2019年8月18日日曜日

保久良神社の列石を巡る磐境説とその批判的検討(兵庫県神戸市)


兵庫県神戸市東灘区本山町北畑

六甲山系の一つ、金鳥山の中腹(標高180mライン)に鎮座する保久良神社は航海の目印「灘の一ツ火」で知られる絶好の眺望を有する。
延喜式内社の保久良神社とされるが、近世までは牛頭天王をまつる「天王さん」「天王社」の俗称が強かった。

保久良神社社頭「灘の一ツ火」から神戸港を一望する。


保久良神社の境内からは、弥生時代中期から後期にかけての弥生式土器や石斧、石剣、約20cmの銅戈(大阪湾型c類銅戈と後に呼ばれる型式)などが出土した。
そして、保久良神社裏を少し登った所では5基の竪穴式住居跡が見つかっており、保久良神社遺跡として知られる。
考古学的には、六甲地域に多い高地性集落の一事例として注目されることが多い。

そして、保久良神社のもう一つの顔は、祭祀遺跡としての側面である。
樋口清之氏の論文「摂津保久良神社遺跡の研究」(『史前学雑誌』第14巻第2・第3号、1942年)では、この遺跡を単なる集落遺跡としてではなく、人工的に列石を形成した磐境遺跡として評価している。

それから七十年余。
保久良神社の祭祀的側面を改めて検討する必要性があるだろう。

保久良神社の列石と遺物

樋口氏の論文によれば、列石は単に散在しているように見えて、イ~ヲの群に分かれて特定の配列が認められるという。
まずはイ~ヲ地点の現状を紹介したい。

樋口清之氏「摂津保久良神社遺跡の研究」(1942年)より


イ群

本殿を取り囲む石群である。
瑞垣内にあるので普通は見ることができないが、イワクラ学会理事である平津豊氏のホームページでは、宮司の方に許可をいただき瑞垣内の写真を収めているので参照されたい。

保久良神社とカタカムナ

石同士が密接にくっつき、最も原位置を良好に残しているものと評価されている。
ここからは石鏃・土器片が出土した。

ロ群

社務所北側の石群。
このうち、2個は自然の露岩とみなされている。
瑞垣で今は隔てられているものの、元来はイ群と連続した存在だっただろうと推定され、そこに異論はない。
石の形もイ群と似て、樋口氏は「牛が臥せたような形」と形容する。
ここにある巨石の下に根固めと見られる粘土があり、その粘土の中から弥生末期と見られる土器片が1点検出された。土器の上に巨石という前後関係が認められる。

ロ群。柵に遮られて中に入ることはできない。

柵の外から撮影。


ハ群

社務所西側の石群。
ここには二つの特別視された場所がある。
一つは「雷岩」(神鳴岩の異称もあり、現在は神生岩の看板が立つ)と称される巨岩で、もう一つは「九龍明神」の小祠が建つ。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

神生岩。柵外から撮影。

神生岩 南から撮影

ハ地点

九龍明神の祠は見つけられず。


ニ群

参道の西の小群。
ここは濃密な弥生土器包含層というが、列石群の中でも最も激しい原状変更がなされた群ではないかと推測されている。
ここは玉垣で立ち入ることが難しく、現在社叢内のため玉垣外からでは石群が見えなかった。

ホ群

参道の東の列石。
他の群に比べて一列に石が連なって見えるため、古代磐境の旧状の残存を思わせるという。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

ホ群。他の群より列石感は出ている。

完全な一列ではないのと、石の大小が様々なのが気になる。


ヘ群

絵馬堂東の石群。
絵馬堂を建てた時、そこにあった石がこの場所に集積されたかもしれない密集具合とのことである。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

ヘ群。やや北側を撮影。


ト群

現在、「立岩」と称される巨岩を中心にした数個の石群。
しかし、樋口氏論文ではこの巨岩への名称が明記されておらず、おそらく「立岩」呼称はそれ以降のことと思われる。
境内中心にあるため、長年の境内工事によって原位置はとどめていないものと解釈されている。

ト群の中心石である立岩

逆側より撮影


チ群

雷岩の西の斜面の石群。
古くから民有地に接し、庭石などで持ち去られた節が見られるという。

リ群

境内の南西地点にある石群。ここは天王前坂という字が残るという。
当時の宮司の話では、ここには大小の岩石が不規則に集合していたが、民有地で庭石用に随時持ち去られていった。
そして昭和16年9月、最後まであった石英粗面岩が取り去られた際に、石の東に接して峰を北に向けた弥生時代の銅戈(注)と、それに並べて2個の打製石鏃、さらに西にやや離れて2個の磨製石斧が見つかった。
また、リ群東南方より穿孔のある玻璃製曲玉が一点見つかった。

この出土地点の包含層には松の木炭が多く混合していた。観察結果では焼けた土や礫が存在していたことから、宗教的な焚火の跡ではなかったかと推測されている。
このリ出土地点は岩石もろとも本調査をもって全部破壊され、今はそのよすがをしのぶものはない。

(注)樋口氏は本論文でこれを銅戈ではなく銅剣と認識していたが、柄の部分が剣状ではなく、矛の木の柄を差し込む茎部になっているので、この形状から現在は銅剣ではなく銅戈であるとみなされている。

リ群付近にある岩塊。銅戈が出土した岩塊は今はない。


ヌ群

境内南の断崖にある石群。
弥生土器包含層に位置し、樋口氏は人為敷設の痕跡が認められると下す。
崖上から肉眼では草の繁茂で石群を見つけられなかった。

ヌ群の崖上に1個だけ残る岩塊。


ル群

境内南東の断崖縁にある一群。
こちらは遠くから観察することができた。
ここからは石鏃と土器片が出土した。

なお、ここにある巨岩のことを珍生岩(うづなりいわ)と呼んでいる。巨岩下の道路沿いに看板が立てられたのは最近のことである。

ル群 上斜面から撮影した遠景

斜面下の道路に立てられた珍生岩の看板


ヲ群

拝殿東方、約10m下斜面の一群で、多数の巨岩を擁する。
三五岩と俗称される緑泥片岩を中心に、大部分は自然石の風化破砕による群と推測されている。
当時の宮司談によれば、ここからは石鏃の完形品が多数発見されたという。弥生土器・土師器も混在している。

三五岩(北から)。岩蔭を形成する。

三五岩(南から)。二体の巨岩が対になるように存在。



遺跡としての評価

樋口氏の論文では、次のような見解が示されている。

  • 列石は石英粗面岩と緑泥片岩から構成される。
  • 列石に用いた石材はいずれも自然石のまま使われたとみなす。人工のように見受けられる模様や断面があるが、これは石英粗面岩が風化する時に現われる性質であり、実際に自然の石脈に沿って破面が見られた。また、加工具を使った跡も認められない。
  • 調査によれば、拳大の石や粘土の小塊をもって根固めをした後に列石の石を置いたと認められる部分があり、根固め粘土の中から弥生土器あるいは土師器と見られる赤色素焼土器細片を発見した。
  • 巨石の下の地中から土器片が見つかった例もあり、土器配置のあと巨石敷設という前後関係が認められるものもあった。
  • 列石の多くは山麓から人為的に運び上げられたと考えられるが、三五岩など一部の巨石は元から自然の露出物ではないかとみなしている。
  • 岩陰に石鏃が見つかるケースが多く、石鏃と巨石の収蔵地としての相関を示している。
  • 石器群(石鏃・石斧)はいずれも六甲山で産出する輝石安山岩の灰黒色サヌカイトで、おそらく当地で採れる石材を使用したものと考えられる。また、原石の打裂痕や未成品、石屑も見つかっているので、石器への加工は当遺跡内で行われた。
  • 銅戈は峰がかなり扁平で実用的な武器とは言えず、祭祀用宗教用具であるとみなす。
  • 巨石の下から出た弥生土器や、巨石に接して出土した銅戈から、当遺跡は弥生時代第三様式~第五様式にかけての巨石構築物だったと考えている。
  • 弥生時代から土師器(古墳時代)にかけての遺物が中心だが、本殿東北からは奈良時代の古瓦片や鎌倉末期~室町初期と目される懸仏も見つかっている。

そして、イ~ヲのそれぞれの群は独立したものではなく、それぞれの群が元来は連続、あるいは関係性を持ち、全体で環状を示す遺構であると評価した。
それはイ群を頂点として、同心円状ではなく、イから螺旋状に二重、あるいは三重の環状をなす列石だったという仮説を提示している。
これにかかる土木工事は他の遺跡や墳墓の遺跡を鑑みればじゅうぶん常識的な範囲であったとみなしている。

遺物は先述のとおりイ、ロ、ハ、ホ、ル、ヲ群などから幅広い範囲で見つかっており、リ群の天王前坂を除いてはいずれも「住居址様のものとも決し得ない状態」だったそうである。
ここから樋口氏は、この遺跡を単なる生活遺跡と見ず、石鏃にも信仰的意味を見出して、岩陰に収蔵された祭祀具であり、それが収蔵された岩は「かむのほくら」で、その祭祀には焚火や篝火を伴う「ほどころ(火処)」だったと評価している。


磐境説への批判的な検討

大場磐雄氏の論文「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』第32巻8号、1942年)で、樋口氏の保久良神社列石磐境説へ批判が加えられている。
いわく、
  • 岩石の配置が人工である、という確たる証拠がまだ欠けている。
  • 銅戈はいわゆる「磐境」の中心部から離れた地点から出土しており、実用的な石鏃と共に出土しているので、銅戈も実用利器の可能性を出ない。
  • 保久良神社境内から出土するのは、そのほとんどが集落関連の遺物である。とりわけ祭祀遺跡と思わせる遺物が出ていない。
  • 岩石群を「磐境」だと最初から断定して論を進めている論文構成に問題あり。
  • 保久良神社と石群が同じ場所にあるからと言って、石群を原始的神社として結び付けるのは軽率である。
大場氏は他の巨石遺跡などで積極的に磐座認定をしており、そのときの論理展開を顧みると、樋口氏の論には同論理なのにやや手厳しい目を向けている。

まず、列石の人工性が薄弱という点に対しては、これは樋口氏の観察結果をどこまで信頼するかというところに最終的には持っていかざるを得ない。

樋口氏論文が確かな考古学的調査に則って記されたものであると信頼するならば、列石には根固めや地中の土器検出など、人為的な考古学的痕跡が明示されているので、自然の露岩も利用しながら人工的な手も加えて最終的に列石としたものだろうという肯定的評価が下せる。

一方で、本調査は1942年という古い調査で、その出土実測図も時代的制約によりスケッチの域を出ていない。
また、出土状況は樋口氏の実見ではなく当時の宮司氏の談による情報も混ざっており、そもそもこの論文に書かれた情報をどこまで信頼して良いかという指摘は免れないだろう。
批判的に見るならば、それは端的に、論文の古さと調査方法の精度に問題を抱えていると言えるだろう。

しかし、遺跡はもはや元に戻せないし、調査はやり直せないのである。
樋口氏は当時30歳代のまだ若手考古学者であり、その調査に全幅の信頼を預けられるとは言えないが、最終的には國學院大学名誉教授に至るまで考古学の一線でありつづけた方だった。
その樋口氏が青年期の保久良神社列石の本論文について訂正や否定をすることはなかった。私は、それを本論文の調査の蓋然性を追認するものとして理解したい。

列石の下の粘土塊を根固めと解釈したこと、その粘土塊から弥生土器片が出土して列石との先後関係を記録したこと(これは列石が弥生土器より後になるという点で樋口氏説には不利な材料である)、銅戈・石鏃・石斧の出土層の土に焼土痕を認めたことなど、その具体的な記録は信頼できる。

列石の祭祀性の検討


では、樋口氏の報告を信頼したとして、今度は石群と出土遺物に祭祀性は認められるのかというテーマに検討を移したい。

そのためには、高地性集落というものを理解する必要がある。
高地性集落というものは一般的な集落とは性格的位置づけが異なるものであり、高地性集落は平野の集落遺跡ほど住居の数は多くなく、平常の生活を営む場ではない。
保久良神社例の他にも麓の眺望がよい高地性集落は多く、それは軍事的な性格をも伴い「集落」という言葉のイメージからは離れた方が良い。
なお、六甲山系では他の高地性集落遺跡でも青銅器が複数事例見つかっている。

軍事的な場には常に勝敗がつきまとうものだからこそ、そこには宗教性も無縁ではない。
集落内祭祀という考古学用語があるように、そもそも集落と祭祀場は決して相容れない存在でもない。
その点も加味した上で、ではこの石群は集落とどのように関係し合った存在だったのかを考えてみよう。

自然の岩群に人工的な列石を付加して、その列石の外縁に位置する自然石の傍らに扁平な銅戈・石鏃・石斧を添えたという行為は、多分に祭祀性を認められる。

  • 一つ目に、列石自体は人がすぐ乗り越えられるようなものであり、そこに実用的な防衛力はない。
  • 二つ目として、リ地点の自然石に接して青銅器や石器を埋めたのは、自然石の規模から考えても実用的な保管とは考えにくい。
  • 三つ目として、リ地点は列石の内部ではなく外縁に位置しているのは祭祀性を否定する根拠にはなりえず、解釈次第で、列石の内部を神聖視して、その外側に祭具を捧げたという理解もできる(古墳時代になるが、静岡県渭伊神社境内遺跡や福岡県日峯山遺跡でも巨岩の斜面下側に遺物を埋納するケースが見られる)。ただ、保久良神社列石内からも弥生土器などは見つかっている。
  • 四つ目として、銅戈は扁平なので非実用性が認められ、石鏃・石斧は実用的でありつつもいずれも武器であり、それを高地性集落において埋めるという行為は極めて軍事と祭祀の相乗効果を狙いにしたものと言える。

以上の点を踏まえて、私は保久良神社の列石は実用的ではないからこそ、自然の露岩地にさらに石を寄せて視覚的に石の聖地性を高めた場所だったのではないかと思う。
それはもともと列石でもなかったかもしれず、イ~ヲの群にそれぞれ分かれて形成された岩群の聖地だったのかもしれない。
他の高地性集落にはこのようなタイプの岩群はないので、岩石信仰は計画的にゼロから創られたものではなく、多分に当地の露岩環境から端を発した偶発的・自然発生的な聖地で、そこに軍事的な支えを希求して後付補強的に祭祀場が設けられた遺跡だったのではないだろうか。

それを磐境という、後世に当たる記紀の用語で呼んでしまっていいかについては疑義があるが、いわゆる聖俗の結界として聖域表示された岩石の資料としては活用されていいし、磐境祭祀は臨時的祭場で祭祀後は撤収され祭祀場は常には存在しなかったという神道学的な見方への否定的な資料にもなるだろう。

また、個人的に興味深いのは、石鏃・石斧(輝石安山岩/サヌカイト)と列石(石英粗面岩と緑泥片岩)の石種が異なる点である。
樋口氏が指摘したとおり、当遺跡は元から自然石がある程度露出していた立地だったことは間違いない。
しかし、その自然石を石器に利用することはなく、六甲山地で採れるサヌカイトで石器を作った。
これは当然、石鏃や石斧に適した石材が、破砕しやすく鋭利な断面を形成しやすいサヌカイトだったからに他ならない。

しかしそれを差し引いても、石器に使う石材と、列石を構築する石材を分けていたという当時の人々の「石の選択」があったことは特筆するべきではないか。
石のそれぞれの種類の特性を理解していたという物質的側面と、そこから端を発して、石によって求められる精神的役割も分かれていたのかもしれないと思わせる事例である。

というのも、時代は下るが古墳時代では古墳の石材に使われた石材と、古墳が築造された現地に露出しているのに手を出されず現状祭祀の対象となった岩石(磐座・石神など)が同じ地域に同居している全国各地の事例がある。
こうした「実用目的で採石された岩石と、宗教的側面を見出され採石されず残された岩石の違い」の問題を解決する一つの傍証として、保久良神社列石を今後資料化する余地もあるだろう。

カタカムナ文献について


最後に触れるが、当地はいわゆる古史古伝の一つである「カタカムナ文献」が発見されたという金鳥山に位置することから、しばしば保久良神社とカタカムナ文献の関連性が取りざたされており、それが保久良神社を別の世界に引きずり込む一因にもなっている。

私はカタカムナ文献を読んでいないのでたいしたことは言えないが、同文献に保久良神社が明確に記されているのかというのが疑問の一つ。記されているならともかく、記されていないのなら安易な結びつけは控えられるべきだろう。

次に、カタカムナ文献を超古代の科学書だと位置付けているのが古史古伝肯定派では半ば定説化しているが、同文献の発見者である楢崎皐月以来、この文献を科学的追試した研究者がいるのかという疑問。
肯定派はアカデミズムをすぐに否定するのに、肯定派同士の説を批判的に検証することが少ない。それは自ずから自己批判ができない研究姿勢であると指摘したい。

次に、カタカムナ文献を記す神代文字・カタカムナ文字は極めて整然としたデザインであるが、整然としているからこそそれは自然発生的で生活に根差した文字とは言えず、「創られた文字」であること。

そのカタカムナ文字がなぜ他の文献や出土遺物からただの1点も発見されないのか。
保久良神社の列石および遺物群に対し、これほど長い時間があったというのに、カタカムナの文字が1点も報告されていない。
樋口氏が、同地の岩石は風化と亀裂で紋様のごとく見えるものがあると先述していたが、それに続けて「人工になるものではないことは岩石学の知識を持つ程の者には明白なところである」「之を例の神代文字に符合する似非学者がある」と述べる部分も参考にしたい。

最後に、カタカムナ文献自体の発見談自体が楢崎皐月の自己申告を飛び出すものではなく、文献の原本があるわけでもなく、原本を見せてくれた平十字なる人物の実在も証明されておらず、原本があるというカタカムナ神社という名の社も見つかっていない。保久良神社に当てる説もあるが、当時の神社名や宮司名を突き合わせれば、それこそ矛盾の塊だろう。


カタカムナに芸術性や神秘性、宗教性を求めるのは自由だが、上記のような状態ではそれは歴史学とは一線を引くのが、せめて保久良神社を歴史的に語る者に最低限必要な態度だろう。


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