2016年4月21日木曜日

ガストン・バシュラール「石化の夢想」(及川馥・訳『大地と意志の夢想』思潮社、1972年)その3

石に変えられた世界のイマージュは、宇宙の美に敏感な詩人のこうした凝視のさなかに出現するか、あるいはまたユイスマンスの作中のように、侮蔑的凝視のペシミズムを帯びるかどちらかであったが、想像力の作用をすべてつくしたわけではない。とくにある詩人たちには、石に変えようという一種の意志がみられる。換言すれば、メデューサ・コンプレックスは内向的であるか、外向的であるかによって、二つの機能をもちうるように思われる。

人間よ
きみに似ている石材を
どうしてもぼくは使うことができない
(『打出なき槌』コルチ版、一九四五年、一七ページ)

ティヴォリで発掘をいくつもやった英国の貴族のことであった。かれは女帝、アグリッパあるいはメッサリナか・・・・・・どちらでもかまわないが、その彫像を発見した。とにかくかれは自分のところにそれを運ばせたが、あまりにほれこんで眺めすぎたか、感嘆しすぎたためか、かれは常軌を逸してしまった・・・・・・大理石であるにもかかわらず、かれはそれをわが妻マイ・レディとよんでは接吻した。かれの言によれば、彫像はかれのために毎晩生きかえるのだ。そのあげく、ある朝この貴族はベッドで死んで固くなっているのが見つかったのだ。

想像する主体が狂気になったといってイマージュを合理化することは、たしかに文学のありふれた手法である。だが、この安易な手法は最終的にはイマージュへの参入の障害となるのである。

ときには、生気のないものを眺めていて、逆にこの意志のとりこになることがある。石、青銅、つまり物質の基盤そのものにおいて不動である存在が、突如として攻撃にうつるからである。

たとえば彫像とは、人間の姿で生まれようとしたがっている石であると同時に、死によって動けなくされた人間存在でもある。そのとき彫像を眺める夢想は、不動化の作用と運動を惹起する作用の律動にのって活動するのだ。夢想は死と生の両面価値にごく自然に身をゆだねるのである。

石化作用のイマージュに、氷結のイマージュや寒気のイマージュを比較するのは、まったく自然である。

たまたま、夢のなかでわたしは葡萄酒を飲むことがあったが、匂いもしないし味もなかった。それにシャンパーニュ人にとって我慢のならないのは、夢のなかで飲む葡萄酒が室温にしてあることだ。それはなまぬるい――当然――牛乳のようだ。夢のなかで冷たいものを飲むことはありえないのである。

とくに新時代の詩人、現代の詩人が、直接的な素速いイマージュ、寒さの全石化作用、全鉱物化作用を数語で生み出すイマージュを作ることができる。

常識の立場から見るならば誇張と思われるイマージュをとりあげよう。というのは誇張の遠近法はひとつのイマージュの力を示すのに特有のものなのだから。ヴァージニヤ・ウルフの小説『オーランドー』にいくつか見られる。まず小鳥だ。空中で凍てつき、ただの石ころみたいに空から突然落ちてくる。凍った川。魚を動けなくするだけではなく、不意うちをくった人間たちまで動けなくする。かれらは川がまた流れはじめるときでさえ、石像のような状態をつづけている。この女流作家はいう(三一~三二ページ)。長い冬の間「氷の猛威は度はずれなものであって、時には石化作用まがいのことまでもする。ダービージャーのある地方で注目を集めた岩石の出現だが、これは溶岩の噴出のせいではなく・・・・・・突然、不運な旅人が凝固し、しかも疑問の余地なく本物の石に変えられたものなのだと広くいわれている。この時に、協会は大した手助けはできなかった。地主の何人かは、これは本当の話だが、この人間のなきがらを、祀った。しかし、多くはこれを境界石に利用した。・・・・・・あるいは形がそれに適しているものは水飲み槽に使用した――大半のものはこれらの役目を現在まで立派に果している。」

このページが英国人の読者とフランス人の読者とに同じ影響をもつとは思われない。まずわたしの考えをのべると、わたしはこのページをいつも同じように読むことはできない。読むたびにつまらなかったり、あるいは面白かったりする。

まったく単純なテーマに関して、読者たちが多様な傾向を示すだけではなく、同一の読者のうちにも読書にさいしいくつかの相違なる気分があらわれるために、判断の可変性のあることが明らかになった。

とどのつまり、結氷が生きた人間を動かなくするということは正しいのではないだろうか。

そうするとこういうちょっとした事実が、夢みることを許可するのであり、宇宙の石化作用開始の許可を与えるのである。


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