インタビュー掲載(2024.2.7)

2023年4月16日日曜日

薩摩の「タノカンサァ/田のかんさぁ/田の神様」

隼人歴史民俗資料館展示の「田の神像」(写真左右)

タノカンサァは、薩摩藩が支配していた鹿児島県・宮崎県に多く分布する神で、石像の形をとるものが多いが、磨崖の形態などで彫られるものも見られる。


松田誠氏「田の神さぁの祈り―霧島市のタノカンサァ―」(『霧島市の田のかんさぁ』鹿児島県霧島市教育委員会、2010年)によると、18世紀代から薩摩藩の関与のもと藩内に普及したものと考えられている。

田の神の像容は統一的ではなく、特に初期は仏像・神像・神職・僧などのバリエーションに富み、造立者の希望にある程度委ねられていたらしい。

松田氏によると、薩摩藩としては勧農の目的で田の神の造立を薦めたというが、初期のタノカンサァは造立目的も五穀豊穣などの農業関係に限らず、設置場所も田んぼだけでなく山地・平野部など一定した傾向を持たなかったとされる。

最終的には神名のあらわすとおり田の収穫を祈るための神像ばかりとなっていくが、出発地点は必ずしも田の信仰だけではなかった様子がうかがわれる。


タノカンサァは庚申などの他の信仰とも混ざって造立されているものがあり、中には陽石の輪郭にもみえることから生殖器信仰との関連で説かれることもあるという。

ただし、松田氏は「そのものズバリ」という形は認められないということから、「作為はないと見たい」と結論づけている。


冒頭に掲げた写真のとおり、タノカンサァには白く化粧を施したものと、石肌のままでまつったものがある。岩石信仰の観点からみれば、前者は岩石の物質性を第一とはしておらず、後者は岩石の視覚性が優先されている。

同様に、タノカンサァには一か所に安置するタイプと、年ごとに地区で家々を持ち回りして運びまつるタイプがある。

後者は持ち運びできるサイズということになるが、それでも持ち運ぶために小型化するというわけではなく、運搬には難儀する例が多かったという。


鹿児島県でタノカンサァのことをご教示いただいた窪壮一朗氏からは、「なぜ人々は、運搬に必ずしも適さない重い石材で、わざわざタノカンサァを作ったのか」と疑問を投げかけられた。

そこに、岩石でなければならない精神的な要因があったかもしれないが、私にはまだわからない。

運搬していた当事者の方々も、特に時代が下れば下るほど「昔からしていることだから」というところが実際のところで、言語化できていなかったことが多かったと思う。

苦労して望みをかなえること、思い通りにいかず岩石に抵抗されながら祭祀行為をおこなうというところに、岩石ならではの信仰要因は一般化できる余地はあるが、自らの家に石像を持ち込んでまつろうとした最初期の人々にしかわからない価値観かもしれない。


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