2021年1月1日金曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(1)


はじめに(漂著石神論計画の概要)


折口信夫の「漂著石神論計画」という論考がある。
(『民俗学』第1巻第1号、1929年発表 ※漂著は漂着)

「論考」と紹介したが、論文のイメージで読むと面食らう作品かもしれない。

著作権保護期間が過ぎ、全文が青空文庫やAmazon Kindleなどにも公開されているので、未見の方は以下リンクをご覧いただきたい。

「折口信夫 漂著石神論計画」(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46960_26571.html


「計画」というタイトルのとおり、折口の頭の中のアイデアがそのままキーワードだけ見出し化されている。

本人の中での構想が色々あっただろうことは窺われるが、その後、この計画の後身にあたる論文というのは特に出なかった。

読者からすると断片的なメモのまま今に至っているわけだが、小池淳一氏は「折口民俗学の可能性:『古代研究』前後を中心として」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第34集、1991年)において次のとおり研究史的な位置付けをおこなっている。

「形式が整っていようとも、抽象化に成功しなかったものは論文ではない。ここで抽象化という言葉では必ずしも正鵠を得ていないかもしれない。仮にそう呼んでおく。これに成功したものは、たとえ『小栗判官論の計画』や『漂着石神論計画』のような箇条書きでも論文として、認められるのだ。『古代研究』の成立とは、そうした折ロの民俗学の成立と限界とを示したものに他ならない。これを民俗学と呼ぶことは、現在では躊躇しなければならないだろう。」

折口の融通無礙かつ深遠な知識に対して何かをものすることは極めて難しいが、触らぬものに祟りなしの気持ちで放置するのはもっと悪い。

折口を超克するというよりも、折口の残した論点を改めて読んでみることで、今後の研究の方向性のヒントが散らばっていないか、という気持ちのほうが強い。私なりの「漂著石神論計画」のとらえ直しを試みてみたい。


「神像石」「像石」論


漂著石の第一として、折口は「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」「神像石の種類」「神像石の様態」について言及している。

神像石はカムカタイシで、有名なのは『延喜式』神名帳に記載された「能登国能登郡 宿那彦神像石神社」「能登国羽咋郡 大穴持像石神社」の二社の存在だろう。
「神像石」と「像石」の細かな違いはあるが、一般には同義語として一括される(大場磐雄氏「日本上代の巨石崇拝」『歴史公論』第6巻第8号、1937年)。

なぜ能登国に「像石」神社が固まっているのかも解決されていないテーマの一つだが(類似したテーマに、同神名帳の越前国に磐座神社が四社記載されている問題もある)、宿那彦神像石神社と大穴持像石神社の二社の共通点は海辺に鎮座していたと想定されることである。

大穴持像石神社の像石とされる「地震石」(石川県羽咋市)

折口が「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」と記したのはこの辺りの事例を念頭に置いてであろう。

神像石の分類が面白い。

「a.定期或は、臨時に出現するもの」と「b.常在するもの」の二種類に大きく分けて、a類型は立地の傾向を明記していないが、b類型は「海岸」「海岸から稍隔つた地」「海中の島又は、岩礁」のイ・ロ・ハに細別している。

イ・ロ・ハの立地の違いについて折口は「イ・ロ・ハは、海岸に出現する形が、最、普通であり、正確なものである。此が、浜を遠ざかる程、村の生活が、山手に移つた事を示す。ロ・ハは、遥拝信仰発達の一過程であるが、其多くは、神幸の儀式を行ふ前の、足だまりとなる地点であつた。」と、立地がそれぞれ歴史的年代を反映するものと推測している。

折口は、基本は海との関わりで神像石を考えていた様子が窺われる。自身が大事にしていた海からの漂着神――ヨリガミ信仰の文脈で神像石を位置づけようとしていた。

だから、神像石は「依るべき対象」であり、神の本体は海の彼方に求められるという神観である。

神像石の様態を「a.唯の石であるもの」「b.神の姿を、想見せしめる程度のもの」の二形態に分けているのも、折口が神像石の形状について、いわゆる仏像に対する神像という言葉の響きから想像される「神を模した形の写実的な石像」ではなく、けっして神の写実的な象徴を石に求める必然性はなかったことをあらわしている。

この折口の論においては、海に対する山の他界観は一切想定されていない。
現実としては、神宿る場所は陸地であり、しばしば山に接した立地や山中と言っても良い場所に祀り場が形成される場合がある。

海から来る神が山へ至り往還するという観念も指摘されるが、海が元で山が後なのかという先後関係の疑問が残るのと同様に、この二つの世界が最初から体系づけられて成立した世界観なのか、元は別々の体系が後世続けられたものなのかなど、神の本拠地が海か山かという問題はまだ解決されていないところが多い。


石神の種類にくるめられるもの


神像石は、その漢字の響きから石神の一種としてくるめられている。

そしてそこを出発点として、漂著石神論計画では「夷御前の腰掛け石の唄」から腰掛石も石神の一つ、腰掛石がしばしば神幸の場であることから影向石の一例として紐つけられていくことや、「五郎投げ石・力持ち石」の見出しから力石も石神に収斂されていく。

石の神というより、私が使っている岩石信仰の用語に近い感覚で石神の語が扱われていると考えたほうが良いが、折口はそれら石神をさらに漂着神の文脈で統合化していった。


実際のところは、折口の使うこれらの石神と、いわゆる大場磐雄氏以降現在にいたる石神とは、その概念に細かな差異があることに注意したい。

大場氏は代表的論文「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』32-8、1942年)の中で、石神のほかに磐座・磐境の古語の存在を併記し、これら三つの語義が同一ではなく、神と岩石の関わり方では異なる意味を持つから異なる語としてあることを指摘した。

岩石信仰の種類と見分けかた~石神・磐座・磐境・奇岩・巨石の世界~

念のため申し添えておくと、大場氏は石神と磐座が実際の事例では混合しており、どちらか一方に切り分けることができないものが多いことも付記していたので、実際の事例は明確に石神・磐座・磐境の3種類に分かれるわけではないが、これと語義あるいは言葉の背景にあった神観念が3種類に分かれない、ということを示すわけではない。

現在私たちが見ている事例の背後には文字と言葉があり、文字と言葉の背後には言語化できない心的世界があるからだ。

目の前の岩石を見て、それに神を観じたという一言をもっても、それは神そのものが石なのか、石の中に神を見たのか、石の中に神は見ていないけれど神に近いものを感じ、神の関係物としてふさわしいとみなし、別の他界が本拠地である神を寄らせるものとして石を扱ったのか。
これらすべて神を観じたという一言で説明でき、神の象徴物という言葉でも表現でき、石の信仰という一言でまとめることもできる。

私から言わせると、こういった一言で何かを説明した「まとめ行為」こそ、人々の心的世界を単純化してしまう「誤解」の始まりかと思う。

私は収斂化していく方ではなく、むしろ埴輪の工人一人一人の癖のごとく個人に行き着くような「石神論」の段階へ進んでいきたいし、そのような岩石信仰の研究が今後なされていってほしいと願っている。


およそ漂著石神論計画の1~10まで触れながらここまで進んだ。
先はまだまだということで、続きはまた別記事で取り上げたい。


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インタビュー掲載(2024.2.7)