2018年10月22日月曜日

益富壽之助『石―昭和雲根志―』(白川書院、1967年)

日本鉱物趣味の会を創設した益富壽之助が、「学校で教えている地学や鉱物学書のような系統や順序はむしろタイクツ」として、奇石・珍石を文学的に記した本。

随所に、江戸時代の弄石家・木内石亭リスペクトが見られ、石亭が取り上げた奇石を時には石亭の記述に沿って追憶し、時には鉱物学的にアプローチしている。

たとえば「饅頭石」の章では、石亭が記した産地の「団子谷」が今でいうどこのことなのかを追跡調査し、初版では特定できなかったが、初版を読んだ読者からの情報提供で第二版では場所を鳥取県倉吉市の西南西、汗干部落の西にある峠であると追記したくだりは、昭和時代の著者と読者のインタラクティブな関係性を閉じこめたかのようである。

昭和時代の民俗誌としての観点は他にもある。
益富博士自身が子供のころは「水晶を地中に生けておくと、大きくなると、信じていた人が多かった」、だから、「もっと昔の人々は、石が大きくなったり子供を生むということを、信じていたにちがいない」と書いている。
この発想自体が、現代の私たちからするとすでに価値観の隔たりを感じずにはいられない。しかし、益富氏がこれを書いていた時は、まだ近世以前の心性を理解できる土壌があったのだ。このような些細な記述が益富壽之助という一人の人間を話者とする民俗誌なのである。

「鈴石」の章では、たまたま泊まろうとした宿の廊下に鈴石が陳列されているのに接し、宿主の紹介で鈴石の産地に赴く益富博士のドラマチックな物語が語られたと思えば、現地の鈴石の説明看板を見て「まことに素人くさい説明だが、さりとて書直しを希望するほどのこともない」と突如専門家らしい寸評も飛び出し、面白い。

「紫石英」の章では、もともと石英と結晶が逆の意味で使われていたのを貝原益軒があべこべに書いたのを筆頭に、「石黄」や「錦石」の名称が不正確なものにも濫用されている現状を憂う。
やはり学者としての概念規定の厳格さを感じられ、いわゆる感情的なエッセイからは一線を画している。

石亭だけでなく、服部未石亭・西遊寺鳳嶺・森野賽郭ら、他の弄石家の人生も取り上げ、江戸時代における珍石・奇石の基準や保存のしかたに熱い目を注いでいる。

たとえば、森野賽郭の石のコレクション箱は、各石の上に蓋がしてあって名札や石の混じりあいを防いでいた。
本書は益富博士自身が薬学の専門家であることもあり、日本や中国の本草書に取り上げられる石薬の紹介も多いのが特徴であるが、その石薬の標本としての見地から、森野コレクションの保管方法に高評価を下している。


さて、最後に触れておきたいのが巻頭である。
導入部でありながらまるで要旨であるかのように、永平寺貫主の泰禅禅師が94歳の時に記したという「石徳五訓」が掲げられている。
孫引きになり良くないが紹介したい。

石徳五訓

一 奇形怪状無言にして能く言うものは石なり
二 沈着にして気精永く土中に埋れて大地の骨と成るものは石なり
三 雨に打たれ風にさらされ寒熱にたえて悠然動ぜざるは石なり
四 堅実にして大厦高楼の基礎たるの任務を果すものは石なり
五 黙々として山岳霊園などに趣きを添え人心を和らぐるは石なり

かつて紹介した森徳一郎の「石の徳」と対比して特徴的なのは、四つ目のように建材の基礎としての石の実用的役割も「徳」の一つに入れていることだろう。

カチワ(堅磐)の精神性は二つ目、トキワ(常磐)の精神性は三つ目に顕著だが、全項目に散らばっている雰囲気もある。
一つ目や五つ目は非情の裏返しと言える。無言・沈黙が無感情・無機物とみなされるのが通常だが、一つ目は逆説的に「人に語らせる」という意味での多弁性に化け、五つ目は超然とした存在に感じさせるのが安心感や抱擁感につながるのかもしれない。


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