2025年5月3日土曜日

朝熊山の岩石信仰(三重県伊勢市)


三重県伊勢市朝熊町


朝熊山の岩盤

朝熊山の頂上展望台に岩盤があり、それが朝熊山の磐座ではないかという話がある。





朝熊山頂展望台の名前をもつが、厳密にはこの山の最高所はここ(標高506m地点)ではなく、西のピーク標高555m地点が朝熊ヶ岳頂上である。
この地には神聖視された龍池とそこに八大龍王社が存在する。南の経ヶ峰と称される一帯からは、経塚の遺構・遺跡も見つかって朝熊山経塚として知られる。

このように、朝熊山の信仰史における山頂は、岩盤の東ピークではなく西ピーク側で語られてきた。しかし、これほどの規模の岩盤が展望台建設まで人に見つからず、歴史的に見過ごされてきたとも考えにくい。何かしらの記録が残っているのではないか。

本記事は、この岩盤を巡る諸説をまとめたものである。

藤本浩一が見た「岩船」

藤本浩一『磐座紀行』(向陽書房 1982年)では、朝熊山に「岩船」なる岩石があったことを記している。
舟形石があって、大神降臨の時の天の岩船であると伝えられている。その石の所在を尋ね歩いているうち、「今は山上になく市中に移されている」と、偶然知っていた人に出会い、岩船の前に案内してもらった。八畳と六畳二間続きの室を祭壇にしているが、奥の六畳間には仏壇を祀り、前の八畳間の室は床を落として、岩船石を安置してある。直径二メートルの上面は鏡のように滑らかで、高さは五十センチくらいである。注連縄をめぐらして礼拝できるように灯明をともしている。なぜ山上から民家へ降ろされたのか、当主が不在であるためわからなかった。(藤本 1982年)
朝熊山にあったという岩船が、後に市中の民家に移されたという話である。
なぜ民家の当主が不在なのに、別人の案内で室内を拝観できたのかが気にかかるが、藤本の記述では場所が特定できない。

岩船の文献調査

この岩船は江戸時代から戦前にかけてよく知られた存在だったらしく、さまざまな文献に登場する。

嘉永4年(1851年)成立の『勢国見聞集』では、巻九に「岩船弁財天」、巻十六に「岩船」の名で登場し、いずれも縦2尺、横7尺、高さ2尺と記されるので同一物を指す。朝熊山参詣道の路傍に、西国三十三観世音と共に同じ堂内に置かれ、岩船は弁財天をまつるという(『松阪市史 第8巻 史料編 地誌 1 勢国見聞集』松阪市史編さん委員会 1979年)。

寛政10年(1798年)の『皇大神宮参詣順路図会』では、岩船は瑞宝院なる禅宗寺院の堂内にあり、これを岩船の宮と呼ぶと記す(『大日本地誌大系 第11冊』1916年)。岩船は縦7尺、横3尺、厚さ2尺を計り、縦横の見方が逆転して『勢国見聞集』と1尺ほどの差はあるものの同一物だろう。

この尺貫法をメートル法に直せば、藤本が記した直径2m、高さ50㎝におおよそ符合する。

正徳3年(1713年)の『志陽略志』には「岩船明神社」の名で登場し、「朝熊山にあり、何れの神を祀るか知らず、是を鎮守として祀る」とある(中岡志州『志摩国郷土史』中岡書店 1975年)。
この当時は神社としての性格色濃く、弁財天ではなく神名不明ながら鎮守(朝熊山のかどうかは読み取れない)と位置付けられている。

なお、時代が下り1905年に霞雪(筆名か)という方が残した朝熊山の探訪記「しま巡り」によると、岩船弁天は船形の自然石の上に弁財天を安置していたと記している(『日本弁護士協会録事』84号 1905年)

藤本が記した、天照大神降臨の天の岩船という話は文献上読みとれず言い過ぎの感があるが、朝熊山が天照大神の本地仏としての山でありその鎮守と解釈を広げればなくはない。
不詳の神が口碑を語り継ぐ中で後世に弁財天、そして天照に仮託されてきたという信仰史が描き出せるだろう。

岩船があった朝熊山内の場所とは

この岩船は、朝熊山の頂上ではなく参詣道中の堂内にあったという。それはどこだったか。

寛政9年(1797年)の『伊勢参宮名所図会』巻五には朝熊山の名所が紹介されている。この紹介順は麓からの参拝順とみなしてよい。
岩船弁財天は、楠部嶺、一宇田嶺、弘法茶屋の後で、萬金丹(野間茶屋)、下乗、金剛証寺の前である(『大日本名所図会』第1輯 第4編 大日本名所図会刊行会 1919年)。絵図にも万金丹の茶屋の奥方(下斜面)の道沿いに「岩船」と注記された建物(堂)が見える。

天保3年(1832年)の『伊勢朝熊岳之絵図』を見ても、野間の万金丹本家から内宮道を下って行った絵図奥に「岩船弁天」の建物が観音堂に接して描かれている(『伊勢朝熊岳 金剛証寺』金剛証寺 2024年)。観音堂は前述した西国三十三観世音をまつる堂と思われる。

日本初の山岳百科事典と称される高頭式編『日本山岳志』(1906年)でも、朝熊山を登山順に紹介する中で岩船弁財天堂が記される。
場所は、大黒岩の先で萬金丹薬館の前であり「朝熊嶺より下乗にいたる右傍にあり、社宇の内に状船に似たる巨岩あり、長七尺、横二尺、高三尺許、是を弁財天女に祀る」と記す(高頭式『日本山岳志』野島出版 1970年 を参照し、カタカナをひらがなに改めた)。

これらの情報を綜合して現地に当てはめると、岩船弁財天の場所が大体絞り込める。
朝熊岳道のうち、内宮から金剛証寺にいたる内宮道(宇治岳道)の路傍にあり、位置は弘法茶屋や大黒岩よりは上で下乗や野間茶屋よりは下ということになる。

そして、とどめは大場磐雄博士の『楽石雑筆』1940年~1941年の記述にある(『大場磐雄著作集』第8巻 雄山閣出版 1977年)。
大場博士は朝熊山にある「明暦元年十二月三千日参碑」の記録と撮影をおこなっており、「同碑は岩舟弁財天右側にあり」と明記している。

さて、以上の情報を地図上で総合しよう。
三重県環境生活部文化振興課が作成したウォーキング・マップ「朝熊岳道」がpdfで公開されており、この中の7ページ目「宇治3・A」の地図番号18が「野間万金丹本舗跡」である。
そして、地図番号7の「地蔵結願碑」に、「明暦元乙未歳十二月□ 日」「三千日結願碑」の刻字があることから、大場博士が記録した碑と同一物であることがわかる。

岩船弁財天の堂は、この碑の右側にあったということで位置が確定できる。
そして今、現地には堂も岩船も存在しない。

岩船が移された「民家」の場所とは

戦前1940年代初頭までは大場博士の記述によって岩船弁財天が朝熊山中にあったことはわかるが、その後、おそらく戦前戦後の時期に弁財天の堂は撤去され、岩船は山の下におろされた。

藤本は岩船を市中の「民家」で見たというが、仏壇と共に室内にまつられ、しかも民家の当主なしでも拝むことができていた。このことから、民家は民家でもある程度不特定多数が見れる位置にあったか公開されていたか、というところだろうか。
しかし、伊勢内宮前の市中でそのような場所があれば、すでに岩船は誰かによって位置が特定されているものではないか。
一般的な私的な民家でもないし、外から見れる場所でもないように思える。

このあたりの前提を踏まえて調査した結果、唯一、ヒントになりうる情報を見つけた。

皇學館大学名誉教授の櫻井治男氏が翻刻した「資料翻刻『神三郡神社参詣記』(四)」(『皇學館大学神道研究所紀要』第4集 1988年)に、以下の記述を見つけた。
表江出て右側に、高き石垣内ニ松の木ある広き屋敷なり、慶光院殿の御宮なり、南の方石の鳥井あり弁財天女の社なり、此弁財天神路山二有しを、秀吉公御再建之時此所江移し祀り給ふト云、御建立の時御湯立かまあり、今奥にある岩船弁財天も元ハ当院の支配なりト云、石鳥井内ニ瓦屋根之内に社(櫻井 1988年)
岩船弁財天の名がここで登場する。

慶光院の屋敷内、南のほうに石鳥居があり瓦屋根で葺かれた社があり、弁財天をまつる社だという。
そして、この弁財天は秀吉時代に神路山から移したものだが、「今奥にある」岩船弁財天も慶光院の支配下にあったと読める。

慶光院は内宮前の宇治の街中にある。


元は尼院だったが明治2年に廃寺となり、明治5年からは神宮司庁の所有となり今に至る。
基本的に非公開の施設で、年にごくわずか公開日があるらしい。
公開日に見学した人が弁財天の社を実際に見たかの情報が欲しいところだが、このように特殊な性質を持つ屋敷であり、藤本浩一が案内を受けた人が神宮司庁の関係者やある程度寛容に入れる時代の空気だったならば、個人の私邸でないからこそ中に入ることができた可能性が浮上する。

『神三郡神社参詣記』は世古口藤平が明治初期に見聞した伊勢の神社地誌であり、ちょうど寺から所有者が変わる頃の記録ということになる。

本書の記述の「今奥にある」の意味がとりづらい。
「今」は明治初頭を指すが、「奥」は秀吉期に移した弁財天社の場所的な「奥」という意味なのか、宇治の街中の奥(つまり朝熊山)という意味なのかがわからない。

素直に読めば前者だが、『日本山岳志』や大場博士の記述を踏まえると、この頃はまだ岩船弁財天は朝熊山中にあったと思われ、場所が矛盾してしまう。

岩船弁財天「も」「元は」当院の支配だったという書きかたから、神路山の弁財天とは別の存在であり、離れた場所の岩船弁財天も元・慶光院の所有だったと書いていると理解できる。
もし場所的な奥なら、すでに慶光院の屋敷内にあるのだから、わざわざ当院の支配などと書く必然性に欠けるというのもある。

ならば、岩船弁財天が山中から移された先も、所縁のある慶光院にあるという推測が成り立つ。元所有者とも言え、すでに神路山の弁財天社も移されている地だから追加して移しやすい風土がある。

懸念点は、当然非公開なので推測に過ぎないということと、藤本浩一がなぜ慶光院と書かず民家という書きかたをしたかである。
慶光院ほどの場所であれば個人の民家とは違い公共性があるので、名前を出して書きそうなものである。
また、昭和時代の鷹揚さはあっただろうが、それでも神宮司庁の庁舎であり他人の案内で入れたのか。さらに、「当主」という書きかたをしたのも気になる。個人邸を念頭に置いた書きかたとも言える。
そういう点では、慶光院そのものではなく、慶光院の関係者や子孫縁者に属する方の邸内に移されている可能性もあり、その場合は秘匿性が増すので所在確認の難易度は大いに高まる。

いずれにしても、時機到来して慶光院の公開日に見学できれば確認したいし、すでにご覧になった方の情報提供を待ちたいところである。

再び朝熊山の岩盤へ…

長い「寄り道」の末、冒頭の山頂展望台の岩盤へ話を戻そう。

これまでの調査を踏まえれば、岩盤は岩船弁財天、岩船明神、岩船の宮などと呼ばれてきた神名不詳の鎮守とは関係のない存在である。

その他、朝熊山で伝え継がれているものとしては次の岩石がある。

  • 天狗石
  • 大黒岩
  • 朝字石
  • 獅子岩
  • 独鈷石
  • 二法石
  • 心経石
  • 畺目石
  • 七日石

すべて朝熊山の名跡として各種文献(坂本徳次郎氏『二見浦名勝誌 附 神都案内』二見興玉神社々務所 1913年 ほか)に列挙されるのだが、この内、位置がある程度確定できるのは前3者(天狗石・大黒岩・朝字石)に限られ、少なくともこれらは展望台の岩盤を指さない。

さらに、七日石はおそらく七社神(朝熊の鎮守という)にある岩石で、七社神は金剛証寺境内の薬師堂の社(法光院)という記述があり(『皇大神宮参詣順路図会』)、文殊大満獅子石ともあるので上記の獅子岩と同一かもしれない。ならばこれらも異なる。

逆言すれば残りの岩石名(独鈷石・二法石・心経石・畺目石)のいずれかが、件の岩盤を指す可能性がまだ残っている。

金剛証寺境内。顕彰碑の前の壇上に置かれる自然石。このような岩石にも名があり歴史がある可能性を否定できない。

最後に、朝熊山縁起に関わる話を紹介する。
室町時代成立とされる『朝熊岳儀軌』には、赤精童子・雨宝童子が朝熊山の三鈷洞傍らの岩石に立ったという縁起がある。

この岩石には「朝」の字が足跡として残ったという故事から朝字石の名がつき、それは境内の連珠池の池の中にあるというが見ることはできない。
なぜならこの池は常に濁っているのが良いとされていて、清らかなときは変異の兆として避けられているからだ(安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年)。

朝字石があるという連珠池(連間の池)

傍の三鈷洞は、金剛証寺を開創したという伝説的修験者・暁台上人が修行して聖徳太子が小野妹子を遣わして仏舎利を納めたという聖跡だが「三鈷洞の存在を今は知る統べもない」(前掲『伊勢朝熊岳 金剛証寺』2024年)とのことである。
件の岩盤は洞穴構造を持っているわけではないので伝承地として適切とは言えないが、この「洞」がいわゆる洞窟のようなものを指したか、岩陰構造をもつ岩石を含めたものだったかは不明である。

以上、朝熊山の岩盤について候補となりうる情報をまとめたが、ご覧のように多くの謎を残した。朝熊山の岩石信仰の地についてさらなる情報をお持ちの方はぜひご教示ください。