2021年11月28日日曜日

羽黒山と羽黒権現神社周辺の岩石信仰(三重県亀山市)


三重県亀山市関町鷲山 羽黒山中腹


出羽・羽黒山の羽黒大権現を勧請した三重県亀山市関町の羽黒山。

源義経の家来である佐藤継信・忠信軍が平家討伐のためこの地を通った際、部下の1人が病に臥したため、ここでしばらく滞在することになったという。部下は早く病気を治そうと日々羽黒大権現に祈願を続けた。その結果病が治ったことから、羽黒大権現をこの山の中腹に勧請し、羽黒権現神社としてまつったとのいわれが付帯する。


羽黒山の景観


関の羽黒山は、麓の鷲山地区に接する標高290mの里山である。しかし標高290mの低山でありながら、その山容は周りの山と一変し、山肌に無数の巨岩が林立する奇岩怪石の山と言える。




羽黒山は鈴鹿国定公園の一部に指定され、鈴鹿国定公園の記念切手が発行された時は、切手のモチーフに羽黒山の巨岩の林立する様子が使われた。

興味深いのは、巨岩が屹立するのは山頂付近というよりも山の中腹であり、まるで「山頂を聖域として取り囲む結界」のようにすら見える。自然の妙景とは言え、うまいこと山の中腹を取り囲っている。

このような巨岩群に抱かれるように、羽黒権現神社の祠が山腹に設けられている。

山中の巨岩群1

山中の巨岩群2



羽黒権現神社と岩石


登山口から10分ほど登ると、麓寄りの中腹に羽黒権現神社を拝する。

境内に達すると、まず目に入るのは休憩所および物置き場となった小屋だけだが、その奥に岩崖状の巨岩が広がる。



この巨岩は崖状だが、何とか登れるぐらいの斜度になっており、岩を登っていくと岩肌がえぐれて岩穴状になった空間がある。ここに羽黒権現の祠がまつられている。

現地看板には「岩の上部を穿ったものです」と書かれているが、人為的に岩を削ったものなのか、自然の露岩が重なり合って石室状になっただけなのかは判断できない。



岩の下から仰ぐだけでは、この祠を視界に収めることは難しい。また、祠へたどり着くためには岩石をよじ登らなければならない。

このような構造から岩石の役割というものを考えると、岩が祠を守る、ないしは、岩が神のテリトリーたる結界代わりを印象付ける感がある。いわば自然の玉垣、自然の磐境であり、岩石自体が神域を表現している。

また、神宿る祠が岩の上にある点を考えれば、磐座の後世変化バージョンと見ることもできよう。磐境でもあり磐座でもある、そのような岩石信仰のバリエーションを感得できる事例かもしれない。


正法寺山荘遺跡の存在


ここで、羽黒山の麓に築かれた正法寺山荘遺跡について紹介しておこう。

正法寺山荘は、土豪の関氏によって京都大徳寺の末寺の機能と砦の機能を兼ね、永正年間(1504~1521年)の初めの頃に築かれた山荘とされる。よって、砦でありながら著名な連歌師などが来ては、詩歌や茶の湯が栄えた場所でもあったらしい。

昭和50年代に大規模な発掘調査が行なわれ、その結果良好な状態の遺構検出と、豊富な量の遺物出土を見たため国指定史跡となった。

正法寺山荘遺跡

そして、寺院である正法寺も構えられ当遺跡は宗教施設の機能も備えた場所だった。

その観点から興味深いのは、正法寺山荘の立地が羽黒山の麓にあるということだ。現在は樹木が繁茂し、山荘跡から羽黒山は少々見づらい状態にあるが、往時は「山荘跡より仰ぎ見る同山は奇岩累累、絶好の景観」(『関町町史』)と考えられている。


文化と宗教の地だったからこそ、それが立地する景観・環境も多かれ少なかれ考慮されたことだろう。当時の庭園思想の「借景」として、正法寺の美と聖を彩る景観として巨岩林立の羽黒山が活用されたことは想像に難くない。

いわれを信じれば、山中に羽黒山を祀る羽黒権現神社がすでにあったことを考え合わせると、霊山としての聖性も寺域霊場に付加したとまで言える。


周辺の山々(筆捨山・関富士・観音山)


1.筆捨山

羽黒山の西尾根から尾根続きで登頂できる標高289mの山。

山名の由来は、画家の狩野法眼がこの地に来た際この山を描こうとしたが、翌日になると山の姿形が一変し、描くのを諦めてしまったことに因む。

別称・岩根山で、当山も山中に奇岩怪石が多く、山の東中腹には大黒石・蛭子石・観音岩・女夫岩など、岩の形状から名付けられた岩々があるという。

また、山から付近の街道に転び落ちた岩があるといい、付近の街道に左にある岩を転石というらしい(秋里籬島『東海道名所図会』より)。


2.関富士

標高243m。全国各地にある「○○富士」の1つで、その名にふさわしい円錐形の目立つ山。

山頂近くには「大きな露岩」があるとのこと。

羽黒山から望む関富士


3.観音山

標高222m。山中の露岩や岩窟に33体の観音仏が刻まれていることからこの名がある。

これら石仏群は、嘉永7年(1854年)~安政4年(1857年)、石工の村上佐吉によって刻まれたものとされる。別称・感応山。


いずれの山も地質上露岩が存在し、それに名称を付けたり神仏を刻んだりと、岩石信仰の発生する要因の一つとなった。

私はまだ羽黒山に登頂していないが、羽黒山から筆捨山の間の尾根筋には幾多もの巨岩が転がり、岩の下に開く空洞をくぐらないと通れないような場所もあるらしい。低山とはいえ危険の多い岩場が多いようなので、準備をして機会到来を待ちたい。


参考文献

  • 関町教育委員会編 『鈴鹿関町史』上・下巻 1977年
  • 秋里籬島著・原田幹校注 『東海道名所図会』 1797年(1967年の新人物往来社版を参照)
  • 現地解説板


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インタビュー掲載(2024.2.7)