2025年5月18日日曜日

『松尾山寺遺跡』~山林寺院と岩石信仰の関係事例~

立命館大学考古学研究会[編集・発行]『松尾山寺遺跡―平安京周辺山林寺院の調査・研究―』(2025年)が発行されました。

2003年、初めて松尾山を紹介されてその時に登った一人として、20年越しの区切りを見た思いです。

 

京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。

京都で見つかっている、古代から中世にかけての山林寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。


灯明を灯すための皿が多く出土した同市内の梅ヶ畑遺跡との関連性が挙げられていて、興味深く読みました。

梅ヶ畑遺跡は発見当時、仏教系祭祀遺跡という位置づけでしたが、京都市埋蔵文化財研究所による遺物再整理を通して寺院跡という見直しがされていたことも初めて知りました。


報告書では、岩石信仰と山寺の近接性も指摘されていました。

正確に書けば、報告書上では「岩石信仰」ではなく「磐座」「巨石」「巨岩」の3つの表現が同義的に使われていました。

当会の過去会報『考古館』での私の議論(2001年~2003年)が継承されていないのは残念ですが、継承できなかったのは私の力不足でもあります。


巨石信仰・巨岩信仰という言葉自体が不適切というわけではありません。

"巨大な岩石"という"巨大さ"に信仰の要因の重きを置く文意として使ったのであればアリだと思います。

実際、松尾山の磐座も類例として挙げられた大宮釈迦谷遺跡・西賀茂妙見堂遺跡の事例も"巨大な岩石"と言えるので、巨大なものへの信仰という共通性はあるでしょう。

ただ、せめて巨岩と巨石の表現一致は欲しいところです。
(石と岩の概念整理)


山中の寺院と平地の神社との関係、社地に対する神宮寺としての関係なども問題提起されていました。

報告書では明示されていませんでしたが、管見のかぎりではに岩石信仰との関係も複数事例を挙げることができます。

その辺りをまとめると下のとおりです。

遺跡名岩石寺院神社古墳
松尾山寺遺跡
名称磐座(ご神跡)松尾山寺松尾大社松尾山古墳群
立地山頂直下山腹平坦地山裾山頂尾根
梅ヶ畑遺跡
名称石塊・巨岩群御堂ヶ池古墳群
立地山頂・山頂直下山頂山頂尾根
大宮釈迦谷遺跡
名称巨石釈迦谷廃寺上賀茂神社
立地山腹対岸平地
西賀茂妙見堂遺跡
名称巨石霊巌寺上賀茂神社
立地今昔物語伝承上対岸平地
上賀茂神社
名称降臨石神宮寺上賀茂神社
立地神山山頂神宮寺山山腹神宮寺山山裾
参考:滋賀県日吉大社事例
名称金大巌日吉神宮寺日吉大社日吉古墳群
立地山腹山腹山裾山裾~山腹

突貫で作ったので色々調べが足らないところもありますが、岩石と山林寺院の関係については距離の近さ/遠さをどのように評価するかという論点は提示できます。

滋賀県日吉大社事例では、金大巌と日吉神宮寺が山域を分け合って存在していたという説が出されており、他例でも検討されるべきテーマです(「金大巌と日吉大社の岩石信仰」)。

梅ヶ畑遺跡の石塊と寺院跡は立地を同じくする同居例と数えられるかもしれませんが、梅ヶ畑遺跡における岩石信仰は厳密にいえば山頂の石塊と山頂直下斜面上の巨岩群(銅鐸出土地で今は消失)の2地点に分かれます。

この場合、寺院跡と銅鐸出土地の巨岩群とは、直線的な距離とは別で、立地としての空間の分け合いが認められます。


その観点から松尾山をふりかえると、松尾山の磐座(ご神跡)は山頂直下斜面上に存在するのに対して、松尾山寺は北に離れた山腹平坦地に築かれています。尾根は1つ分またいで山域を分け合っているという考え方もできるかもしれません。


神社については梅ヶ畑においてこれといった神社が指摘できませんが、古墳については報告書でも指摘されているように古墳時代後期の群集墳が共に存在しています。

これらの立地は、山頂尾根に数十基が分布しており、岩石信仰の関係でみれば、梅ヶ畑は古墳のすぐ上に銅鐸埋納地の巨岩、松尾山は逆に磐座(ご神跡)の上の尾根に古墳が築かれています。

その点で両者の立地に統一性があるわけではありませんが、それは自然石が人の手によらない地質的存在であることと、古墳は尾根上のほうが作りやすいという築造条件によるものなど、信仰上の問題とは別の要因も考えないといけません。

言い方を変えれば、そのような諸条件・諸要因による規制を受けても問題ないという信仰のありかただったとも言えます。


対応する神社や古墳を指摘できない事例もあるので、前掲表の事例群がぞれぞれ比較対象として適切かには異論もあると思いますが、時代を越えて山地利用をおこなう際に、それ以前に存在した「聖地」を後世の人々がどのように位置づけて、山での同居ないしは住み分けなどを図っていたかはさらに注目されてよい問題でしょう。


立命考古研の皆様には、山林寺院跡発見によって測量が途絶した松尾山古墳群の調査の再開を望みたい、と勝手な希望を記して今後の活動継続を祈っています。


2025年5月17日土曜日

「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」オンライン参加方法

先日お知らせした

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

このポスター発表について、予稿集と参加方法が発表されたのでご案内いたします。


予稿集より


日本列島の自然石文化と岩石の信仰

吉川宗明

キーワード:自然石文化、岩石信仰、磐座、巨石、鑑賞石


人が岩石をどのように利用したかではなく、人が岩石に接してどのように感じたかに注目したい。

自然に存在する岩石に影響を受けて生まれた文化を自然石文化と呼ぶ。その一つの極致が、岩石を神や仏、精霊としてあがめるなどの岩石信仰である。自然石のまま信仰する場合もあるが、場所だけ動かして並べたり積んだりして祭りをする場合もある。また、場所は移動しないが自然の岩肌に図像や字を刻んで拝む場合もある。もちろん、石材として完全に切り出して整形したうえで成立した信仰もある。

岩石にどれだけ手を入れたかという違いはあるが、これらはすべて、岩石が露出した時の自然の姿に対して抱いた心理の差とも言える。一方で、自然石を見て石材として用いない選択をした心理や、神仏として崇めるにいたらなかった心理、そもそも岩石を意識することなく放置したという心理のありかたも存在する。岩石と一言でまとめても、自然石のありかたによって人の感受性には多様性が認められる。

本発表では、磐座や巨石信仰と通俗的に呼ばれる岩石から、そのような用語では当てはまらない数々の岩石信仰の事例も紹介して、岩石信仰の領域の理解につなげる。さらに、自然石に美を見出した水石や庭石などの鑑賞石、聖でも美でもない民話のキャラクターとして登場する岩石など、自然石文化の裾野の広がりも明らかにする。

人間と岩石の精神的な関係は、さまざまな学問において分析されるべきテーマということが伝わる発表を目指す。


大会サイト:日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会

発表日時・場所


■ 発表日時
2025年5月25日(日) 9:00~19:15

※JpGU大会の会期は2025年5月25日(日)~30日(金)ですが、5月25日のみパブリックセッションデー(一般公開日)として一般向けのパブリックセッションが用意されています。パブリックセッションは事前登録の上で無料参加・観覧ができます。
吉川の発表はパブリックセッションで、地学関係者に限らず一般の方向けにポスター掲示を行います。

■ ポスター実物掲示会場 
幕張メッセ国際展示場 7・8ホール
※入場には事前登録が必要

■ オンライン掲示URL
オンライン上のポスター掲示サイト「Confit」
https://confit.atlas.jp/guide/event/jpgu2025/subject/O05-P02/detail
※ログインには5月24日までの事前登録が必要

吉川はオンライン参加ですので現地会場にはいません。
ポスターはConfit上でいつでも観覧できますが、コアタイムと言って発表者が質疑応答で常駐する時間が定められています。
コアタイムは、5月25日(日)17:15〜19:15です。この時間帯はConfit内で待機していますので、Confit内のコメント機能を使って、発表者と質疑応答(チャット)を交わすことができます。吉川と会話したい方はこの時間内でどうぞ。

参加方法

オンライン(Confit)上で参加する方法を案内します。

発表日前日の5月24日(土)までに、下記の申込フォームから申し込んでください。

「パブリックセッションオンラインポスター参加申込フォーム」
https://business.form-mailer.jp/fms/6108b4b4144375

大会事務局より、ConfitにログインするためのIDが無料で発行されます。5月25日 1日限定のIDです。
お手数をかけますが、パスワードも設定していただく必要があります。

大会当日(5月25日)に申込しても、大会事務局は当日会場で運営に専念するため、IDの発行はできないとのことです。ご注意ください。

その他詳細は以下の参考リンクにてご確認をお願いします。


参考リンク

一般公開(パブリックセッション)参加者の方へ|JpGU2025
https://www.jpgu.org/meeting_j2025/for_public.php


2025年5月12日月曜日

鍋石(静岡県浜松市)

静岡県浜松市天竜区春野町川上

この鍋石で最後に雨乞いが行われたのは昭和一八年ごろだったという。続く旱天に畑や焼畑の作物はすべてうなだれ、猫の額ほどの山田の稲も萎えてしまう。何日も何日も雨が降らない――こんな時、川上の人々は相談して、こぞって鍋石へむかう。そして、石の上へのぼり、塩を撒き、全員で般若心経を唱えるのだった。そして、鍋と呼ばれる穴の水で男達は褌を洗う。洗い終えてから鍋の水を全部汲み出すのである。鍋の水で褌を洗うというのは水神の座である鍋石の聖水で不浄の物を洗うことによって水神を怒らせ、水神が、不浄を清めるために雨を降らせることを期待しての行為である。いわば、「聖水汚染型」の雨乞い呪術なのである。
野本寛一『石と日本人』樹石社 1982年

同書にのみ登場する岩石祭祀事例で、他の文献では見かけない場所である。この鍋石の所在を特定することにした。

野本氏の記述によれば、春野町の川上のはずれに外山(はずれやま)という小字があり、そこに流れる杉川沿いを1kmほど歩くと断崖下の川の中に鍋石があるとのことである。
石の上には鍋状の穴があり、常に水がたまっていて百人は座れる規模とも書かれている。

他のヒントとして、鍋石で雨乞いをしても雨が降らない場合は、鍋石からさらに2km進んだ「玄馬の滝」でも雨乞いしたといい、このあたりの情報を綜合すればおおよその位置が絞られる。

杉川沿いには現在、杉川林道が通っていて、ずっと北上すると「玄馬沢」と呼ばれる谷間と分岐する。この沢にぶつかるまでの杉川沿いにあるのだろう。


春野町には浜松市春野歴史民俗資料館があるので、地元の民俗について情報をお持ちかもしれないと考えて訪れた。

館員の方々は異動などもあり現在は地元在住の方がいなかったが、ゼンリン住宅地図で探していただいた。
地図には杉川林道がぎりぎり端に掲載されており、そこに「外山沢橋」の名を見つけた。そのあたりを外山と呼ぶらしく、ここから玄馬沢の間に穴に水が溜まった岩石を認められれば良い。


杉川林道の起点(川上地区の宝珠寺あたり)からしばらくは、杉川には氾濫対策のための護岸工事やテトラポットなどが並べられており、鍋石に影響が及んでいないか不安視された。

杉川林道始点

舗装された杉川

それでも林道起点から約25分歩いた、川が大きく蛇行した湾曲部の西岸に、下写真の場所があった。
(35°03'20.83N, 138°01'39.60E)

杉川林道上より、南から撮影

拡大写真

北側から撮影

これまでに見た川辺の岩のいずれよりも大規模で、重要なこととして水のたまった穴(窪み)が岩上に確認できる。

上から撮影。水の溜まった窪みが見える。

拡大写真(写真中央)

野本氏が記したように百人座れる規模であり、外山より北、玄馬沢より南という位置も踏まえて、この岩石が鍋石ではないかと推定される。現在も変わらず存在が確認できたことは大きい。


探訪時は知らなかったが、帰宅後に調べてみると「林道のその先に」のページ内に「〇石橋」と冠された橋があることも知った。

作者の方は銘板が達筆すぎて読めないと判断保留されているが、「昭和四十二年十二月竣功」「鍋石橋」と思われる。
この鍋石橋が杉川林道のどの地点か確認できなかったのは心残りだが、それまで通った4つの橋(柳沢橋・水車沢橋・外山沢橋・小垣沢橋)には該当しなかった。おそらく上記の鍋石の地点を越えた先の次の橋と考えられる。


2025年5月5日月曜日

岩畳神社の神歌石(愛知県豊川市)


愛知県豊川市御津町泙野新屋敷 御津山
神歌石
泙野字新屋敷に在り険阻なる岩窟なり三河藻塩草に云昔この処に御津神社の別当在ますとあり自然の石窟の如き石がまへありて小社ありこれを石畳荒神と称す蒼海を眼下に見はらして景色いとよき処なり
早川直八郎, 早川彦右衛門 著『三河国宝飯郡誌』,早川直八郎[ほか],明24-26. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765323 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。
御津大神此山へ昇進し玉ひ、南海を見下し、景色自ら称し一首の御詠吟に、大嶋や千代の松原岩畳くずれゆくとも我はまもらん
御津町町史編纂委員会 編『御津町史』史料編 下巻,御津町,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12158035 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。




岩畳神社の社殿背後の斜面上に存在する。岩畳神社は古文献上では石畳荒神・岩畳荒神の名で記される。

御津大神がここで歌を詠んだ伝説から神歌石の名がある。他で聞かない命名であり、読みかた(音)は「しんかせき」で良いのかわからない。

眼下に海をおさめる眺望の良さがうたわれているが、現在は樹林繁茂によりその景観を追憶できない。

神歌石から岩畳神社社殿を見下ろす。

岩畳神社の社殿も岩肌に接して築かれる。


2025年5月3日土曜日

朝熊山の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市朝熊町


朝熊山の岩盤

朝熊山の頂上展望台に岩盤があり、それが朝熊山の磐座ではないかという話がある。





朝熊山頂展望台の名前をもつが、厳密にはこの山の最高所はここ(標高506m地点)ではなく、西のピーク標高555m地点が朝熊ヶ岳頂上である。
西ピークには龍池という聖なる池があり、そこに八大龍王社がまつられる。その南の経ヶ峰と称される一帯からは、経塚の遺構・遺跡も見つかり朝熊山経塚として知られている。

このように、朝熊山の信仰史における山頂は、岩盤がある東ピークではなく西ピーク側で語られてきた。しかし、これほどの規模の岩盤が展望台建設まで人に見つからず、歴史的に見過ごされてきたとも考えにくい。何かしらの記録が残っているのではないか。

本記事は、この岩盤を巡る諸説をまとめたものである。

藤本浩一が見た「岩船」

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)では、朝熊山に「岩船」なる岩石があったことを記している。
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置してある。直径二メートルの上面は鏡のように滑らかで、高さは五十センチくらいである。注連縄をめぐらして礼拝できるように灯明をともしている。なぜ山上から民家へ降ろされたのか、当主が不在であるためわからなかった。(藤本 1982年)
朝熊山にあったという岩船が、後に市中の民家に移されたという話である。
なぜ民家の当主が不在なのに、別人の案内で室内を拝観できたのかが気にかかるが、藤本の記述では場所が特定できない。

岩船の文献調査

この岩船は江戸時代から戦前にかけてよく知られた存在だったらしく、さまざまな文献に登場する。

正保年間(1644~1648年)に伊勢神宮神官の度会清在が記したという『毎事問』下には、伊勢の諸事について問答形式で答える中で、次の問いが載せられている。
磐舟とて舟形なる石に注連を環らし太神宮の乗給ふ舟なりと云、何れの時に太神の此舟にて是山へ来り給ふや
(神宮司庁編『大神宮叢書 第6 前篇』1940年。カタカナをひらがなに直した)
藤本が記した、天照大神降臨の天の岩船という話はここから出たものだろう。
この問いに対して、度会清在は石が水に浮くわけがなく、また、山に船が行くというのは理に合わず、実物を見ても小さくて人ましてや神が乗る場所はないことから「妄作漫言」の類と正論をもって一刀両断している。

伊勢神宮公式側に立つ渡会家の人物よりこのような辛辣な答えが返されたからか、それ以降の文献において天照と絡めた話は出てこなくなる。

正徳3年(1713年)の『志陽略志』には「岩船明神社」の名で登場し、「朝熊山にあり、何れの神を祀るか知らず、是を鎮守として祀る」とある(中岡志州『志摩国郷土史』中岡書店 1975年)。
神社としてまつられているものの、天照の船であるという話は取り除かれており、神名不明の鎮守(朝熊山のかどうかは読み取れない)と位置付けられている。

寛政10年(1798年)の『皇大神宮参詣順路図会』になると、岩船は瑞宝院なる禅宗寺院の堂内にあると書かれる。岩船は縦7尺、横3尺、厚さ2尺を計り、これを岩船の宮と呼ぶと記す(『大日本地誌大系 第11冊』1916年)。仏教色の濃い扱いとなる。

嘉永4年(1851年)の『勢国見聞集』では、巻九に「岩船弁財天」、巻十六に「岩船」の名で登場し、いずれも縦2尺、横7尺、高さ2尺と記される(『松阪市史 第8巻 史料編 地誌 1 勢国見聞集』松阪市史編さん委員会 1979年)。『皇大神宮参詣順路図会』とは縦横の寸法が逆転して1尺ほどの差はあるものの、同一物だろう。
この尺貫法をメートル法に直せば、藤本が記した直径2m、高さ50㎝におおよそ符合する。
岩船は弁財天をまつると記され、由来不詳の鎮守は弁財天となった。山中の位置も詳細に記され、朝熊山参詣道の路傍に、西国三十三観世音と共に同じ堂内に置かれていたという。

さらに時代が下り、1905年に霞雪(筆名か)という方が残した朝熊山の探訪記「しま巡り」によると、岩船弁天は船形の自然石の上に弁財天を安置していたと記している(『日本弁護士協会録事』84号 1905年)。この時も岩船弁財天としての信仰で続いていた様子が覗われる。

文献上では、天照の岩船が否定的にみられたのち、神名不詳の鎮守となり、後に弁財天に仮託されたという信仰史が描き出せるだろう。

岩船があった朝熊山内の場所とは

この岩船は、朝熊山の頂上ではなく参詣道中の堂内にあったという。それはどこだったか。

寛政9年(1797年)の『伊勢参宮名所図会』巻五には朝熊山の名所が紹介されている。この紹介順は麓からの参拝順とみなしてよい。
岩船弁財天は、楠部嶺、一宇田嶺、弘法茶屋の後で、萬金丹(野間茶屋)、下乗、金剛證寺の前である(『大日本名所図会』第1輯 第4編 大日本名所図会刊行会 1919年)。絵図にも万金丹の茶屋の奥方(下斜面)の道沿いに「岩船」と注記された建物(堂)が見える。

天保3年(1832年)の『伊勢朝熊岳之絵図』を見ても、野間の万金丹本家から内宮道を下って行った絵図奥に「岩船弁天」の建物が観音堂に接して描かれている(『伊勢朝熊岳 金剛證寺』金剛證寺 2024年)。観音堂は前述した西国三十三観世音をまつる堂と思われる。

日本初の山岳百科事典と称される高頭式編『日本山岳志』(1906年)でも、朝熊山を登山順に紹介する中で岩船弁財天堂が記される。
場所は、大黒岩の先で萬金丹薬館の前であり「朝熊嶺より下乗にいたる右傍にあり、社宇の内に状船に似たる巨岩あり、長七尺、横二尺、高三尺許、是を弁財天女に祀る」と記す(高頭式『日本山岳志』野島出版 1970年。カタカナをひらがなに直した)。

これらの情報を綜合して現地に当てはめると、岩船弁財天の場所が大体絞り込める。
朝熊岳道のうち、内宮から金剛證寺にいたる内宮道(宇治岳道)の路傍にあり、位置は弘法茶屋や大黒岩よりは上で下乗や野間茶屋よりは下ということになる。

そして、とどめは大場磐雄博士の『楽石雑筆』1940年~1941年の記述にある(『大場磐雄著作集』第8巻 雄山閣出版 1977年)。
大場博士は朝熊山にある「明暦元年十二月三千日参碑」の記録と撮影をおこなっており、「同碑は岩舟弁財天右側にあり」と明記している。

さて、以上の情報を地図上で綜合しよう。
三重県環境生活部文化振興課が作成したウォーキング・マップ「朝熊岳道」がpdfで公開されており、この中の7ページ目「宇治3・A」の地図番号18が「野間万金丹本舗跡」である。
そして、地図番号7の「地蔵結願碑」に、「明暦元乙未歳十二月□ 日」「三千日結願碑」の刻字があることから、大場博士が記録した碑と同一物であることがわかる。

岩船弁財天の堂は、この碑の右側にあったということでここに位置が確定できる。
そして今、現地には堂も岩船も存在しない。

岩船が移された「民家」の場所とは

戦前1940年代初頭までは大場博士の記述によって岩船弁財天が朝熊山中にあったことはわかるが、その後、おそらく戦前戦後の時期に弁財天の堂は撤去され、岩船は山の下におろされた。

藤本は岩船を市中の「民家」で見たというが、仏壇と共に室内にまつられ、しかも民家の当主なしでも拝むことができていた。このことから、民家は民家でもある程度不特定多数が見れる位置にあったか公開されていたか、というところだろうか。
しかし、伊勢内宮前の市中でそのような場所があれば、すでに岩船は誰かによって位置が特定されているものではないか。
一般的な私的な民家でもないし、外から見れる場所でもないように思える。

このあたりの前提を踏まえて調査した結果、唯一、ヒントになりうる情報を見つけた。

皇學館大学名誉教授の櫻井治男氏が翻刻した「資料翻刻『神三郡神社参詣記』(四)」(『皇學館大学神道研究所紀要』第4集 1988年)に、以下の記述を見つけた。
表江出て右側に、高き石垣内ニ松の木ある広き屋敷なり、慶光院殿の御宮なり、南の方石の鳥井あり弁財天女の社なり、此弁財天神路山二有しを、秀吉公御再建之時此所江移し祀り給ふト云、御建立の時御湯立かまあり、今奥にある岩船弁財天も元ハ当院の支配なりト云、石鳥井内ニ瓦屋根之内に社(櫻井 1988年)
岩船弁財天の名がここで登場する。

慶光院の屋敷内、南のほうに石鳥居があり瓦屋根で葺かれた社があり、弁財天をまつる社だという。
そして、この弁財天は秀吉時代に神路山から移したものだが、「今奥にある」岩船弁財天も慶光院の支配下にあったと読める。

慶光院は内宮前の宇治の街中にある。


元は尼院だったが明治2年に廃寺となり、明治5年からは神宮司庁の所有となり今に至る。
基本的に非公開の施設で、年にごくわずか公開日があるらしい。
公開日に見学した人が弁財天の社を実際に見たかの情報が欲しいところだが、このように特殊な性質を持つ屋敷であり、藤本浩一が案内を受けた人が神宮司庁の関係者やある程度寛容に入れる時代の空気だったならば、個人の私邸でないからこそ中に入ることができた可能性が浮上する。

『神三郡神社参詣記』は世古口藤平が明治初期に見聞した伊勢の神社地誌であり、ちょうど寺から所有者が変わる頃の記録ということになる。

本書の記述の「今奥にある」の意味がとりづらい。
「今」は明治初頭を指すが、「奥」は秀吉期に移した弁財天社の「奥」にあるという意味なのか、宇治の街中の奥にある(つまり朝熊山)という意味なのかがわからない。

素直に読めば前者だが、『日本山岳志』や霞雪氏の記録、そして大場博士の記述を踏まえると、この頃はまだ岩船弁財天は朝熊山中にあったと思われ、場所が矛盾してしまう。

岩船弁財天「も」「元は」当院の支配だったという書きかたから、神路山の弁財天とは別の存在であり、離れた場所の岩船弁財天も元・慶光院の所有だったと書いていると理解できる。
もし神路山の弁財天の奥という意味なら、すでに慶光院の屋敷内にあるので、わざわざ当院の支配などと書く必然性に欠けるというのもある。

ならば、岩船弁財天が山中から移された先も、所縁のある慶光院にあるという推測が成り立つ。元所有者とも言え、すでに神路山の弁財天社も移されている地だから追加して移しやすい風土がある。

懸念点は、当然非公開なので推測に過ぎないということと、藤本浩一がなぜ慶光院と書かず民家という書きかたをしたかである。
慶光院ほどの場所であれば個人の民家とは違い公共性があるので、名前を出して書きそうなものである。
また、昭和時代の鷹揚さはあっただろうが、それでも神宮司庁の庁舎であり他人の案内で入れたのか。さらに、「当主」という書きかたをしたのも気になる。個人邸を念頭に置いた書きかたとも言える。
そういう点では、慶光院そのものではなく、慶光院の関係者や子孫縁者に属する方の邸内に移されている可能性もあり、その場合は秘匿性が増すので所在確認の難易度は大いに高まる。

いずれにしても、時機到来して慶光院の公開日に見学できれば確認したいし、すでにご覧になった方の情報提供を待ちたいところである。

再び朝熊山の岩盤へ…

長い「寄り道」の末、冒頭の山頂展望台の岩盤へ話を戻そう。

これまでの調査を踏まえれば、岩船は朝熊山岳道の道中(山腹)にあったため、件の岩盤とは無関係の存在となる。
(ただし、仏堂以前の『毎事問』『志陽略志』の時期も同じ場所に存したかははっきりしない)

その他、朝熊山で伝え継がれているものとしては次の岩石がある。

  • 天狗石
  • 大黒岩
  • 朝字石
  • 獅子岩
  • 独鈷石
  • 二法石
  • 心経石
  • 畺目石
  • 七日石

すべて朝熊山の名跡として各種文献(坂本徳次郎氏『二見浦名勝誌 附 神都案内』二見興玉神社々務所 1913年 ほか)に列挙されるのだが、この内、位置がある程度確定できるのは前3者(天狗石・大黒岩・朝字石)に限られ、少なくともこれらは展望台の岩盤を指さない。

さらに、七日石はおそらく七社神(朝熊の鎮守という)にある岩石で、七社神は金剛証寺境内の薬師堂の社(法光院)という記述があり(『皇大神宮参詣順路図会』)、文殊大満獅子石ともあるので上記の獅子岩と同一かもしれない。ならばこれらも異なる。

逆言すれば残りの岩石名(独鈷石・二法石・心経石・畺目石)については、件の岩盤を指す可能性がまだ残っている。

金剛證寺境内。顕彰碑の前の壇上に置かれる自然石。このような岩石にも名があり歴史がある可能性を否定できない。

最後に、朝熊山縁起に関わる話を紹介する。
室町時代成立とされる『朝熊岳儀軌』には、赤精童子・雨宝童子が朝熊山の三鈷洞傍らの岩石に立ったという縁起がある。

この岩石には「朝」の字が足跡として残ったという故事から朝字石の名がつき、それは境内の連珠池の池の中にあるというが見ることはできない。
なぜならこの池は常に濁っているのが良いとされていて、清らかなときは変異の兆として避けられているからだ(安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年)。

朝字石があるという連珠池(連間の池)

傍の三鈷洞は、金剛證寺を開創したという伝説的修験者・暁台上人が修行して聖徳太子が小野妹子を遣わして仏舎利を納めたという聖跡だが「三鈷洞の存在を今は知る統べもない」(前掲『伊勢朝熊岳 金剛證寺』2024年)とのことである。
件の岩盤は洞穴構造を持っているわけではないので伝承地として適切とは言えないが、この「洞」がいわゆる洞窟のようなものを指したか、岩陰構造をもつ岩石を含めたものだったかは不明である。

以上、朝熊山の岩盤について候補となりうる情報をまとめたが、ご覧のように多くの謎を残した。朝熊山の岩石信仰の地についてさらなる情報をお持ちの方はぜひご教示ください。

2025年4月30日水曜日

チジュウサン(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町上脇垣内


岸田史生氏「垣内をめぐる村落祭祀と座―奈良市大柳生町の事例より―」(『鷹陵史学』第24号、1998年)において「チジュウサン」と記された場所。

「弥勒の道プロジェクト」(@mirokunomichi)さんのXポストで存在を知り、所在地の詳細やお持ちの情報について多大な情報提供をいただいた。ここに記して謝意を表したい。


アクセスについては、ご教示いただいたオープンデータ地図「OpenStreetMap」に位置が公開されておりわかりやすい(下記URL)。この地図どおりに行けば辿りつける。麓から徒歩約15~20分。

https://www.openstreetmap.org/?#map=17/34.707725/135.922154

チリュウ神社・チリウ神社の仮称もあるが、地元の方が実際に何と呼んでいるかはわからない(探訪時、現地の方とお会いすることができなかった)。したがって前掲文献に明記されたチジュウサンを本記事では採用する。





現地に立った所感としては、山の中腹でここにだけ岩塊が群集しており、その特異さから岩石ありきの信仰の地として成立したことは疑いない。

まるでかき集めたかのようにも見えるが、産総研が公開する「20万分の1日本シームレス地質図」を見ると、当地は花崗岩地帯に花崗閃緑岩の岩相が谷状に差し込まれた地質であるらしく、谷間と尾根の境目に現れ出た露岩群であるように思われる。


この岩群のすぐ手前斜面から水が湧き出し、谷間をつたって沢が流れているのも当地がもつ聖地的特徴である。

露岩群手前の湧水(写真中央)

社のすぐ前までは、谷間に形成された水田がかつて広がっていたようである。現在は山から回り込んで下る形で参拝するが、元来は下の水田から登る形で参っていたのではないか。その点において、麓の里の農耕生活と密着したまつりの場と言える。

藤本浩一氏が『磐座紀行』(向陽書房、1982年)において、稲作農耕民が谷間に水田を開拓していく中で谷間の露岩に出会い磐座祭祀の場としたというくだりも思い出せる典型例である。


さて、前掲の岸田氏文献では「本社は愛知県知多半島の知立神社」とあるが、弥勒の道プロジェクトさんによれば戦後になって愛知県知立神社との音の類似から結びつけられたものとのことである。

当地は、チリウデン・チリウテン・イワモト・岩本などの小字が入り混じっており、この内のチリウをチリュウ(知立)に当てたということになる。

このような音の一致により無関係な場所同士を関連付ける試みは近代以降の知識の庶民化により全国各地でおこなわれたものと類推される。


では「チリウデン/チリウテン」とは何かという話になる。

デン/テンが現地に広がる「田」で、「チジュウサン」の「サン」は愛称という常識論止まりであり、チリウ/チジュウに関しては岩石信仰の関係では類似の名称に出会ったことがない。岩石信仰とは無関係の語源に属すのではないかという見立てが精一杯である。

イワモト・岩本の「岩」は当地の岩群に由来する可能性もあるが、当地からは若干離れている字とも言え、『全国遺跡地図(奈良県)』(文化財保護委員会、1968年)によるとその辺りには西山北古墳群と名付けられた群集墳がある(当地の山を西山と呼ぶか)。もしかしたら石室石材の後世開発・盗掘による露出と絡めた地名だったかもしれない。


当地は、ちょうど南北にそれぞれ西山北古墳群(16基)・西山南古墳群(19基)が分布しており、独立した尾根上に片墓古墳と呼ばれる直径16mの比較的大型の円墳も築かれている。

片墓古墳

このような古墳群の中に存在する自然岩塊がチジュウサンである。人足が立ち入った歴史の中でチジュウサンがまったく自然のままの岩石分布でありつづけたのか、何らかの生活所産の結果としてここに岩石群が集まっているのか判断の難しいところがあるが、これが全国各地で見られる岩石信仰と古墳の同居問題である。事実として、自然岩塊が古墳の墓域に残り続けて存在する事例は多い。


なお、チジュウサンに行き着く手前には、上脇垣内の境を示す勧請縄が渡されている。

西山山中の勧請縄

アクセスルートとしては勧請縄の外=集落外の地ということになるが、先述のとおり元来は谷間からのアクセスが想定されるので結論としてはチジュウサンは集落の境に存する聖地という位置づけが適切だろう。


2025年4月19日土曜日

狂人石(岐阜県高山市)


岐阜県高山市桜町 櫻山八幡宮境内



相当腕白であった私さへ、何となく薄気味悪くてこの石に敢て触れることを憚ったものである。勿論、誰れが言ひ出したのか知らないが、この石に触れると気狂ひになったり、瘧をふるったりするといふのである。別に神秘的伝説といふやうなものもない。ただそれだけの言ひ伝へなのである。もっともこの辺には天狗が住ってゐて、御機嫌に障ると石段の上から、なげ落すといふことも一般に信じられてゐたし、実際に子供が石段の中程からなぜ落されたが、少しも怪我をしてゐなかったのを見たと語った老人もある。

福田夕咲「祟り石の話」『ひだびと』第4年(4),飛騨考古土俗学会,1936-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1491863 (参照 2025-04-19)
※旧字体を新字体に直した。


櫻山八幡宮は、仁徳天皇治世期に両面宿難追討に来た難波根子武振熊命が応神天皇を奉祭したとも、聖武天皇治世期に八幡信仰の影響を受けて創建されたとも、大永年間(1521~1528年)に岩清水八幡宮から分霊を授かり勧請されたともいわれる。

その櫻山八幡宮の境内末社に、元和9年(1623年)、高山城鎮護の神として飛騨領主金森重頼によって創建された秋葉神社が鎮座する。秋葉神社の社殿北側に存在するのが狂人石である。

神社境内にあって聖なる岩石の感ありだが、神宿るとか祭祀されている事例とは一線を画す。畏敬を通り越した畏怖・忌避の対象としての岩石と言える。


2025年4月12日土曜日

いぼ石/いぼ神様(岐阜県恵那市)


岐阜県恵那市中野方町

2010年撮影

中野方の福地境と、大峰に天然水のたまったくぼんだ石がある。その水をつけるとイボがとれるといういい伝えがある。

恵那市史編纂委員会 編『恵那市史』恵那のむかしばなしとうた,恵那市,1974. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9536746 (参照 2025-04-12)

現地看板によれば、雨水がたまって木の葉などが溶け込んだ窪みだったので、水は腐って真っ黒だったという。それがなぜかイボや皮膚病に効くということで、「いぼ神様」として神格化に至った例である。

1993年、峠道が二車線に拡幅された際にいぼ石が道にさしかかってしまったため、いぼ石の上部だけを切り取って車道脇に移設し、昔のよすがを偲ぶ措置がとられた。


2025年4月6日日曜日

「情報募集中」の場所を最新の内容に更新しました

当ブログで古くから呼びかけをしている「情報募集中」のページを更新しました。

この数年間に生まれた各種の謎についても追記しております。


【情報募集中】探しています

私は、インターネットで多くの方々から得難き情報をいただき続けてきました。

そのうえでさらなる情報を求めるのは欲張りですが、まだまだインターネット上でお会いできていない先達の方、地元の方がいらっしゃると信じています。

私なりにまとめた情報もたまってきて複雑怪奇となっていますが、お時間が許しましたら内容をご覧いただき、お持ちの情報をどしどしお寄せください。


小六石(長野県諏訪郡富士見町)


長野県諏訪郡富士見町境

 


 昔、武田信玄の家臣に牧場田小六という人があり、天文年間の甲越戦争の際、この地に小屋を構えて居住し、農耕のかたわら諏訪側の状況を偵察、この小六石を目標とさせ、やがて来る甲州軍の使者に情報を伝える使命を帯びていた。この牧場田小六の名前をとって小六石といっている。また、小六という部落名もこれからとったと伝えられている。
 別の話として享保時代名僧が、旅より旅へ托鉢してこの地に足をとどめた。ちょうどこの地方に悪質の病がはやり、僧はこの石の上に三七、ニ十一日の間座ってその病気の祈祷をした。石の部分の穴は、僧の精神の集中力が汗と化し、その汗のひとつひとつが固い石をうがったといわれている。

諏訪教育会 編『諏訪の近現代史』,諏訪教育会,1986.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540456 (参照 2025-04-06)


現地看板には「岡田小六」の名で記されており、名前には揺らぎがあるようだ。

前段の武田家の伝説は特別視の対象としての岩石であるが、後段の石を穿つ伝説は構想が祈祷に用いた祭祀の場としての岩石であり、堅固性の象徴である岩石を逆手にとった精神性が石肌の特徴と絡めて伝承されている。


2025年4月1日火曜日

「石を持ってみた」掲載(『パッション』第76号)

四日市市文化協会発行の『パッション』第76号に、「路傍の自然石考⑯ 石を持ってみた」が掲載されています。

冊子体は四日市市文化会館などで頒布しています。


2025年3月29日土曜日

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

2025年5月25日~30日に開催される、日本地球惑星科学連合2025年大会で、「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」と題したポスター発表を行います。

私が所属する文化地質研究会のセッション「変動帯の地質と文化」の中で参加します。

セッション「変動帯の地質と文化」では,とくに日本列島のような変動帯に生きる人々の生活や文化・文明が,地質とどのように関わってきたか,そして現在もどのように関わっているか,幅広い視野での研究成果を提示する.たとえば,(1)石材などの材料・資源とその由来,(2)考古遺物の分析と由来,(3)日本列島や地域の固有文化と地質の関わり,(4)博物館やジオパークなどでの啓発普及・教育実践,(5)地質に関わる文学や哲学,(6)山岳霊場や岩石信仰など宗教と地質との関わり,などについての研究発表である.これらの人と地質との関わりを論じた研究成果に加え,市民活動の報告を幅広く示すことで,私たちが変動帯に位置する日本列島で生きることの意味を総合的に議論したい.

https://confit.atlas.jp/guide/print/jpgu2025/session/O05_25PO1/detail


初日の5月25日(日)、幕張メッセ国際展示場7・8ホールがポスター会場です。

私は現地参加せずオンラインでの参加です。また、招待講演と書いてありますが特に講演はしません。

オンライン上の大会サイト「Confit」にてポスターを掲示します。当日のコアタイムとされる17:15〜19:15の間、ポスターをご覧になった方からの質疑に応答するつもりです。

https://confit.atlas.jp/jpgu2025?lang=ja


日本地球惑星科学連合(JpGU)は地球惑星科学(地学)に関する学会・協会が参加する組織です。

基本的に所属学会・協会経由でJpGUのIDを取得して参加する形ですが、初日5月25日(日)だけはパブリックセッションデーとされ、一般の方も所定の手続きで参加可能と聞いています(詳細はまだ公開されていないので不明)。


5月16日に大会予稿集のpdfファイルが公開予定なので、その時にまた詳細をお知らせいたします。

というよりこれからポスターの内容を詰めます。5月まではポスター作成に勤しむことになりそうです。


2025年3月19日水曜日

自然石文化における岩石文学作品集『書物の王国⑥ 鉱物』メモ

『書物の王国⑥ 鉱物』(国書刊行会 1997年)は、巻末の解題を記した高原英理氏によると、氏が責任編者になって選定した鉱物に関する古今東西の選集である。

高原氏自身が「私の伝えたいヴィジョンはひとまずここにある」(p.221)と認めるとおり、体系的な基準で編まれたものというより、鉱物に惹かれた高原氏の「癖」と、版権・訳書・紙幅の力学によって計36の作品が収録された。

鉱物に惹かれるものの共通項として、高原氏は次の表現で言葉に言い表している。

  • 自己に囚われたくないとする客観志向
  • 静謐なものへの憧れ
  • 人間を離れたがる傾向
  • 永遠志向
  • 生き物である人間が無機物を前にして、到底かないそうにないと無視できなくなったときの慌てぶり

客観したがる傾向は私のことかとドキッとしたし、4つ目の「無視できなさ」は岩石への特別視の共通項として見逃せない重要なキーワードのように感じる。


本書は「鉱物」括りなので自然石以外の鉱山鉱石・水晶・宝石などのモチーフも含まれるが、自然の石・岩をモチーフにしてつくられた作品も多い。

その意味において、自然石文化における一角に自然石から触発された物語があることは否めない。いわば神話もその一種であり、物語化の末に信仰も生まれると言える。そのような視点から本書掲載の作品を敷衍したい。

高原氏の解題分類に沿って、自然石に関わる部分に限って注目的な記述を紹介する。

※過去記事ですでに取り上げた作品は除外。


神話・伝説・民間伝承ブロック

ジョルジュ・サンド「馬鹿石、泥石」

フランス中どこでも大石は農民の想像力を刺激している。(p.123)

石はときと場合によっては口をきくにちがいないと思われている。(略)しかし石たちは頑固で偏狭なので、それ以上の言葉を教えることはできない。ときには、その近くを通っても石が見えないことがある。というのは、実際、そこにいないからなのだという。(略)彼らは性悪な以上に馬鹿なので、ときどき居場所をまちがえる。前の晩には荒地に転っていた石が翌日は同じ時刻に、種をまいた畑に立っていたりする。作物はだめになる。柵もこわされる。しかし、そのばあい、地主には言わないほうがいい。(略)石のほうでもいずれは元の場所へ戻らなければならないことになっている。もしすぐに元の場所が思いだせなかったら困るのは石のほうなのだ。(p.125)

葛洪「石随」

神山は五百年にして開き、その中から石随が流れ出る。これを服すれば、その寿命は天とともに終わる(pp.50-51)

蒲松齢「石を愛する男」

天下の宝は、これを愛惜する人に与えらるべきです。この石もいい持ち主を見つけたというもので、私もうれしく思います。だがこの石は自分から世に出ることをいそぐのです。世に出ることが早いと、魔劫がまだのぞかれないのです。(略)並すぐれた物は、禍のもとである。身をもって石に殉じようとするにいたっては、執着もまた甚だしい! だが結局は石が人と最後までいっしょになっていたのだから、石に情がないなどとだれが言えようか!(pp.55-57)


日本の怪談奇談ブロック

根岸鎮衛「石中蟄龍の事」

「左様に怪しき石ならば、如何なる害をなすやも知れぬ。焼き捨つるがよかろう」と述べたが、「それはとんでもない事」と斥け、結局、人家より離れた所に一宇の堂社があるゆえ、そこに納めるのがよかろうと決した。一同は件の堂社へ赴き、石を納め置いて帰った。然るにその夜、件の堂中より雲を起し豪雨を降らせ、風雨雷鳴と共に上天するものがあった。後刻、堂社に到り検分したところ、かの石は二つに砕け、堂の様子は全く龍の昇天した跡の体であったと、邑中の者が奇異の思いをなした。その節、「石を焼くべし」と発言した者の家宅は微塵になったという。(pp.71-72)


鉱物をめぐる思想・随想ブロック

アンドレ・ブルトン「石の言語」

石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もうとらえて離さなくなるのが常である。(p.149)

おなじ道すじをゆくふたりの人間でも、両者が奇妙に似かよっているのでないかぎりは、おなじ石を拾いあつめることはできないはずだ、と私には思われる。ことほどさように、たとえまったく象徴的なかたちでしかみたされない状況であるにせよ、人は深層でなにか欲求を感じた対象だけを発見するものなのだ。(p.151)

ためらいこそ、こうした石に、「自然の気まぐれ」と芸術作品とのあいだの、ひとつの鍵としての位置をさずけがちなものである。(略)人間はみずからのもっとも貴重な特質のいくつかを放棄したことによって、石たちを残骸とみなしおおせることができたのだと思われる。石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。(p.154)

ピエール・ガスカール「鍾乳石」

何ともわけのわからぬ重なり方や曲がり具合のせいで、石の形は、個々に見ようが全体として見ようが、全然定義できず、幾何学の法則に還元できず、したがって記述できない。(略)鍾乳石や石筍の形成を支配する非合理なるものは、原始芸術を支配する非合理に近い。(p.155)

石に新しい名前をつけ、それを通じて洞窟の各部をも新たな名称で呼ぼうとするのは、多分この洞窟が自分たちのものだということを確認し、また洞窟に寄せているひそかな期待を表明するためでもあろう。だが遠慮からか、内心を見すかされるのを嫌ってか、どんな名前にも満足できず、やがて思いついたのは、石とそれを容れている広間を単なる番号で呼ぶことであった。(p.160)


日本の小説ブロック

稲垣足穂「水晶物語」

路ばたの石も、海岸の石も、共に永い永い歴史を持っているのだと云わなければならない。(略)ただひとり石や砂だけがずっと続けて昔通りだ――これは何故であろう。おしまいのそのおしまいに石はどうなるのか。この同じ場所に再び埋まってしまうならば、その次に自分のような者によって拾い上げられるまでには、きっと何万年かが経過している。それでも石は目立つほどに小さくなっているわけであるまい。更に次回に何万年が続く……とうとう粉微塵になる時がきたところで、その粒の一つ一つには永い歴史の記憶が含まっている。(p.36)

日野啓三「石の花」

石を集め出してみるとそれは思いがけなくきれいな鉱物があって、そのうちにこんな石の話の花園ができてしまったんですね。石の花なんて言ったって、死んだ石ころじゃないかとおっしゃるのですか。まあ、そんなことを。結晶もスクスクと成長するにでございますよ。(p.139)

「物質の深みに封じこめられている何かと、われわれの意識の奥に閉じこめられている何かとは、もしかすると同じものかもしれない」「わたしたちが石の花を育て咲かせようとしていることは、そうすると、わたしたち自身のなかの新しい何かを解き放つことでもあるのですね」(p.140)


詩歌ブロック

オハマ族の歌「岩」

かぎりなく遠い むかしから じっと おまえは休んでいる 走る小路のまんなかで 吹く風のまんなかで(p.135)


2025年3月16日日曜日

木村重信「石と日本人についての芸術的考察」(『日本人と石』より)

株式会社エス出版部より編集・発行された『日本人と石』(1992年)は、「第1部 心」「第2部 技」「第3部 西洋との出会い」の3部に分かれて、石に関する信仰・芸術・石造技術・建築を中心に構成された全144ページの写真集である。

今となっては出版意図がつかめないところがあるが、バブル崩壊直後、出版不況の入口に立ちつつも、英対訳を載せた豪華版で西洋文明の公害化に対する警句も散りばめられた一種の時代感がふんだんである。

巻頭言を飾るのが国立国際美術館長の木村重信氏「石と日本人についての芸術的考察」である。これが短文ながら、石と人間の関係を芸術分野から考える際の有効な資料となるので、次の記述を紹介する。


日本の芸術家は、石に対して付加する述語ではなく、主語である石そのものの実存を問題にする。したがって欧米の彫刻がひとつのコンストラクションであるとするならば、日本の石庭はかかるコンストラクションを否定し、いわばアレンジするだけである。欧米的芸術観ではアレンジしただけでは芸術にならず、コンストラクトして初めて芸術となる。しかし日本人はそうは考えず、アレンジメントこそ重要な芸術的契機であるとする。(略)アレンジメントには、いけばなの場合も、石庭の場合も、自然のものをどのように組み合わせても、もの自体は自然を越えることはできないという考えがひそんでいる。(同書p.13)


「日本の芸術家は~」「日本人は~」などの主語が大きく、学術的にデータを明示した論拠になっていない。言い換えれば西洋=人工、東洋=自然を貴ぶとする1992時点の構図であり、それ以降相対主義が進んだ2025年現在では人口膾炙の文明観と言えるが、アレンジメントの概念は今なお参考となると思う。

自然が主語であり、アレンジメントは自然を越えることがないという木村氏の見方は、そのまま、自然の石のままの方が芸術になりうるという許容を生み出し、なぜ自然石の石肌をそのままにして置いたか、石を動かしても自然芸術として鑑賞されたのはなぜか、の回答となる。

また木村氏は、自然がもたらす「偶然性」が鑑賞者に自由を確保することにつながり、鑑賞者の感受性や想像力いかんで芸術としての価値は大きくも小さくも変化し、その鑑賞作用によってある人には作品となり、ある人には作品となりえないというところに自然の美があるという鑑賞観を提示している。

美の認定も人の心理ありきで、自然物は「偶然性」が「美の訴え(契機)」となる論理は、自然石信仰を含めた自然石文化を考える上での重要な指標となるだろう。


「変身する空間――石」(岩田慶治『草木虫魚の人類学』より)

岩田慶治『草木虫魚の人類学』(講談社 1991年)の第2章第2節が「石」であり、海外のアニミズム(草木虫魚教)に関する石の事例を取り上げている。


ニュージーランドのマオリ族

緑石を加工して石器を作る。

日常使用は打製石器のままでよいが、加工と研磨を加えたものは装飾品となる。

それらの中で、何世代にもわたり研磨されたものは、労力の結集、祖先伝来の宝器となり、子孫の礼拝を受ける。

これは石が石でなくなり、石のメタモルフォ―ゼと岩田氏は形容する。

自然石信仰とはまた異なる、加工された石に対する信仰と言える。


ボルネオ内陸に住むケラビット族

インドネシア領カリマンタンとの国境地帯に多くの巨石が残るといい、ケラビット族の所産とされる。

バトゥ・ナンガンとバトゥ・シノパッドという二種類の巨石構造物を作る(バトゥは「石」の意)。

村人の話によると、バトゥを作ることで個人の霊を慰め、個人の霊魂がさまよわないようにするためだという。

ケラビット族は4種類の階級に分かれていて、バトゥを作るのは第一階級のみという。


バトゥ・ナンガン

ナンガンは「支える」の意。大石を数個の石で支えたもの。いわゆるドルメン型の構造物。

生前に功績を残した人物や首長を記念して、死後に村人が建てる。


バトゥ・シノパッド

シノパッドは「立てる」の意。細長い石を地上に垂直に立てたもの。いわゆるメンヒル型の構造物。

祖父母、父母の死後に子孫が建てる。


バトゥを作る時のルール

個人の記憶が残る死後1~2年のうちに行う。

バトゥの立地は、山地だが村人がよく通る場所が選ばれる。峠道が多い。

村人が結集して石をその山地に運ぶ。

七日七夜にわたる祭りを行う。故人の思い出を語り、家畜を屠り供えて、村人全員で共食の後に歌と踊りを連日行う。


興味深いこととして、現在のケラビット族はバトゥを作らないが、それ以外は今も同様の祭りを行うということで、石は主役ではなくなっている。

岩田氏は「石はカミの依り代でありえたのだろうか」という疑問を投げかけているが、その答えは明言されていない。


ドルメン、メンヒルに属する巨石文化の典型的事例として語られるものだろう。


2025年3月9日日曜日

霊巌寺の巌廉(京都府京都市)


京都府京都市北区西賀茂船山


霊巌寺(りょうがんじ)の巌廉(いわかど)は、『今昔物語集』巻第三十一「霊巌寺別当砕巌廉」に登場する岩石で、巌廉は岩門・岩穴と同義とされる。

以下、丸山二郎[校訂]『今昔物語集 本朝篇 第5』(岩波書店 1954年)を底本として、該当箇所を現代語に意訳しておく。

―――

今は昔、北山に霊巌寺という寺があった。この寺は妙見が現れた所である。寺の前から三町(約330m)ばかりの所に巌廉があった。人が屈んで通れるくらいの穴があった。たくさんの人が詣でて験あらたかなので、僧坊が数多造られて大いに賑わった。

ある時、三条天皇が目を病んだので霊巌寺に行幸するという話が出たが、巌廉があると御輿が通れないというので、行幸はなしとするということを霊巌寺の別当が聞いた。別当は、行幸が起これば私は必ず僧綱になれるのにと思って、行幸を起こすために巌廉をなくそうと思った。別当は人夫を雇い多くの柴を刈り、巌廉の上下に積んで火をつけて焼こうとした。

同じ寺の年長者の僧からは、この寺の霊験あらたかなのは巌廉によるもので、この巌廉を失ったら験が失せて寺は廃れるだろうと嘆く声もあった。しかし別当は我欲のためにそれらの僧たちの言うことには耳を貸さず、柴に火をつけて岩廉を焼いた。

こうやって岩廉を熱した後に大きな鉄槌で打ち砕いたところ、岩廉はことごとく砕け散った。その時、巌廉が砕け散った中から百人ばかりが同時に声を出すかように轟音を発したので、僧たちは、ひどいことだ、この寺は荒ぶ、魔障に謀られたのだと別当に悪態をついた。

巌廉はこのように失われたが行幸もないままで、別当の喜びも止まった。別当は寺の僧たちに嫌われて寺にも来なくなった。その後、寺は荒れに荒れて堂舎・僧坊もすべて失われ、誰も住まなくなりただ木こりが使う道になった。

これを思うに、益のないことをしでかした別当と言える。僧綱になる可能性がなくなるからといって、巌廉をなくすことにするとは智慧のない僧ではないか。智慧なく我欲にとらわれて霊験の源泉を失うという空虚な出来事である。ということで、その場所にはその場所の験が存在する(所ニ随ヒテ験モ有ケル也)と語り伝えられたという。

―――


巌廉は寺の霊験の源泉として信じられたこと、そして、そんな中でも我欲にとらわれると信仰当事者の仏僧ですら霊岩を破壊する移り気のあっただろうことが当時の人々の心性として読み取れる。

仏教者にとって、本尊ではない、土地に根差した岩石という存在に向けられた一種不安定な立ち位置を示すだろう。しかし「所ニ随ヒテ験モ有ケル也」として無視できなかったのである。


さて、この巌廉、ひいては霊巌寺がどこにあったのか、そもそも実在したのかということには長年の議論があった。

霊巌寺自体は今に存在せず詳細な場所は未確定の段階であるが、候補地として西賀茂の船山南山腹が有力であり、一部の文献では船山に造成されたゴルフ場内にそれらしき一対の岩門状の岩石があると報告されている。


川勝政太郞「芸苑紀行 西賀茂の石佛と岩門」(『史迹と美術』29-3、1959年)では、川勝氏が実際にゴルフ場を見に行き、「岩門と見られる向い合った巨岩」を確認している。詳細位置を地図上で記録してくれていないのが残念だが、その岩石を撮影した写真をp.119に掲載しており参考となる(門のように一対となった岩石の後ろにはゴルフ場とみられる開けた傾斜地、そして船山らしき山容が望める)。

このゴルフ場の辺りで同志社大学の酒詰仲男教授らが堂跡や古瓦を見つけて、ここを件の霊巌寺に比定した話にも触れている。


寺河俊人『幻の寺』(春秋社 1970年)にもこれと同一物と思しき岩石が報告されている。

今では霊巌寺跡はゴルフ場になって、手入れのゆきとどいた芝の丘陵がゆるやかなスロープを見せている。およそ六十万平方メートルというゴルフ場の私道に車を乗り入れて、西の端に行ってみた。そこに大きな岩がある。今もゴルフ場のコースとコースを結ぶ通路の門になっているが、もとはといえば、霊巌寺の山門だった。(寺河、1970年、p.121)

ゴルフ場の西の端あたりで、通路の門のようになった岩石という具体的なヒントがある。

ちょうどその辺りは「西賀茂岩門」の地名まで残るが、これが歴史を忠実に伝えるものとして素朴に信ずるべきか、後世の付会によるものと史料批判を経るかの作業が必要である。

前掲文献群では断定的に霊巌寺の岩門と書かれていたが、現時点では候補地とみるにとどめるべきだろう。

いずれにしても、候補の岩石が現在もゴルフ場内に現存するのか、その正確な位置確認から望まれる。


また、西賀茂船山の北に隣接して西賀茂妙見堂の地名が残るが、文化財上はそこに西賀茂妙見堂遺跡が確認されている。

最近の報告として、立命館大学考古学研究会が同地で岩石の露頭を確認している。

妙見堂は霊巌寺の別称として知られ、そこに寺域地形が見られて露岩が存在することも『今昔物語集』の巌廉と関連して考慮されていく必要があるだろう。


2025年3月4日火曜日

佐藤宗太郎『石仏の解体』(1974年)メモ

『石仏の解体』目次

佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林 1974年)は、石仏に対する世間の風潮に疑問を呈した本として読む前から注目していた。

思想家の吉本隆明が序文を寄せ、「なぜ対象は<石仏>でなければならなかったのか? <石>の造型でありさえすれば何でもよかったのではないか、というαでもありωである問いが、佐藤宗太郎にのこされるようにおもわれた」(p.13)と、佐藤氏が石仏に惹かれてしまった主観的な部分と冷徹に石の要素を構造化しようとした二つの心の葛藤で書かれた作品と評する(この序文は、本文を読んだ後に読まれるべき性質の文である)。


当時、佐藤氏は石仏を撮る写真家だった。最初は石仏にただ惹かれて写真を撮り続け、誰かのセンチメンタルな言葉を借りて石仏をわかった気持ちでいたが、その危なさに気づいて本書を書くことになった。

本書に通底するのは、石仏を自分の心の慰みものとして叙情的に語らず、あるいは仏教的・美術的など一角に寄らず、石の「造形(かたち)」を細かく分解・分析して、石と石仏の精神的関係を追い求めようとした思索である。

「石仏」を「磐座」「巨石」などに替えれば、恐ろしいほど現代人が再生産している人の性(自分の主観を対象に重ね合わせる)に対する忠告と言える。


本書の読後感としては、たとえば第1章はインタビュー形式で構成され一見平易に読めるが、「~的」「~性」などの抽象的な語彙がふんだんで、それぞれの語彙の定義がはっきりしていないため読みながら意味をとりづらい部分がある。佐藤氏自身が本書を書きながら思索を重ねているからだろう、本書の前半と後半で考えを訂正している箇所さえある。

また、石仏の事例は多く取り上げられ具体的だが、核心に触れる部分はデータ(石仏のポテンシャルを数値化するくだりはあるが、主観を数値化したものなので定性)に基づいた話ではなく随想・直観による論旨のため、言い過ぎや意味を持たせすぎの面もある。佐藤氏自身は章題に「私情」と書いており自覚的と思うが、言語化されていないものを言語化し過ぎようとしていて、すべてに意味を持たせようとしたことが逆に正確さから離れるように感じた。

したがって、万人が読んで納得するものとはなっていないが、本書の石仏を巡る哲学的提言は現在も未解決の問題提起ばかりである。そこに本書の唯一無二の意義がある。

ということで、あくまでも岩石の精神に関する部分に限って、以下注目すべき記述を引く。


「何気なく、ただひっそりとたた佇む名もなき石の仏」「その姿や表情の素朴な美しさ」「言うに言われぬ親しみ」「石仏に接すると心が洗われる」「石仏はこころのふるさと」等々々――。これらは石仏を愛する人々の言葉である。実は筆者が石仏行脚を始めたころ、既にそのように言われていたし、筆者も当初は全く同じ言葉を使って石仏を賛美していた。だが、こうした石仏の愛し方や見方は間違いではないけれど、本当に石仏の価値や内容を認めていることにはならないのではないか、という気がしてきた。愛するという心情におぼれてはいけない。愛すればこそ対象の本質を真剣に考えねばならないと意識した。(p.11)

本書のきっかけを記す一文。石仏を題材とするがそれにとどまらず、どのような研究テーマにおいても、研究者が研究対象に対して抱かないとならない境地として読める。


簡単にいえば「石仏」が安っぽく落着いてしまっていることです。<石仏なるもの>は<こういうもの>だと何んとなくわかってしまったような風潮が感じられることは、正直に言って愉快なことではありません。(p.14)

世間のイメージに迎合した理解や、辞典的な理解で一つの概念を終えようとする危うさが「こういうもの」の表現に込められている。


自分では一応現代人――近代的な感覚・認識をもって生きているという意味でですが――それが「石」に対してある種の<感応>をもったということが、自分なりに非常に興味深かった。しかしそれが何故なのか、何故「石」が生き生きと、激しくこちらに迫ってくるのか、よくわからない。それで何んとしてもそれをわかってやろうと意識し出した。(p.31)

佐藤氏なりの石への感情の言語化が見られる。生き生きとしている石、生気を持つ石を感受するというケース。近代合理主義的な理屈を抜きに、佐藤氏が受け身的に惹かれるという構図である。


石仏を始めたときからわかっていたんですが、行脚が深まるにつれて、それが想像以上の数量なんで、本当にびっくりしました。数量それ自体が日本の石仏の性格を表示する一種の「質」を示している感じ――いわば「質量」の大きさとなって迫ってくる感じでした。(p.36)

石仏の数多あるところに人々の生活をみる境地と佐藤氏は述べるが、量の多さが質を示すというのは、私も岩石信仰の事例に毎日のように出会って「思い」の質量をつくづく実感する。


岩に対っていった昔の人達の造形意欲とか、あるいは岩に対わせた理念とか精神力の激しさとかに対して、現代人であるわれわれのある種の<弱さ>というものを痛感して一層無力感が強まるんです。(pp.59-60)

佐藤氏は、だから弱さをカバーするためにひたすら石仏に時間をかけて訪ね、写真を収め、渉猟するのだという。これでも、昔の人が持っていた信仰や祈りの精神からは遠くかけ離れて、やはり無力感に悩まされるというのは、信仰心をもたない研究者全員が同じ思いだろう。


私は石仏の<宗教的内実>を考えるに際して、<宗教性>と<彫刻性>と<自然性>の三つの概念を柱とする<立体構造>を想定した。(略)<自然性>とは石仏を思考し、かつ論ずる場合に絶対に捨象出来ない<相>である、と私は確信している。これを除外すると、石仏が石仏でなくなってしまうからである。(p.105)

p.182にこの「石仏の概念立体構造図」が掲載されており、先にこの図を見ながらのほうが理解しやすい。

三角柱の概念図であり、研究者はどの角度と視野で三角柱を横から見るかという点で多くの示唆を与える。そして、三角柱の底面こそが造立者が見た視点であり、研究者からは見えない「世界の相違」という諦念にも似た問題提起がなされる。


岩と石の性格の違いは極めて大きい。<岩>とは大地の骨のごときものであって、その現示の様相の一端が岩壁であったり岩盤などである。岩山の無限の奥行。絶対値では示しえない大きさ。それを考えただけでも<岩>は個体ではない。<岩>は人間的なスケールでは測りえない無限性をもつ。<岩>は確かに実体として見えているが、同時にその無限性において、一種の<空間性>を兼備している。(略)<石>は岩山から分離して生じたものである。その分離のしかたによって、その<石>の性格が著しく異っている。(p.132)

岩と石の違いを説明する節で、ここは長いため補足的にまとめる。

佐藤氏は岩石を「岩ー岩塊ー自然石ー不定形石材ー定形石材」に分類する。これは一種の序列にもなっており、左から右の順で「自然性」が希薄になるという。「不定形石材」は、自然石の姿形をある程度残したまま石材として用いられる石であり、そこには自然性が宿るという点で注目すべき概念である。

前掲記述のとおり、岩は無限性そして空間性をもつ。岩から離れた石は大地から離れた個体となるという点で、岩とは異なる性質となる。

たしかに大地から動かせない岩は、大地を込みにした不可分の存在であるから、空間的であると言えるだろう。ならば、岩石信仰の要素の一つに空間性が認められるのは確定とみてよい。

ただし、石と岩の歴史的な語義に基づいて佐藤氏は語っているわけではなく、古典における石・岩の使い分けや語義については定まっていない。

したがって、このくだりは「動かない岩石」と「動かせる岩石」の持つ、それぞれの岩石の特性を指摘したものと受け止めるのが適切である。


<岩>はあくまで自然そのものとして存在し、<石>は自然に抵抗して存立する。強いて言えば、<岩>は原始に位置し、<石材>は文明を背負ってきた。<岩>と<定形石材>の中間に位置する<自然石>や<不定形石材>は、そのあつかわれ方によって、原始性も文明性も保有することになる。(p.135)

岩は本来的には不変ではなく絶えず変化している物質だが、人間の尺度から見たら不変である。このように岩には人間的尺度・生物的尺度を越えた不変性があり、だからいつの時代の人間から見ても岩の姿には原始性(原初性)が宿る。

そんな岩から離れた石は、堅牢な物質的特性をもつことから、以後、石の外部の自然から影響を受けにくい存在として、自然に抵抗する役目を担うという逆説性を帯びたのだと説く。


岩があっても、必ずしも磨崖仏は刻まれはしないのである。実際的にみて、わが国の摩崖仏は全国でおよそ二百ヶ所程度である。それに比べて自然の岩や山に対する信仰――即ち宗教的な意味性が確立した自然空間のの実例は数え切れないほどである。しかも、それらの多くは、摩崖仏を刻むに適した条件を備えているのである。これらのことは至極当然のことであるが、摩崖仏の造顕の意味を考えるとき、深く認識しておく必要がある。(p.143)

なぜ磨崖仏が彫られた岩石と、見逃された岩石があったのかという、あまり他に見ない問題提起であり当然未解明のテーマである。


<仏像>と<岩>とでは明らかにその<世界>が違う。一方は観念的空間であり、他方は現実の存在感によって支配される――言わば<実質的>な空間である。(略)<岩>のカミ(あるいは霊)は仏像として造形化されて、はじめて確かなイメージとなって顕現した。<仏像>は<岩>の無限の<質量>によって現実的な実体感を得、その位置する世界を観念上の空間から、より実存的な空間に位置をかえた。相異なる信仰、相異なる世界の重合。(p.146)

磨崖仏がなぜ自然石に彫られたのか、両者の相乗効果を端的に記した箇所になる。


<岩>は自然としての存在そのものであり、空間的である。<共同視覚的>発想をするなら<岩>はすでに<他界>に位置していると言えよう。その意味からも、<岩>自体がすでに宗教的な存在であるといっていい。その意味でさらに極論すれば、自然性を即宗教性と考えてもいい。(p.169)

岩は空間的で、生活のムラを起点とする共同体の人々から見ればそれは「他界」に属したという論理で、石ひいては外界の自然界は宗教性を帯びたと発展するが、おしなべてそう言えるかというとちょっと言いすぎか。推測に推測を重ねて論理が進むため、土台の根拠をどこまで信じていいかで本書の後半の受け止め方は一本の筋のように心細い。

佐藤氏は縄文時代から石の信仰は連綿と続くことを例示の一つとしているが、持ち運ばれ並べられた石が石の信仰(石が信仰対象か)と呼べるかは批判の余地があり、また、大地に根差していない石に、佐藤氏が言うような宗教性の要件たる空間性・他界性をもっていたとする証明にはなっていない。

さらに、神聖視・特別視されなかった岩も無数に存在しており、それらの岩に対する補足説明が要るだろう。それらの岩は記録が失われただけか、岩の宗教性を感じとれなかった人の感受性側の問題か。つまるところ、自然・岩に自ずとおしなべて宗教性は宿るのか、その宗教性を感受できるかできないかの人の間の認知の差なのか。


造像の志向性が優先し、それによって<岩>本来の宗教性が阻害されているようにみえる。強いて言えば、仏師達の高度な技法が<岩>を単なる素材と化してしまっているのである。彫りすぎである。私はそのところに臼杵磨崖仏の<岩の造形>としての一つの欠点をみる。(p.174)

臼杵磨崖仏は「彫りすぎ」とする評である。美術的観点に裏打ちされたものと受け止めるべきか、佐藤氏の主観として閑却するか、私にはわからない。定量的なものではない「美」の領域の扱いかたにかかわる。

これに関連して、佐藤氏は岩から離れた独立石仏の場合も、岩より自然性は希薄ながら、自然と人為の調和による美があるとする。すなわち、人為が自然を殺しているとは限らないということである。

人間が自然をさらに美にしたいと思い、自然に手を入れつつも、一方で、手を入れない部分もあった。それが「成功」したかどうかは、本来的には作り手にしかわからないが、つくられたものを見る「受け手側」が各々生み出す美の認識も実際として存在する。

難しいのは、それらの認識が必ずしも言語化の形をとっていないだろうことで、それをどこまで文章化できるのか。そして、文章化することが他人を表現するという点において正確なのかという疑問が私にはある。


鎌倉時代以降になると比較的硬質の石材を刻む技術の発達によって、<石>の自然性がほとんど無視されたような石仏も多く出現してくる。そこでは<石>は完全に素材化し、ノミに対して全く抵抗感を示さない。つまり<石>の内面性は彫技によって阻害され、ただ単に<石肌>という表皮的な感触性として<石>の意味があるだけなのである。(p.177)

鎌倉時代の前と後で、石仏がこのようであると言い切れるかどうかは要審議である。


石材は運搬可能であり、石工が自分の工房で石仏を刻めるし、労力も技術も惜しまず使える。つまり職能者として日常的な自分の<空間>で仕事が出来る。だが磨崖仏はそういうわけにはいかない。絶対なる<存在>である<岩>――その支配する空間、つまり非日常的な<世界>に入って仕事をしなければならないのである(しかも彫刻に困難な硬い岩に対って……)。そこでは岩はすでに<神>であり<仏>であるのだ。それに対って像を刻むことの、その行為自体がすでにある種の宗教的営為であり、宗教的営為としての意識を石工に要求している。(p.283)

他界たる空間内の岩で彫ること自体が宗教的行為であるとする。

佐藤氏は石仏造立を全国的におこなった主体を宗教者の聖たちに比定しているが、宗教的行為を行う石工も宗教者と同等である。

岩石における宗教性の追究が本書のテーマであるが、岩石に対峙する人間側においても、宗教的なものは宗教者のみの専売特許ときっぱり分けきれるものではなく、生活の延長線上の行為に宗教性が帯びうることを「空間」の違いで喝破した一文と言えるのではないか。


2025年2月24日月曜日

高木寛治『石に救われる―石の書―』(2024年)書評

岩石の哲学に関する新著として、高木寛治氏の『石に救われる―石の書―』(吉備人出版 2024年)を読んだ。


高木氏はイワクラ学会理事として知られるが、氏の刊行歴に「石と在る」を見かけた時、ブログ「石と在る」の方だと初めてつながった。

「石と在る」は2005年~2008年に更新されていて、ブログ自体はまだ残っている。投稿内容を見れば石への造詣の深さは一目瞭然で、石を哲学的に思索する方として当時からとても気になっていた。このような形で邂逅できてうれしい。


2003年刊の第1集『石と在る』から、2023年刊の第5集『石を祀る―神々の里・総社のイワクラ(磐座)―』までの発表済み文章の自選という形をとる。

2024年の書籍と紹介するには高木氏にとっても古い言説も含まれると思うが、高木氏の言を借りれば「執筆から二〇年近い年月が経過したが、石に対する想いはほとんど変化していないことに驚くとともに安堵もしている」(p.45)の一文もあり、自選であることから2024年時点の一人の石好きの言葉として受け取ることができるだろう。


石の本の集成

高木氏の本書のもっともありがたいところは、古今東西の石の本を類を見ないほどまとめきり、本書に収録したことである。

私のように、岩石信仰に関する本だけでもない。一般的イメージの、岩石学・鉱物学からのアプロ―チだけでもない。

地学などの理系の石の本から、歴史、詩、小説に登場する文系の石の本まで、分野関係なく「石と人との関わりについて全体を展望する意図があって書かれたと思われる本」を蒐集している。


たとえば高木氏は水石(鑑賞石の山水景石)をきっかけに石拾いを始めたが、当時の水石ブームのなか高価で売買されていた風潮に異議申し立てをはかり書かれた河野宗一『石と人生』(私家版 1968年)、石仏に魅せられた自分に内的矛盾を感じて作品化したという佐藤宗太郎『石仏の解体』(学芸書林)、石狂・石道楽と称されて崑崙山を模した石崑崙を築いた石井金三朗『石崑崙』(私家版 1935年)など、まったく知らない石と人のディープな本が紹介されている。

数例を挙げるだけでも、それらを蒐集した高木氏の視点の独自性が窺われるだろう。

石の本を蒐集する+石に関する随筆を書くという両輪で、石と関わってきた著者。

高木氏の著書で知り、私が新たに買った本は次のとおりである。

  • 久門正雄『石の鑑賞』理想社 1954年
  • 河野宗一『石と人生』醇和同窓会 1968年
  • エス出版部『日本人と石』1992年
  • バード・ベイラー『すべてのひとに石がひつよう』河出書房新社 2017年
  • 白水晴雄『石のはなし』技報堂 1992年
  • 佐藤宗太郎『石仏の解体』学芸書林 1974年
  • 岩田慶治『草木虫魚の人類学―アニミズムの世界』講談社学術文庫 1991年
  • アンドレ・ブルトン『鉱物』国書刊行会 1997年

本書によって多くの石の関連本が散逸せず、高木氏に感謝しかない。


拙著『岩石を信仰していた日本人』も紹介いただいており、私のホームページ(2012年の文章ということで旧ホームページ)を以前より注目いただいていたとのことでありがたい思いである。イワクラ学会誌に私の論稿があればもっと良かったのではないかという過分なお言葉もいただいているが、私とイワクラ学会の関係は前記事に書いたとおりでご容赦願うしかない。

岩石祭祀事例集成表に粗密があると記した私の「言い逃れ」にも注意深く確認をいただいており、岡山県の場合は私が62例を挙げたのに対して別文献では岡山県の磐座が101例、「星と太陽の会」の探訪を踏まえると実際は数百カ所に上るだろうとの指摘も具体的でそのとおりと思う。

私が「おわりに」で書いた文を長めに引用していただいている。なぜ岩石信仰に興味を持つようになったのかという書き出しから、岩石の哲学的なアプローチを今後深めていくという決意表明の部分である。それから14年、一応このような形で宣言どおり哲学的アプローチのインプット中である。

感情を入れないように書いた本でわずかに感情を込めたのが「おわりに」なので、高木氏の求めるところと符合したのだと思う。昔書いた文章なので今は青臭さで恥ずかしいが偽りはない。

高木氏も書中で「いつごろから、なぜ石に惹かれるようになったのか、今となっては定かではないが、人の生活の根源をかたちづくっている石が、動物や植物、天候などの他の自然要素に較べ、多くの人から関心が払われる度合いが少ないことが背景にあるような気がする。石に関する書物は、店頭でもほとんど見かけない。」(p.159)と書いている。私の「おわりに」と通じ合う部分がして同感を得たりの思いである。


石の出会いときっかけ

高木氏は石に惹かれた時の自身の精神状態を、もったいぶらずに言語化している。

「『存在の不安』に根差している」(p.10)

「たまたま立ち寄った『石』の盆栽とも言える『水石展』で、形容しがたい石の自然美と沈黙、そして多様な形態を備えた不動の、静寂の中の、小さいが堂々とした存在に、なぜか心惹かれる思いがしたのである。」(p.11)

そして、高木氏は自らが石から離れられなくなっている理由を、自らの内面のみならず、古今東西の先達の本が記した「言葉」からヒントを得ようとしている。


その言語化に大きく寄与するものの一つが「石をモチーフとした詩歌」であり、たとえば加藤克己『石百歌』(四季出版)はその書名のとおり百首を越える石の短歌が収められ、とりわけ高木氏の石のイメージを豊かにしてくれたらしい。

使われる言葉が難解でなく、短く端的に表現される詩歌は「処世訓」にさえなったといい、高木氏はそのような詩歌に出会ったらノートにずっと書き留めていた。書き留めることで、自分の感情の解決に必要な時に引き出せるのだろう。

先出の加藤氏は自らの石の歌に対して、石は自分の生命そのものを宿したものと表したというが、その点で岩石が人間の写し鏡であり、岩石を通して人間を語っているに相違ない。

形式は変われど、私がブログで本書も含め、各種の記録を行うのと同じかもしれない。


生活の中の石

当ブログをお読みの方なら磐座・巨石信仰に興味のある方が多いだろうが、高木氏は水石と石拾いから磐座へ関心を広げた方なので、その関心領域は石の総体である。

信仰の石に関するものなら、次は古墳、墓石、石仏、石塔、石碑というところか。それにもとどまらない。

信仰や精神世界と一見無縁と思われやすい、生活の中の石にも着目している。


石垣

  • 城の石垣や石塁や石蔵だけではない。
  • 氾濫や洪水から防ぐための河川の石垣
  • 石垣の壁の家
  • 石垣の塀
  • 石垣でできた突堤
  • 田畑を守る石垣
  • 猪垣

その他の石

  • 石橋
  • 石段
  • 石畳、石敷きの道
  • 漬物石
  • 軽石
  • 砥石
  • 石臼
  • 力石
  • 鉄道線路の敷石
  • 投石 遊びとしてのつぶてから、儀式・戦争に用いられた石投げ、投石具、石弾まで
  • 硝石 爆薬の原料
  • 宝石
  • 薬石 鉱物から薬品や化学物質を取り出す
  • 温石
  • 碁石
  • 石焼き芋


子どもの石体験

山田卓三・編『ふるさとを感じる あそび事典 したいさせたい原体験3000集』(原体験教材開発研究グループ 農文協)には「石体験」の種類として次が挙げられるという。

  • 石に触る
  • 石のにおいをかぐ
  • 石をなめてみる
  • 石をたたく
  • 石を探す
  • 石を並べる
  • 石を割る
  • 石でたたく、つぶす
  • 石で絵や文字をかく
  • 石の上を歩く
  • 石で水切りをする
  • 石で的当てをする
  • 石けりをする
  • 岩登りをする

子どもを対象とする研究では、ヒトの先天的な精神・感覚の発露とみなす評価がある。

その点で、石の原体験という視点は興味深い。

高木氏はそれに加えて、「石を積む」「石で何かを模して玩具、置物、芸術作品にする」「石を熱くする」も提案している。


また、高木氏は子どもの頃に不思議に思った石について以下の事例を述懐している。

  • 軽石 石といえば重いイメージなのに軽いのが不思議だった。
  • 石炭 燃える石。蒸気機関車の時代には駅には石炭が山積みで、宝物のように思えた。
  • 磁石 川原で砂鉄を集めて遊んだ。石といいより金属の一種。
  • 化石 高い山の上に、海中生物の歴史が石の中に閉じ込められている地球のダイナミズム。なにもかもが石になっていく自然の摂理。
  • 鍾乳石・水晶 子どもながら欲しいと思った。
  • 蝋石 コンクリートや石敷き面に絵や文字を書いて遊んだ。
  • 硫黄 祖母や母が庭で硫黄を使って強烈な臭いと共に干瓢づくりをしていた。
  • 隕石 大人になってからも、隕石伝説に出会う。


これらの中には、大人になってから岩石の一種であると知ったものもあるという。

近代科学における岩石の領域とも言え、近代科学以前では石の概念に入らなかったものもあるだろう。その点で、どこまでを原初の人が石とみなしたものの精神と見るかには多少の腑分けや注意がいりそうではある。

それでも、高木氏の子供時代の生活体験の豊富さは、かつての石と人の関係を現代人が想像するに参考となる。

「当時、舗装された道路などほとんどなく、空き地もあちらこちらにいっぱいあった。そして、そこらには大小の石ころが無数にあった。しかし、今、世の中はうつろい、地面の多くが疑似石などで覆い尽くされ、それらの『石』はいつのまにか、すっかり身辺から姿を消してしまった。」(p.54)

そのように石がありふれていた時代に、特別視・神聖視された岩石とは何だったのだろうかという興味がもたげてくる。

少なくとも、現代、石の体験に乏しい私たちが物珍しさで驚くような巨石・磐座との感覚とはまた異なるだろうことは想像できる。


体の中の石

「私には、動物の体の中の『骨』や『歯』、体を覆う亀の『甲羅』、貝や蝸牛などの『殻』は、一種の石ではないかと思えて仕方がない。」(p.40)

硬さの象徴、白さの象徴としての石というだけの随想ではとどまらず、高木氏は後漢末の成立とされる『釈名』の「地は石を以て骨と為す」も紹介している。石と骨の同義を説くものであり、久門正雄『石の鑑賞』(理想社)では石の異名を「地骨」「山骨」「山体」「天地の骨」と称し、天地をつなぐものを「雲根」と称したのは、すべて人が石を自然界で見立てた精神観である。


高木氏は医師としての知識から、体内をめぐる鉱物と人の関係にも注目する。

動物は石を作ることができるという次の例示は、氏ならではの観察眼、本領発揮と言える。

耳石は、内耳の耳石器にあり、体の均衡を保つもの。

結石は、詳しくは尿路結石、胆石、唾石、扁桃結石、静脈結石、膵石、胃石、腸結石、鼻石、歯石に分かれ、詳細の成因は異なるという。

体内の石も、重要でもあり有害にもなる二面性を語るもので、体内の石が人に牙をむいた時、真摯に向き合うことが石との付き合い方に通ずると高木氏は述べる。


自然石を動かすことについて

水石にせよ石拾いにせよ、それらは自然石の本来あった場所を移動して、場合によっては一部に手を入れて加工・切削され、置かれる場所も人の意図によっては配置される。

自然石を愛でるとはいえ、これは本当の自然を対象とした精神といえるのかという疑問はある。

これについては、高木氏が古本で見つけた内藤濯『未知の人への返書』(中公文庫)の中の作品「石を前にして」の記述に一つの答えがある。日本庭園における庭石や飛石の置きかたについての考えである。孫引きとなるが下記掲載する。

「飛石をならべたのは、むろん人間である。だが、この場合は、自然が人工を見えなくしているのである。あるいは、自然が人工を美しく生かしているのである。自然の生き方――ひいては石の生き方と、人間の自然の生き方との調和ということがもし考えられるなら、それこそ美しさの絶頂であろう」(pp.172-173)


高木氏の石の哲学

本書における核心部分の記述は以下にある。

「人類の営みの全体が、石の増殖への協力加担ではないか」(p.48)

「石のなかの原子力までもとりだしてしまった人類は、今、すこし立ち止まって、見えない石(宇宙)の大きなたくらみがひそむ『石の夢』の分析を行ってみる必要があるのではないだろうか。そのためには、石との対話を深めていくことが避けられない」(p.49)

「石の夢」とはシャルル・ピエール・ボードレールの同名の詩から借りた表現であるが、高木氏は澁澤龍彦が言うところの「石は大地という源泉に所属する」という石の哲学や、栗田勇の「1個1個の石の中に神の世界、夢の世界がある」という言説を受けて、こう結ぶ。

「いわゆる石(宇宙の要素とみなしたい)は生きている、石は人智では、理解の及ばぬ深いたくらみを抱いているのではないかとの想いがふくらんでくる。」(pp.255-256)

石は宇宙の要素として生きていて、それぞれの石は生物時間とは異なる経過の中で生きるように夢見ていて、石の中で夢が無限大に増殖している、それを人間は1個の石からどれだけ受け取っていけるかということと私は解釈している。


高木氏が著書で繰り返し引用・紹介する記述の一つに、絵本『すべての人に石がひつよう』訳者の北山耕平のあとがきがある。変化の時代には自分の石を見つけて、その石と共に残りの人生を歩むことで、地球由来で小さな地球ともいえる石が記憶装置となってくれることの心強さを伝えている。

高木氏も本書の「おわりに」で、国民1人1人が、自宅内やベランダにでも置けるような手ごろな石を持つ習慣を提案している。それより良いとするのが、近くに参拝するような磐座を再発見することというが、これは住んでいる土地によるだろうとして手元の石を推奨している。

これは現代にゼロから創られた文化ではなく、武士の家の生まれだった津田左右吉が誕生日の祝いには小さな石が1個添えられ、毎年の誕生日では常にその同じ石を用いたそうである(長田弘『本に語らせよ』幻戯書房 2015年)。その人の一生の石という風習についてどこまで遡るのかは研究が不足している。


人類の歴史の99%は石器時代ということで、高木氏は石と人の不可分な関係を説く。

たしかに、人と石の関わりは「石器」という二文字が放つ一般的イメージ以上に、単なる加工と利用の関係にとどまらない。高木氏が引用する岩田慶治『草木虫花の人類学―アニミズムの世界―』(講談社学術文庫)にあるように、代々研磨加工、そして労力を重ねられて光沢を放つ石器はもはや宝器や精神的象徴のようなものである。

しかし一方で、石器時代というのは石器、つまり石が腐らず地中で残りやすいからこそ考古資料として残りやすいに過ぎない。

ヒトは石だけでなく、身の回りに存するものをすべて利用に用いていたはずで、草木との関係、水・風や日々変わる天候、そして虫から猛獣にいたる他の生物との関わりなど、これら有機物は残らないから結果的に石のウエイトが大きく見えていないかにも気をつけたい。もちろん、そういった石の遺存性自体は注目するに値するが、やや歴史を俯瞰する現代人視点に囚われている。

子どもの原体験として石に触る、石のにおいをかぐ――の例が挙がったが、それは赤子が身の回りのものをすべて手に取って口に入れるがごとく、石に限らずおこなわれたことだろう。そしてそれぞれの自然物や身の回りの「物質」から感受する精神があって後天的な知識・経験の獲得につながっただろう。

私は、他の自然物とは異なる、石からしか得られない感受・精神とは何だったのかを追究していきたい。

そして、石に感受しなくても石を利用することはできる。人間社会の中で、感受した人に倣えば石の使い方は模倣できるからだ。岩石信仰でさえ、真の意味で信仰心を感受できたのは一部で、社会の序列の中で石に感受しなくとも建前として石をまつった人々もいた。

「石は、成人に達した人間の大多数をすこしも立ちどまらせずに、そのまま通りすぎさせてしまうわけだが、それでも万が一ひきとめられるような人がいると、もう、とらえられて放さなくなるのが常である」(p.191/アンドレ・ブルトン『石の言語』より)のである。

石を利用することは数多あれど、石にとらわれて離れられなくなる人は、また別の精神なのである。

石を利用することと石を感受することは異なるという視点で、石と人のある種純粋ではない関係も見ていかなければならない。

その際には、あまり近代科学以降の知に寄りかからないようにはしたい。西洋を石の文化、日本を木・紙・水などの文化と対置する、あるいはそのアンチテーゼを問う言説などもその一つである。しらずしらず、自分が「最近」のだれかの言葉で語ってしまわないためだ。


2025年2月16日日曜日

イワクラ(磐座)学会の閉会に寄せて

イワクラ(磐座)学会が2025年4月末に閉会することを知りました。

理事の平津豊氏のFacebookの投稿で詳細経緯を見ましたが、学究をつきつめていくことで組織・団体内の制御不能な膨張に悩まれていたのだと拝察します。

「岩石があると何でも『イワクラ』だと言い出す人が非常に増えた」のくだりはおっしゃるとおりですが、これはイワクラ学会が始まる前からよく見た現象であり、人の性のようなものと受け止めています。

今後も関係ないところで何度も同じ発想の繰り返しが生まれていくものと思われ、そういうインフルエンサーや社会の空気とある種併存して、学術活動は粛々と地道にやっていくほかありません。


学会活動もそういう地道なものを背負うものです。たとえば私は長らく、イワクラ学会にイワクラの保存活動(物理的保存・記録的保存)を期待していました。

HPや会報などでそのような視点の活動も見かけることがありましたが断片的・枝葉的であり、今回の閉会により途上で終わり、HPも存続しなければ再び散逸となるでしょう。

イワクラの文化財上の立ち位置の脆弱さ(=自然石として消滅しやすい性質)を考えれば、会員各個人の関心を差し置いても、さらに優先的に取り組まれればと。

個人では太刀打ちできない組織力によって、学会の歴史上の存在感もより一層だっただろうと思いますが――本当に外部から勝手なことを思っているだけでした。


かつて会員の方からお誘いを受けたこともありましたが。私は気にしいなので研究に心理忖度の余地は入れたくないと思い、自由勝手気ままにさせていただきたく、結果的に入会することはありませんでした。

創立以来変わらず会長の渡辺豊和氏の思想強く、外から見るかぎり個人組織・個人誌感が否めなかったのもあります。

理事の高木寛治氏、江頭務氏などの路線であれば、また異なる「イワクラ」観が社会に浸透したかもしれません。


とはいえ、イワクラ学会の活動の延長線上で設立された日本天文考古学会で今後研究が進展していくのだと思います。

学会名称から、岩石以外の天文考古学に軸足を移していかないとならないことは自明と思われますが、考古天文学会議を主催する北條芳隆氏など、本職の考古学者との協業が進めば学術的な未来が見えてきそうだと楽しみに受け止めています。

天文学を中心に据えて、理系分野の方々が多いと拝察するので、文系歴史学にカウンターを食らわす学際の嚆矢になることを期待しています。

ただし、文系歴史学の知の蓄積も半端なく、門外漢がいっちょ噛みすると大やけどします。お互い敬意を持って協業できる将来を願います。

私も文系という限界の中で自分にできる研究をしてまいりますが、自分の問題意識の延長線上でご教授を乞う日がいつか来るでしょう。