2022年6月20日月曜日

高千穂峡(宮崎県西臼杵郡高千穂町)


宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井


鬼の窟/鬼の岩屋

鬼の窟 五ヶ瀬川の東岸にあり、奇巖筍の如く相並び、河中に突出するもの九つ、其間に深谷八、其中部に一窟あり蘭郷と稱す、上古鬼八と云ふ者の住みし処なりと云ひ傳ふ(日吉 1899年)
高千穂峡は、鬼八と呼ばれた鬼の棲む伝説地として知られる。

前掲文にある「蘭郷」は現「あららぎの里」のことであり、今も茶屋や駐車場の地名としてその名を残す。

現地には「神橋」があり、そこにも「鬼の岩屋」の説明板が立つが、神橋の建つ場所自体が鬼の窟というわけではない。
神橋から北を望んだ、五ヶ瀬川の東岸のどこかに窟があるらしい。九つ突出する岩峰のうち、六つ目の峰の傍らに窟が存在するという情報もある(甲斐 1917年)。

※高千穂神社から神橋にいたる高千穂峡自然遊歩道から鬼の窟へたどり着けたらしいが、それを明記するwebページがなく現在は行けるのかどうかわからない。

五ヶ瀬川と神橋(写真中央上)。その奥に鬼の窟があるという。

神硯の岩


「新橋を渡りて右に十間余なる岩硯の如くなる有り。何共名あらず予硯石を名付けて可也といひし」(高山彦九朗1792年7月17日『筑紫日誌』。現地看板より引用)
この説明によれば、寛政4年(1792年)に高山彦九朗が「硯石」と名付けたということになる。
それ以前には何らの名もなかったとあるが、神硯(みすずり)の名を帯びてからは神代につながる名跡として信じられる手合いもあったのではないかと思われる。

仙人の屏風岩


高さ70mといわれ、その屏風状の岩肌から名付けられた名称とみて良い。
「仙人」の詳細はわからず、高千穂の神仙にかかわるものか、一般的イメージに基づく後世の付会か。

鬼八の力石/鬼の投石


鬼八の力石(写真下手前)と屏風岩(写真上奥)
鬼の投石 鬼の力石と稱するもの、泰然として坐せり。 彼岸より鬼の投たるものと云ひ傳ふ。(甲斐 1917年)
前掲文では、見出しが「鬼の投石」で本文中が「鬼の力石」で表記の揺らぎがある(近代文献にはよくある)。さらに現在は「鬼八の」力石の名が通っている。
先述の鬼八が、高千穂神社祭神の三毛入野命と戦った時に投げた石ともいう。

酒の泉

七つが池對岸の岩壁に酒の泉なるものあり。黃水浦出し、神代の酒の泉なりと傳ふ。今に綠靑色の跡を殘せり。(甲斐 1917年)
現地看板には、七つヶ池の岩のうねりに泉酒が出るとある。
現地の池は草木が繁茂し、前掲文に記された緑青色の跡を確認できなかった。

月形・日形


斷岸絕壁、空を蔽ふが如き懸崖あり。遙かに靑天を仰ぎ見る處に、左右稍隔りて月形日形あり。左方を月形とし右を日形と云ふ。自然の奇岩實に奇とすべし。故事に傳へなし。(甲斐 1917年)
1917年の文献には「故事に伝えなし」とわざわざ付記されているが、現在の説明板には、下画像のとおり素戔嗚尊が天照大神への詫び誓約の跡であるとした「伝説」が書かれており齟齬がある。

現地看板の「伝説」

参考文献に挙げた1899年の文献にも上記のような伝説は記されておらず、ただ月形日形と呼ばれることが書かれるだけである。
1917年~1945年の間に神跡顕彰の動きが進んだとしたら、その期間に「伝説の創造」がおこなわれた可能性もある。

月形日形が描かれたという江戸時代の絵図は、下記事によると樋口種実が文久3年(1863年)に記した『高千穂庄神跡明細記』にあるらしい。

関口泰著『高千穂峰』(1940年)に『高千穂庄神跡明細記』が付録としてついているので確認したところ、月形日形の項目には「故事は傳へなし」の一文があった。
江戸後期の国学者がまとめた神跡において故事がないのであるなら、やはり伝説は新たに付加された可能性が高い。

参考文献

  • 日吉昇(編)『日州名所案内』私家版 1899年
  • 甲斐勝美『日向高千穂旧跡勝地案内』奈須機先堂 1917年
  • 関口泰『高千穂峰』社会及国家編輯部 1940年


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