2024年3月3日日曜日

石の木塚(石川県白山市)


石川県白山市石立町




5個の凝灰岩が立っている。これを「石の木塚」と呼ぶ。

5個の立石はサイコロの5のような配置を見せ、中心の立石から東西南北の方角に向かって残り4個が立つ規格的な配置をみせる。


嘉元2年~3年(1304~05年)頃の成立とされる『遊業上人縁起絵』に「石立」の地名が記されており、これが地名の「石立」の初出とされている。

石が立つ、の語源をこの立石群に求めるのは妥当であり、少なくとも14世紀にはこの立石群が存在したことがわかる。

さらに石の木塚ではすでに発掘調査が行われており、塚の地点から5~6点の土師器椀が発見されている。

椀の製作時期は10世紀後半~11世紀前半のものと考えられており、考古学的には石の木塚の構築を10世紀代まで遡ることができる。


石の木塚は、石立町の玄関口に位置しており、道が大きく折れる角地に立つという特徴的な立地にある。

全国の「立石(石立)」地名は、古代道に沿って分布するという研究がなされている(三浦 1994年)。

石の木塚の石立の地も、駅伝制による古代駅・比楽駅の近くに位置することから、石の木塚は古代道における交通標識に類する役割を担う施設だったのではないかという説が有力である。


そのような立石が単なる交通標識だったのか、祭祀・信仰に関する精神的な意味も込められた存在として成立当初からあったのか不明だが、いずれにせよこの立石は時代を経て「石の木塚」と呼ばれて、そこに込められた性格は自ずと変容・付加されていく。


まず江戸時代文献で石の木塚が再登場するのは、17世紀後半成立とされる『加能越金砂子』である。石立村に五本の大石があり、いつのことからはわからないが一夜の内に出現したと語られる。

一夜出現類型としての岩石伝説である。


次に、18世紀前半成立の『可観小説』では、「立石の宮の石の根」という一説が設けられて別の伝説が記されている。

社壇に立石五つがあり、これを立石の宮と呼んで神社としてまつったと明記されている。ここに、立石は岩石信仰の領域に入ったことがわかる。

加賀藩第3代の前田利常が近辺の百姓を動員して立石の根元を掘り下げさせたが、二丈(約3.5m)掘ってもその石の根はわからなかったという。

石の根が深く地中がどうなっているかわからないという類型の岩石伝説も他で見聞きするところである。


18世紀後半成立の『加越能三州奇談』では「石立村の石は此根能州の寺口へ出て猪の牙の如く飜れり」とあり、石の根の深さが別のところとつながって出ていくという伝説類型へ広がっている。


同じく18世紀後半成立の『越の下草』では、石の木塚と浦島伝説が接続する。

いわく、永正17年(1520年)、この地で龍宮から帰った酒屋の主が忽ち老体となり亡くなり、後日、異形の女と童子4人がそれぞれ石を背負って主の塚に5つの石を立てて、年ごとに石は太りその根の深さ知れずになったという。そしてその石塚を石立大明神として勧請したという。

立石がなぜ立つのか、その成立を伝説的に語る由来となっている。


他に弁慶伝説も付帯するほか、「石ノ木宮」「雀の宮」などとも呼ばれたらしい。


参考文献

  • 三浦純夫 「加賀石立の立石考」 森浩一・編著『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズⅥ) 同志社大学考古学シリーズ刊行会 1994年
  • 日置謙 校訂並解説『加能越金砂子』,石川県図書館協会,1931. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3440189
  • 『加越能叢書』前編,金沢文化協会,昭11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1227824
  • 宮永正運 著 ほか『越の下草』,富山県郷土史会,1980.8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9538411


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