2018年11月26日月曜日

青野文昭氏の「表現のみち・おく」が石を哲学している

芸術家の青野文昭氏のホームページに、「表現のみち・おく」と題された研究プロジェクトがある。

青野文昭氏のホームページ → http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/
表現のみち・おくのTOP → http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/framepage8.html

青野氏によれば、「表現のみち・おく」は「道」「未知」「奥」「みちのく」などにかかったタイトルで、現在成立している様々な美術表現の道の源流をたどることを目的としている。

このコーナーの中に、岩石に関わるページがいくつかある。

「石について」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg26.html
「まがい仏と彫刻」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg3.html
「積石」http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hg27.html

内容は美術にとどまらず民俗学や哲学の領域まで深く掘り進められた洞察が主となっている。
ここでは上記ページからハッとした部分を紹介したい。

石について

――刻まれたり書かれたりすることで何らかの意味―内容が投影されうるのは、「石」が元来「無意味」で「塊」で「不変的」で、、つまり外から何かを吸い寄せやすく、確かな実在物であり、そうでありながら現在の時空を超越しているという性質のなせるわざであるだろう。それらの特徴を合わせて観た時、「石」という存在が、本来の意味合いにおいて、大変優れた「媒体」であるということが理解される。(前掲ページより)
青野氏は、松尾芭蕉の「岩にしみいる蝉の声」や磐座の例を引き、石の中に吸い込んだり吸い寄せたりすることができるという石の性質を指摘している。

青野氏はまた、石は「ただの石」と「他者としての石」の2つの概念を提示している。
「ただの石」はいわゆる普段意識されない存在。それが「他者としての石」 となったとき、それが聖なる存在となるのではないかと青野氏は考える。

「他者としての石」というのは、石を一つの「自分とは異なる存在」かつ「自分に影響を及ぼす存在」として意識することだと思う。
どこかの名前も知らない人が「ただの石」と同じであるように、実際に接すると初めてそれは「他者としての人」となる。そして、その他者とは、接しているわけだから自分が影響したり影響されたりする可能性を秘めることになる。

聖なる石とは、何かを吸い込んだから「他者としての石」になるということであり、吸い込むという認識をするためには実際にその人が石に接する必要がある。
(現代では、実際にその場に立たなくても、画像で見たり知識として知ったりするだけでも接触したことになるだろう)

石の不変性や堅固性という性質はよくいわれる話であるが、石に接することになる動機やきっかけを研究した例はほぼ聞かない。
石の性質以外にも、立地環境(集落に近い)や外部的なイレギュラーな要因(天災や歴史的出来事)によって石に接する体験は数多くあっただろう。
どれだけ奇岩巨石であっても、人が触れられない場所にあればその存在は意識されない。定義としての石の中に隠れてしまう。

このように、人が岩石に聖性を認める段階には、
  • 石の本来の性質
  • 石に接するきっかけ(イレギュラーな部分)
  • 人の先天的な感覚差
  • 人の後天的な知識(時代的制約)
 の4つが相まって岩石信仰が成立していると考えることができる。


磨崖仏と彫刻

――磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。(前掲ページより)
青野氏は彫刻家である。
石材として使われるだけの石と、一見同じように石材として用いられるがそれだけではない石の違いについて言及しているページである。

それは西洋的な彫刻との対比であったり、石と木の対比あるいは共通性出であったりと、青野氏はたえず二つの概念の「二重性」の有無について考えを巡らせている。

石に刻まれたり描かれたりするものは「内部」で、石そのものは「外部」に位置付けられている。

積石

――とりあえずそこにある小石をひろって一定の場所に置くという行為。これはおそらく畏敬の対象である、ある種の空間―「他者」に対して行なわれるもっとも最初の行為であり、自分と他者の「ファーストコンタクト」の証なのである。(前掲ページより)
これまでの石に関わるページのなかで、石について最も深掘りされた青野氏の論考を読むことができる。

青野氏の「他者」論が石をモチーフに語られている。
他者に対して、恐怖も持ちつつ、憧れるものも持つというこの「二重性」の感情。
それの極致となるものが神や仏と呼ばれる信仰対象であることは私もかつて拙著で触れたことであり、実はそのような感情の発露は神や仏に限らず、そもそも普段意識しなかった何かと出会う瞬間から始まるということなのである。

人が想定しないことに出会うたびに、いつも「聖」の要素が入りこむ余地がある。
恐怖が勝つと、それは「聖から避ける」信仰になる。
憧れが勝つと、それは「聖に近づく」信仰になる。
恐怖も憧れも勝とうとすると、それは自己と信仰対象を超克、あるいは同化しようとする自立的な信仰になる。
そのグラデーションの中にある信仰も際限なくあるだろう。

人が未知の体験をするかぎり、この感情の動きからは逃げられそうもない。


おわりに

石に関わる3つのページを取り上げたが、それ以外にも祭祀や信仰という問題を考えるにあたっては、「より代・供物」(http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hyo3,7.html)
や「代用」(http://www1.odn.ne.jp/aono-fumiaki/hyo3,15.html)のページなど、刺激的な内容が多い。
これは人類史にとって、美術と宗教に不可分な部分が多いまま今日まで来ていることの表れだろう。
また、美術と宗教という用語からはきれいなイメージが先行しがちになるが、美術と宗教は人間的なエゴが突出した部分なだけに、穢れたものや悪と呼ばれるものも含まれている。

「表現のみち・おく」に書かれている内容を深く勉強していきたいが、この研究プロジェクトは、青野氏自身が自らの中を内省して研ぎ澄ましていっている性質の文章であるだけに、参考文献や研究の出典が明示されていないところがあるのが残念である。
また、「表現のみち・おく」はおそらく未完であるが、制作された文章がおおむね00年代である。歴史や民俗学に関わるページについては、一部、やや古典的な説に立脚している部分もある。
現在の歴史学の最新研究と照らしあわせると、現在の青野氏がどのように石をとらえているかも興味津々である。

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