2019年11月18日月曜日

石巻山の岩石信仰(愛知県豊橋市)


愛知県豊橋市石巻町

石巻山は標高358mの山で、西麓からは三角形の山容がよく目立つ。
また、山頂からの眺望も豊橋一円を見渡せる好立地で、山頂一帯は石灰岩の岩峰が屹立しており低山らしからぬ奇観をなす。

石巻山
石巻山頂上の石灰岩群

石巻山と三河本宮山(標高789m)の間には、背比べ伝説が言い伝えられている。
石巻山と本宮山がお互いに、自分の方が山が高いと言い張り喧嘩になった。決着をつけるために山と山の間に樋を横渡しし、水を流して流れ落ちた方が山が低いので負けということになった。結果、石巻山の方に水が流れてきたので石巻山が負けた。
石巻山は悔しがり、もし石巻山に登る人が小石を持ってきたら、疲れることなく登れるようにするばかりか、小石を山に置いていき山を高くしてくれたら願いごとを叶えると述べた。逆に、石巻山から石を持って帰ると頭痛など祟りに遭うようにもなった。

山の神の相反する性格が込められた民話だが、山腹に延喜式内社である石巻神社上社(奥宮)、山裾に石巻神社下社がまつられており、古代からの聖山だったことを証明している。

大場磐雄氏が昭和19年11月4日、石巻山を訪れてその時の貴重な記録を残しているので以下に引用したい(森貞次郎解説『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』雄山閣出版 1977年)

先ず不動岩に出で、清水を掬し、更に磊々たる巨巌の起伏するを通過し、姥の足跡爪跡と称する辺を見、風穴を一見し頂上に至る、この辺一帯は石灰岩の露頭にて特に最頂は三つの尖れる大巨巌聳立せり。西より数えて天狗岩、雄岩、雌岩と名づく。天狗岩最も大なり。その最頂端によぢ登れば四辺を見通して眺望よろし。雨乞の際は雌岩上に材木を積み、火を焚き雄岩上にて祭祀を行うなりという。なお聞く所によれば石巻山の中腹に腰巻岩と称する巨巌囲繞して露出せりという。即ち石巻神社の起れる所以とす。

不動岩、山頂の祭祀、腰巻岩の話などはあまり知られていないように思える。
これら、石巻山の岩石信仰について現地の写真とともに紹介していこう。

石巻山中腹に広がる岩盤


奥の院


石巻神社上社から5~10分ほどさらに山を登ると「奥の院」と呼ばれる場所がある。

ここには広大な石灰岩が岩崖のごとく広がっており、その裾部に「このしろ池」という湧水がある。岩崖に寄り添うように不動尊・竜神社・天狗社の3つの祠がまつられており、これを総称して奥の院と呼んでいるようだ。

写真右奥が不動尊。写真左下の岩陰にこのしろ池がある。

不動尊と背後の岩崖

天狗社

石巻山は山麓から山腹まで緑色岩、山腹から山頂までが石灰岩で構成されているが、奥の院の岩崖がちょうど石灰岩と緑色岩の境目とされる。

さて、この奥の院の岩崖が、大場氏の書き残した不動岩ではないか。
大場氏は、奥宮の次にこの不動岩を記し、そこで清水を掬ったとある。奥の院には不動尊の堂もあり、不動尊の岩崖を不動岩と呼んだ可能性が高い。


石巻の蛇穴


直径60㎝ほどの岩穴が開いており、奥行は約13mという。
神の使いである大蛇が住んでいた岩穴と伝えられ、風化と水食によって形成された穴である。
大場氏が記した「風穴」に当たるだろう。



ダイダラボッチの足跡


ダイダラボッチは、石巻山と三河本宮山に足をかけて小便をして、それが県内を流れる豊川になったという伝説がある。
その時、片足をかけた足跡とされるものが岩盤に残っている。実際はこれも水食による形成と考えられている。
興味深いのは、大場氏探訪時にはどうやらこれが「姥の足跡爪跡」のようだったこと。当時と現代の微妙な揺らぎを感じる。



上天狗・下天狗


山頂近くに2つの露岩があり、東側に上天狗の石碑、西側に下天狗の石碑が露岩上に立てられている。
石巻山にいた天狗伝説に基づくもので、奥の院にある天狗社との関係深い旧跡と推測されるが、大場氏はこの上天狗・下天狗について何も記していない。

下天狗(左)と上天狗(右)

山頂


山頂は雌岩・雄岩・天狗岩の3つの岩峰から構成される。
背比べ伝説では、石巻山に水が流れ込んできた際、山頂の土が洗い流されたためにこれらの岩峰が露出する形になったのだと説明されている。

雄岩に取りつく梯子

梯子を登りきると雄岩に出る(頂上部)

天狗岩(雄岩とは崖状の亀裂で隔てられていて行くことができない)


麓の眺望

雌岩が一番東側、雄岩が真ん中、天狗岩が一番西側で、通常、登山道として登ることができるのは真ん中の雄岩だけである。
他の2つは本格的な岩壁登攀をしないと上に行けないが、石巻山は信仰の山で国指定天然記念物でもあるため、ボルトなどを打ちつけたりするなどロッククライミングは禁止されている。
そんな難岩場たる雌岩に、かつて材木を積んで火焚きする祭祀があったと大場氏が書き残している。
また、雄岩の南面には弘法窟(上人洞)と呼ばれる穴があり、弘法大師が修行をしていた場所なのだというが、どうやって行くのか道の取りつきがわからなかった。


以上、さまざまな岩石信仰の場を紹介したが、総じて修験道の影響下にある行場として各種岩場が神聖視されていたことは明らかと言えるだろう。
さらにその基層には、延喜式内社の石巻神社の祭祀が控えている。一点注目したいのは、石巻神社は麓の下社と山腹の上社に分かれている点。下社と上社のどちらが先でどちらが後なのか(ないしは同時なのか)は不明だが、山頂の巨岩群の存在も考え合わせると、この山では修験道以前から、ある程度山の中に入ったうえで祭祀がおこなわれていた可能性を指摘できる。
神体山=禁足地という通念への一つのアンチテーゼとしてとらえたい場所である。


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