2021年6月6日日曜日

石山観音(三重県津市)


三重県津市芸濃町楠原字石山


石山観音の摩崖仏


石山と呼ばれる岩山の岩肌に、鎌倉時代以降、40体以上の磨崖仏が彫られ続けた霊場。

石山は標高160mほどで、麓からは比高50m強でありながら、里からも近いのに山頂は草木のない岩山の奇観が広がる。



岩肌に彫られた磨崖仏は、鎌倉時代を最上限として、江戸時代まで時期をいくつか置きながら造られたと考えられている。

一定の巡路に沿って巡れば、山を一周しながら三十三観音を礼拝するという形式をとるが、観音だけでなく阿弥陀仏・地蔵仏・不動明王像なども造立されており、統一的規格による霊場というよりは一種の混沌観や多様性を宿した場となっている。


石山観音のパンフレット(横井文英氏著)の言を借りれば、

「他のこうした霊場は一具の仏像が同じ工人によって短時日の内に造立される結果、画一的で個性に乏しいものが多い中にあってこの石山観音は長年月に亘って遂次追刻されたらしく、個々の仏像に大小の差や姿態の変化があり各々個性的である点は大きな特色と言えよう」

たしかに、立像・坐像の違いもさながら、巨大な摩崖仏から小さく可愛らしい存在まで様々、表情一つとってもバラエティに富んでいる。

ただ、彫刻のしかたは先達を踏襲したものと思われ、仏像の前半分が岩盤から立体的に浮き上がるようにした「半肉彫り」と呼ばれる彫刻様式を採用している。


坐像タイプ(第一番)


立像タイプ(第二番)


石碑タイプ(第二十九番)


千手観音タイプ(第三十二番)


大規模タイプ(番外:阿弥陀如来立像。像高3m52cm)


馬の背


山頂はモコモコと岩盤が隆起して、これがまるで馬の背中を想起させることから俗に「馬の背」と呼ばれる。




石仏群がまだ造られていなかった時も、この岩山はここに存在していたのだろう。

石山における「馬の背」のインパクトには無視できないものがあり、里にも近いだけに、仏教以前の石山の聖地としてのありかたにも想像を逞しくしてしまう。

けれども、記録を調べてもそういった類の話は見当たらず、客観的な結論としては石仏文化の霊場という評価が唯一下せうるものとなる。


「馬の背」という言葉自体にも、岩石に対する尊敬・神聖視の感情は読み取れない。

「馬の背」は下方から上方まで万遍なく磨崖仏が刻まれていることから、「岩石を畏れ多いものとして手を加えない」という発想はなかった。

むしろ「岩石に手を加えることで、初めて岩石は神聖なものに昇華する」という認識に基づいた行為なのだろう。

さすがに頂上部だけはこれといった彫刻は見当たらないが、磨崖仏を立体的に刻む場合、頂面の造像は物理的に不可能と言え、側面に刻むのが自然の成り行きである。この現象自体に深い意味はないと思われる。


石山観音の今


石山観音の麓には、かつてここを霊場として用いる浄蓮坊があったが、江戸時代初期に浄蓮坊は別の場所に移り石山観音の管理から離れ、今は自治体管理の下、石山観音公園として整備がなされている。

よって、多数の磨崖仏や「馬の背」の景観は今も霊地の趣きながら、それぞれの磨崖仏から「祭祀行為」は失せ、供え物の類は個人的な篤信によるもの以外は基本的に見られない。


また、「馬の背」にはおそらく昭和初期の頃かと見られる落書きの彫刻(人名や恋人同士の相合傘など)が多数刻まれ、この頃から人々の中からは石山観音という場所に対する「神聖視」は失せ、観光名所的な「特別視」に移っている様子が見受けられる。

岩肌に刻まれた無数の人名

人はなぜ岩石に自らの名を刻むのか。集団心理、歴史的遺産。

これは1990年代後半~2000年代前半の所産か。

一応、現在も4月と9月の年2回「石山観音まつり」が催され、その時は現・浄蓮寺による読経や文化協会による俳句・詩吟などの行事で多数の人々が集まる。

しかし、この「まつり」が人々が仏に何かを祈願する本来的な祭祀になっているかというと、それよりも観光要素の強いイベントの感が強い。文化協会がイベントを支えていることから当然とも言える。


それでも石山観音は大切に整備され、霊地の空気はいまだ損なっていない。

今は組織的な祭祀主体はいなくとも、個人的な地元の崇敬者や、ここに来て多数の石仏に出会い、新たに祈りを捧げる地元外の祈願者も潜在的に存在し続ける可能性が高い。

公園として活用する一般の観光客と、馬の背に座りずっと何事かを念じている人を見た時、ここのもう1つの特色を見た気がする。


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