2020年3月29日日曜日

笠置山の岩石信仰(京都府相楽郡笠置町)


京都府相楽郡笠置町大字笠置 笠置山

笠置山の巨岩群と弥生時代の磨製石剣について


笠置山(標高288m)には「薬師石」「文殊石」「弥勒石」「千手窟」「虚空蔵石」「胎内くぐり」「ゆるぎ石」「貝吹岩」など、高さ10m、20mを越える岩が多数存在している。
岩肌に彫られた磨崖仏を本尊とする笠置寺が建立されている。奈良時代、東大寺の僧である良弁と実忠らによって笠置寺の礎が築かれたという。鎌倉時代末、後醍醐天皇が笠置山に籠って戦火の舞台となった山としても知られる。

笠置山の巨岩群(一部)

笠置山の巨岩群(一部)

当山が山岳仏教において自然の巨岩を霊場とみなしたことは言を俟たないが、巨岩群のうち、弥勒石の前から弥生時代の有樋式磨製石剣片が見つかっている。

有樋式磨製石剣は、弥生時代の磨製石剣の中では後晩期に登場する型式で、非実用の剣とされ、一つの集落遺跡から1点~2点ほどしか出土しない傾向があるとされている。
その意味についてはここでは保留するほかないが、その有樋式磨製石剣が山中の巨岩前から見つかったこと自体は、極めて興味深い事実である。

一般的な解釈は、弥生時代から祭祀がおこなわれてきた場という考え方だろうが、弥生時代の巨石周辺の祭器埋納地については、主に青銅祭器埋納地において古代~中世以降の再埋納の痕跡が見つかっている事例もあり、事態はそう単純ではない。
古代や中世の人々にとっても、地中から出現した異形の遺物は、当時の世界観の中で宝器として再解釈された可能性にも思いを馳せないとならない。

笠置山出土の有樋式磨製石剣


薬師石・文殊石・弥勒石


笠置山の巨岩群は修行の場とされており、一周して戻ってこれるようになっている。その順番通りに従って紹介していこう。

行場に入ってすぐに出会うのが「薬師石」「文殊石」「弥勒石」の3体である。

薬師石

文殊石

文殊石上部

弥勒石

弥勒石下部

それぞれ薬師如来・文殊菩薩・弥勒菩薩に見立てられた摩崖仏であり、高さ10m~20mになるだろうか。笠置山の巨岩群の中では最も大きなグループに属する。
弥勒石は高さ約20m、幅約15mで、平滑面に弥勒菩薩を彫刻していたが、戦火により現在は光背部分が判別できる程度になっている。

弥勒石の前からは先述の磨製石剣だけではなく、平安時代の埋納経筒も見つかっている。
経筒は末法思想の流行った平安末期、世界が終っても釈迦の教えが途絶えないように、また、釈迦の入滅後現れると信じられていた弥勒仏のために、経文を地下深くに埋納するものであり、それが「弥勒」石の前から出ているというのは流石と言うほかない。

笠置石


笠置石は、天武天皇が大海人皇子時代に自らの笠を置いた石といい、笠置の名の由来となっている。
弥勒石の磨崖仏を刻んだのはこの大海人皇子だという逸話の他、一説には東大寺の僧である良弁・実忠の指導下で刻まれたものであるともいうが定かではない。

ただし、奈良県地獄谷の石仏や、高畑頭塔の石仏、さらには中国雲南省の石仏と線刻の様式が一緒であるといわれ、製作時期は奈良時代と考えられている。

笠置石?


千手窟


弥勒石からさらに奥に進むと、千手窟と呼ばれる場所にたどりつく。
巨岩と巨岩の隙間を窟に見立てた行場である。

千手窟

奈良の東大寺造営の時、必要な木材をこの辺りから調達し、笠置山の北を流れる木津川の水流を利用して奈良まで運ぶという計画があったが、日照りにより川の水量が少なく木材を運べない時があった。そこで東大寺造営に携わっていた実忠(先述)がこの千手窟で雨乞いの儀式を行ない、雨を降らせたと伝わる。

虚空蔵石


千手窟に接して虚空蔵石がそびえたつ。
弘法大師が一夜で彫った虚空蔵菩薩と伝えられ、笠置山の磨崖仏の中で最も保存状態良好な彫刻を見ることができる。

虚空蔵石



胎内くぐり


さらに進むと「胎内くぐり」が登場する。

胎内くぐり

岩石の積み重なりによってトンネル状になっており、これをくぐって身を清める。
いま天井部分に置かれているのは人工の切石だが、もともとは自然石が乗っていたといわれており、安政年間(1854~1860年)の地震で崩落したらしい。

付近には、名前は付いていないもののいくつか特徴的な岩々が見られた。ドルメン状の岩石の構造もここにある。




太鼓石


胎内くぐりの奥を進むと太鼓石がある。
叩くとポンポン鳴るから太鼓石とのこと。この命名には「物珍しさ」以上の認識は感じられない。ここも転石によってトンネル状になっている。

太鼓石


ゆるぎ石


太鼓石の次に出会うのがゆるぎ石。
名前の通り、人の力で揺れ動かすことのできる巨石とのことですが、私には揺り動かすことができなかった。
笠置山に攻め入ってきた軍勢に落石させるための石の一つだったともいわれている。

ゆるぎ石


平等石


一大岩盤が露出した場所で、この石の上からの見晴らしは随一と言って良い。

平等石

平等石の上から

平等石については全国各地の山岳霊場において同様の名称をもつ岩石があり、本来は「行道」石だった可能性がほぼ定説化している。
五来重氏『石の宗教』においても「行道岩」の一節が設けられ、「自然石を巡るという崇拝の方法があることに気付き、各所でその痕跡と可能性の存在をつきとめることができた」「いろいろの行場に『巡る宗教』の存在が確かめられる」とあるとおりである。

蟻の戸渡り


平等岩の少し先にある「蟻の戸渡り」も、岩と岩の狭い隙間をぬぐって通る場所であり、巨岩を通ることで巨岩から感得する行場なのだろう。

「蟻の戸渡り」はくぐるのに気を取られて写真未撮影。近くにあった巨岩の一つ。


貝吹岩


笠置山の巨岩行場巡りの最後に控えるのが貝吹岩である。

貝吹岩

元弘の戦い(1331年)の際、兵士たちの士気を高めるためにこの岩の上でほら貝を盛んに吹いた場所という。
しかし、修験者がこの岩の上でほら貝を吹いていたという話もあり、むしろこちらが元来のありかただろうか。
近くの京都府相楽郡加茂町の貝吹山頂上にある貝吹岩でも、僧侶をほら貝で集めた場所または修験者が行をした場所などといわれており、山岳霊場における貝吹岩の名称はこちらのほうが一般的である。

最後に


以上で行場の巨岩群の紹介を終えるが、ゆっくり見ても一周1時間ほどで巡ることができる。
笠置寺には境内に文化財収蔵庫があり公開されているので、こちらも見学しておくことをお薦めしたい。先述の磨製石剣や経筒もここに収められている。

参考文献


  • 笠置寺由緒書
  • 「蘇る巨石信仰と光の山・・・笠置山」(笠置町企画観光課発行のチラシ)
  • 現地看板
  • 五来重『石の宗教』講談社 2007年改訂版(初出は1988年角川書店版)


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