯に花崗閃緑岩の岩相が谷状に差し込まれた地質であるらしく、谷間と尾根の境目に現れ出た露岩群であるように思われる。


この岩群のすぐ手前斜面から水が湧き出し、谷間をつたって沢が流れているのも当地がもつ聖地的特徴である。

露岩群手前の湧水(写真中央)

社のすぐ前までは、谷間に形成された水田がかつて広がっていたようである。現在は山から回り込んで下る形で参拝するが、元来は下の水田から登る形で参っていたのではないか。その点において、麓の里の農耕生活と密着したまつりの場と言える。

藤本浩一氏が『磐座紀行』(向陽書房、1982年)において、稲作農耕民が谷間に水田を開拓していく中で谷間の露岩に出会い磐座祭祀の場としたというくだりも思い出せる典型例である。


さて、前掲の岸田氏文献では「本社は愛知県知多半島の知立神社」とあるが、弥勒の道プロジェクトさんによれば戦後になって愛知県知立神社との音の類似から結びつけられたものとのことである。

当地は、チリウデン・チリウテン・イワモト・岩本などの小字が入り混じっており、この内のチリウをチリュウ(知立)に当てたということになる。

このような音の一致により無関係な場所同士を関連付ける試みは近代以降の知識の庶民化により全国各地でおこなわれたものと類推される。


では「チリウデン/チリウテン」とは何かという話になる。

デン/テンが現地に広がる「田」で、「チジュウサン」の「サン」は愛称という常識論止まりであり、チリウ/チジュウに関しては岩石信仰の関係では類似の名称に出会ったことがない。岩石信仰とは無関係の語源に属すのではないかという見立てが精一杯である。

イワモト・岩本の「岩」は当地の岩群に由来する可能性もあるが、当地からは若干離れている字とも言え、『全国遺跡地図(奈良県)』(文化財保護委員会、1968年)によるとその辺りには西山北古墳群と名付けられた群集墳がある(当地の山を西山と呼ぶか)。もしかしたら石室石材の後世開発・盗掘による露出と絡めた地名だったかもしれない。


当地は、ちょうど南北にそれぞれ西山北古墳群(16基)・西山南古墳群(19基)が分布しており、独立した尾根上に片墓古墳と呼ばれる直径16mの比較的大型の円墳も築かれている。

片墓古墳

このような古墳群の中に存在する自然岩塊がチジュウサンである。人足が立ち入った歴史の中でチジュウサンがまったく自然のままの岩石分布でありつづけたのか、何らかの生活所産の結果としてここに岩石群が集まっているのか判断の難しいところがあるが、これが全国各地で見られる岩石信仰と古墳の同居問題である。事実として、自然岩塊が古墳の墓域に残り続けて存在する事例は多い。


なお、チジュウサンに行き着く手前には、上脇垣内の境を示す勧請縄が渡されている。

西山山中の勧請縄

アクセスルートとしては勧請縄の外=集落外の地ということになるが、先述のとおり元来は谷間からのアクセスが想定されるので結論としてはチジュウサンは集落の境に存する聖地という位置づけが適切だろう。


2024年6月16日

龍鎮神社(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市 深谷龍鎮渓谷


龍鎮神社境内を上方より撮影。

龍鎮神社。深谷川対岸から拝する形をとる。

龍鎮滝

現地看板によると、当地の滝壺から水を汲みだして、古大野岳(標高578m)頂上の善女龍王に松明を持って日没後に登拝し、下山後に麓の海神社でいさめ踊りを奉納する「壺かえ」の儀礼が伝わる。


「龍鎮渓谷」の名称は1970年代の書籍から見られるが、「龍鎮神社」「龍鎮滝」ではそれ以前の文献から探し当てることはできなかった。

ここ数年でパワースポットとしての知名度が大いに高まった場所の一つだが、聖地の歴史として原像がどのようなものであったかを確かめるのは難しく、また、現在の聖地ブームの中で大なり小なり変容していくことが予想される。


宇陀・室生一帯では室生山・室生龍穴を中心に雨乞いの風習が盛んで(『室生村史』)、各地区にそれぞれの雨乞い行事が存在する。

室生においては雨が降らない時に、松明を持って近くの一番高い山に登るダケノボリの類型が確認されており、龍鎮神社の雨乞いもその文脈の中で語ることができるだろう。


龍鎮滝は上と下に分かれ、上を上龍鎮・青龍神と呼び、下を下龍鎮・赤龍神と呼ぶらしい(「ようおこし室生の里へ~みどころマップ~」)。


参考文献

  • 室生村史編集委員会 著『室生村史』,室生村,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3021014 (参照 2024-06-13)
  • 「ようおこし室生の里へ~みどころマップ~」https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/murounosatomidokoromap.pdf(参照 2024-06-13)


2024年6月9日

白石國津神社の白石(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁白石町 字神子尻

 

都祁には國津神社が二社ある。北部の白石地区の國津神社と、南部の南之庄地区の國津神社であり、本項では地区名を採って便宜的に白石國津神社と記す。

白石國津神社

白石明神は地より生えた白い石が神体であるので、白石と改めたという。又古記には南殿の國津神社を移して祀ったから白石と云うとあるが果して南殿すなわち南之庄より奉還したか否か定ではない。古老の話では、南殿より六人衆が石を持って帰った処、急に動かなくなって、それを神体としたともいう。(大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』2010年再発刊)

前掲の文献によれば、白石國津神社は地より生えた白い石を神体とするという説と、南之庄國津神社から石を運んでここにまつった説に分かれており決着はついていないらしい。

なお、南之庄國津神社の裏山には「柏峯」と呼ばれる小丘があり、小川光三氏が類推するには山容が梯形にならされて方形に岩石を囲んだような形跡がみられるとして、祭壇遺構説も呈されたいわくつきの地である(小川 1984年)。


さて、白石國津神社境内に目を移すと境内中程の参道脇に白い石が2個ほど置かれ、周りを垣で囲んだ場所がある。


いかにも白石の名に相応しい雰囲気を見せるが、神体石は「社殿の下」と明記する文献もあり齟齬がある(『大和の伝説』1959年)。


はたして正確なところはどこにあるのか、白石國津神社と祭礼時に神幸のある雄神神社前に代々在住の東山さんから次のお話を伺うことができた。

  • 白石國津神社の名の由来となった白石は、現・本殿の下にたしかにある。
  • 本殿を建てた人と宮司しか見られない存在で、神遷しの際も本殿周りには白い幕を張り、岩石を見ることはできない。
  • 本殿には床がない状態で白石が覆われているという。
  • 境内参道脇にある2個の岩石は、由来となった白石ではまったくない。自分(東山さん)が子どもの頃にはあのような岩石はなく、だれかがどこかから持ってきてあそこに置いた。昔は垣もなかったのに、多分地区の誰かによるものだと思うが今のように整えられてしまった。

本殿遠景。この中に白石がまつられる。

本来の神体石が目に見えない一方で境内参道脇の白石が視覚的に目立つため、後世に勘違いの原因にならないかと東山さんは深い懸念を示されていた。

前掲の小川氏著書においても、「国津社の鳥居をくぐると、参道の中央に二本の杉が立ち、その間に小さな白い石が一個置かれている」(小川 1984年)という記述がみられ、1個の岩石の写真が掲載されている。「二本の杉」の間という点から位置的に同一のものを指すと思われ、約40年前には1個の岩石だったのが2024年時点では2個に増えて垣に囲われた流れが描き出せる。

東山さんが子どもの頃はおそらくそれより半世紀以上前の話であろうから、記憶のとおりであれば元々そこになかった岩石を小川氏は取り上げたことになる。このように、岩石信仰の現状の景観からあれこれを想像することの危うさを示す出来事と言えるだろう。

以上、白石國津神社の歴史に関わる重要な情報としてここに記しておく。


参考文献

  • 大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』私家版 2010年(原著1982年の再発刊)
  • 小川光三 著『大和路散歩ベスト8』,新潮社,1984.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575464 (参照 2024-06-09)
  • 高田十郎 等編『大和の伝説』,大和史蹟研究会,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9580621 (参照 2024-06-09)


2024年5月27日

雄神神社と野々神岳(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁白石町

 

雄神(おが)神社は、地元で「大神神社の奥の院」と称される。雄賀、雄雅、雄ヶなどの字を当てる場合もみられる。

神社の形としては三輪山をまつる大神神社と類似して、本殿を有さず拝所のみをもって背後にそびえる野々神岳(野野神岳・野野上岳)を拝する。


野々神岳(標高450m)は、二つの峰が横並びにそびえる双峰をなす。

雄神神社から向かって右(東)を雄神岳、向かって左(西)を雌神岳と呼び、全山禁足地が今も守られているが、山頂に蛇がすむ洞窟(岩堂)があり元旦朝には金のキジが鳴くと『都祁村史』(1985年)にある。

野々神岳の遠望。左手前が雌神岳、右奥が雄神岳。

機会があり、神社前に代々お住まいの東山さんにお話を伺うことができた(2024年3月17日聞き取り)。東山さんは雄神神社を護持されており、地区内で唯一、禁足地の野々神岳に登ることが許されて山頂で毎年お供え物をまつる家系の方という。

東山さんいわく、たしかに山頂には蛇の形をした石があるという。双峰のうちどちらの山頂にあるかを伺ったところ、右側の山頂とおっしゃったので雄神岳の頂上と思われる。

岩石の形状はとぐろを巻いたようにくるくるしていて、蛇の頭の部分は東を向いていると表現されていた。大きさについては、人の背丈をはるかに越えるとのことだった。


山頂には白蛇がすんでいて、かつて安易に山頂に登った人は腹を痛めて亡くなったとまことしやかに語られ、それで山には登らないようにいわれている。

東山さんは親から毎年の登拝を継承され、酒・米を供え続けてきたが、約14~15年前(2010年頃?)から体を痛めてしまいそれ以降はもう登らなくなっているとのことだった。

道も消失しているだろうが、いずれにしても何人も登ってはならないという思いを強く感じた。私たちはその禁忌を尊重しなければならない。


また、雄神神社の拝殿奥には立ち入れないが鳥居が建ち、その鳥居下に大小2個の岩塊と、それぞれの石上に数個の丸石が置かれている。





これらの岩石の意味について東山さんに確認したところ、これらは山をまつるための「仮の石」と表現された。

岩塊、そして上の丸石自体はこの状態のままずっと存在し続けているとのことで、ここ最近に置かれたり、年月を経て石の数が増えたりしたものでもないらしい。

大西眞治氏『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』(2010年再発刊)によると、白石地区から石を持ち出すと病気になると信じられ、他所から石を持ってきて神前に供えるようになったという。このような理由により献ぜられた石かもしれない。


『都祁村史』によれば、雄神神社は昭和の頃から地元だけでなくその霊験がとみに取り沙汰され、関西一円に信奉者が生まれるようになったという。昭和6年に始まった毎11月16日の雄神マツリはその一例で、当社・当山の信仰のありかたに何らかの影響があった可能性も考慮が必要である。


なお、雄神神社から西方の白石国津神社に向かって4つの森がつづき、これらは雄神神社の神が国津神社へ神幸するときに休息した「やすんば(休ん場)」として知られている。

国津神社から雄神神社へ向かうことはなく、必ず雄神神社側から一方向という。山頂にすまう白蛇を踏まえると、蛇神の山―里の進路を疑似するか。

雄神神社から白石国津神社(写真奥の社叢)方面を撮影。

赤丸で囲んだ位置が「やすんば」


参考文献

  • 都祁村史刊行会 編『都祁村史』,都祁村史刊行会,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9575962 (参照 2024-05-27)
  • 大西眞治『白石國津神社の由来―宮座の研究・白石の歴史―』私家版 2010年(原著1982年の再発刊)


2024年4月29日

談山神社の岩石信仰(奈良県桜井市)


奈良県桜井市多武峰


竜ヶ谷の竜神社

竜ヶ谷からは、寺川(大和川と合流して大阪湾に入る)の源流の一つとなる湧水が清らかな流れとなり、また滝となってひときわ神秘的な音楽をかなでている。巨大な岩が露出し、その上には竜神社が祭られている。当地の古代信仰の原始の姿を残す磐座で、祭りの場所となったところだ。(長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』1998年)

著者の長岡千尋氏は談山神社宮司であり、神社の公式見解として重要な記述である。

本書の位置づけは紀行文であり長岡氏自身が記すとおり、単に歴史的事実のみ並べるものでなく資料の紙背を読んで人の心の中の歴史をも縁起的事実とみなすが、基本的には学術的見地に立って著されている。

その本書において、談山神社における岩石信仰・磐座として明記されたものが竜神社のみという「事実」は、本書上梓時の長岡氏のフィルターを通してではあるが、現在の談山神社の磐座のありかたとは様相が異なり興味深い。

(現地では龍ヶ谷・龍神社の表記)

竜神社

滝と同化した露岩を磐座とみなしたもの。社祠底部にも岩石が据えられている。

竜ヶ谷


龍珠の岩座と多武峰縁起

「龍珠の岩座」が『多武峯縁起』に記されているかのように現地看板にあるが、同縁起の該当記述を読むと「堂東大樹邊。異光時時現。」とあるだけで、岩座を含めた岩石の存在は明記されていない。

堂東の大樹の辺りという位置関係から推測、あるいは口伝によるものかもしれないが、先の長岡氏前掲書を加味して批判的にとらえたい。


むすびの岩座


情報収集不足のため由来不明。


厄割り石と厄捨て石

厄割り石

厄捨て石

談山神社では境内の東西に分かれて厄割り石(東殿前)と厄捨て石(総社脇)の2つの岩石が存在する。

名称が微妙に異なるが祭祀内容は同一である。なぜ二か所に分かれることになったのかその経緯が気になる。


参考文献

  • 長岡千尋『大和多武峰紀行:談山神社の歴史と文学散歩』談山神社 1998年
  • 塙保己一 編『群書類従』第拾六輯,経済雑誌社,明治27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879797 (参照 2024-04-29)

2024年4月22日

嶽の立石群 ~嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石~(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原内牧嶽山

 

「嶽の立石 蛇はみの蛇石 こけて鼻うつ唐戸の寝石(だけのたていし じゃはみのじゃいし こけてはなうつからとのねいし)」の里謡で地元で親しまれたという奇石群。

同じ山中に嶽神社が鎮座するが、それぞれの奇石と嶽神社の直接の関係は明らかでなく、現状として神聖視の対象というよりは特別視の範疇にある。

現在は内牧区民の森としてハイキングコースが整備され、近くまで駐車可能である。しかし現地に地図の案内はないので、麓から順にアクセス方法を紹介する。


カラトの寝石/唐戸石

冒頭のGoogleマップに示すとおり、区民の森へ南下する途中で二股路になる。二股の分岐に「カラトの寝石 0.4km」と標識が立っているので、分岐の向かって左をそのまま進む。

左の車道の終点へ着くと、カラトの寝石が東に見える。

明確な駐車場はないが、終点付近に駐車スペースが多少あるので、通行の邪魔にならないように端に寄せれば普通車も駐車可能である。

カラトの寝石が現在の通り名だが、かつては唐戸石の名もあった様子である。



嶽の立石

一般に嶽太郎・嶽次郎・嶽三郎と呼ばれる3つの立石を総称して「嶽の立石」と呼ぶ。

アクセスには区民の森の駐車場を利用できる。

ただし区民の森に至る車道(林道内牧カラト線)は採石場の作業道と共用しており、ダンプカーが頻繁に行きかう(平日の場合。土日は不明)。この車道の離合箇所は少なく、ダンプが近づいていることを事前に知るすべがないため鉢合わせすると場所によってかなり難渋する。

ダンプカーの運転手さんは相当このことに慣れていると思われ、すれ違い時のアシストをできるかぎりしてくれるが、車道始点に「地元車両優先」とあるとおり、迷惑のかからないように通行したい。

区民の森に入ると、1つ目(右側駐車場)と2つ目(左側駐車場)と3つ目(左側駐車場)の3ヶ所の駐車場に大きく分かれている。

1つ目を飛ばして2つ目の駐車場に停めればそこが嶽次郎・嶽三郎の取りつき口となる。

長男的存在の嶽太郎が最初に出てこず不安になるが、太郎は3つ目の駐車場が取りつき口である。このあたりが現地案内になく、私は嶽三郎を見落とした。おそらく嶽次郎の立石からさらに北に続く道を下ったところにあるものと思われる。そこから嶽太郎やカラトの寝石まで周遊できる登山路が整備されているらしいが未確認である。

2つ目の駐車場。この表示もわかりにくいが、嶽次郎・嶽三郎のための駐車場である。嶽太郎はここからさらに奥の駐車場まで進む。

2つ目の駐車場からやや下ると嶽次郎。その先に嶽三郎があるという表示がなく引き返してしまった。

3つ目の駐車場の様子。ここが嶽太郎の駐車場である。

嶽太郎


蛇石(じゃいし)

区民の森を走る車道をそのまま奥まで走らせてよい。車道の終点は路肩に数台駐車できるようにスペースが広がっており、そこに駐車可能である。

車道終点向かって左に蛇石を示す標識があり、踏み跡を進めばすぐ蛇石がみえる。岩石の傍に蛇石であることを示す表示もあるので見落とすことはないだろう。

車道終点。写真左に蛇石の標識が見える。

蛇石。写真右手前に建つ標柱にも書いてある。

別方向から撮影。

以上、一番親切な嶽の立石のアクセス案内を目指して書きました。参考にしてください。


参考文献

  • 内牧地域まちづくり協議会「内牧地域の名所旧跡(神社・仏閣編)」(2018年)https://www.city.uda.nara.jp/s-suishin/machidukuri-kyougikai/documents/2018uchimaki-zinja-tera3mb.pdf
  • 『奈良縣宇陀郡史料』,奈良県宇陀郡,1917.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1900771 (参照 2024-04-22)
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-22)


2024年4月21日

「神定の磐境」と呼ばれた岩石群(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字神定 伊豆神社

 

伊豆神社(高井)

高井鎮座の伊豆神社の地名を神定(かんじょう)といい、伊豆神社の裏山、北西の2か所に「磐境」と名付けられた岩石群が報告されている。

ただし、この「磐境」呼称は明治時代~戦前のいわゆる神籠石論争を経由して生まれた近代用語としての磐境であることに注意が必要である。

それ以前から呼ばれていた名称はないらしいので、本記事でも「磐境」で仮称しておく。

裏山の「磐境」

社殿後方なるは短径三四間、長径十余間の楕円形に、ストーンサークルとして並べられている。中央部にあった数個の石は心なき人によって搬出せられ、其の所在の痕跡をのみ存している。山の中腹を匐ひて廻らされてゐた外廊の環状の一部も近年まで存在してゐたが、漸次破壊せらるるに至ったのは遺憾とする所である。(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

以上の記述であるため、現在みられる岩石の状態は原風景でないということになる。

伊豆神社の境内からそのまま裏山に登るのは難しいため、裏山の東を走る伊勢本街道から取りつくことにした。

街道から細い踏み跡が裏山に続いており、その踏み跡沿いにいくつかの岩石の群れを確認することができる。

伊豆神社裏山にみられる岩石群。現時点で環状かというと疑問符がつく。

腰より下の岩石のため草葉に半ば埋もれている。


北西の「磐境」

矢谷川に臨む突端の磐境も環状の半は残されてゐたが、最近その下方に、弘法大師石像を祀られるに際し基壇として上方より磐境の石を転落して之に用ひられ爲にいたく損傷せらるるに至った。然るに近時学童が残れる一部の巨石の底部から打製サヌカイト石斧三個及び三十数個のサヌカイト破片の一所に埋蔵せられてあったのを掘出した事実がある(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

伊豆神社の北西側の尾根突端はたしかに矢谷川に接しているが、弘法大師像の場所も含めて現地ではよくわからなかった。

伊豆神社と境内を同じくする眞楽寺に弘法大師石像は見当たらず。

伊豆神社・眞楽寺境内にはこのように岩石が寄せられているがその沿革は不明。

岩石の下からサヌカイトの石斧とサヌカイト片がひと固まりに出土したという話は興味深いが、石器と剥片をもって祭祀の磐境と直結することはできず、生活の跡としての岩石の用途を越えるものとはなっていない。


参考文献

  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

2024年4月1日

白岩神社と摩尼山(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原赤埴


当地を治めた赤埴氏所蔵『赤埴白岩社記』(明治‐大正編集・成立の『大和志料』に登場)に白岩神社の由来が記される。このあたりは逵日出典氏の説明が簡便なので下に引く。

室生山の岩窟(後に龍の思想と結合し、龍神・龍王の住む龍穴と呼ばれるようになり、龍穴信仰の対象となる)には、須勢理姫命が入り、巨岩でその口を塞ぎ、更に赤埴土を以って塗りこめ、鎮座していたという。(略)須勢理姫命は最初に鎮まった室生山の岩窟から、延暦九年(七九〇)赤埴の地白岩に遷座し、赤埴白岩神社となったという。この地は赤埴と称し、大平山の尾根が東に延びた摩尼山光明ヶ岳の西南麓に当る。後に仏隆寺の建立を見るが、白岩神社はこの仏隆寺の右に隣接して存在する。延暦九年に遷座したというのは、奈良朝最末期に室生山寺が創建され、やや遅れて龍穴神を祀るための龍穴神社社殿が出現することによると考えられる。(逵 1967年)


室生寺・室生龍穴神社との密接な関係が論じられる。

赤埴の地と室生の地は唐戸峠を挟んだ隣地と言え、地理的にも室生という一大聖地の影響下にあったことは疑いない。

『榛原町史』の調査によると、白岩神社祭神・須勢理姫命については元の祭神ではなく、明治4年に日本神話掲載の神から当時の人が理由なく決めたものであると記されている。

『赤埴白岩社記』そして『大和志料』が編まれた時代を加味して、近世の復古思想がすでにある程度反映されていると考える必要がある(西田 1967年)。


それ以前の祭神は、仏隆寺の鎮守として室生寺でもまつられた善如竜王を勧請した説が濃厚であるが、室生寺の宗教的影響とは別系統で、白岩神社の社名ならびに地名の元となった「白岩」の存在にも言及しないとならない。

この「白岩」は大きく2つの存在に分けられる。1つ目は白岩神社裏山に広がる岩壁である。

寺の東にある白岩神社は摩尼山の白岩(石英安山岩の露出部分)を御神体としたもので社殿は新しい。(『史迹と美術』 1957年)

摩尼山光明ヶ岳の白岩を白岩神社の御神体とみなす記述である。この岩壁は現在も山麓から望むことができる広大なもので、人々の入植以前からこの地に存在し、この地に住んだ人々から視認された存在であったと思われる。

大場磐雄氏は当地を訪れて、以下の所見を記録している。

赤埴に到り、仏隆寺に入る。ここは白岩神社と境内を接し、相並び立てり。なお同社の背後の山上に白岩と称する巨巌あり。名の如く白色を呈して盤居せり。恐らく本社は右の巨石信仰より起りしものならん。なお仏隆寺に存する堅恵上人の縁起絵巻にも、上人が白岩に於いて霊を感得せられし記事あり。(大場 1938年10月30日日記より)

岩壁の名前が白岩で、佛隆寺の縁起にも登場する聖なる岩石であったことがわかる。

麓から望む摩尼山。白岩神社境内からは見えない。

岩壁の近景

摩尼山の岩壁は自然信仰としての白岩であるが、白岩神社背後に2つ目の白岩の存在がある。

大字赤埴鎮座白岩神社は、元現在社殿の東方巨大なる岩壁を信仰した巨石崇拝の神社であったと考へられるが、現社殿の南方佛隆寺観音堂の後方の傾斜地から巨巖のある山中に及んでストーンサークルの配列を認められる(皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 1939年)

白岩神社境内。写真左奥の岩窟は佛隆寺開祖の堅恵が入定したとされる。

神社境内の奥の山林をのぞくと、白岩の一部が見える。

近景。ストーンサークルがこれのことを指すかなどは不明。

この「ストーンサークル」であるが、実際に人為物であるかどうかは批判的に受け止めなければならない。

現在は冬季でも樹林の繁茂が激しく白岩はごく一部しか見えないが、かつて撮影された写真(下のXポスト)を見るかぎりでは、こちらも白岩神社背後という近さから考えて、摩尼山の岩壁と併せてなぜここに神社が設けられたのかという立地要因の選定に関わる存在として注目したほうが良いだろう。



参考文献

  • 逵日出典「辛嶋氏系八幡神顕現伝承に見る大和神幸」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-04-01)
  • 西田長男「室生寺の開基――東寺観智院本『宀一山年分度者奏状』の紹介によせて(二) 」『神道及び神道史』(4),國學院大學神道史學會,1967-09. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2274571 (参照 2024-04-01)
  • 『史迹と美術』27(7)(275),史迹美術同攷会,1957-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6067160 (参照 2024-04-01)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-04-01)

 

2024年3月24日

市岐嶋神社の「ストーンサークル」(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原檜牧 字神田(高星)


『榛原町史』には「市杵島神社 檜牧字神田に鎮座。厳島神社ともいう。祭神、市杵島比売命、境内地三百六十九坪、例祭は八月廿三日というの外知る由もない。」と簡潔に記されるのみの神社である。

竹野(1937年)は社殿周囲に「完全なるストーンサークル」が遺存していると記す。近年、炭竈を築くために西方の一部が破壊されたともある。

市岐嶋神社

社殿の後ろには特に岩石は見られない。

境内の東方を中心に「遺存」している。

列石というより石垣状の石敷を見せて、環状列石の構築とは様相を異にする。

境内地において不要となった採石を一か所に集めた感もあるが、ひとまず東方以外に岩石群は認められず現状として「サークル(環状)」ではない。


参考文献

  • 榛原町史編集委員会 編『榛原町史』,榛原町,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3015347 (参照 2024-03-24)
  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年