2024年12月30日月曜日

七夕岩(岐阜県高山市)


岐阜県高山市松之木町・漆垣内町

女岩

男岩

七夕岩の「松之木七夕」(2012年8月撮影)

大八賀川を挟んで、東岸に女岩(雌岩)、西岸に男岩(雄岩)と呼ばれる岩山が隆起しており、この2つを七夕岩と総称している。

元禄検地(1695年)において「七夕」の地名が見られるため、少なくともこの頃には当地において七夕に関する風習が存在したものと推測されている。


男岩の落滝

現地地図では「立石」と記載される。

大八賀川を挟み、東西の山腰に、相對て峙起たる丈餘の大巖あり。村民家ごとに綯おきたる縄を集め、毎年七月の六日の宵、東西の大岩に張亘し、挑燈に火を點し、藁にて馬牛其餘種々の形したる作物等、あまた取懸ならべて、牽牛・織女を祭り、年の豊凶を占ふ。翌年の七夕まで、其縄の保ちたるは豊年の兆なりとぞ。其来由詳ならず。鍋山豊後守の居城より以前のことにや。
富田礼彦 著『斐太後風土記』上(首巻,巻1至12),大日本地誌大系刊行会,大正4-5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/952768 (参照 2024-12-30)


2024年12月22日日曜日

針綱神社の依代と三光稲荷神社の女陰石(愛知県犬山市)


愛知県犬山市犬山北古券


犬山城の一画、針綱神社境内に1個の岩石が安置されている。

現地看板には「依代 御祭礼にあたり御神霊がお降りになるところ」と記されている。



平たい岩石であり、岩石の上に神降り立つ台座の形状をなしている。

祭礼という定期的な間隔で神がやってくるという、すべての要素が正しく依代的磐座の機能を伝える典型例である。

針綱神社はかつて犬山山頂から別場所へ遷座した歴史を有するが、現社地は犬山の麓であり、そこにこの平石が存する。山の神を麓に招く構図であれば立地も相応しい。

ただし、この岩石が遷座以前からの祭祀の場であったかは明確な記録に出会えていない。

岩石の名称も「依代」ではなかったのではないか。依代は民俗学者・折口信夫の造語だから、それ以前は別の名称で呼ばれていたと思われる。


また、針綱神社と隣接する三光稲荷神社の境内に「御縁の松」と「女陰石」がある。

御縁の松は良縁・所願成就の霊木とされ、その霊験によって良縁を得た一信者が、さらに子宝と安産を願うために奉納したといわれる岩石が女陰石である。女陰石は直接手で触れることで霊験があるといわれる。


2024年12月15日日曜日

大御食神社の御手掛石/比良加石(長野県駒ケ根市)


長野県駒ヶ根市赤穂

社頭に蟲々して天に沖するがやうな老杉を、日の御蔭杉、月の御蔭杉と呼び、その折、日本武尊が、御食をとられた樹下の一小石は、尊が『小かなる石よ。』と愛でられたものださうで、御手掛石または比良加石と稱へられてゐる。(口碑)

藤沢衛彦 編『日本伝説叢書』信濃の巻,日本伝説叢書刊行会,大正6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/953569 (参照 2024-12-15)

杉の根本にある石を尊の御手掛け石と云ひ尊に御酒を進めし時杯を置かれ給ひしとて比良加石とも云ふ。

柿木嘉藤治 著『伊奈路』,丸竹書店,大正2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/951788 (参照 2024-12-15)

御手掛石/比良加石(写真左は標柱。写真奥は御蔭杉)

御蔭杉


2024年12月9日月曜日

雨晴岩/義経岩/義経雨晴岩(富山県高岡市)


富山県高岡市太田 雨晴海岸

『義経記』による道順からははずれているが古くから義経の奥州下りの途中に雨宿りしたという雨晴岩の伝説が語りつがれている。 

岡崎卯一 [ほか]著『富山の史跡 : はるかなる大地の伝言』,巧玄出版,1978.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9537599 (参照 2024-12-09)


雨晴岩/義経岩。義経社をまつる。

雨晴海岸

義経が願かけ石、或は弁慶のまな板石とて同所にあり。(略)(越中史徴)

高岡市史編纂委員会 編『高岡市史』上巻,青林書院,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3009126 (参照 2024-12-09)

雨晴岩内部

これら奇岩の折り重なりや群集のいずれかを願かけ石、まな板石と呼んだものか。

雨晴海岸に浮かぶ女岩。南東800m地点に男岩も存在し、いずれも明治時代制作とされる『越中史徴』に記載が残る。


2024年12月1日日曜日

気多大社の「磐境」(石川県羽咋市)


石川県羽咋市寺家町

問題の磐境は本殿の北方森林中にあって、今奥宮鎮座す。石垣は長方形にして南北短く東西長く、長軸は正しく東西を指し、東西四〇尺、南北三三尺なり、入口には門の如く中央に巨石を立てゝ並べ、その左右より石垣をつくる、左右側石も所々に巨石を用い(縦に)その間に自然石を横積とす。後方は巨石を用いず、横積の丸石多し、(略)この石積は手法より見ても古代のものならず、又出土品より見ても中世以降のものなること疑なし。

茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

禁足地のため写真はないが、NHK制作番組「新日本風土記」の2024年12月9日放送「入らずの森 畏れの杜」で気多大社の奥宮への撮影が許され、奥宮の手前に石積みが並ぶ様子が放送された。