大宝2年(702年)、鳳来寺が開山されたことから鳳来寺山の名で呼ばれる。
平安時代の文献に「鳳来寺」の名が登場することから、この頃から山岳仏教の霊山としてあったことは疑いない。
山中各所に岩盤が露出し、主に鳳来寺に関した岩石信仰を伝える。未訪の場所も多いので簡単に紹介する。
屏風岩/鏡岩
鳳来寺山のシンボルと言ってよい広大な岩肌。
かつては屏風岩という名称が広く用いられていたが、昭和41年、屏風岩の下から鎌倉時代の鏡や経塚関係遺物などが出土したので、それ以降は鏡岩の名前が定着したということがわかっている。歴史的には屏風岩が元来的名称ということに気をつけたい。
特段の伝承を持たない岩石だが、鳳来寺の本堂や鐘楼は屏風岩の懐に抱かれるように形成されており、明らかに鳳来寺岩石信仰の中心をなす。伝承や物語でわざわざ言語化する必要さえない存在(感)なのかもしれない。
勝岳不動
鳳来寺を開山した利修仙人が入寂した場所。巨岩の懐を聖者の墓所とする事例として数えられる。
奥の院
鳳来寺境内の最高所であり、利修仙人と薬師如来をまつる。
奥の院背後の岩崖は修行の場として使われており、山岳行場の一典型である。
龍の爪あと/鬼の爪あと
荒々しい岩肌に爪状の剥落痕が残る。
龍が天に昇る時についた爪あととも、利修仙人に仕えた鬼の爪あとともいわれる。
岩倉大明神
龍の爪あとに接して立てられた石碑に「岩倉大明神」と刻まれている。
「いわくら大明神」という神名は磐座を神格化したものか。石碑そのものを大明神として崇めるのか、背後の岩肌(龍の爪あと)を大明神と号するために建立したのかはわからない。前者なら御霊代の役割であり、後者なら標示ないし奉献物としての役割を果たす。
新城市には延喜式内社の石座神社も鎮座する地なので、「いわくら」を岩石信仰とする風土が続いてきたのはたしかである。
胎内くぐり
寄り添いあう巨岩内に形成された隙間に石仏群がまつられている。全国数多存在する胎内くぐりの事例である。
その他の事例
『三州鳳来寺山文献集成』(1978年)に収められた、鳳来寺縁起に関する最古の記録は『鳳来寺興記』となる。
慶安元年(1648年)に書かれた文献であり。ここには高座石・巫女石が登場する。仙人(おそらく履修千人)が山上で説法を行い、天から舞い降りた8人の巫女がこれを聞いたという話が収録されている。その仙人が座したのが高座石で、巫女が影向したのが巫女石という。
そのほか、名号岩・牛岩・双頭岩・双子岩・馬の背岩・天狗岩・鷹打場・鬼の味噌倉・酒倉・富士見岩・夫婦岩という岩石が記されている。
夫婦岩については、行者越道に夫婦石と石神があると『郷土』石特集号(1932年)に記されているものと同一の可能性がある。
参考文献
- 川合重雄・河原慶一・小村正之・竹下正直・林正雄・牧野劭[編]『三州鳳来寺山文献集成』愛知県郷土資料刊行会 1978年
- 『郷土』第2巻第1・2・3号合冊(1932年)






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