2020年12月22日火曜日

私が考古学で学んだこと。そして、考古学と違う道に進んだ理由(長野県宮崎遺跡の発掘の思い出から)

私が大学時代、水平測量を勉強していた時にまとめたノート(ガン見禁止)

学生が感じた考古学の世界


私は大学生時代、考古学のゼミに所属していて、そのときに考古学的な考えのイロハに触れることができた。

院にも進んでいないので、学部生で私が学んだことは"なんちゃって"考古学の次元だったことは間違いない。
そして今は考古学から離れたことをしているが、考古学が大事にしている客観性の担保のしかたや、資料に即して過去を考える手続き方法は、私にとっての思考のベースを形作っている。


大学3年生の時、私は学芸員過程の一環で長野県長野市の宮崎遺跡へ行き、発掘調査を中心とする諸作業に従事した。
2003年8月~9月の約1ヶ月間のことだった。長野市とは言っても、周りは山と田畑の中で合宿形式。たいした娯楽もなく、みんなで自活しながら発掘に従事した経験は修行のような趣があり、今も印象深い。

発掘調査の後、指導教授に提出したレポートがふと出てきて、読んでみたら、考古学調査に対する自分なりの総括というか率直な思いが書いてあって懐かしく感じた。
考古学の世界の入口部分を綴っているだけだが、リアルはリアルである。考古学のイメージがおぼろげな一般の方や、いま考古学に携わっている大学生にも響く部分があるかもしれないと思って、当時のレポートを元にして当時をふりかえってみたい。


宮崎遺跡の基礎知識


私が発掘に参加した宮崎遺跡は、当時、母校の立命館大学が長期的に調査していた縄文時代の遺跡である。基本的に住居跡から構成される集落遺跡だが、配石遺構などおそらく葬送に関わる遺構も見つかり、私が参加したとき、幸運にも配石遺構の一部を調査担当することができた。

測量、発掘、遺物の整理、そして図面作成など一通りさせていただいた記憶があるが、当時の調査成果は最終的に報告書になったのかなと今検索してみたら、立命館大学が宮崎遺跡の報告書を刊行したのは2000年が最後で、私が参加した2003年以降の調査結果は報告書としてはまだ公にされていないようである。

→「刊行物 ― 立命館大学 考古学・文化遺産専攻ホームページ」より

発掘調査が報告書化されていない遺跡が全国に山積しているのは、考古学が抱える一つの病と言っていい。
講義で学んだ考古学の社会還元活動が理念通り働いていない!ピュアな学部生時代、考古学に幻滅する一つの現実だった。


調査のための準備・撤収作業 編


1ヶ月の調査期間というが、なにも発掘をひたすらするのが考古学ではない。
まず、掘る前にすることと、掘った後にすることがある。これが大変地味であるが、考古学のリアルであり、けっこうな時間とエネルギーを費やすので、レポートの最初に紹介しておこう。

大学から宿舎まで、調査に必要な機材・道具を運び出す。一行で書くと簡単だが、機材が正常に動くかを確かめてから積むし、精密機械もあるので、積む順番などにも流儀がある。もちろんのこと、積み漏れがあってはならない。
このあたりが、すでにベテランの院生を中心にしてやりかたが確立されており、それを組織として系統立てて一人一人分担して作業するわけである。

次に、1ヶ月泊まる宿舎は、いわゆる空き家を借りるというものだったので、まず人が住める状態にする必要があった。大がかりな引っ越しのようなものである。
この宿舎で、係を決めて、食事作りや洗濯(二層式を触ったのは後にも先にもこの時だけ)、掃除などをみんなで持ち回りでやるわけである。

なお、この調査は考古学ゼミ以外にも、学芸員資格を取るために考古学に関係ない学生も参加する。
いわゆる烏合の衆状態のところからコミュニケーションをとっていくわけである。しかも、ゼミ以外の人は短くて1週間で帰り、また新しい人が来るので、仲良くなりそうな頃にはお別れという状態でもあった。

私は合宿中、米大臣として一部で名を馳せた。
何十人の米飯を用意するので、合ではなく升の世界である。ガス釜で焚くので、水加減を間違えるとぺちゃぺちゃするか焦げまくる。感覚的にしていただけだが、私はなぜかその調整がうまいほうで重宝された。今でも米の焚き方にちょっとうるさいのは、このときの経験と自負から来ている。

とはいえ、即席の素人たちが質素な食材で飯をつくるので、全体的に一人当たりの食事量は少なく、発掘に費やすカロリーを考えると半飢餓状態だったように思う。
料理のうまい他学部の学生が1週間だけ来ていて、その子が工夫して作ったコンポートが最高においしかった。今思い出しても、あそこがこの合宿生活のピークだと思う。


さて、遺跡の話に移ろう。

現場に到着すると、まず遺跡は、遺跡のまま露出しているわけではない。ただの土の地面になっているわけでもない。

遺跡地一面には、腰以上の高さに草木が繁茂していた。これを刈り取るということから人海戦術で始めないといけなかった。最初の1日目はこの草刈りに費やされる。

草木の草刈が終ったら、次は地面に、過去の発掘調査のときに作られた、おびただしい量の土のうを運び出す作業が待っていた。
みんなでバケツリレー方式になって、途方もない量の土のうが回ってくる。水を含んだ土のうは大変重い。石が出っ張った土のうには気をつけなければならない。土のうの大きさもけっこう異なるので、重さが予想と異なるときもある。私は典型的な文化系人間なので、このエンドレスにも感じた作業には閉口した。

でも、草刈と土のう運び出し作業を行うというこの初日は、まさに考古学の本道そのものである。その後1ヶ月続く調査の大変さに耐えることができた気すらする。

なお、撤収時には逆に、土のうを掘った遺跡地を保護するために敷き詰める作業が待っている。

準備・撤収のそれぞれに言えることとしては、つくづく考古学調査というのは地道な裏方的作業があってこそ成り立つということである。

考古学者という人は、派手な発見を楽しむ探検家ではなく、こういった地道な作業をこなす人であり、忍耐力、生活力、そして組織内でのチームワークなど、人間性が大きく左右する仕事であることを体感したのである。


その後、私が宮崎遺跡で行なった作業は大きく2つあった。
1つは遺跡での発掘調査であり、もう1つは宿舎で行なっていた土壌水洗作業である。まずは発掘作業の方からふりかえろう。


「SX10」の遺構調査 編


約10日間、遺跡の北部にある「SX10」と呼ばれる遺構の調査を任せていただいた。

SXというのは考古学特有の遺構番号で、SKなら土坑とか、SDなら溝とか、だいたい慣習的に決まっている記号があった。SXのXは「不明」遺構の意味が込められていたのだろう。
何らかの遺構ではあるが、何の生活痕跡なのかはまだ特定できていなかったからという意味合いで名づけられた。

この遺構の最初から最後までを担当した訳ではなく、SX10一帯の掘り下げ作業からSX10の半掘までを担当しただけであるが、大学生の私はその時に「土の色」に悪戦苦闘していた。


最初に指示を受けたのは、北部遺構を覆っている黒色土層を全体的に掘り下げ、その下にある茶色土層を出すように、とのことだった。
最初その指示を聞いたとき、それによって何がわかるのかということもわからなかった。

後日談から言えば、茶色土層が当時の遺構面であり、その土層と黒色土層との境目を明確にすることで、遺構の範囲を明らかにするということだった。
しかしそれがわかった後も、問題は残った。

茶色土層と黒色土層の違いを見極めるのに、正直自信がなかったのである。

最初の頃は、土の色の微妙な違いを見極めることに自信がなく、これは茶色なのか、これはまだ黒色なのかという迷いを正直持っていた。

原因の一つは、掘っていったときに出る土と、まだ掘っていない土が混ざり合うので、茶色と黒色の中間的な土色が出てきてしまうという点にあった。
そこで、少し掘ったら、定期的に地面の清掃をするのだが、それでも土の色が分かりにくい箇所がいくつもあった。

この解決法は、万人共通のものはないらしいということを知った。

先輩の院生の方々は堂々と地層の分かれ目を記していくわけだが、私には見分けられないので、さながら心霊写真の鑑定状態である。

近しい知り合いに、色弱かはわからないが、色の見分けが昔から弱いと自虐している後輩がいた。私も色弱の傾向があるのかなと思ったが、いわゆる色認識の診断は正常内である。

客観的と言われる考古学において、この地層の識別は、私には時に主観的に映る瞬間がって、一言でいえば考古学的ではないと不快だった記憶がある。

まあ、今思えばそれは単に自分の経験不足によるもので、やはり掘った土を定期的に実に入れ、発掘面をきれいにしながら掘っていくという基本ルールを遵守していくのが最適なのだろうという結論に落ち着いている。


その後、私はSX10の完掘には立ち会っていない。後で聞いた話によると、最終的には半掘で終了したらしいが。

その代わり行った作業として、SX10を掘り下げていく中で出てきた遺物群や、遺構にそのまま置いておけず、取り上げざるを得なかった石群を図面上に記すという記録作成のほうを手伝った。

出てきた遺物では、骨・炭化物・赤色顔料がとにかく目立っていた印象がある。
炭化物は、最初に見たときは骨に伴う生物の炭化物なのではないか、と思っていたりしたが、繊維質を持つ炭化物などが多かったためこれは植物の炭化物だと先輩からの所見もいただき、認識を修正した。

骨も人骨ではないようで、SX10は調査の途中から墓所と推測されていたが、その割には埋葬の直接的物証になるものが目立たないのが疑問の一つだった。

他にSX10で抱いた疑問としては、赤色顔料と石の風化した赤っぽい粉末を見分けることが難しかった。このあたりは、最後までベテランの方に判断をお願いしないと自信がない状態だった。

ほかには、考古学の水糸測量の方法や、図面における石の表し方を学ぶことができたのは得難い経験だった。そして、これらの知識は次に担当することになる「SX3」の調査で役に立つことになる。


「SX3」の遺構調査 編


宮崎遺跡では、発掘調査の終盤に現地説明会を開催した。
その説明会の直前まで、数日間参加していたのが「SX3」と呼ばれる遺構の調査だ。

SX3からは配石遺構が見つかっており、この配石遺構の下に何があるのかを確かめるため、東西と南北に断ち割りの発掘面を入れるという調査をしていた。
この調査の途中から私は参加し、東西の断ち割りが入れられ、相当部分掘り下げられた状態からのスタートだった。しかし、このSX3は最後まで発掘に立ち会うことができて、一つの遺構の最終的な姿を見届けることができたことを私は当時かなり喜んだようである(レポートを読む限り)。


途中参加ということもあるが、SX3の土層観察はSX10に輪をかけて難しかった。
SX3の場合は、層ごとではっきりと土の色が違う訳でもなく、むしろ土質(砂っぽいか、粘着質なのかといったところ)での見極めがポイントになっていたからだ。

すでに、過去の調査で一度実測されていた上部配石遺構の図面をトレースした上で、東西・南北の断ち割り図面(平面図・断面図)を作成する担当になった。

SX10で学んだ技術・知識を、SX3で馴染ませるという成長機会だった。
ただし、土層観察は自分に見極めることができなかったため、自信がない者がてきとうに判断することは歴史の棄損につながると思い、断面図の土層観察からは身を引くことにした。
土の色だけではなく、土質もしっかり考慮に入れなければならないと気づいただけでも収穫だった。


さて、SX3も配石遺構=墓所?と推測されていたが、地表下に墓所を示す明確な遺構が検出できなかったため、最終的にはその性格に不明な部分が多く残す遺構となった。

たしかに、掘り下げをしていた私の実感としても、出土した遺物はほとんどなく土器片が1点だった。
埋葬面ではないかと唯一指摘された地表直下のふわふわっとした黒色土層は、人が埋まるほどの分厚さがない薄い層だった。


SX3の周辺には、実は墓地遺構が密集していた。その中で、この遺構だけが墓所ではないというのはおかしい話かもしれない。周囲が墓地であるという状況証拠からSX3も墓所とみなす考え方もあるかもしれない。

しかし、SX3の配石遺構は(他に類例はあるようだが)遺跡内のほかの配石遺構とは似つかわしくない形態をしていて、いわゆる特異な配石だったことがその消極的な解釈を妨げた。

自分が携わった遺構として、今も解釈の行方が気になる存在ではある。


土壌水洗作業 編


さて、これまでは遺跡の現場作業について触れてきたが、今回の調査でもう1つ大きな比重を占めたのが土壌水洗作業だった。

遺跡から採集してきた土を土嚢に詰め、その土のうを3mmメッシュの網の上で水洗することで、3mm以上のものだけが残り、微細遺物が検出できるという仕組みである。

私はこの水洗土のうの台帳管理役だった。
水洗された籠の把握には人一倍専念する必要があった。

管理役=班長だったので、実はあまり土壌水洗自体は行なっていない。1ヶ月間の調査期間で3回ほどしか洗っていない。
基本的には、土のう袋からバケツに土を空け、溶かし、水洗している人に運び、水洗済みの籠を日当たりの良い場所で干し、廃土を新たに土のうに仕上げる、そして台帳にその日の水洗土のうを記録するという作業を行なっていた。

これも、考古学の極めて裏方に回る作業の一つだ。地味オブ地味の上に、1冊の調査報告書ができあがるというわけだ。
(結局刊行されていないけど…)


私が考古学で学んだことと違う道に進んだ理由


宮崎遺跡での1ヶ月の調査の思い出をふりかえってみた。
あ、考古学は学部卒業したらもうやめよう、と決意したのは、何を隠そうこの発掘調査から帰ってきてだった。

調査を通して私が得たものとは何だったのだろう。
考古学的知識や技術の点で絞るならば、SX10やSX3で得た遺構実測の方法がテクニカルな面での一番の収穫だっただろう。

しかし、こうした細かな考古学的技術の習得は陳腐化する。現に、15年以上たった今、私はもう水糸測量はできないだろうし、もっと基礎的な平板測量の理論ですら忘れかけている。

それだけでなく、考古学の調査方法自体も、時代に合わせて進化しているはずである。具体的な知識はアップデートされ、陳腐化するのである。
昔取った杵柄は、あくまでも昔取った杵柄。そのスキル自体はいま誇るものではない。
そもそも、考古学調査は一人ではできず、組織や団体の中に身を置いて初めて発揮できるスキルとも言える。


スキルよりは大事なのは、時代が変わってもゆるがない、考古学的な考え方や理論的な枠組みにあるだろう。
それは何かと書いていくとキリがないが、冒頭にも書いたとおり「資料第一主義」「事実と主観は分ける」といった、過去という異質な存在に対してどのように対峙するかという姿勢は、考古学に大いに訓練させてもらった自負がある。

私はこのブログのタイトルどおり、岩石に関する祭祀・信仰の研究をしているので、資料は目に見えない世界であることが多いし、主観が容易く入り混じる危険な世界である。
当時の指導教授からは、いかがわしい研究をしていると茶化されたものである。

でも、そういっている教授も、古墳葬送儀礼の研究をしていた。
葬送儀礼も祭祀儀礼の範疇と考えるならば、同じ危険性をはらんでいるのにと内心思ったものだが、そこは年季の違い。祭祀・信仰に手を出せるのはベテラン研究者レベルで、学部生がおいそれと手を出すテーマではなかったのも今ならわかる。
(でも、興味が湧いて解明したいと思ったテーマがそれだったのでしかたないよね)


そんな私にとって、生の祭祀・葬送に関わる遺構に触れ、かつ、それが配石遺構だったというのは、間違いなく貴重な経験だった。
しかも、墓所といわれる地区のなか、結局、目的不明と言わざるを得ない配石遺構を担当できたことは、自分の研究の参考にも役立った。
過去に対して安易な推定を施さない、わからないものはわからないままにする、事実を記録するにとどめて後世に委ねるという考えかたを地で行く遺構だった。

祭祀を研究する場合、祭祀行為の解釈を行なわなければならない。そのためには時代・地域を選ばず、色んな祭祀のありかたを頭に入れておかないと、自分の中での解釈の幅が広がらない。
私は大学生当時、古墳時代を専門にしていたので縄文時代遺跡は専門外だったわけだが、それでも今回の宮崎遺跡の調査は、自分の解釈の幅を広げ、かつ、広げたままにする良い機会になった。


また、宮崎遺跡の調査の最初から最後までいたことも大きな収穫だったように思う。
これによって、遺跡を掘り出し、現地説明会を開き、再び埋めるという一連の流れがわかり、組織の一端として身を持ってその大変さを体感することもできた。考古学で培われる人間性と言ってもいいかもしれない。

考古学の人間性教育の効果というものは間違いなくあるが、地道・忍耐の世界には、特に人間関係において閉鎖的な一面もある。あくまでも私がいた時の研究室やゼミの話という但し書きをしておくが、私に限らず多くの学部生がそういった閉鎖性を見て、考古学から足を洗う一因になっていただろうと思う。
考古学という一つの専門職の世界なので、職人徒弟のメリットでもありデメリットでもあるのだと思うが、思考放棄の部分も多かった。これはある意味、人間性教育の逆であり、反面教師だった。


私が大学で考古学を専攻した理由は、日本の岩石信仰の歴史を考古学的に追究することができないかという問題意識で始めたものだった。

実際に考古学の世界に身を置いてみて、学部生としての狭い視野の中と自分の能力の限界から、やがて私は考古学のアプローチで目に見えない心理世界である岩石信仰を研究していくことは難しいと感じた。
さらに、自分がしている岩石信仰の研究というものは、大学などの専門機関に身を置かなくても、個人で研究できうるテーマであることにも気づいた。
これは、私なりに導いた方法論的な限界で、前向きな気持ちで考古学以外のアプローチを模索するきっかけになった。


一方で、大学で岩石信仰の教えを乞う師に恵まれなかったという、単純に縁や巡りあわせの問題から、考古学での学びに限界を感じた部分もあった。
師がいない組織で研究をしていてもしかたない。院進学に興味が持てなかった理由の一つである。

そこに加わって、閉鎖的な人間関係をけっこう見せつけられるわけである(今は知らないです。当時)。人間関係だけでなく、博士課程まで進んでその先の進路が…な先輩やOBもいるわけで。これは文系ポスドク共通の日本社会のねじれなのだけれど、こういった要素が加わってきて、だんだん大学院での生活スタイルや、考古学業界での仕事に魅力が持てなくなっていったのも正直あった。

そして、自分もそんな閉鎖的な人間の一員じゃないか、とさえ思った。

そうすると、別の興味関心として、研究以外のこともしたくなってくる。研究ばかりしていることで社会的な視野が狭くなる自分も嫌いだったのだと思う。
自分が大学で学ばなかったことをこれから社会で学びたい、そして自分に足りないものを埋め、成長できるという世界に期待が増していったのである。一種の逃避行動か青い鳥症候群だったのかもしれない。
そしてためしに就職活動をしてみたら、ありがたいことに内定をいただき、この逃避行動は成功した。社会に出てからは、自分の予想どおり足りていないものがいろいろあることに気づき、酸いも甘いも糧になるという気持ちで、いろいろな経験をさせてもらって今に至る。

今ふりかえってみてその判断が正しかったかどうかなんてわからないし、正しいもくそもないだろう。とりあえず今の自分が立っている位置はかけがえのないものである。


長い自分語りになったが、これを読んでいる考古学初学者の方や、大学で考古学を学ぶ学生さんには、一人の元考古学徒の経験談としてご自身のイメージと重ね合わせたり、覚悟を新たにしたり、イメージを修正する参考になればと思う。

考古学で何を学びたいかは、考古学で何を学べるかということと比較してみてもいいかもしれない。
考古資料が個人単位では調査するものではないという特徴、考古学の世界での地道な作業とその適性を知ること、そして、自分の関心と重なり合う良い師に巡り合えるかということ、さらに自分の研究テーマが考古学的にアプローチできるか、大学卒業後も専門機関に身を置いて集団の中で追究できるテーマかということ。

このあたりについて私なりの例を書いてみたつもりだ。


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