2024年2月25日日曜日

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(2023年)学習メモ

大嶋仁『石を巡り、石を考える』(石風社 2023年)を読んで、今後の研究につながる部分を記録したものである。

大嶋仁氏は、日本比較文学会の会長を務めた人文学の研究者で、氏にとって石をテーマに扱った研究は本書が初となる。

大嶋氏自身の生涯の中での石の関わりや世界各地の石の遍歴を含んだ内容でもあり、氏の岩石の哲学が込められた1冊となっている。


1.本記事は個人的メモのため、読ませるように文章を整理できていない。

2.岩石信仰と関連する部分で今後有用と思われる情報を中心にピックアップしたため、本記事は必ずしも本書の要点をまとめたものとはなっていない。


本書を書くきっかけとなった動画

著者(以下、大嶋氏を指す)が岩石や地球に興味を持つようになり、本書を書くに至ったきっかけの動画が紹介されている。

著者がこの動画から得た学びを列挙する。

  • 地球が作り出す電磁場が地球を守っており、地球の存在が少しも安泰ではないこと。
  • 地球の様々な活動が熱、電磁場、大気、水、そして生命を生み出したこと。
  • 自分に来ている世界が地熱の上にあると実感できること。
  • 地球の終焉、人類の絶滅を淡々と語るところに無常観を感じさせるが、感情を廃して科学的態度で貫かれている。


ガリシアの石

スペイン北西部のガリシア地方は雨が多く湿潤な気候である。ガリシア地方には岩山が多く、石工の数も多いという。

ガリシア地方の町は石に彩られており、特徴として石がざらざらしていて磨かれていないことに著者は注目する。

磨く技術がなかったのではなく、磨こうという意思がもともとないのだ。磨くとは粗削りな表面を消したい、化粧をさせたいということである。磨きたくないとは、粗削りなままでいい、化粧をしてはいかんという意味である。

これを、無意識のうちの石の信仰ととらえる。そして、多湿な気候のため粗削りな石が黒ずんでおり、水の信仰にもつながるとみている。著者の言葉を借りれば「ここの石は呼吸している」という表現になる。


巨石文化とケルトは関係ない

ドルメンなどの巨石文化はヨーロッパの西外れの大西洋沿いに位置し、これはケルト文化圏と重なる。

しかし、ケルトの出現はドルメンより後なので時代が異なり、本来は関係がない。

ケルト人はそれ以降にヨーロッパへ来た人々に追われたため、ヨーロッパの「最果て」の地である西外れに流れ着いたため、巨石文化の分布とたまたま重なったという説明で足りる。

巨石文化がなぜ大西洋沿いに分布するのかは説明できていないが、ガリシア地方もまた大西洋沿いで湿潤な「水の信仰」の地だった。


石の信仰要因

新石器時代に巨石文化が流行った理由を著者はこう説明する。

地磁気を感じる力は文明の発達とともに衰えたが、それが衰えないようにという工夫が巨石文化となって現れたと見ることもできる。ということは、すでにあの先史時代において地磁気を感じる力の衰えが自覚されていたということで、それを食い止めるために石の力を象徴する建造物が必要だったのである。

石の力とは何か。著者はそれを物理学的に説明すれば地球の磁力であるとする。小石であっても地球の磁石としての微小部分を担っていて、さらに巨石となれば一つの地磁場となる。

動物には本来磁場を感じとる力があり、現代人にはその力がほとんど失われてしまったが、新石器時代人は現代人よりその感度が高かったはずで、岩石、特に、巨大な岩石であればあるほどそこに宿る磁力を感知し、それを「不思議な力」への信仰としたのではないかという論理である。聖地やパワースポットの誕生も、そのような地磁気を感知する能力によるものとみる。

新石器時代人が現代人より地磁気を感じとる力があったかどうかは未解明で推測となり、無意識で地磁気を感じとったことでどのような心理・信仰となるのかは説明されていないが、岩石信仰を科学的に説明した文として注目したい。


キリスト教圏における岩石の聖性の位置づけ

現代のケルトの末裔に「あなたは石を信仰してますか」と尋ねても怪訝な顔をするだけだろう。よほどのスノッブでなければ、「はい、もちろん」などとは言うまい。「信仰」という言葉は彼らの中では教会、カトリック教会と結びつき、彼らにはそれ以外は考えられないのだ。あのケネス・ホワイトでさえ、聖なる岩を「祭壇」と呼び、カトリックの聖体拝領と結びつけているではないか。

ホワイトは、波が打ち寄せる海辺の自然岩を「あらゆる天候に耐えてきた石」で、フジツボの王冠を被った「年老いた」「聖なる岩」で「祭壇」と表現した。

これは一見、自然を崇拝するケルト文化の心性につながるようで、著者はホワイトを含めたキリスト教世界観に生きる人々が、聖なる岩を神として信仰するわけにはいかず、キリスト教世界観のなかでケルト文化や自然を取り上げざるをえない限界を指摘した。

岩石が神聖であることを語る時、西欧近代化された価値観を脱し、神話世界の言語を手に入れなければならない。


対馬で出会った人々の言葉

歴史というものも岩がじっと見とどけてきたんでしょうから、こりゃもう岩の勝利ですわな。岩にしみ入る蝉の声どころか、歴史まで染み入ってしまう。

対馬の岩の凄みを、対馬が背負ってきた歴史と共に語る大阪からの旅行客。第一印象が岩だったという対馬。著者も同感し、「石が島民を作り、島民が石を生きる」と表現した。

石だけでなく巨木も多い対馬において、著者は島南部の龍良山の裾に広がる原始林を訪れる。遊歩道が整備されているということだったが判然とせず、あきらめて帰った後に地元の人に尋ねると「前はもっときれいでした。遊歩道なんてもの、なかったんですから。」と言われて著者は仰天した。

遊歩道がなかった方が「きれい」だったというその発想。私たちが抱く感覚とはまるで違う。


ロジェ・カイヨワ『石』の評価

『石』は、第1章で中国の石に関する神話や伝説を取り上げ、第2章で鉱石を中心として石の物理的な外形を自然礼賛的に表現し、第3章以降は科学的ベクトルというよりは道徳・思想的な色が濃くなると評する。

著者は『石』を美しい文だが空虚であり、特に石を審美的に見すぎて科学的でないという点で、「石の感触を得られない」と断じた。

著者の興味関心は、岩石を地球史の記録物として、科学的に解読する哲学を追求しようとしている。


宮沢賢治の地質学的知性

著者は、科学的に解読した哲学として宮沢賢治を挙げる。

賢治の詩は、無意識のレベルで言語化された「心象スケッチ」で、心理学研究の対象としての資料になるものとして重視している。

それでありながら、賢治はたしかな地質学的な知識のうえで記述する「地質学的知性」を有しており、それは何なのかというと宇宙から地へ空間的・時間的に掘り下げていく地層学的理論であるという。

このような地質学的知性は他にもフロイトの精神分析が地質学的な掘り下げであったり、レヴィ=ストロースの人類学調査方法が常に下へ下へ、時の不可逆性を重視した点で地質学的であると評価している。

すべてに共通するものとして、地球に表れた地質や岩石、そして人間の個人的な精神から社会集団の行動まで、それらを「地球内部からの手紙」と位置づけ、その手紙を読み解こうという姿勢にあふれているとまとめられる。


石に親しみを覚えるのは、人はかつて石だったから?

人は死ねば土に還るというが、土になった私たちはやがて硬い石へと変貌する。私たちの生は石化し、地中に埋もれる。たとえ灰になっても、同じである。石を懐かしむ詩人には、「自分はかつて石だった」という記憶があるのだ。

ドイツの詩人ノヴァーリスは、鉱山学校で地質学・鉱物学を学び、石を自然界の理念形・至高的存在とみなし、石から鉱物、そして植物、動物、人間が定義されると考えた。

ノヴァーリスに言わせれば、人間は大地が最後に生んだ地層のようなものであり、その意味において、人間は自然界の新参者としての鉱物なのだという。

ここに人と石が地質学的に同系譜の中で語られうる。現代科学においてもデータ至上主義ではなく、目の前の石を見て、科学哲学を地質学的知性で学んでいくことの重要性を著者は説いている。


科学者への警鐘

本書のエピローグで、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の松尾芭蕉の句に対し、実際に声がしみ入るのかという著者の問いが記される。

科学者の立場からは、わざわざ句や詩歌を科学的に正当化する必要がどこにあるのかという疑問も起こるかもしれないが、そこに向き合うのが優れた詩人でもある優れた科学者となりうるだろうと著者は考えている。

量子力学の発達した現在、蝉の声の力が見直される可能性はあるのではないか。石が蝉の声を体内にしみ込ませ、それを記憶の貯蔵庫に保存している可能性もある。初めは表面にしか浸透しなかった音声も、それが莫大な数の虫の音声ともなれば、少しずつ深く浸透する。そして、それが何年もつづけば、石の方でもその浸透を許す構造変化を起こし、かくして芭蕉の聞いた「しみ入る」が現実になることも考えられる。

著者は人文科学の専門家であるため、上記の「仮説」がどの程度の核心を突いているか不明だが、岩石と生物、ひいては人間との歴史においても、人々と関わった岩石とそうならなかった岩石での構造的な違いを示唆する問いとなっている。

地球の存立にとって重要な磁力がどこから来るのかを突き止めてダイナモ理論として発表したウォルター・エルサッサーは、理論物理学、気象学、地球化学、生物学と自らの問題意識に沿って次々に専門分野を変えた。それは、自らを科学者ではなく自然哲学者でありたいと考えていたかららしい。

エルサッサーは、原子爆弾の開発・投下によって、科学から自然哲学が終焉したという発言を残した。

著者は、哲学を失った科学が暴走する例を挙げて、それらに共通する過ちは、目の前に見えているもの(光景・人・地球)を見ず、想像せず、数値やデータという高みからはじき出したものをもって判断するというところにあると規定する。

石に目を落とせば、眼前の石を見つけて、石に戻り、そこから時には詩人となって想像力や直観を働かせたうえで、そこに地質学的知性を加えて科学することを現代科学者たちへ提言するのが本書である。


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