2024年3月23日土曜日

大将軍山の大山祇神社旧地(奈良県宇陀市)


奈良県宇陀市榛原高井字椿尾垣内 大将軍山


大将軍山の概要

宇陀榛原の高井は旧内牧村の村役場が置かれた中心地である。

この高井集落を覆うように北に高井岳・大平山などの山並みが東西に連なる。山名として著名なのは地理院地図にも記載される大平山だが、その大平山のすぐ西隣の一峰をかつて大将軍山と呼んだことは今あまり知られていない。

大将軍の名は元禄16年(1703年)の検地水帳で確認できるといい(竹野 1937年)、地元の人々は「ダイジョウゴン」「ダイジングウ」の通称で大将軍山中腹の岩群をまつった。

その後、明治時代に神仏分離が進む中で、小林某という神職者が祭神不詳は面白からずとして社名を大将軍から大山祇神社に改め、大山祇命を祭神に据えたといわれている。

さらに明治41年(1908年)、神社合祀の流れにより大山祇神社は高井字神定の伊豆神社に合祀された。合祀後、凶事が続発したことから地元では神社復興の声も挙がったというが、現状として大将軍の地に社はなく伊豆神社に合祀されたままとなっている。

しかし、皇紀2600年事業により当地が神武天皇聖蹟の一つ「大労餐の庭」に関する地に擬せられ、社地に石段や石灯籠などの諸設備が整備されたことが現地に残る昭和17年銘の灯籠や石碑の存在から垣間見える。

探訪時も岩群前の石壇上に供物の跡が残り、おそらくは地元で護持しつづける方がいらっしゃるものと思われる。

以上のことから大将軍が歴史的に本来的な名称と判断されるが、大将軍が陰陽道の大将軍神に由来するものか、他の由来に基づくものかは不明である。


岩群の詳細

皇祖聖蹟莵田高城顕彰会の『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)でこの岩群の詳細が報告されているので、同書の記述に沿って現地を照応させたい。


大山祇神社旧地の岩窟

高さ十尺六寸(約3m)、巾六尺四寸(約2m)の巨岩を向って右の柱とし、高さ四尺五寸(約1.3m)、巾五尺五寸(約1.7m)の岩を向って左の柱とし其の上に長さ十三尺(約4m弱)、厚さ二尺(約60㎝)、巾七尺四寸(約2.2m)の岩及び長さ七尺三寸(約2.2m)、厚さ六尺(約1.8m)、長さ七尺六寸(約2.3m)、巾四尺八寸(約1.5m)の、二個の巨岩を天井として載ける自然に成れるものと思はるる岩窟状の磐座にして、両柱の間四尺七寸(約1.4m)其の間に長さ三尺(約90㎝)の石を挟み女性の性器を象れるが如き形態をなしてゐる。 ※メートル法表記部分は吉川追記

大山祇神社旧地(基壇部)

大山祇神社旧地(正面から)

大山祇神社の「岩窟」部分。

「岩窟」前の供物跡。元はここに社祠があったものと推測される。

「岩窟」の上方にも岩群が続く。

「岩窟」頂部の岩石(斜面上方より撮影)

「岩窟」は南面している(斜面上方より撮影)

大山祇神社旧地に残る石造物銘。元文4年(1739年)から、明治41年の合祀後も整備が続いたことがわかる。

前掲書『神武天皇建国聖地内牧考』(1939年)によれば石質は英雲安山岩とのことである。

「岩窟」と形容されてはいるが、洞窟としての空間は閉塞しており存在せず、これが人為的に閉塞したものか、陰石を志向したものかなどは不明である。


上方の巨岩群

稍南方によってニ三十間(約40~50m)上方の絶壁中に、高さ二十二尺(約6.5m)周囲約十五六尺(約4.5~5m)の男根に髣髴たる巨岩が聳立してゐる。其の上方十余間(約20m)の位置には、横三尺(約90㎝)、高二尺五寸(約75㎝)、奥行五尺(約1.5m)の三個の石の上に横九尺(約2.7m)、奥行五尺(約1.5m)、高二尺五寸(約75㎝)及横六尺(約1.8m)、奥行四尺(約1.2m)、高四尺(約1.2m)の巨岩を積重ね其の根本に数個の塊石を以て崩壊を防ぐ工作を施せるが如きものがあり、恰も山頂なる神籠石に供饌の台となせるが如きものである。

「やや南方」というが、南方は下方斜面であり岩石がない。そのかわり、大山祇神社旧地から西方やや上の斜面上に立石状の露岩群が存在する。

しかし、位置関係や高さなどの規模が前掲書と一致しているかというと怪しい。別の存在か。

「上方絶壁中、約6.5mの男根に髣髴たる巨岩」は位置・規模から考えてこの岩壁か。

斜面の傾斜は30度近いためこの岩壁の上を確認することはできなかった。


茶臼山の「ストーンサークル」

約一町(約100m)山の尾を登れば高さ二三丈(約6~9m)の絶壁があって其の上、山の頂上に高さ六尺九寸(約2m)、周囲一丈(約3m)の畧等大の巨石立ち其の周囲に十数個の周囲八九尺(約2.5m)の塊石がある。四個の巨石は神籠石と認められ其の周囲の塊石はストーンサークルであらう。この附近一帯山の隆起せる部分を茶臼山と呼んでゐる。

「約6~9mの絶壁」に当たると思われる山頂直下の岩壁の一部。

この岩壁を登った先が山頂となる。

茶臼山と目される山頂部。これが前掲書で「神籠石」と名付けられた4個の巨石か。

重石状の岩石が4個以上、若干の列状に山頂南面に露出する。

「ストーンサークル」と名付けられたものに該当するか?

山頂南側の直下斜面に岩陰状の陥没地形がみられる。


当地の禁忌事項

椿尾垣内地区全体の禁忌

大山祇の神が鶏を嫌っているので、椿尾垣内の住人は鶏を飼ってはならなかった。

大山祇神社が伊豆神社に合祀されてからは、この禁忌が解けて鶏を飼育するようになった。


大将軍山の禁忌

山内には「大いなる長物(蛇)」がいるので、みだりに入ってはならない。

一木一草すら折ってはならない。

苺、テンポ梨の実を食べてはならない。

枯れ枝でも薪の木として持ち帰ってはならない。


メトリ坂の禁忌

椿尾垣内から大山祇神社旧地~茶臼山南方を経て荷阪峠(荷阪地区に通ずる大平山~茶臼山間の鞍部)にいたる道をメトリ坂と呼んだ。

婦人が一人で通行するととられるといい、婦人の単独通行を避けている。

メトリ坂を駆け上って達する荷阪峠。茶臼山はこの峠の西方(写真左)の峰。東方(写真右)は大平山。

歴史学者の魚澄惣五郎氏が大将軍山を調査した時、「古代の山岳信仰が仏教の影響を受けることなく太古のまま残された興味深き山である」(竹野 1937年)と言葉を残したらしいが、魚澄が大将軍山について記した文献が残るのかは不明である。

考古学者の大場磐雄氏は大将軍山登山を計画していたが日没前のため断念し、そのかわり茶臼山で採集されたという茶臼玉5個を採集者から宿で見せてもらっている。いずれも直径一分~二分(3㎜~6㎜)ほどで僅少な遺物ではあるが、「もし事実なれば同所に於ける古代祭祀の事実を知り得て、磐座との関係も確認を得るに至るべし、なおよく探究すべし」(大場 1938年)と評価している。

大将軍山の取りつき。林道「室生ダム開路線」を用いる。椿尾集落を経由して駐車スペースがあるここに車を停めた。

先ほどの写真の背中側を見ると大将軍山の登山口がある。かつて椿尾から荷阪峠にいたったメトリ坂の道と思われる。大山祇神社旧地はこの踏み跡をひたすら約10分直進すると石段が見える。


参考文献

  • 竹野次郎『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』 皇租聖蹟菟田高城顕彰会 1937年
  • 皇祖聖蹟莵田高城顕彰会 編『神武天皇建国聖地内牧考』,皇祖聖蹟莵田高城顕彰会,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1023590 (参照 2024-03-23)
  • 『大和叢書』第1,大和史蹟研究会,昭和8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1214606 (参照 2024-03-23)
  • 森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年

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