2023年1月8日日曜日

谷ノ神社/上之郷の「石神」(三重県志摩市)


三重県志摩市磯部町上之郷

「上之郷の石神」と「志摩3大石神」の文献調査





志摩国一宮とされる伊雑宮から北へ徒歩10分の位置にある。

現在は「上之郷(かみのごう)の石神」の名前で知られており、現地看板では「志摩3大石神」の1つと書かれている。


しかしながら、この「志摩3大石神」の総称を遡っていっても、管見のかぎりでは昭和以前の文献(紀行文や自治体史含む)には登場せず、三重県内に住む私自身、耳にしたのはここ10年以内である。
※2014年に相差町神明神社の石神さんを訪れた時は、まだ「志摩3大石神」の呼びかたを聞かなかった。

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


「上之郷の石神」についても、その名で調べても昭和以前の文献にはまったく見当たらない。

別の名前で知られていた可能性も考えたが、『磯部町史』(1997年)などの自治体史を捲っても、地誌や観光ガイドの性格をもつ『志摩めぐり』(上野梅吉、志摩国史研究会、1929年)や『鳥羽誌 志摩国旧地考』(曽我部市太、三重県郷土資料刊行会、1975年)を当たっても、近くの史跡名勝「千田の御池」や他の石神については記述されるものの当地については記述が見られない。

千田の御池(当地より徒歩5分の距離にある)

現「上之郷の石神」の入口。「志摩の三大石神」の標柱が建つ。

上之郷の石神の現地は、舗装された参道や鳥居・標柱など、よく整備されている。「神恩感謝」の標示などはずいぶんと新しいように思うが、元来はどのようであったのだろうか?

Googleストリートビューを確認すると、2012年撮影時は様相がかなり異なっていることがわかる。

2012年撮影。入口すら見当たらない。


インターネット上で「上之郷の石神」を検索すると、最古で2014年11月の記事まで遡ることはできる。

上之郷の石神、旧村社「谷社」跡と秋を見つけて(志摩市磯部町)

しかし2013年となると、たとえばイワクラ学会理事の平津豊氏が伊雑宮を訪れたレポートを2013年1月に上げているがそこには上之郷の石神について一言も出てこない。

アマテラス鎮座前の伊勢

イワクラ学会主催の「イワクラサミット」で辿ると、2006年の「イワクラサミットin鳥羽」では上之郷の石神への言及がないが、2016年の「伊勢イワクラツアー」では「最近近づけるようになった岩」として上之郷の石神が紹介されている。


以上をまとめると、2012年頃まで現地はほぼ無整備の状態で、それが2014年頃には「上之郷の石神」の名で整備され、現在は「志摩3大石神」で括られる存在になったという現代史が描き出される。
歴史は数年で変化して、それ以前のありようがわかりにくくなる性質があるので、他記事ではあまり追究されていない部分について本記事はあえて記した。


谷ノ神社

とはいえ、この「石神」と呼ばれる岩石群は、まったくの無の状態から突然聖地として創られたものでもないらしい。

文献上でこの岩石群を記録したものとして、唯一見つけることができたのが、植島啓司氏『伊勢神宮とは何か』(集英社、2015年)である。下記ブログの存在で本文献を知ることができた。

フィールドノート(民俗野帖)


植島氏は、この岩石群を「上之郷の石神」ではなく「谷ノ神社」という名で紹介している。文章を読むと植島氏が現地を訪れたのは2013年夏のようである。

この時の様子は、「ちょっとわかりにくいところ」にあって「比較的大きめの磐座に注連縄が巻いてある」が、「神籬の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃」(植島 2015年)した状態だったと記されている。現在の整備状態とは差があったことが読み取れる。同書に掲載された谷ノ神社の写真には、岩石の前に奉納物としてのミニ鳥居が立てかけられているが、これも現在は存在しない。


谷ノ神社とはどのような社だろうか。

現在も現地には「旧村社『谷社』跡 立入禁止」の柱が建っており、この谷社が谷ノ神社のことなのだろうと思われる。

現地に立つ「谷社」跡の標柱。当地に隣接する。

谷ノ神社は現在、近くの磯部神社に合祀されている。

明治時代の神社合祀の動きを受けて、磯部村内の十数の神社とともに合祀された時の一社である。

『三重県神社誌』第4(三重県神職会、1926年)によると、谷ノ神社の祭神は大幡主神で、以下の概要を記す。

「大幡主神ハ大字上之郷字西外戸四百七十一番村社谷ノ神社ノ鎮座ナリキ、由緒ハ[明細帳]ニ[不詳]トアリ」

いわゆる由緒不明の小社で、とりあえず最終の祭神が大幡主神ということだけはわかっているが、大幡主神(大幡主命)はいわゆる倭姫命伝説と絡む神であり、これが原初の地主神であったのか後世の勧請神だったのかはわからない。

さらに谷ノ神社には境内社が存在しており、前掲『三重県神社誌』によると「秋神社」の名が記されている。


前出の植島啓司氏は、谷ノ神社を「その土地の氏神・産土神を祀ったもので、伊勢・志摩一帯の古い信仰の痕跡がそこに表れていると言っていいもの」(植島 2015年)の一例として位置づけている。

この見解に対しては、たとえば江戸時代前期に成立したと推測される「伊勢二社三宮図絵」で伊雑宮に関するさまざまな聖地が強調されているのに、伊雑宮から徒歩10分の距離にある谷ノ神社については描かれていないことからも、当地が伊雑宮信仰というよりもそこから外れた在地的・非言語的信仰だったことを窺わせる。


近くの下之郷の山神社も「磐座」の岩石をただまつったものとして植島氏は写真を掲載している。

いわば伊勢志摩一帯には「形、石に坐す」と記されるような石を以て社とする岩石信仰が多い。それを祭祀考古学の笹生衛氏が提唱するような「御形」と呼ぶべきか、石に坐すから「石坐=磐座」と呼ぶべきかは保留したいが、谷ノ神社の岩石信仰もそのような伊勢志摩の事例の一つと言って良いだろう。

(なお、植島氏が磐座と石神などの使い分けをしておらず磐座を総称的に用いているのは、学史を踏まえた用法ではなく不適切だと思う)


したがって、歴史的にまとめるなら当地は「上之郷の石神」と呼ぶより「谷ノ神社」と呼ぶべきものであり、岩石の名を「石神」と定義してしまっていいのかも、学史を踏まえると慎重でありたい。

(本記事タイトルが谷ノ神社を優先表示して、石神に括弧付けしているのはそこが理由である)


また、隠されていた/禁じられていた聖地というわけではなく、神社合祀により一度その役目を終えて一般には注目されていなかったかつての聖地が、地元の方のなかでは継承され続けて、この10年で「上之郷の石神」として再整備された場所とみるのが適切である。

植島氏は磯部神社宮司の山路太三氏と共に谷ノ神社を訪れており、磯部神社宮司の方も当然承知の存在で、合祀前の旧社地としてこの岩石を護持されていたのではないかと思われる。

植島氏が訪れた2013年の翌年には、先に紹介したブログなどのとおり聖地整備がされ始めたので、このような専門家の訪問も一つの契機になったのかもしれない。


【補遺】天井石について

千田の御池の横に現存する「倭姫命旧跡」も併せて紹介する。

「天井石」と呼ばれるもの。由来は下画像を参照。

"いけないもの"が出て官憲に回収されたという話は超古代史系の話でも類型があり、どこまで事実として信頼できるか。
ちなみに、別の看板によるとその鏡は現在、志摩市立歴史民俗資料館に保管されているという。

同敷地内にある「勝負神」。力石の一例と思われる。

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