2025年7月6日日曜日

オミタケ(愛知県田原市)

愛知県田原市白谷町犬喰

白谷には「オミタケ」と呼ばれる岩壁がある。これも高さが5m程の岩壁で、以前は根元に祠があったそうだが、今は礎石のみ残っている。字名は犬喰という。
中根洋治『愛知発巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年
同書には白谷の見取位置図が掲載されているが、文字どおり簡潔な地図であり正確な位置がわからない。

中根氏が作成したルートから推測した場所がGoogleマップの中央に示したポイントだが、現地を訪れたところ路傍東側に若干の露岩が確認できた。しかし5mという岩壁の規模には及ばない。
また、草木が繁茂しているため確信が持てないが、石礫が散乱しているものの礎石らしき石材は確認できなかった。

34.67949, 137.23275 座標地点

露岩だが岩壁とまでは言えない。

草むらの中に石礫の散乱は確認できるが、浮石であり礎石とは認めづらい。

道の傍らではなく、道の東側の斜面を少し分け入って登らないと岩壁に出会えないのかもしれない。

この地点のすぐ南で農作業中の方がいらっしゃった。
中根氏の本の写真を見せながらオミタケという名前やこの近くに岩がないかを尋ねたが、存じ上げない反応だった。
ご高齢の女性の方だったので思い当たる記憶がないか期待したが、予想地点の横で畑を所有される方でも心あたりがないのであれば、これ以上の調査はなかなか難しい。


ところで、中根氏地図が指し示すポイントからはやや北に外れてしまうが、Googleマップに示した畑の一画に下写真の光景が存在する。

34.68085, 137.23346 座標地点



まさに高さ5mほどの岩塊の隣にプレハブの建屋が接している。これは何か。

中根氏写真とは異なり、隣に接するのは祠跡というより作業小屋然とした建屋であり、岩石の形状も岩壁という佇まいではないのでオミタケとは別の存在と思われるが、中根氏の言及はない。

畑の所有者の方に出会えれば文章化されていない歴史が語られるかもしれないが、現状としては不明の岩石として報告のみしておく。


2025年6月29日日曜日

白谷神明様/神明社/秋葉様(愛知県田原市)


愛知県田原市白谷町中畑

「白谷神明様があった所は、今でも巨岩が、海を背にしてそびえていますが(略)南側の大岩の前には、小さな祠が二つあり、秋葉様の燈籠があり、お祭のおのぼりをたてる構えも一対ありました。」(『蔵王:田原区文化誌』5 1998年)




神明社の一社であるが、地名を採って白谷神明社や、地元では尊称をもって神明様(シンメイ様)、ないし併祀された秋葉神社から秋葉様とも呼ばれたらしい。

当社には神明宮由来記(慶長年間以前?)なる文書が伝わる。

同書によれば、天照大神直系という豊丸皇子(史書に登場しない伝説的貴人)と二人の従者が伊勢に向かっていたところ当地に漂着し、生活のために庵を作ったのが始まりという。
その場所は当地からやや南の伽藍明神と呼ばれた所で、そこで伊勢明神をまつっていたが日当たりの悪い場所だったため、東長尾山に遷座した。この東長尾山が当地であり、巨岩が北の潮風を遮り、陽光の差す立地ということで選ばれたらしい。
さらに後年、田原の里に人々が集まると当社は田原に遷座して現・田原神明神社になったという由来記である(『田原町史』1975年)。

白谷は石灰岩の産地であり、今も現役の採石場が稼働している。

採石場遠望

その採石場のすぐ西に位置するのが白谷神明社であり、遷座後も神域として護持され続けたことで残った石灰岩の露頭と言える。

伽藍明神の場所は白谷の鎮守社である現・八柱神社の南辺りだったと伝わり、そこには礎石跡と目される岩石群が散在して伽藍様の尊称で呼ばれていた(中根 2002年)。
たしかに八柱神社南には山林が広がり、山林内に不整形の岩石が散在している。これらのいずれか、あるいはすべてを伽藍明神の伝説地とみなすことができる。

八柱神社南の山林内の岩石群


参考文献
  • 中根洋治『愛知発巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年
  • 田原区文化誌編集委員会[編]『蔵王:田原区文化誌』5 田原区 1998年
  • 田原町文化財調査会 編『田原町史』中巻,田原町教育委員会,1975. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537311 (参照 2025-06-29)

2025年6月21日土曜日

遠保神社の魔除石(三重県四日市市)


三重県四日市市山之一色町

 

社殿手前の向かって左に「魔除石」の字が刻まれた岩石が置かれている。



裏側に刻銘があり、平成元年、地元の石材会社による奉納とある。

注連縄もかけられていて現代の岩石信仰と言って良いが、あまり類例を聞かないタイプの岩石である。

魔除けではなく縁切りの形であれば、安井金毘羅宮(京都市)の「縁切り・縁結び祈願石」が形状的には類似するが、そのあたりから着想を得たのだろうか。

穴あき石の手前にはさらに平石も置かれている。供物台を意味しそうであるが、もし穴を潜る祭祀であれば供物をここに置くのは憚られる。

奉納者の石材会社は閉業している模様で、平成時代の岩石でありながら穴の意図や祭祀方法の詳細経緯の多くはすでに失われようとしている。


魔除石と言えば石敢當の信仰が著名だが、石敢當は避邪のために岩石を置くという心性なのに対し、本例は岩石に穴を開けていて、岩石を以て邪を通さないという信仰とは対極にある。

岩石で塞いでも魔除けになるし、岩石に穴を開けても魔除けになる。
このように、岩石をどのようにするかで魔除けの考え方が多様となるのも、人間の意味付けがどうにでも受け取れるという点で興味深い。


むしろ胎内くぐりなどに通ずる禊祓の思想に立脚したのかもしれない。

ちょうど参拝時、社頭に茅の輪がつくられていた。当社で茅の輪くぐりの祭礼がいまだ盛んであるからこそ、その穴に寄せた岩石奉納だった可能性も記しておく。

遠保神社社殿と茅の輪

境内の山の神。近くから遷座したという。


2025年6月14日土曜日

公開シンポジウム「これからの宗教民俗学の可能性」メモ(2025.6.14)

2025年6月14日、日本宗教民俗学会の第34回大会シンポジウム「これからの宗教民俗学の可能性」をオンラインで聴講した。

学会発足35周年という節目で、宗教民俗というものをこれからの時代に向けて再び輪郭づけようとした題目だと受け止めた。

結果として、現今の民俗学分野で知名度の高い「ヴァナキュラー」概念が当日の大きな論点になったように思う。

聞きながらのメモのため読者向けにまとまってはいないが、私吉川が問題意識を抱いた部分でフィルターをかけてお届けする。


島村恭則氏「民俗学とヴァナキュラー―来歴と可能性―」

ヴァナキュラーという概念をなぜ使うのか。

どこまでが民俗学の対象なのかを試し続けた40年だった。

すべてが民俗と呼んでもいいのだが、ヴァナキュラーという概念がさらにぴったりくる。

ヴァナキュラーは「俗語」の訳。国語の対比概念。

俗語と国語の関係は、俗的なものと国的なものとの対比関係で語られる。

つまり、社会的に正統・公式とされるものに対立する概念が「俗」。対覇権性(対抗覇権主義)とも。

聖・俗の俗の概念とは異なることに注意。


民俗にはフォークロアという言葉もある。しかしこれらの語のイメージが持つ、田舎のものや牧歌的なもののみに縛られていてはいけない。

ノスタルジーや昔に限定されるのが民俗研究ではなく、現代的なものまで含めて考えていけるのがヴァナキュラーの考えである。

ヴァナキュラーという概念をつくる、こだわるのが最終目的地なのではない。ヴァナキュラーから学ぶことが多いので広く紹介するというスタンス。


最初は来宮信仰をフィールドにしていた。そのような精霊論に最近回帰している。来宮は「来」の字から漂着神とみなす立場があるが、伊豆諸島の木霊様が神社化した地域の影響下に入ることから、「木」の宮としての、木の神様の信仰が本義だろうという結論に最近たどりついた。


■ 吉川感想

覇権・中心に対する俗の人々を学問するという視点だが、俗の人々も集団であるかぎり、その人々の中でまた主流や中心が生まれる。

俗とされる人々の中に埋没して、個人によっては周縁・対抗も生まれる。そこまでまなざしをむけることができるか。それでこそ反覇権の学問たりえるように感じる。

言い換えれば、民俗学は、俗という言葉で覆われて見えなくなっている個人の心まで研究たりえるか。俗を生み出し、俗の成立の下にあるベースとなるものだが、俗と一括されるものからははみ出ているような反支配性の「個」である。

民俗学が集団研究(再現性のない個人ではなく、文化に焦点を当てる)を前提とするものかによる。


橋本章彦氏「怪しきモノの宗教民俗学―「ゴジラ」の日本的性格を論ず―」

ゴジラもヴァナキュラーたりうるか。

ゴジラという作品の中に潜む俗的(一般化される)な部分に、皆さんの心にも共感できるものがあるかという問い。


第1作でのゴジラは出現時に暴風を伴い、神棚が崩壊したという映像制作者の表現が流れる。

出現時の天候不順は、全30作品の3分の1に見られる。

たとえば「赤い月」はヴァナキュラーと言えるかもしれない。

ゴジラは、鵺と同じ性格構造をもつ。


ゴジラ表現を一例としたが、このような俗の営みを、見えない世界、見えない存在(≒それが宗教的なものか)の関係から分析するのが宗教民俗研究方法と位置付ける。

見えないもの見えるものの境界を、表現作品から分析したということである。


■ 吉川感想

「皆さんの心にも共感できるものがあるか」

この問いかけ自体が、主流か反主流かが試されるような趣をまとい、学会発表という場の「俗」を感じざるをえなかった。

2003年以降の作品では、シンゴジラなどでは暴風を伴わないが、これを表現者の俗という立場からはどうとらえるのだろうか。

表現者・視聴者の世代を問わない普遍性があるのか、昭和レトロのような世代間の問題にただ帰属するような錯覚なのか、別の視点でも見極めもほしいところ。

解釈時、俗をみようとして通俗的パターン・定型パターンで解釈してしまうことで、捨象されてしまう個人の心がないかに注意したいと思った。

なお、境界は意味が出現または消滅する直前の混沌さを表すものであるという山口昌男『文化と両義性』の概念は、見えないものを扱う信仰研究において汎用性が高いものと感じた。


村上紀夫氏「宗教のメディア史的考察―恵信と遍路関係史料の周辺―」

文献史学の立場からの発表。

文献史料に民俗を読みとることは、これまでもこれからもおこなわれていく手法であるという例。


文献史料をメディア論という切り口から取り上げた。

四国遍路で知られる恵信(安永5年・1776年生まれ)は、出版物というメディアを多用・駆使した人物。

恵信は衛門三郎の木像に自分の髪を植えた。衛門三郎は欲深い豪農だったが弘法大師と出会って改心した人物。死去時に大師が衛門三郎と書いた石を衛門三郎に渡した。その石は、来世で生まれ変わりたいと衛門三郎が願った河野氏(伊予豪族)の子が生まれた時に握っていた。

恵信は衛門三郎と同一視の行動をとる。生まれ変わり、後継者。

その際、仁和寺や高野山などの監修・公認としての出版物を作り、口頭や耳で聞く以上に、文字というメディアで遍路に権威性をもたせた。

また、「光明」という文字をさまざまな書体で表現した。文字を美的なものとして用いた。これも文字メディアの一方法。

文字が読める経済資本・文化資本をもつ人(遍路ニーズ)をターゲットにした戦略が仏教界にもあった。仏教世界は、常に文字や書物と共にある。


このメディア論は現代の問題にも通ずる。

日本遺産にも四国遍路のストーリーがあるが、19世紀に創られたステレオタイプなイメージの再生産ではないかという問題提起。


■ 吉川感想

正しく文献史学の手法でおこなわれた30分。

文字資料というメディアは、書いた人、書かれたもの、読む人、すべてに一定の資本フィルターがある。

文献からしか見えないものの限界を自覚しつつ、文献が作られたからこそ、ターゲットとされた対象を読みとることができるというケースを示した。


メディアが変わってくると、情報を受け取る側の反応も変わってくるという点でメディア論の重要性を村上氏が説かれていた。

その例として、学会もオンラインになると、対面時代と違い内職ができるようになるなどの受け取り側の変化を挙げていた。

面白い視点だが、ただ、受け止め方は本当に千差万別である。その推測どおりの反応だけでないのは私の例であり、私はむしろオンラインになったほうが周りを気にせず集中でき、パソコンを2台使って1台でスライドを見てもう1台でメモを取り、このように即ブログで公開できる。そして、この行為自体が対面で座りながら話を聞く以上のアウトプットの場になっている。対面空間には社会性が伴うので、そこでつぶされる効能というものを感じている。これは周縁、反権威的な俗の反応の一つと言えないか。


西村明氏「宗教学とヴァナキュラー―宗教概念批判を踏まえて―」

宗教学の立場からの発表。

宗教学でもヴァナキュラーの概念は、大勢ではないが扱われることがある。

「大文字の宗教」と呼ぶものが、従来の宗教イメージ。組織宗教・制度宗教なども類語。欧米由来のreligionの訳語をどう訳してきたかだが、これらの宗教概念はプロテスタント色が強い。内面の信仰を重視していて、教会、組織、教義、教典がないと宗教とみなされにくいという限界があった。


そのような「大文字の宗教」からあぶれたものがある。

「信仰なき宗教」というような呪術から、プロテスタントの文脈では想定されていない民間信仰、俗もそれに含まれるだろう。

かつては民俗宗教かなあと思っていたが、今はヴァナキュラー宗教がはまるのではないかとアプローチしている。


ヴァナキュラー宗教とは「生きられた宗教」。

人が解釈しつづける宗教という意味。

宗教には解釈が伴う。だから「個人の宗教がヴァナキュラーでないことは有り得ない」というが、それだとなんでもありになってしまう問題を現在自問自答していて、よく細かく分析したい。


制度化された、システム化された宗教は、人の日常から「離床」「自立・自存」している。

その反・離床、つまり日常に根差した実践を研究するのがヴァナキュラーか。


宗教者も24時間、宗教者でいつづけるわけではない。宗教者ではない顔を持ち、その日常の中での思い、解釈ももちうる。そこに宗教者の俗がある。

現代社会では、ヴァナキュラー宗教は、人が創造し、消費するということをどちらもしうる。

大文字の宗教だけではとらえられない、個人のクセとして閑却されていたようなものが、ヴァナキュラー概念によって陽の目が当たるのではないか。


■ 吉川感想

西村氏のヴァナキュラー論では、個人のクセとして省かれそうな心にも焦点を当てようというまなざしがみられた。

内面の信仰なしの宗教(呪術)が存在するという話もあったが、信仰の定義にもよって扱いの変わる問題提起と思う。信仰告白のような大仰なものだけではない。

信じるというシンプルな精神は、宗教というイメージに関わらず行われている。それを宗教でないものと見るのか、それらも宗教的なものと無関係ではないとみなすのかの違いに行き着きそうである。

そして、信仰を教典で表せない、文字や言葉で表せない心の内面があると想定するのは、とりわけ一個人の心において当然想定されるべきである(全員が文章を書くわけがない)。


そうすると、最終的には個人の内面の「信じる」という心を無視することはできない。

何を信じ、何を信じないのか、そして、そこに理屈はあるのかないのか、理屈は言語化されているのかされていないのか断片的なのか、「末端」「枝葉」扱いされるようなイレギュラーな個人の目線に寄り添った分析・記述が求められている。

そして、そのイレギュラーな個人の心が周りの人々にどう扱われたかによって、社会宗教化するか個人の私的な「呪術」扱いされるかも変わってくるという点で、何が決定要因だったかを各個人の心と社会関係から研究することも求められるだろう。

俗の人が言葉で表していないものを、学者が言葉(講演、論文)で表そうとする行為の危うさと隣り合わせのヒリヒリとするテーマだった。


星優也氏のコメントから

星氏のコメントは、4名の発表を聞きながら同時にまとめたというパワポに基づいており、このスピードでよくぞという内容をまとめられていた。以下メモ。


  • ヴァナキュラーの理解に時間がかかったが、ヴァナキュラーと歴史学は接続可能ではないかと感じた。
  • 俗は、常民とどう関係するか、国民も越えていけるか、どこまで拡大する民の概念か。
  • 共有される<俗>と、共有されることによる「国民」化をいかにずらしていく議論ができるか。
  • ヴァナキュラー宗教から教祖が生成されることはありうるか。
  • 日常の宗教的実践と宗教の日常的実践


3つ目の「俗の国民化」は、数ある質問の中でも特に警句だと感じ、私吉川の問題意識とも重なった。社会性をもつことの暴力性というか、そこへのまなざしである。


登壇者からの回答


■ 島村氏回答

民俗学は現代と日常を研究する。その際、過去を参照するので、従来の歴史民俗学と当然対立するものではない。

社会集団としての「民」は恋人2人からでもいい。数はテーマ設定により伸縮自在するもの。死者やペットも入れてもいい「かも」しれない。

ヴァナキュラーは拡散している(?)ものなので、そこから宗教・教祖は生まれるのかは?宗教学への質問でもある。


■ 西村氏回答

教祖としてなるつもりがなくても、生き神として教祖化されてしまう。教祖以外の周りの信者の力学がある。

概念やカテゴリーなどに、何が入るのか何が入らないのかとこだわるとそれだけの分析概念の論争に終始してしまう。

研究する側、記述する側が、ここまでは宗教、ここからは宗教ではないと線引きすること自体が、近代以降の思考にはまりすぎている。

(宗教2世問題 すべての子弟、子供達が生来的に宗教の枠組の下にあることも)


会場参加者からの質問


■ 質問1

ヴァナキュラーは流行の概念だが、なぜ外国語を取り入れるのか、俗語のままではいけなかったのかの理由。支配的なものに対する対抗という意味合いを持つというが、それは民俗学も同じではないか。

■ 島村氏回答

民俗学が支配的なものに対抗する学問というのはそのとおりだが、しかし、実際には民俗学辞典の民俗学の定義にそれが明記されていない。なので、その意味を明確に持たせるために自分が再定義した。

世の中では民俗学という言葉が持つイメージは強く、民俗学の変革の方向性が伝わりにくい。ヴァナキュラーと呼ぶことで注目されるという戦略でやっている。また、外国語圏で研究する時は俗ではなくヴァナキュラーのほうが誤解がない。カタカナ語に過剰反応する必要はない。

学術的には、ヴァナキュラーでも民俗でも本来はどちらでもいい。

※島村氏の戦略、意図が伝わる質疑応答だった。


■ 質問2

書物の権威性についてさらに詳しく。

■ 村上氏回答

文字は国語(俗語に対する国語)であり、言葉と違って字を学べば同じ字を読める。その点で統一的なメディアであると言え、俗に対比される統一的・権威的な存在である。

そこから発展した議論として、文字資料を使って民俗を研究することは、かなりアクロバティックな読みかたをしないといけない。

文字資料は俗に対する権威的な書き手による情報であり、書き手の意図にからめとられないように、書き手の裏をかくような読みかたをより一層研究者は自覚しないといけないと考えている。


■ 司会の本林靖久氏からの問題提起

宗教民俗学はこれまでいわゆる固有信仰を研究するというのが中心だったが、これからはどのようなものを研究していく学問としていけばいいのか。

現実問題としては、学会として査読者が対応できないテーマも出てきている。編集委員側としての悩み。

■ 島村氏

いかにもヴァナキュラーな研究テーマも積極的に加えていっていいのでは。それも民俗なのだから。

あくまでも加えるのであって、今までの宗教民俗学をそっくり入れ替えることではない。

査読の問題は、外部に頼ってでも学会として対応するほかない。戦略として、学会として閉じてはいけない。雑誌の投稿先を投稿者側も見ている。研究者は好きなテーマをすればよく、その時に受け入れる先であれればいい。何なら、私はこれを機に入会するので手に余るテーマは査読を回してください(!)

ありのままにみる、というのは現象学(フッサール)。民俗学やヴァナキュラーは、ありのままに見るようであり、それに別の視点や意図が加わるもの。表現文化、物質文化など。

■ 西村氏

自分が解明したいテーマを研究していく中で、裾根を広げていく場面が出てくる。それは宗教や民俗とくくれるものではないかもしれない。そういったものも通過していきたいと自分は思っている。ヴァナキュラーもそういうものの一例。

■ 村上氏

各研究者は各研究者の専門を突き詰めて、読み手は自由な立場で、たとえばヴァナキュラーとして読んでもいい。

■ 橋本氏

ある聞き取り調査の時、「わしらは毎年同じことをやっているだけなんじゃ」と聞き取り相手から返されて、「民俗なんてないんだ」と目からうろこが落ちたことがある。

研究者が民俗と呼んでカテゴライズしているにすぎないのだということ。

このように、言語が世界を作っている。ということで、宗教民俗やヴァナキュラーという言葉から議論を始めるのは意味があることにはならない。文学における、書き手の意図と読み手の読みかたは異なるという問題にも通ずる。

対象が変われば問題や世界が変わるので、どのように自由であってもよいのではないか。

■ 本林氏

これから若い研究者がさらに登場する中で、さまざまなテーマが広がるのは自明ということを学会としても受け止め、それによって宗教民俗学・学会を盛り上げていきたい。


■ 吉川感想

学会や学問で取り上げられる研究テーマについても主流や中心があるというのなら、そうではないような怪訝な目でみられるテーマも研究され、そのような研究を受け入れていけば良いと思う。

なぜなら、その関係自体が反主流・反中心を内在するということであり、現代に生きる私たち「民」の「俗」の実践になるのではないか。

学会自体が、中心・主流に対するカウンター(反権威)になるという、新しい民俗学を体現していることになる。


査読委員側の問題は現実として問題山積だと思われるが、これは多様性を認めることに伴う出血であり、多様性社会のどこでも起こっている現在的事象と言える。

イレギュラーな各個人との軋轢をどう受け止めていくかということに尽きると思う。

人それぞれ、大事にしている自分の価値観があり、そこと他者が同一化するわけがないので、軋轢が生じてどうしても苦痛を伴う。

世代間格差もあろうと思うが、学会や先行研究者自身がそれ自体権威性をどうしても帯びてしまうものと自覚して、民俗学が反権威であることを体現するため、権威側ではない存在へ歩み寄っていくことを願いたい。


2025年6月7日土曜日

荒鎺山/堀谷アラハバキ神社(静岡県浜松市)


静岡県浜松市浜名区堀谷

社頭扁額には「荒鎺山」とある。

明治時代に建てられた石碑には「荒鎺●神」とある。 ※●は「大」「土」「之」のいずれかで、現地案内を参考にすると「荒鎺大神」か。

岩石頂上。岩山の観を呈す。

向かって右側から撮影。

向かって左側から撮影。

神社から道路を挟んだ向かい側にも注連が張られた露岩が存在。かつては道路をまたいで岩石同士を注連縄で渡していたともいわれる。

字・堀谷に鎮座するアラハバキ神社なので堀谷アラハバキ神社と表記されることがあるが、単にアラハバキ神社ないしは、社殿を擁さないので扁額・石碑に記された荒鎺山・荒鎺大神が元来的な呼称だろう。

いくつかのソースで文献調査を行ったが、当社の文献史学的な情報にたどりつくことはできなかった。いわゆるアラハバキ信仰の詳細についても不明といわざるを得ない。


補足情報として、旧堀谷村は石灰が産出される地として明治時代以前から知られていたようである(浜松県[編]『遠江国地誌小成』1874年)。

当社の北500mという距離には、堀谷洞窟という石灰岩の鍾乳洞がある。

人類学者の近藤恵氏を中心としたグループが2021~2024年度にわたって堀谷洞窟を調査しており、結果、縄文時代草創期に遡る可能性をもつ土器片の発見にいたった(「静岡県西部の石灰岩地帯における旧石器~縄文時代層の人類学・考古学的調査」)。

堀谷が縄文時代から人足のあった地であることはたしかである(これをもってアラハバキと縄文時代を接続するのは安易である)。


遠州山辺の道の会の会員である郷土史家・小野田正吉氏が当社について講演をされている。小野田氏であれば地元に伝わる資料などをお持ちのことと思い、詳しくご教示を乞いたいものである。

歴史講座:仮説、アラハバキ神と式内社


2025年6月2日月曜日

御白山浄居院の岩石信仰(静岡県浜松市)


静岡県浜松市北区引佐町奥山 浄居院(じょうごいん)


「浄居院の巨岩群」として地元では知られていたようで、竜ヶ岩洞にある「夢現の岩穴」掲示板には渭伊神社境内遺跡、幡教寺の巨石と共にその名が挙げられている(参考)。

浄居院

本堂向かって右奥に小丘が続き、上写真のとおり岩肌が露出しているのが参道からも見える。
境内から小丘に登る道が設けられている。

入口に置かれた灯籠

巨岩群入口

朱の鳥居でまつられた巨岩群が存在する。それぞれの高さはゆうに10mを越えるだろう。
巨岩群の懐に抱かれるように、少なくとも三か所に分かれて祠が鎮まる。

祠① 背後に亀裂をまつる。

祠② 手前に注連が張られているため正面から拝むことはできない。

祠③ 本堂向かって左側から墓域の奥に鎮まる。

他で見ない特徴は、巨岩と巨岩の割れ目を渡れるように、コンクリート製の石橋が架けられていることだ。

石橋(下から撮影)

石橋の上から祠①を撮影。

巨岩の亀裂の高さは奥方で10mを越えると思われる。

製法からして昭和時代の遺構と類推されるが、一種独特の参拝体験を通して丘の頂上まで参拝できる。
頂上には三体の石仏が石祠に納められていた。

丘の頂上

引佐の奥山地区の他の寺院と同様、臨済宗方広寺派に属す寺院であるが、この寺院に関する情報は少ない。常住寺ではなく、現地には説明板もない。インターネット上の情報も管見のかぎりほぼ皆無も同然だ。

唯一参考となるのが、静岡県引佐郡教育会編『静岡県引佐郡誌』下巻(1922年)に収録された「背山薬師如来記」という文献の記述である。

明和3年(1766年)、背山に薬師堂が落成した縁起を記した内容(安永年間成立か)であるが、背山(奥山地区の山間部の地名)はもともと御白山といわれていたという一節があり、浄居院に薬師堂は存在することから背山の薬師堂は現・浄居院のことを指すとみてよい。

岩石の名は伝わっていないが、御白山という名は岩肌から由来するものと思われ、岩石自体が山と同一視されていた可能性もある。

同書によれば、薬師如来は石像で顕され、初めは白山(御白山)の下、その後、岩壁の間にまつったという。
当地の巨岩群との関係が垣間見える記述である。

しかし、「薬師如来の石像及妙理権現の社は其の創造を詳にせず」の一文もある。

妙理権現の社は、巨岩群の裾にまつられた祠のいずれか、またはすべてを指すものと思われるが、薬師堂の建立以前の歴史は江戸時代当時の人々にとってもすでに不明だったことが窺われる。

2025年5月24日土曜日

岩巣と神座古墳群(静岡県湖西市)


静岡県湖西市神座 嵩山中腹


「今調査している古墳の近くに、大きな岩がごろごろしている場所がある」と駒澤大学の方から聞いたのは2013年だった。

気になる存在だったが、それから10年以上経過して時機到来して現地を訪れた。

古墳群は現地の地名から神座(かんざ)古墳群として知られ、そして岩群にも岩巣という名で呼ばれていることを知った。


駒沢大学考古学研究室による発掘調査報告書も2016年までに通算5冊発行され、調査にも一区切りついている。

報告書によると、神座古墳群は神座A・神座B・神座Cの3つの群に分かれて計27基が分布し、そのうち神座B古墳群の8基(うち1基所在不明)が嵩山(すやま。標高170m)という三角山に存在している。

一部の古墳が発掘され、結果、おおむね6世紀後半~7世紀初めに築造された群集墳であることが明らかになった。

嵩山(神座地区から撮影)

神座B古墳群

その古墳群に隣接するのが「岩巣」と俗称される自然石の群れである。

高さ5mを越える立柱状のチャートの露頭であり、一見した雰囲気は、同県浜松市の渭伊神社境内遺跡のチャートの露頭と類似するものがある(丘陵上という立地も共通)。

渭伊神社境内遺跡では自然石の傍らから古墳時代の祭祀遺物が見つかったが、岩巣では2012年に地形測量がなされたものの直接的に古墳時代の遺物は見つからなかった。その代わりではないが、古墳という厳然たる古墳時代の遺構が隣り合うという状況を見せる。

具体的には、岩巣は嵩山頂上から北東に延びる支峰頂上(標高98m)に露出し、その岩巣を挟んで東に3号墳、西に4号墳が築かれる。

それぞれの古墳からは肉眼で岩巣を認識できる近さであり、古墳築造時にこの岩巣の存在を知ったうえでこの地に古墳(墓域)が形成されたということになる。

岩巣(頂上部)

立柱群(4号墳側から撮影)

3号墳側から撮影

岩巣には岩陰があるものもあるが、防空壕として利用されたものもあるとのこと。


前述のように岩巣からは遺物が出土しなかったため報告書上ではほぼ看過されている(言及しようがない)存在となっているが、本記事ではもう少し岩巣に言及したい。


岩巣はその名称以外に特段伝承も信仰・祭祀の跡もみられない存在だが、尾根先端にある岩の一岩石上からは麓が一望できる好立地である。

岩巣の尾根端(東端)

麓の眺望

麓の神座地区には、産土神としての上座神社が鎮座する。「上座」は「じょうざ」と読むが、元は「神座(かんざ―かみざ)」から転じたものとみるのが適切である。

上座神社は寛永11年(1634年)の創建といわれるので古墳時代に遡るものではないが、地名としての神座がいつまで遡るか、そして嵩山の聖山としての位置づけがいつまで遡るかという点はさらに追究されてよい問題だろう。

なお、上座神社境内の北西隅には下写真の岩石がまつられているが、これは「最近」置かれたものだという(中根 2002年)。

上座神社境内の岩石

興味深いのは、神座B古墳群の石室石材は現地性のチャートだったことが判明しており、つまり、嵩山の岩石を採ったということになる。

ドライに見れば、岩巣は単なる石取り場の跡だったのかという見方さえできる。当時の人々にとって、嵩山は山に手を入れて墓を造成して良い場所であり、そこにある岩石で石室を造ってよかったという認識にあったことがわかる。では岩巣にも手を入れてそこから岩石を採ったのではないかという実利的な側面である。

一方で、同じ浜名湖周縁地域に属する渭伊神社境内遺跡では自然の露岩群を対象とした祭祀が確認されているわけで、こちらは岩石を神聖不可侵なものとする見方が語られる。


両者が相まった考え方としては、岩石に聖性を認めたからこそ、その聖なる岩石を墓に利用したという意味での岩石信仰も仮説として浮かぶ。この場合、自然石は利用されてそれでも信仰として成り立つ。

発掘の中で、7号墳からは古墳時代の焼土層も検出されている。順序としては、墳丘築造前に地山を整地して、その後に整地面で火を焚いて、それから石室と墳丘を構築していくという流れである。そのため、古墳築造時の一種の儀礼行為としてなされた跡ではないかと報告書でも指摘されているが、このように山に対して手を入れることと祭祀は両立しうる。

いわゆる山は神聖不可侵で立ち入らないという性格ではなく、山に積極的に立ち入って利用していくという性格の信仰が垣間見える。しかし古墳時代は全般的に文字資料不在につきこのあたりの心の在り方がわからず、現時点では確定的に言えることは少ない。

岩石信仰の観点で見れば古墳と自然石の同居事例の好例の一つであり、古墳石材が現地性であることもわかったという点で今後の研究の参考となるところ大だろう。


参考文献

  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第1次発掘調査概報』2012年
  • 駒沢大学考古学研究室[編集・発行]『静岡県湖西市 神座B古墳群第5次発掘調査概報』2016年
  • 中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年


2025年5月18日日曜日

『松尾山寺遺跡』~山林寺院と岩石信仰の関係事例~

立命館大学考古学研究会[編集・発行]『松尾山寺遺跡―平安京周辺山林寺院の調査・研究―』(2025年)が発行されました。

2003年、初めて松尾山を紹介されてその時に登った一人として、20年越しの区切りを見た思いです。

 

京都市の松尾大社の裏山・松尾山で見つかった寺院跡の調査報告書です。

京都で見つかっている、古代から中世にかけての山林寺院遺跡の一例となりますが、他例と比べて土師器の割合が高い遺物構成というのが特徴ということがわかりました。


灯明を灯すための皿が多く出土した同市内の梅ヶ畑遺跡との関連性が挙げられていて、興味深く読みました。

梅ヶ畑遺跡は発見当時、仏教系祭祀遺跡という位置づけでしたが、京都市埋蔵文化財研究所による遺物再整理を通して寺院跡という見直しがされていたことも初めて知りました。


報告書では、岩石信仰と山寺の近接性も指摘されていました。

正確に書けば、報告書上では「岩石信仰」ではなく「磐座」「巨石」「巨岩」の3つの表現が同義的に使われていました。

当会の過去会報『考古館』での私の議論(2001年~2003年)が継承されていないのは残念ですが、継承できなかったのは私の力不足でもあります。


巨石信仰・巨岩信仰という言葉自体が不適切というわけではありません。

"巨大な岩石"という"巨大さ"に信仰の要因の重きを置く文意として使ったのであればアリだと思います。

実際、松尾山の磐座も類例として挙げられた大宮釈迦谷遺跡・西賀茂妙見堂遺跡の事例も"巨大な岩石"と言えるので、巨大なものへの信仰という共通性はあるでしょう。

ただ、せめて巨岩と巨石の表現一致は欲しいところです。
(石と岩の概念整理)


山中の寺院と平地の神社との関係、社地に対する神宮寺としての関係なども問題提起されていました。

報告書では明示されていませんでしたが、管見のかぎりではに岩石信仰との関係も複数事例を挙げることができます。

その辺りをまとめると下のとおりです。

遺跡名岩石寺院神社古墳
松尾山寺遺跡
名称磐座(ご神跡)松尾山寺松尾大社松尾山古墳群
立地山頂直下山腹平坦地山裾山頂尾根
梅ヶ畑遺跡
名称石塊・巨岩群御堂ヶ池古墳群
立地山頂・山頂直下山頂山頂尾根
大宮釈迦谷遺跡
名称巨石釈迦谷廃寺上賀茂神社
立地山腹対岸平地
西賀茂妙見堂遺跡
名称巨石霊巌寺上賀茂神社
立地今昔物語伝承上対岸平地
上賀茂神社
名称降臨石神宮寺上賀茂神社
立地神山山頂神宮寺山山腹神宮寺山山裾
参考:滋賀県日吉大社事例
名称金大巌日吉神宮寺日吉大社日吉古墳群
立地山腹山腹山裾山裾~山腹

突貫で作ったので色々調べが足らないところもありますが、岩石と山林寺院の関係については距離の近さ/遠さをどのように評価するかという論点は提示できます。

滋賀県日吉大社事例では、金大巌と日吉神宮寺が山域を分け合って存在していたという説が出されており、他例でも検討されるべきテーマです(「金大巌と日吉大社の岩石信仰」)。

梅ヶ畑遺跡の石塊と寺院跡は立地を同じくする同居例と数えられるかもしれませんが、梅ヶ畑遺跡における岩石信仰は厳密にいえば山頂の石塊と山頂直下斜面上の巨岩群(銅鐸出土地で今は消失)の2地点に分かれます。

この場合、寺院跡と銅鐸出土地の巨岩群とは、直線的な距離とは別で、立地としての空間の分け合いが認められます。


その観点から松尾山をふりかえると、松尾山の磐座(ご神跡)は山頂直下斜面上に存在するのに対して、松尾山寺は北に離れた山腹平坦地に築かれています。尾根は1つ分またいで山域を分け合っているという考え方もできるかもしれません。


神社については梅ヶ畑においてこれといった神社が指摘できませんが、古墳については報告書でも指摘されているように古墳時代後期の群集墳が共に存在しています。

これらの立地は、山頂尾根に数十基が分布しており、岩石信仰の関係でみれば、梅ヶ畑は古墳のすぐ上に銅鐸埋納地の巨岩、松尾山は逆に磐座(ご神跡)の上の尾根に古墳が築かれています。

その点で両者の立地に統一性があるわけではありませんが、それは自然石が人の手によらない地質的存在であることと、古墳は尾根上のほうが作りやすいという築造条件によるものなど、信仰上の問題とは別の要因も考えないといけません。

言い方を変えれば、そのような諸条件・諸要因による規制を受けても問題ないという信仰のありかただったとも言えます。


対応する神社や古墳を指摘できない事例もあるので、前掲表の事例群がぞれぞれ比較対象として適切かには異論もあると思いますが、時代を越えて山地利用をおこなう際に、それ以前に存在した「聖地」を後世の人々がどのように位置づけて、山での同居ないしは住み分けなどを図っていたかはさらに注目されてよい問題でしょう。


立命考古研の皆様には、山林寺院跡発見によって測量が途絶した松尾山古墳群の調査の再開を望みたい、と勝手な希望を記して今後の活動継続を祈っています。


2025年5月17日土曜日

「日本列島の自然石文化と岩石の信仰」オンライン参加方法

本イベントは終了しました


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先日お知らせした

日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会でポスター発表を行います

このポスター発表について、予稿集と参加方法が発表されたのでご案内いたします。


予稿集より


日本列島の自然石文化と岩石の信仰

吉川宗明

キーワード:自然石文化、岩石信仰、磐座、巨石、鑑賞石


人が岩石をどのように利用したかではなく、人が岩石に接してどのように感じたかに注目したい。

自然に存在する岩石に影響を受けて生まれた文化を自然石文化と呼ぶ。その一つの極致が、岩石を神や仏、精霊としてあがめるなどの岩石信仰である。自然石のまま信仰する場合もあるが、場所だけ動かして並べたり積んだりして祭りをする場合もある。また、場所は移動しないが自然の岩肌に図像や字を刻んで拝む場合もある。もちろん、石材として完全に切り出して整形したうえで成立した信仰もある。

岩石にどれだけ手を入れたかという違いはあるが、これらはすべて、岩石が露出した時の自然の姿に対して抱いた心理の差とも言える。一方で、自然石を見て石材として用いない選択をした心理や、神仏として崇めるにいたらなかった心理、そもそも岩石を意識することなく放置したという心理のありかたも存在する。岩石と一言でまとめても、自然石のありかたによって人の感受性には多様性が認められる。

本発表では、磐座や巨石信仰と通俗的に呼ばれる岩石から、そのような用語では当てはまらない数々の岩石信仰の事例も紹介して、岩石信仰の領域の理解につなげる。さらに、自然石に美を見出した水石や庭石などの鑑賞石、聖でも美でもない民話のキャラクターとして登場する岩石など、自然石文化の裾野の広がりも明らかにする。

人間と岩石の精神的な関係は、さまざまな学問において分析されるべきテーマということが伝わる発表を目指す。


大会サイト:日本地球惑星科学連合(JpGU)2025年大会

発表日時・場所


■ 発表日時
2025年5月25日(日) 9:00~19:15

※JpGU大会の会期は2025年5月25日(日)~30日(金)ですが、5月25日のみパブリックセッションデー(一般公開日)として一般向けのパブリックセッションが用意されています。パブリックセッションは事前登録の上で無料参加・観覧ができます。
吉川の発表はパブリックセッションで、地学関係者に限らず一般の方向けにポスター掲示を行います。

■ ポスター実物掲示会場 
幕張メッセ国際展示場 7・8ホール
※入場には事前登録が必要

■ オンライン掲示URL
オンライン上のポスター掲示サイト「Confit」
https://confit.atlas.jp/guide/event/jpgu2025/subject/O05-P02/detail
※ログインには5月24日までの事前登録が必要

吉川はオンライン参加ですので現地会場にはいません。
ポスターはConfit上でいつでも観覧できますが、コアタイムと言って発表者が質疑応答で常駐する時間が定められています。
コアタイムは、5月25日(日)17:15〜19:15です。この時間帯はConfit内で待機していますので、Confit内のコメント機能を使って、発表者と質疑応答(チャット)を交わすことができます。吉川と会話したい方はこの時間内でどうぞ。

参加方法

オンライン(Confit)上で参加する方法を案内します。

発表日前日の5月24日(土)までに、下記の申込フォームから申し込んでください。

「パブリックセッションオンラインポスター参加申込フォーム」
https://business.form-mailer.jp/fms/6108b4b4144375

大会事務局より、ConfitにログインするためのIDが無料で発行されます。5月25日 1日限定のIDです。
お手数をかけますが、パスワードも設定していただく必要があります。

大会当日(5月25日)に申込しても、大会事務局は当日会場で運営に専念するため、IDの発行はできないとのことです。ご注意ください。

その他詳細は以下の参考リンクにてご確認をお願いします。


参考リンク

一般公開(パブリックセッション)参加者の方へ|JpGU2025
https://www.jpgu.org/meeting_j2025/for_public.php


2025年5月12日月曜日

鍋石(静岡県浜松市)

静岡県浜松市天竜区春野町川上

この鍋石で最後に雨乞いが行われたのは昭和一八年ごろだったという。続く旱天に畑や焼畑の作物はすべてうなだれ、猫の額ほどの山田の稲も萎えてしまう。何日も何日も雨が降らない――こんな時、川上の人々は相談して、こぞって鍋石へむかう。そして、石の上へのぼり、塩を撒き、全員で般若心経を唱えるのだった。そして、鍋と呼ばれる穴の水で男達は褌を洗う。洗い終えてから鍋の水を全部汲み出すのである。鍋の水で褌を洗うというのは水神の座である鍋石の聖水で不浄の物を洗うことによって水神を怒らせ、水神が、不浄を清めるために雨を降らせることを期待しての行為である。いわば、「聖水汚染型」の雨乞い呪術なのである。
野本寛一『石と日本人』樹石社 1982年

同書にのみ登場する岩石祭祀事例で、他の文献では見かけない場所である。この鍋石の所在を特定することにした。

野本氏の記述によれば、春野町の川上のはずれに外山(はずれやま)という小字があり、そこに流れる杉川沿いを1kmほど歩くと断崖下の川の中に鍋石があるとのことである。
石の上には鍋状の穴があり、常に水がたまっていて百人は座れる規模とも書かれている。

他のヒントとして、鍋石で雨乞いをしても雨が降らない場合は、鍋石からさらに2km進んだ「玄馬の滝」でも雨乞いしたといい、このあたりの情報を綜合すればおおよその位置が絞られる。

杉川沿いには現在、杉川林道が通っていて、ずっと北上すると「玄馬沢」と呼ばれる谷間と分岐する。この沢にぶつかるまでの杉川沿いにあるのだろう。


春野町には浜松市春野歴史民俗資料館があるので、地元の民俗について情報をお持ちかもしれないと考えて訪れた。

館員の方々は異動などもあり現在は地元在住の方がいなかったが、ゼンリン住宅地図で探していただいた。
地図には杉川林道がぎりぎり端に掲載されており、そこに「外山沢橋」の名を見つけた。そのあたりを外山と呼ぶらしく、ここから玄馬沢の間に穴に水が溜まった岩石を認められれば良い。


杉川林道の起点(川上地区の宝珠寺あたり)からしばらくは、杉川には氾濫対策のための護岸工事やテトラポットなどが並べられており、鍋石に影響が及んでいないか不安視された。

杉川林道始点

舗装された杉川

それでも林道起点から約25分歩いた、川が大きく蛇行した湾曲部の西岸に、下写真の場所があった。
(35°03'20.83N, 138°01'39.60E)

杉川林道上より、南から撮影

拡大写真

北側から撮影

これまでに見た川辺の岩のいずれよりも大規模で、重要なこととして水のたまった穴(窪み)が岩上に確認できる。

上から撮影。水の溜まった窪みが見える。

拡大写真(写真中央)

野本氏が記したように百人座れる規模であり、外山より北、玄馬沢より南という位置も踏まえて、この岩石が鍋石ではないかと推定される。現在も変わらず存在が確認できたことは大きい。


探訪時は知らなかったが、帰宅後に調べてみると「林道のその先に」のページ内に「〇石橋」と冠された橋があることも知った。

作者の方は銘板が達筆すぎて読めないと判断保留されているが、「昭和四十二年十二月竣功」「鍋石橋」と思われる。
この鍋石橋が杉川林道のどの地点か確認できなかったのは心残りだが、それまで通った4つの橋(柳沢橋・水車沢橋・外山沢橋・小垣沢橋)には該当しなかった。おそらく上記の鍋石の地点を越えた先の次の橋と考えられる。


2025年5月5日月曜日

岩畳神社の神歌石(愛知県豊川市)


愛知県豊川市御津町泙野新屋敷 御津山
神歌石
泙野字新屋敷に在り険阻なる岩窟なり三河藻塩草に云昔この処に御津神社の別当在ますとあり自然の石窟の如き石がまへありて小社ありこれを石畳荒神と称す蒼海を眼下に見はらして景色いとよき処なり
早川直八郎, 早川彦右衛門 著『三河国宝飯郡誌』,早川直八郎[ほか],明24-26. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/765323 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。
御津大神此山へ昇進し玉ひ、南海を見下し、景色自ら称し一首の御詠吟に、大嶋や千代の松原岩畳くずれゆくとも我はまもらん
御津町町史編纂委員会 編『御津町史』史料編 下巻,御津町,1982.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12158035 (参照 2025-05-05) ※カタカナをひらがなに直した。




岩畳神社の社殿背後の斜面上に存在する。岩畳神社は古文献上では石畳荒神・岩畳荒神の名で記される。

御津大神がここで歌を詠んだ伝説から神歌石の名がある。他で聞かない命名であり、読みかた(音)は「しんかせき」で良いのかわからない。

眼下に海をおさめる眺望の良さがうたわれているが、現在は樹林繁茂によりその景観を追憶できない。

神歌石から岩畳神社社殿を見下ろす。

岩畳神社の社殿も岩肌に接して築かれる。