2017年2月19日日曜日

朝鳥明神(岐阜県揖斐郡揖斐川町)


所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町上野字馬瀬口

1、朝鳥明神の磐境

小島山(標高八六三メートル)と室山(標高三七四メートル)の間には朝鳥谷(浅鳥谷)が形成されており、谷から流れる沢は揖斐川へ接続している。この朝鳥谷の入口に朝鳥明神が鎮座しているが、類を見ない祭祀形態を持つ神社である(一九六七年、朝鳥明神址として揖斐川町指定史跡になっている)。

一の鳥居は、二本の木柱に竹を渡した〆鳥居と呼ばれるものを建てており、奥にある二の鳥居は素木で組んだ神明鳥居である。二の鳥居の背後に、「案」と呼ばれる供物などを捧げるための台があり、木造と石造の二つが置かれている。石造の案の上には、鏡と四手を収納するための小祠が置かれている。

案の後ろの山林は「神山」と呼ばれ、今も禁足地になっている。この禁足地に列石があり、通俗的に磐境と呼ばれている。中に入ることはできないが、草木の間から顔を出す岩石の群れを確認することができる。まず案の背後に四個の列石が横一直線に並び、その奥に注連縄の巻かれた一個の岩石がある。これを取り囲むかのごとく、さらに奥に四個の注連縄の巻かれた岩石が配されている。

この磐境を使って今も定期的に祭祀が行なわれているというが、はたしてどのような内容なのだろうか。
朝鳥明神
写真中央の森の中に朝鳥明神が鎮座する。

朝鳥明神
特異な〆鳥居。奥に見える簡素な祠が朝鳥明神である。

朝鳥明神
祠の前に案が設置されている。

朝鳥明神
祠の裏は神山と呼ばれる禁足地で、その中に磐境が散在している。



2、冬至祭の実際

朝鳥明神では冬至の日に祭礼が執行されている。冬至祭と通称されているが、厳密には「日迎えの神事」「鸚鵡の神事」という二つの祭礼を総称したものである。祭祀の一連の流れを、清水昭男「揖斐川町朝鳥明神の冬至祭―太陽を拝する磐境・墳墓祭祀―」(『岐阜県の祭りからⅡ』一つ葉文庫、一九九八年)から抜粋してみよう。清水は冬至祭を三度訪れ、その様子を克明に記録している。

(一)準備
・祭祀の執行に際しては、代々禰宜を務めている馬場家を祭主とし、上野地区から執行役員と氏子総代を募った計十四名が中心となる。
・十二月の第二日曜日に、境内で大篝火を点けるための「山」を作る。山は木材を集めて円錐形になるように作る。
・鳥居と磐境の注連縄を張り替える。
・十二月十五日以後に御火採りを行なう。祭主が一の鳥居の前で凸レンズを使い、太陽の力で火を起こす。ただし戦前は火打石を使って火を起こしたという。起こした火はランプに移し、祭主宅の床の間に安置しておく。
・床の間に「朝鳥大明神」の神号軸を掲げ、手前に置いた御供台の上に丸餅、くるみ、干し柿、かやの実、瓶子に入った御神酒、湯桶を供える(供え物のうち、丸餅については以前は赤米だったという。御供台・瓶子・湯桶は根来塗の漆器で室町時代の製作といわれている。これらの供え物は、冬至祭が終わった後も一月十五日までそのまま供えておく)。

(二)日迎えの神事
・冬至の日の午前六時に集合。石造の案の後ろに榊を立て、そこに鏡と紙四手をかける。
・案の上には、ランプ、大般若経十六巻、伽羅木造持経観音像、洗米、塩、丸餅、くるみ、干し柿、かやの実、瓶子に入った御神酒、湯桶を供える。
・六時半過ぎに神事を開始。一の鳥居の前に作られた大篝火の山と参列者にお祓いをする。
・鉢巻に榊葉を挿し、小忌衣に着替えた祭主がランプの火を山に移し、山は火柱となる。

(三)鸚鵡の神事
・六時五十分頃、参列者は案の前に並ぶ。
・祭主がコケコーと三度発声し、それに応えて参列者がオーと発声する。
・ちょうどその頃に日の出を迎え、太陽の光が鏡に反射する。
・祝詞と玉串の奉納。

(四)祭主の挨拶と直会
・祭主の挨拶。
・直会。大篝火で焼いた餅を食べると、邪気を祓い、成長を促進する効果があるという。

炎を起こし、朝鳥の発声をし、日の出の太陽を鏡に迎える。冬至祭は、一つ一つの所作が太陽を意識した祭祀となっていることが容易に理解できる。冬至は、太陽が出ている時間が最も短くその光も最も弱い日とされる。と同時に、これを境に太陽の力が増していく日でもある。太陽が最も弱く見える日の朝に、これ以上弱る危険がないよう、人間の手でできるかぎり太陽を盛りたてる祭りが冬至祭である。

朝鳥明神

朝鳥明神
磐境には注連縄が巻かれrている。

3、文献上の朝鳥明神の歴史

冬至に太陽の復興を願う祭りと聞くと、それこそ文字のない時代に始まったような、きわめて原初的・古代的な耳心地がする。朝鳥明神の祭祀は古代祭祀の遺例と認められうるのか、批判的に検討していきたい。そもそも、朝鳥明神は文献上でいつから登場するのか、どのように記述されているのかということを知る必要があるだろう。

朝鳥明神を記述する古文献は、『美濃国神名帳』に「従五位下 朝鳥明神」とあるのが最初である。『美濃国神名帳』は天慶・天暦・天徳年間(九三八~九六一年)の間に編纂されたと考えられており、延長五年(九二七年)に完成した『延喜式神名帳』にこそ記載はないが、ほぼ同時期の文献に神祭りの場として存在していたことが記録されていることになる。また、口伝では承和年間(八三四~八四八年)に従五位下の神階が贈られたという。

また、寛文年間(一六六一~一六七二年)には、大雨により朝鳥谷が氾濫。その時に朝鳥明神の境内も流され崩れたという。そのため寛文四年(一六六五年)、朝鳥明神は同じ上野字宮前に鎮座する日吉神社に合祀された(岐阜県揖斐郡教育会編『揖斐郡志 全』揖斐郡教育会、一九二四年)。現在、朝鳥明神が「県指定史跡 朝鳥明神址」となっているのはこのためである。しかしその後も跡地で祭祀は継続されたことになる。

このように、朝鳥明神の文献上での最上限は十世紀まで遡れることは確実である。さらに、朝鳥明神禰宜である馬場喜裕の「『条里制』に見る古代国家成立の軌跡―その遺産としての朝鳥明神―」(『郷土研究 岐阜』第九十六号、岐阜県郷土資料研究協議会、二〇〇四年)によれば、朝鳥明神の立地する上野地区は西濃地域の条里の北西端にあたると推定されており、条里区画を行なう際の基準点として朝鳥明神が存在した可能性が高いことを指摘している。

清水「揖斐川町朝鳥明神の冬至祭―太陽を拝する磐境・墳墓祭祀―」(一九九八年)によれば、馬場家には「この地に日の神を斎きて国造をして祀らしめ、阡陌の道を定め、国を開きて民をして安からしむ。これ朝鳥の宮の始なり」という口伝が代々語り継がれていたという。縦横の道を定めて朝鳥明神が始まったというその内容は、朝鳥明神が条里制の基準点だったという解釈と矛盾しない。

近年の研究では、条里制の本格的な開始は奈良時代中期(八世紀中葉)以後と考えられている。地域によって開始時期は若干前後しており、西濃地域は全国の中でも大規模な区画がなされていることから、施行されたのはやや遅めだったとされている。したがって朝鳥明神と条里制の関連を是とするなら、朝鳥明神の上限を条里制開始の最初期である八世紀中葉まで遡るのは難しいかもしれないが、平安時代初期(九世紀代)まで射程に入れることはできるかもしれない。

4、考古学上の朝鳥明神の歴史

朝鳥明神を語るうえで見逃せない考古資料が朝鳥古墳群である。神山の中に朝鳥一号墳・二号墳・三号墳・四号墳の四基があり、文化庁の指定ではいずれも円墳であるとされている。一方、清水「揖斐川町朝鳥明神の冬至祭―太陽を拝する磐境・墳墓祭祀―」(一九九八年)によれば、朝鳥古墳群は三基で、それぞれ東から西へ方墳・前方後方墳・円墳と伝えられると記述しており相違がある。どちらが信頼に足るかだが、重要な点は、朝鳥古墳群は今日現在においても未調査の古墳で測量もされていないということである。測量をしていない状態で、目視で古墳の墳形を確定するというのは実は難しく危険なことであり、現状ではいずれの墳形もあまり信用しすぎるべきではないだろう。

朝鳥古墳群は七世紀の須恵器片が採集されており(清水「揖斐川町朝鳥明神の冬至祭―太陽を拝する磐境・墳墓祭祀―」一九九八年)、山裾に群を形成している点から、私見では古墳時代後期群集墳の条件を備えていると考えられる。後期群集墳は基本的に円墳で築造されることから前方後方墳というのは疑わしく、隣接している二基の円墳を一基の前方後方墳と誤認している可能性がある。そう考えると三基と四基という基数の違いも納得できる。

さて、この古墳がどのように朝鳥明神と関連するのか。地理的な近さから少なくとも言えるのは、どちらかがどちらかの存在を認識したうえで、近くに築造を行なっているということである。墓域だった場所に神祭りの場を設けたのか、神祭りの場を墓域としたのか、あるいは同時に始まったのか。この違いは大きいだろう。

朝鳥古墳群が七世紀の築造と推測されるのに対し、朝鳥明神が条里の基準点の一つとして創始されたとする先ほどの推測を是とするなら、朝鳥明神は古く見積もっても平安時代初期(九世紀代)となる。両者には一世紀以上の開きがあり、古墳群が先行する存在となる。

そこでほかに検討材料はないのかということで目を転じたいのが、冬至祭で用いられるという鏡である。どのような来歴でどういった状態の鏡なのか詳細情報が不明であるが、七世紀の仿製 の海獣葡萄鏡といわれている。海獣葡萄鏡は隋・唐の時代に中国で盛行した鏡型式であり、七世紀の鏡とすると、朝鳥古墳群築造時期の七世紀に並ぶ可能性が浮上する。しかし製作年代が七世紀としても、それが朝鳥明神に奉納されて祭祀に用いられた年代は後世の可能性もじゅうぶんありえる。したがって海獣葡萄鏡の存在をもってしても、朝鳥明神の創始時期を朝鳥古墳群の築造時期と同期させることは難しい。

以上の検討を踏まえた結果、朝鳥古墳群が築造された後に、朝鳥明神は創始されたと考える方が可能性としては高い。祖先葬送の場に神祭りの場が築かれた形となるが、当地の立地環境は、小島山と室山が形成する谷間の川沿い山麓にあり、「平野と山の境界」「谷間川沿い」という山岳祭祀の条件に忠実に沿っていることも見逃せない事実だろう。

5、磐境の役割について ―太陽運行の観測装置説の検討―

ここまでは、朝鳥明神という聖地そのものがいつまで遡りうるものなのかということを追究してきた。結果、文献史学的に平安時代初期までは朝鳥明神の存在をおおむね肯定でき、考古学的にはさらにそれ以前に朝鳥古墳群が存在したことがわかった。

けれども忘れてはならないのは、朝鳥明神という聖地で行なわれていた祭祀の内容が、最初から現在まで同質の内容で続いているとは限らないということである。名前と場所は一緒でも、祭祀の性質が変容している可能性は依然として残っている。つまり、冬至祭と磐境についての批判的検討がまだ必要なのである。

冬至祭において朝鳥明神の磐境が登場するのは、神事の準備段階として注連縄が張り替えられる場面だけである。祭礼の動きを追うかぎりでは、磐境は決して祭祀の主役となっていない。

しかし、磐境のそれぞれの岩石は太陽運行の節目節目を知るための観測装置だったという説がある。磐境の最も奥に位置する四個の岩石から、磐境の中央部にある一個の岩石を結んだ線が、それぞれ右から冬至・中日・立夏・夏至の日の出方向にほぼ一致するという。冬至と中日の間には立秋に相当する岩石があったのではないかとも想定されているが、どうやらこれは現存していないようである。実測もされたといい、それぞれの運行線の正確な線分には完全に一致しないようだが、現象面として確認する分には問題ないほどの精度であるという。

しかし、筆者はこの説には否定的である。

一つは、朝鳥明神は寛文年間(一六六一~一六七二年)に洪水で流されている。岩石の配置は祭祀当初の原位置をとどめているとは考えにくい。

二つは、朝鳥明神において執行されている祭祀はすべて冬至の太陽を志向している。中日・立夏・夏至などの祭礼は伝えられていない。祭祀資料に忠実であるかぎり、冬至以外の太陽祭祀の可能性を結びつけるのは、逆に朝鳥明神の本質を見失うことにつながる。

三つは、冬至祭において太陽光を浴びる装置は磐境ではなく、海獣葡萄鏡になっていること。祭祀において、岩石は観測装置として働いていないと言わざるをえない。

四つは、磐境の祭祀方向に対する疑問である。拝所から磐境を拝む方向は西だが、西は日の出を観測する方向ではなく、むしろ日没を観測するのに適した方向である。冬至・中日・立夏・夏至にあたる四個の岩石が、たとえば日没を観測するものであるならば、岩石の下に太陽が落ちていくというのを現地で実感することもできるだろう。だが、それぞれの日の出を見ようとするなら、禁足地である神山の奥に回りこんで、四個の岩石それぞれから、磐境中央部の岩石を通して観測しなければいけない。現状の祭祀のあり方から考えるときわめて不自然である。

そもそも、観測装置というものは必要なのだろうか。太田原(川口)潤「大規模記念物と二至二分」(小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編『縄文時代の考古学11 心と信仰―宗教的観念と社会秩序―』同成社、二〇〇七年)は、縄文時代の配石遺構や巨木柱列が二至二分 の観測装置だったのではないかという巷説への批判的研究となっている。その中で太田原は「太陽の出没点の位置変化には一定の範囲があり、ある点より南側、あるいは北側からは決して日が昇ったり沈んだりしないこと、出没点の移動は等速ではないがサイクルはきわめて規則的であること」から「二至二分を認識すること自体は本来容易なことであり、観察は必要であったとしても、そのための装置などは不要なのだ」と看破している。

さらに、二至二分などは中国の太陰太陽暦の二十四節気に基づいて重要視される概念だが、暦法の概念に縛られず、生業のために太陽が特定の場所から出没することを記憶することで季節の節目を把握していた時代においては、二十四節気に基づかない現地の環境にあわせた季節の把握がなされていただろうことを指摘している。

したがって、朝鳥明神が冬至に焦点をあてているのは、逆に暦法に縛られない体感的な季節把握をしていたことを示す証拠と言える。何もむやみに二十四節気との関連性をライン引きでつなげていくことが、当時の人々の心性に一致するとは言えないのである。

尾関章「『あとがき』にかえて」(美濃古墳文化研究会編『美濃の前期古墳』教育出版文化協会、一九九〇年)では、朝鳥明神から冬至の日の出方向に線を引っ張っていくと、ライン上に宗慶大塚古墳(岐阜県本巣市真正町)・白鳥塚古墳(愛知県名古屋市守山区)の二基の著名な前方後円墳が位置すると指摘しているが、宗慶大塚までは十キロ以上、白鳥塚までは五十キロ以上離れている。現地では体感できないほど距離が離れすぎているばかりか、わずか三点を結ぶ直線で関連性を説くのは控えなければならないだろう。

偶然を超えた意図性を述べたいなら、たとえば宗慶大塚と白鳥塚の古墳の主軸が一致する、あるいは前方部や造出しの向きが日の出方向に沿うといった規格性が見られるべきだろう。古墳同士の規格も、たとえば互いの墳丘が相似関係にあるといった築造プランの共通性が指摘されるべきである。また、宗慶大塚と白鳥塚がライン上に乗るなら、朝鳥明神から一番近い位置に造られた朝鳥古墳群もライン上に乗ってしかるべきだが、方角的に考えてどうやら朝鳥古墳群は乗らないようだ。ラインに乗る古墳だけがこの手の論では注目されがちだが、ラインに乗らない古墳に対するフォローは用意されていない。

そもそも朝鳥明神の現地に立って冬至の日の出方向を向くと、朝鳥明神の神山から伸びる丘陵が目の前を塞いでおり、冬至方向には古墳はもちろん、その向こうに見えるといわれる東谷山(愛知県名古屋市守山区)も猿投山(愛知県豊田市)も目視することができない。

「現実には青垣をなす山並みがあり、景観やその標高を無視した検証は無意味である」(太田原「大規模記念物と二至二分」二〇〇七年)。これらを踏まえると、ラインに見えるものの実際の論証は粗いものであり、意図的な規格性はないと考えられる。

さて、磐境の役割に話を戻そう。磐境は祭祀中に観測装置や神の憑依物として機能していないことは先述した。ほかに何かの働きをしているといった所作も聞かれない。ただ祭礼の前に注連縄が張り替えられるだけだ。そうであるかぎり、磐境は字義どおり、そこが神域であり禁足地であることを示す結界石(BCA類型)の役割を担っているという評価が最も適切である。後世の自然災害による改変、それに伴う二次的配置がなされていた可能性は高く、原初の状態そのままの配置であるとは考えにくいが、かつてからの神域であったという磐境の認識は継続していたのだと思われる。

朝鳥明神における岩石の役割は補助的なものであり、あくまでも祭祀道具の主役は海獣葡萄鏡だった。ただこれまで述べてきたように、冬至に日の出の祭祀を行なった古代の太陽信仰の事例であることはどうやら確かなようであり、祭礼自体の貴重さはもっと知られていいだろう。
後世の付会や「新説」の波に翻弄され、冬至祭の本質を見失わないように祈りたい。

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インタビュー掲載(2024.2.7)