2023年12月19日火曜日

浮島の阿弥陀さま/万治の石仏(長野県諏訪郡下諏訪町)


長野県諏訪郡下諏訪町社 字・石仏(いしぼとけ)






伝説由来(写真右)。写真左の立札には念入りに「観光協会と商工会議所が提唱する」と上貼りがなされ、地元の人々の間での一種の葛藤を感じる。


伝説上では、仏が刻まれる前からこの岩石には血が出るなどの肉体のごとき活動を内在させており、自然石に対する神聖視を伝える。


通称「万次の石仏」は万治3年(1660年)の銘文が刻まれることからその名があるが、地元での昔からの名称は「浮島の阿弥陀さま」だったらしい。

さらに、地元に残る『山之神講文書』の文化2年(1805年)の事跡として「みたらし石仏」の名が記されており、その子孫が有する土地に万治の石仏が存在することから、みたらし石仏は万治の石仏のことを指すのではないかと考えられている。ただし、みたらし石仏は御手洗川沿いの下の原村の他の石仏を指した可能性も指摘されている(八ヶ岳原人氏「『みたらしの石仏』の謎」参照)。

以上を踏まえて、本頁では歴史的に辿れる確実な名称として「浮島の阿弥陀さま」を採用する。


また、享保18年(1733年)成立の『諏訪藩一村限絵図』によると、浮島の阿弥陀さまは描かれていないがそのかわり「ゑぼし石」の名が記されている。

それでは石仏となる前の自然石はゑぼし石だったかというと、これにも異説がある。

宮島潤子氏によると、近世地図は必ずしも正確な位置を描かないこと、同地図が他の石仏もほとんど記さないことなどから別物で、ゑぼし石は自然石であるため明治20年代から大正初期にかけて行われたという当地の採石で姿を消したのだろうと判断している(宮島 1996)。


浮島の阿弥陀さまの岩石は、阿弥陀仏が彫られたからこそ消滅から逃れたということになる。

宮島氏は、浮島の阿弥陀さまの像容と弾誓四世の作仏聖の千体彫りとの共通性を見出し、諏訪地域で阿弥陀仏の加護を説いた弾誓上人(1552~1613年)がこの岩石に座して説法し、上人の死後に弟子筋によって仏が刻されたものと仮説を提示している。

本当にこの岩石に上人が座したかは推測の域を出ない(聖者の座禅石・腰掛石伝説としてむしろ伝承化するのではないだろうか)が、岩石から血が出るなどの伝説を基にするならば、聖なる自然石に阿弥陀信仰が重なり、そのために近代の採石も逃れて今に伝わったという大枠は認められるだろう。


参考文献

  • 第一区区誌編さん委員会 編『下の原 : 郷土誌』,明新館,1985.9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9571574 (参照 2023-12-18)
  • 宮島潤子「『諏訪御手元絵図』がらみた弾誓上人遺跡--諏訪の石」 信濃史学会 編『信濃 [第3次]』48(3)(555),信濃史学会,1996-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6070037 (参照 2023-12-18)


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