2021年8月8日日曜日

京都「四岩倉」伝説について

平安京の四方に、桓武天皇が一切経を埋納した北岩倉・東岩倉・西岩倉・南岩倉があるという話がある。

たとえば、竹村俊則氏『昭和京都名所図会』全7巻(駸々堂出版1980年‐1989年)によると、この四岩倉伝説は「口碑」とのみ記して具体的な典拠を示さないが次のように触れている。一つ一つ紹介していこう。


北岩倉 —石座神社と山住神社—

口碑によれば、桓武天皇は平安遷都の際、京都の四方の山に大乗経を納め、王城の鎮護とされたが、これを岩倉と称した。ここはその北の岩倉にあたるところから地名になったとつたえ、一に岩蔵・石蔵または石座とも記す。おそらく古代の磐座信仰にもとずいて発生したものであろう。その形跡は古代祭祀の遺跡を神体化した山住神社として、現存している。(竹村『3 洛北』,p.178,1982)

京都府左京区に岩倉という地名が残る。

岩倉の西河原町に山住(やまずみ)神社、そして上蔵(あぐら)町に石座(いわくら)神社が鎮座する。両社はやや複雑な変遷史があるので、石座神社の由緒略記に基づいて以下に簡潔に紹介する。


石座神社は、当初は西河原町の山住神社を指していた。しかし天禄2年(971年)、円融上皇の廟として大雲寺が山住神社のやや北方に創建された際、そこに石座明神の鎮守を移すことにした。そして長徳3年(997年)、八所明神と名付けられた鎮守社が上蔵町に勧請され、岩倉の鎮守は八所明神に移った。明治時代に、この八所明神を石座神社と呼ぶようになり、西河原町の従来からの石座神社は山住神社と呼ばれ、石座神社の御旅所となって現在に至るという。


つまり岩倉の地名の元となった元来の石座神社は現・山住神社ということであり、なるほど山住神社には、高さ4m×幅4mほどの岩塊をまつる。社殿はないが、岩塊の手前には高さ1mほどの小ぶりの立石があり、簡易の木柵・屋根で守られている。

山住神社(北岩倉 石座神社旧地)




さらに、山住神社は山の裾に位置するが、背後の山(標高170m程度。比高70m程度)を神山として神聖視するといい、岩石信仰と山岳信仰を有する自然物信仰の地としての特徴を有する。

山住神社と裏山

『日本三大実録』の元慶4年(880年)10月13日条には、石座神社に従五位下の神階が授けられたという記述があり、これが当・石座神社を指すとされる。

延喜式内社ではないが国史見在社としてその歴史をたどることができ、それはそのまま京都における岩倉の歴史の最上限と言い換えることもできるだろう。


東岩倉

大日山(東岩倉山)は日向大神宮の背後の山をいい、粟田山の支峰である。海抜二八八メートル。(略)伝えるところによれば、むかしこの山中に僧行基が開創したという東岩倉寺があって、江戸時代の頃には石造大日如来像を安置した大日堂があったことから、山名となった。また、平安遷都に際し、王城の鎮護として大乗経を京都の四方の山に蔵められたが、これを岩倉(石蔵)と称した。ここはその東の岩倉にあたるといわれるが、経塚の址については今そのところを明らかにしない。(竹村『2 洛東-下』,p.44,1981)

このように、東岩倉は現在その所在がはっきりとはしていない部分がある。

東岩倉山の麓にある日向大神宮には「影向石」や「天岩戸」と呼ばれる岩石の聖跡が存在するが、その規模や景観から推測するに近世を遡りうるものかどうかは不明。

日向大神宮の影向石と天の岩戸(京都府京都市)


西岩倉

金蔵寺は小塩山の南中腹にあって(略)桓武天皇は延暦遷都にあたって、京都の四方に経典を埋めて王城の鎮護とされたが、当寺はその西方にあたるので、西岩倉山と号するとつたえる。(略)『今昔物語』巻十七によれば、「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久という持経者住みけり」云々(略)桓武天皇が埋納された経塚(石蔵)は現在そのところを明らかにしないが、本堂の地とつたえる。(竹村『6 洛南』,pp.218-219,1985)


西岩倉もその名を残る寺院があるものの、肝心の「岩倉」の現物の所在地とそれがどのようなものであるかは不明点を残す。


南岩倉 諸説(八幡山・明王院・獅子窟寺)


以上、竹村氏の文を引きながら北・東・西の三か所の「岩倉」を紹介してきた。

南岩倉については最も曖昧な存在であるようで諸説入り乱れ、南岩倉候補地とては次の3カ所が挙げられている。

  1. 京都府京都市下京区石不動之町の明王院不動寺(通称・松原不動)
  2. 京都府八幡市の石清水八幡宮が鎮座する八幡山(男山)
  3. 大阪府交野市の獅子窟寺


竹村氏採録の説では「南は八幡の男山」(竹村『3 洛北』,p.178注1,1982)ということで八幡山説を採るため、南岩倉候補地として一般的な明王院不動寺の項(5 洛中,p.382,1984)には四岩倉に絡めた記述は登場しない。


京都府立京都学・歴彩館回答のレファレンスhttps://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000115718(2021年8月8日閲覧)では、元禄2年(1689年)刊行の『京羽二重織留』という文献に南岩倉の候補地がすでに複数あったことを紹介している。


上記リンクに引かれている火坂雅志氏『京都秘密の魔界図』(青春出版社、1992年)は、とりわけ現在流布する京都四岩倉伝説を形作ったのではないかと思われ、南岩倉は明王院不動寺説のみを掲載する。

明王院不動寺はその名のとおり不動明王の石像をまつるが、その岩石が磐座というのは牽強付会にすぎる。

火坂氏は、明王院不動寺のあたりの松林にこんもりとした丘があったという伝えを紹介し(同書p.26)、今は亡きその丘に磐座もあったのだろうと類推し、他の東岩倉や西岩倉にも同様の「今は亡き」磐座があったという前提で話を進めている。


南岩倉の扁額(明王院不動寺)

現地説明板


京都四岩倉伝説の歴史上の問題点まとめ


ここからは、京都四岩倉問題について私の私見を述べる。
この四岩倉については一般的イメージがつきすぎて独り歩きしている部分があるため、ネット上の一つの異論として文章を残しておきたい。


まず、現状として自然石祭祀としての痕跡がはっきり残るのは北岩倉の山住神社のみであり、ほかの東西南は北岩倉と同規格だという根拠なき前提に引っ張られすぎな感があることを問題提起したい。


なぜなら、「いわくら」は「磐座」の用例だけではなく、中世以降において仏教施設の「石蔵(いしぐら/いしくら/いわくら)」の用例もあることに注意しないといけないからだ。


大阪府箕面市の勝尾寺が設けた「八天石蔵」は、寺の境界に仏像を埋めてその上に積石施設を造ったものであり、鎌倉時代の造営と考えられている。

仏を埋めたか経を埋めたかの違いはあるが、聖域の結界という点で京都四岩倉と類似した役割を見せる。自然石の磐座とはまた別の系統から影響した祭祀が影響している可能性を考慮しなければならないだろう。


そもそも、京都四岩倉伝説の「初出時期」と「初出文献」がいまひとつはっきりしない。web上ではすでにある程度文献調査をまとめられている方がいる。


・「明王院(松原不動)(京都市下京区)」(webサイト「京都寺社案内 京都風光」内)
https://kyotofukoh.jp/report439.html(2021年8月8日閲覧)


・「皇都鎮護埋経(候補)地を巡る(その2[北,東])」(webサイト「徒然なるままに京都」内)
https://turedure-kyoto.blogspot.com/2019/05/2.html(2021年8月8日閲覧)


これら先達の方々の情報を踏まえると、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納した云々という伝説内容の記述は、『雍州府志』(1682-1686年)、『京羽二重織留』(1689年)までは遡ることができるようだ。どちらもほぼ同時期の文献となる。


しかし、たとえば『雍州府志』の書き口は、すでに京都四岩倉伝説がある程度巷間に流布していたかのようであり、『雍州府志』が伝説のオリジナルではなく、同書がさらに参照したソースがあったことは想像に難くない。

また、南岩倉の場所はすでにわからなくなっており複数の候補地が挙げられているという先述した話も、当時この伝説がある程度の時間経過を経たものであることの傍証と言える。

(元は京都三岩倉だった可能性も?)


もちろんすでに触れたように、平安末期の『今昔物語』に「西石蔵」の名が、そして、延喜元年(901年)完成の『日本三大実録』に「石座神社」の名がすでに登場している。

しかし、この両文献は

  • 桓武天皇が納経云々の話は記していない。
  • 他の三岩倉の存在も記していない。

という点に注意しなければならない。

『今昔物語』例は「西」と冠しているので、他の方位の「石蔵」もあったとみるのは自明なのかもしれない。それでも、江戸初期の四岩倉伝説が、そのまま平安時代にもあったと同一視するのは危険だ。


危険視する理由は、「いわくら」の漢字表記にある。

『今昔物語』例は「石蔵」(または岩蔵)の表記であり、江戸初期文献の「岩倉」表記との違いは、単なる当て字だけでなく他の伝説内容や先述のとおり祭祀施設としての機能の違いを示唆する可能性がある。

『日本三大実録』例は「石座」表記であり、それが山住神社の自然石祭祀としての磐座を指す可能性は、同じく「石座」の字をもつ延喜式内社の愛知県新城市石座神社、滋賀県大津市石坐神社が現在も自然石の信仰を伝えることから首肯可能である。

これはすなわち、石座と石蔵の間に込められた意味や機能の違いを示したのかもしれず、北岩倉と西岩倉は本来別系統の信仰に基づく場所だった可能性がある。


かつて自然石信仰を行った地を後世に納経の地とする事例については、静岡県浜松市渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)を筆頭に、三重県桑名市多度経塚、三重県伊賀市猪田経塚、京都府宮津市真名井神社経塚など類例がある。

上記事例においては「石蔵」の名が残っているわけではないが、自然石信仰の聖地が後世に仏教の祭祀施設に変容することの親和性を表している。


このように、四岩倉と一括される各聖地は元は「岩倉」表記ではなく、岩石信仰としての視点から見つめなおすとき、通俗的に流布している「磐座」の一言で統一できる存在とは必ずしも言えず、歴史の重層性の中で批判的検討が重ねられていくことが望まれる。

ひきつづき、京都四岩倉伝説がいつ頃のどの文献まで起源をさかのぼることができるのか、特に、平安時代から江戸時代初期の間を埋める文献をご存知の方はぜひ教えてください。


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