2021年11月21日日曜日

椿大神社と入道ヶ岳の岩石信仰(三重県鈴鹿市)


三重県鈴鹿市山本町


椿大神社の歴史性について


椿大神社 社殿

椿大神社(つばきおおかみやしろ)は『延喜式』神名帳にもその名が記され、全国に数多くある猿田彦神社の総本宮に位置付けられ、また、伊勢国一宮ともいわれる。

ただし、猿田彦神社の総本宮には同県伊勢市の猿田彦神社を推す声もあり、延喜式内社としての椿大神社の論社および伊勢国一宮には、同県鈴鹿市一宮町の都波岐神社を挙げる文献もある。


椿大神社の境内には、高山土公神陵とよばれる祭神・猿田彦大神の墳墓がある。

この墳墓は前方後円墳といわれるが、「かつてこの墳墓を掘り始めたところ火の雨が降ったので中止した」などの伝承が付帯し神聖につき、学術的な調査はされていない。

土公神陵のマウンド

椿大神社とその裏にそびえる入道ヶ岳(標高906m)には数々の「磐座」の存在が報告されており、これらの岩石信仰にかかわる情報を中心に整理しておきたい。


御船磐座(みふねいわくら)


高山土公神陵の南手前に、配石構造物が存在する。「御船石座」とも表記される。

中心に3つの小石があり、その手前の空間を玉砂利で整え、さらにその周囲を二重に環状列石が取り囲んでいる。

御船磐座

社記では、猿田彦大神が天津神を高天原からここまで連れてきて船をつないだ場所とも、入道ヶ岳にまつられていた猿田彦大神を麓に移し、最初に社殿が設けられた場所ともいわれる。これらのいわれから「天降石」の別称も持つ。

いずれにしても、椿大神社の創建に深い関わりを持つ神跡として位置づけられている。


御船磐座の中心にある3つの小石は、真ん中が猿田彦大神、左が瓊々杵尊(天孫。相殿の祭神)、右が栲幡千々姫命(瓊々杵尊の母。相殿の祭神)の降臨石とされる。

御船磐座の中心部分(ズーム撮影)

磐座の周りを二重の磐境が取り囲むというこの御船磐座が、現在のこのような整った形態になったのは、そんなに古い時代のことではないように思われる。

椿大神社は織田信長の兵火により著しく衰微し、おそらくその時に御船磐座も荒廃したと考えられるからだ。


伝説の元となった岩石の祭り場は古くからあったかもしれないが、それが現在のような姿だったかどうかは慎重に考えたい。

あるいは、麓に最初に社殿が設けられたのがこの辺りだというのならば、その頃は岩石祭祀場はなく、社殿が現在の場所に移されてから「神跡」として御船磐座が設けられた可能性もある。


龍神石


椿大神社の由緒書にこのような記述がある。

「末社 多度社 境内龍神石 祭神 天目一箇命」


三重県桑名市多度大社の分社である多度社が、椿大神社の境内末社としてまつられているということだが、その場所が「境内 龍神石」となっている。龍神石とは何だろうか。


かつて椿大神社の神職の方に伺ったところによると、明和年間(1764~1772年)、天目一箇命の神名が書かれたお札が、境内にある「金竜明神の滝」(立入には許可要)の辺りに落ちてきたという奇譚から、そこに多度社を建てたという。

その後、明治時代になって多度社は椿大神社の本殿内に合祀されることになったので、現在の多度社の御魂は本殿の中にあるとのこと。

龍神石のことについては分からないが、その石があるとしたら本殿の中ではないかとの話だった。つまりは不明ということになるが、岩石信仰の事例である可能性を留意しておきたい。


入道ヶ岳の「磐座」群


入道ヶ岳(入道ヶ嶽聖山とされ、猿田彦大神が最初にまつられていた場所という。

入道ヶ岳

入道ヶ岳 頂上

山頂には椿大神社奥宮のケルンと別に祠が建つ。

ここに数々の「磐座」があるということを幾度の踏査を経て報告したのが、遠山正雄「『いはくら』について」(『皇学』第4巻2号、1936年)である。

椿大神社では現在も、この論文を小冊子化した「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」を社務所で販売している。この文献によると、入道ヶ岳山中には下記のような「磐座」があるとされている。


A.いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)

B.主坐のいわくら

C.いしごうのいわくら

D.重ね石のいわくら

E.奥の院いわくら(俗称ほとけ石のいわくら)

F.たていわくら式のもの

G.しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

H.いしがみのいわくら(通称ふじ社)

I.石大神(しゃくだいじん)のいわくら

※アルファベットのつけ方は「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」掲載の地図に準拠している。


各「磐座」の詳しい位置関係は上記文献を参照していただくか、Web上にこれらの「磐座」群を最も詳細に報告されている“朝寝坊”(soul)さんの「鈴鹿山脈/登山日記」「入道ヶ岳・磐座めぐり 」のページを参照していただきたい。

私はかつて入道ヶ岳に登頂する機会があったものの、その時は「磐座」群が存在する井戸谷と呼ばれる登山ルートが台風による崩落で立ち入り禁止となっていた。

井戸谷コースは崩落しやすいルート

そこで以下の記述では、各「磐座」群の歴史的な情報を整理して紹介するにとどめたい。


A.いしぐらの磐座(俗称天狗の遊び場)

入道ヶ岳中腹。入道ヶ岳の山頂から南東に2本の尾根が延びているうちの東側の尾根上にある。

古来「いしぐら」「天狗の遊び場」と呼ばれてきたという。椿大神社によると、猿田彦大神の一族がここで色々な話し合いを行った神跡という。猿田彦はいばしば天狗と同一視され、それが話し合いや遊びをしていたということから、神の出現する場所という意味で磐座の定義とも合致する。

露岩が寄り集まっており、各岩の寄り集まりが室のような隙間を形成しており、今はそこに祠が設けられている(遠山正雄氏調査時点はなかった様子)。この「室」こそが「くら」とされてきた由縁だろう。


B.主坐のいわくら

山頂から南東へ延びる2本の尾根の間には「オホハゲ」と呼ばれる大崩落箇所がある。この「オホハゲ」の直上に位置し、2本の尾根の合流点かつ山頂のやや下ぐらいの位置にある自然岩。

前述の「いしぐら」、そして後述する「いしごう」の中間に位置し、なおかつ、椿大神社から仰いで真正面の最高地点に存在する点から、遠山氏はこれを「このお山全体のイハクラの主座」とみなしている。

逆言すると、「主坐のいわくら」は遠山氏の命名であり、この岩に対する旧来の名称やいわれはない(つまりただの自然石として存在していた)ということに注意を払いたい。

入道ヶ岳山頂から下斜面のオホハゲの方向を撮影。

おそらく写真中央の崩落部がオホハゲの始まりではないかと思われる。


C.いしごうのいわくら

山頂から南東へ延びる2本の尾根の内、南側の尾根上に位置。「主坐のいわくら」を挟んで「いしぐらの磐座」と相対する位置にある。

この「いしごう」は、写真が一切掲載されていないので実態がつかめない存在だが、遠山氏によると割石のようなものを積み重ね、敷き並べたもので、人工築造物であることは明らかとのこと。扁平な巨石を左右に立てて、その上を別の石が覆う構造も見受けられるそうだ。

「いしごう」という名は現地で伝承されてきたものと思われ、何らかのいわれがあったと類推する。


D.重ね石のいわくら

入道ヶ岳の山頂から北西方向に伸びる尾根、通称「イワクラ尾根」と呼ばれる尾根上にある。「重ね石」の名の通り、まるで石を積み上げて石垣か城塞にしたかのような岩石構造物である。

遠山論文には、付帯する伝承などに関して記載がない。


E.奥の院いわくら(俗称ほとけ石のいわくら)

「重ね石」からさらに北西へ「イワクラ尾根」を進むと出会う、三角形のフォルムが特徴的な巨石。

奥の院といわれているが、いつからの呼び名かは不明。俗称が別にあるので、「ほとけ石」の方が元からある呼び名ではないか。

ちなみに「重ね石」から「ほとけ石」の間には、椿大神社が「鏡岩」と呼ぶ岩石がある。山本行隆『椿大神社二千年史』(1997年)によれば直径4m余りの円形状の岩石というが、その写真を見る限りでは円形状というよりは板状の趣。石面は風化侵食により凹凸があるが、かつては滑らかであっただろうとの推測が入っている。


F.たていわくら式のもの

「伊勢一宮 椿大神社 神代『いわくら』について」の地図を見る限りだと、「奥の院いわくら」からさらに北西へ進んだ地点にこれがあるようだ。

「たていわくら式」というのがどのような形式なのかはよく分からないが、遠山氏の記述を読む限りでは「谷間にかけて細長く屹立する岩石群」のようだ。


G.しめかけ石のいわくら(俗称天狗の腰掛石)

入道ヶ岳の山頂から南に伸びる二本松尾根と呼ばれるルート上に立地。この岩石のみ、下山時に実見することができた。

南側より撮影

北側より撮影

「天狗の腰掛」「しめかけ石」「七五三岩(しめかけいわ)」などの名称がある。山の天狗がここで腰掛けた石という。また、ここから上は神の住処なので不浄の者はこれ以上登ってはいけない、という目印のために注連縄を掛けた石だと伝えられている。


H.いしがみのいわくら(通称ふじ社)

「いしぐら」の尾根を下りると富士社の小祠があり、その上方にある机上の石と高さ約5mの立石状の岩石が「いしがみのいわくら」に相当する。巨岩を仰ぐ位置に富士社が設けられているので、神聖視されている岩石のようだが沿革は不明。

しかし現在、富士社では春季大祭の時に祭典が執り行なわれ、岩は木花咲耶姫命にまつわる磐座という神社公式見解もあるので(「椿大神社メールマガジン第56号」2008年5月発行)、現時点では神聖視されている聖跡であることは間違いない。

名称からは「石神」なのか「磐座」なのかはっきりしないが、おそらく両者の用語を使い分けず同じ意味の言葉とみなすパターンだろう。


I.石大神のいわくら

今まで紹介したところから場所が離れる。入道ヶ岳の南方、鈴鹿市小社町の小岐須渓谷にそびえる岩峰そのものを「石大神」と呼ぶ。詳細は別頁で取り上げたので参照いただきたい。

石大神(三重県鈴鹿市)


入道ヶ嶽「磐座」群に対しての私見


入道ヶ嶽の数ある「磐座」群の中で、かつてから名前がつけられ、古伝承が伝えられていたと目される確実なものは、「A.いしぐら(天狗の遊び場)」「C.いしごう」「G.しめかけ石(天狗の腰掛)」「I.石大神」の4ヶ所である。


それ以外の事例は、ある時期に研究者や神社関係者が「特別視した」ものも含まれる可能性が高いことに気をつけたい。

それは「歴史の失われた磐座に再び光を当て掘り起こしたもの」かもしれないし、「それまで認知されていなかったただの自然石を、往古の磐座として誤認したもの」かもしれない。

そのような危険性をはらんだものだと、研究資料として取り扱う際には念頭にとどめる必要がある。


個人的には、いわれの残る事例が入道ヶ嶽頂上から東側の山帯にあることに注目したい。山麓(里)側だからこそ、人に関わる伝承が集まりやすい結果ではないか。


逆に、山頂より西側にある「いわくら尾根」の事例群に対しては批判的に見ている。

東麓の里民から見て、山頂は神聖な禁足地であったかどうかはわからない。わからないが、そのような山頂よりも奥方に位置する西側山帯はさらに人足が及びにくいのではないか。

したがって、そこにどんなに異形の岩石があっても、その存在を人に認識されなければ、「磐座」とはなりえない。


たとえば重ね石やほとけ石はインパクトのある外観だが、だからといってそれだけを以て、「太古からの磐座」とみなすのは避けたい。

鏡岩については、管見の限りでは椿大神社の現代の記録の中でしか語られておらず、いつから鏡岩と呼ばれているのか、むしろ誰が名前をつけたのか、そこまで辿ってこそ初めて資料化できるだろう。


参考文献

  • 囲後政晏 「椿大神社」 「石神社」 式内社研究会(編)『東海道2』(式内社調査報告 第7巻) 皇學館大學出版部 1977年
  • 山本行隆 『椿大神社二千年史』 たま出版 1997年
  • 椿大神社 「椿大神社メールマガジン第56号」 2008年5月発行


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