2024年2月18日日曜日

尖石(長野県茅野市)と縄文時代自然石信仰説


長野県茅野市豊平東嶽

 

尖石の現在の評価

尖石遺跡は、縄文時代中期の様子をあらわす集落遺跡の代表格として考古学上有名である。

そのような尖石遺跡の遺跡名を冠する「尖石」が岩石として現存することも、巨石祭祀や先史時代の信仰という観点からまた知られるところである。

尖石。尖石史跡公園の南にあり、現地に案内も整備されている。

尖石近景。三角のエッジを持つが、本記事の焦点は「摩滅」跡にある。

尖石遠景。遺跡からは南の斜面下に落ち込んで存在する。

2022年に、尖石遺跡の明治時代からこれまでの調査を包括的にまとめた『国特別史跡「尖石石器時代遺跡」総括報告書――縄文社会のデザインがはじまったムラ』(茅野市教育委員会)が発行された。上記リンク先でpdf版が全頁公開されている。

はたしてその中で尖石はどう記されているか。

報告書では主に第2章第1節(pp.7-8)で岩石としての尖石に言及があるものの、過去に宮坂英弌が記した『尖石』(茅野市教育委員会 1957年)の記述をそのまま引用したレベルの内容にとどめている。情報をまとめると、

  • 地表からの高さ1.20m、底辺は長径1.15m、短径70cmの三角形の岩石。
  • 地中にどの程度埋まっているかは不明。
  • 石肌に凹凸が激しい面があり、その凹凸が人工的なものか自然成因のものか不明。
  • 尖石の東肩が摩滅しており、これが「磨石砥」であることは明瞭である。
  • 尖石の傍らに1基の石祠がまつられ、「酉年小平氏」の刻字があるが建立年は不明。
  • かつてこの地を長者屋敷と呼び、かつては尖石以外にも岩石が集積していたといわれる。4軒の家で庭石に使われていたことが判明しており、そのうちの1個は前の堰に埋もれている。
  • ある人が尖石の下に宝があると信じて掘り進めたが瘧(オコリ)にかかって死んだため、誰もこの石の下を掘ろうとはしない。
  • 諏訪の御柱祭の折には、区から御柱を寄進していて、その関係で尖石の周囲にも御柱を立てている。
  • 正確な分析はされていないが、尖石の石種は地質学的に八ヶ岳天狗岳・硫黄岳起源の安山岩類と考えられる。
  • 尖石は尖石遺跡の南側斜面に位置し、この斜面の崖状地形には軽石などの火砕流噴出物がみられるが、そのような火山活動起因の巨石として尖石は存在したものと考えられる。


信仰・祭祀の観点からみると、やはり注目すべきは「磨石砥」である。

現地看板には「右肩に磨かれたような跡があることから縄文時代の石器を研いだ砥石ではないかといわれています」と記され、尖石が縄文時代に砥石として用いられていたという仮説を追認している。

※なお、尖石の周囲にあったという御柱は2023年時点では存在していなかった。遺跡整備の一環によるものかは不明。

現地看板


縄文時代の砥石が地上に露出し続けるという意味

さて、この仮説はどこまで信頼できるのだろうか。

他例では寡聞にしてこのような自然岩塊を砥石代わりにした例を確認していないが、もちろん石器を磨くための石材としての岩石はあっただろう。しかし尖石が縄文時代から今まで現存し続けてきたそれなのかには一考の余地がある。


最大の批判点は、この尖石が遺跡発掘調査前から地上に露出し続けていた点である。

尖石遺跡という名前がついているから尖石も遺跡の出土物かのように錯覚してしまうが、尖石遺跡はあくまでも地名としての尖石からの命名であり、尖石は遺跡地から南に行った斜面途中に存在している。

尖石が仮に地中に埋没したままならその地層の年代での出来事として保証はできるだろうが、地表上に出続けていたなら縄文時代以降も利用される可能性があったわけで、岩肌の摩滅跡が縄文時代と限られる保証はない。当然、現代までのいつかの時代の営為による痕跡の可能性もあり、その批判への返答が必要になる。


逆に、尖石は斜面中の岩石で高さ1m強の露岩であるため、縄文時代の時は埋もれていて、後世の斜面地形変化で後世に露出した可能性もある。

報告書によると、尖石の南側斜面は現在テラス状の平坦部が広がりその南にさらに斜面が広がる段状斜面地形を有するが、調査の結果このテラス面は後世に水田開発などにより人為的に形成された地形とみなされている。

また、報告書の記述を参考にするならばこの地には尖石のほかにもいくつか岩石が集積していたということあり、三角形の尖りを以て神聖視されたのが始まりだったのかどうかもわからない。

以上の内容から、現状の景観は縄文時代の風景と同じではなく、尖石が斜面に1m姿を現すこと自体を縄文時代のあれこれと直結するべきではない。


縄文時代の自然石信仰の候補遺跡―尖石の比較資料として―

以上の話とは別角度の疑問としては、砥石に使われた岩石が信仰・祭祀の岩石と言えるのかというテーマもある。

一般的にイメージすれば砥石は石材であり精神的な対象にはならないが、それは現代人の論理である。私たちと価値観の異なる人々において、石を磨くことが祭祀につながった可能性をゼロにできるわけではない。


では、磨かれて傷を負うことになる岩塊は、たとえば神としての岩石になりうるのか?

縄文時代以外の民俗例で岩石を欠いて薬にするなどの事例はあるが、結局そこは同時代資料で証明できない領域である。


ならば縄文時代の自然石信仰の可能性を匂わせる遺跡群との比較はどうだろうか。

管見のかぎりでは、船引・堂平遺跡(福島県田村市)、皆野岩鼻遺跡(埼玉県秩父郡皆野町)、合角中組遺跡(埼玉県秩父郡小鹿野町)、女夫石遺跡(山梨県韮崎市)の4事例を把握しており、それぞれの自然石の状態を下記のとおり紹介したい。


船引・堂平遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。山裾に立地。高さ約1.5m、径3mの花崗岩の岩塊群が出土し、傍らから石棒1点が直立した状態で伴出したほか、土器、石皿、凹石なども出土。岩塊群は主に4体の岩石が密集したもので岩石間に岩陰が生じている。一部の岩塊の裏には小石で裏込めがなされており人為的と報告されている。


皆野岩鼻遺跡

縄文時代中期初頭の遺跡。山腹に立地。高さ60㎝、幅、奥行き各2mの緑泥片岩の岩塊が出土し、岩塊の北面に生じた亀裂から石斧2点、岩塊の周辺には多数の焼石と土器が検出されたほか、南側から石棒が欠損状態で出土。岩塊は山の上の転石が落ち込んだ自然石と目されるが、岩肌の北面に細かい亀裂が多く確認されている。


合角中組遺跡

縄文時代後期前葉の遺跡。高さ50㎝、径1mの砂岩の岩塊が出土し、岩塊の傍らから石棒が2つに分割された状態で見つかったほか、土偶が不完全な破片状態で散乱し、土器も伴出した。周囲に配石遺構もあり。岩塊の長軸(南東-北西)方向に深さ40㎝の溝が岩塊上面を走っている。溝の底面に亀裂などが見出せないため人為的な溝と評価されている。


女夫石遺跡

縄文時代中期の遺跡。沢沿い平坦地の立地。高さ1.7m、幅、奥行き2.5mの岩塊が出土し、その傍らからミニチュア土器、石棒2点(1点は欠損)、土偶などが伴出。遺物包含土には焼土痕が検出された。岩塊には自然のものとみられる裂け目が確認されている。


※各遺跡の岩塊写真画像については当ブログ下記事を参照。

日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?


自然石信仰の候補事例といいながらも、船引・堂平遺跡では岩塊に裏込め、合角中組遺跡では人為的に刻まれたと評価される溝などがあり、岩石へ手を入れたケースが報告されている。

その点で、尖石に摩滅跡が見られたことと対照は可能で、岩石に手を入れても祭祀遺構としての推測は成立されうることになる。

しかし、上記4例では岩塊の傍らから石棒がいずれも出土している(欠損・直立が混在)。土偶が伴う場合もある。尖石が弱いのはここだろう。地表にさらされていただけに縄文時代当時の状態がわからず、結果として尖石に伴出する遺物は確認されていない。この点で、尖石は上記4遺跡と相違が認められ、尖石を同種の遺跡としてみなすには根拠不足と判断される。


それにしても、上記4遺跡においては石棒の伴出もさることながら、岩塊の特徴として共通項も浮かび上がるのも興味深い。

  • 高さは2mに達せず、圧倒的な規模の巨岩・巨石として扱って良いかは検討の余地がある。
  • 人為・自然問わず、亀裂や溝、岩陰などの空間的な性質がみられる。

そう巨大とも言えない岩石と祭祀に関連が指摘でき、単なる自然石ではなく岩石の中に空間をみる傾向を重要視しないとならない。巨大であること、自然のままであることという要素とは異なる部分が縄文時代の祭祀には見られるのである。

自然石に凹部的な岩陰空間がみられたらそれをそのまま利用して、なければ人為的に彫りこみ凹部空間を作り出したということか、凹みに目的を見出したのか岩石の内部に空間を見出したかったのかなど、その評価は当然ながら難しいことであるが注目していきたい。今後の類例の資料数増加に期待するばかりである。


なお、尖石遺跡に接して建てられた茅野市尖石縄文考古館では、「集落に持ち込まれた(と思われる)巨石」というキャプションと共に、複数の不整形の岩石が館内展示されている。こちらも縄文時代の岩石と精神的なものとの是非を考えるうえで参考にしたい。

茅野市尖石縄文考古館 蔵

上写真を逆側から撮影。


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