2018年11月12日月曜日

笹生衛『神と死者の考古学』(2016年)を読んで

國學院大學の笹生衛教授による『神と死者の考古学:古代のまつりと信仰』(吉川弘文館、2016年)を読みました。

笹生先生は、現在の祭祀考古学研究の第一人者であることは間違いありません。
従来の神道考古学・祭祀考古学が抱えていた殻を破り、一歩外に出た感があります。

笹生先生に勉強させていただいているところ大なのですが、今回、主に岩石信仰の研究と関わる部分を中心に、あえて違和感を抱いた直感の部分を大事にして、いくつか所感を書いてみます。


祭料が同じ=祭式が同じと言い切れるか


笹生先生は、考古資料と文献資料から「祭料(祭祀で使う道具のリスト)」と「祭式(儀式の順序)」を復元しようとします。
これまでは、イメージで語られていた何となくの祭祀儀礼を、明文化しようと取り組んだのです。

笹生説の骨子は次の文に集約されています。

五世紀から七世紀までの祭祀遺跡で出土する品々は、七世紀後半以降の「幣帛」と一致するだけでなく、九世紀初頭の『内宮儀式帳』が記す祭式の内容、そこで使用する道具類「祭料」とも一致する。したがって『内宮儀式帳』が伝える古代祭式の基本的な枠組みは、供献品の内容とともに五世紀まで遡ると考えられる。(同書より)

『皇大神宮儀式帳』(=内宮儀式帳)が同時期である9世紀の祭祀の内容を反映していることはもちろん疑いありませんが、これを「祭料」が一致(一致しているというより分類が同じものに入るという考え方が適切)しているからと言って、数百年前の古墳時代の祭祀と同一視していいかが、笹生説が受け入れられるかどうかの分かれ目だと思います。

道具が一見同じでも、時代によってその使われ方は変化し、同時代でも地域によって異なる使われ方がするもの。

おそらくゼロorヒャクで考えてはだめで、ある程度は受け継がれているものがあり、ある程度は変容しているものがある、その境目のつけかたが研究者により分かれるのが解釈というものです。


沖ノ島と伊勢神宮は同じ?

沖ノ島と伊勢神宮は国家祭祀レベルとしては同じのため、そこで行われる祭式も基本的に同じとなるでしょうか。
9世紀の同時期の対照なら私も肯きますが、5~7世紀の沖ノ島祭祀まで道具の使い方も儀式のしかたも一緒か。

伊勢神宮は多くの人工的な建築物を構築して築いた祭祀の場であるのに対して、沖ノ島は絶海の孤島に密集した岩岩の自然の中で形成された祭祀の場。
視覚的な自然環境に大きな違いがある中で、祭料の一致だけをもって機能論的に沖ノ島の巨岩と内宮の正殿と同一視するのは、もう少し慎重になっていいのではと思います。

沖ノ島の巨岩群に対して笹生先生はこう記します。

岩上・岩陰の遺跡は祭祀を行うには狭く、その出土遺物はのちの「幣帛」に当たる供献品が中心であり、土器類は極めて少ないという特徴がある。これらの点から、宗像沖ノ島の祭祀遺跡はすべてが祭祀の場であったとは考えにくい。むしろ、先ほどの祭式の流れから考えると、そこは祭祀の終了後に捧げ物をまとめて納めた場であったとの解釈が可能となる。

すべてが祭祀の場であったとは考えにくいと言いながら、すべてが祭祀の場ではないという論理になるわけではありません。
笹生先生は「納める」という表現を祭祀終了後の処置という位置づけですが、それも含めて祭祀なので、伊勢神宮の正殿も沖ノ島の巨岩群も「貯蔵庫」ではなく「最終的に捧げられた場」という位置づけがふさわしいでしょう。

沖ノ島は船で渡った先の急峻な島の地形と密集する巨岩群という独自の地理的環境を持つので、巨岩群の周辺の土器群が少ないということを、その地理的環境を勘案せずに『皇大神宮儀式帳』で解釈してしまうことに危険さを感じています。


依代は祭祀の実態を反映していない?

笹生先生は、沖ノ島の巨岩群を「神を象徴する存在(御形)」と表現しています。
この「象徴」という概念が極めてあやふやで、読み手によって解釈が分かれるのはいかがなものかと思っています。
私の読み方が浅い恐れがあるのでご教示いただきたいくらいですが、 磐座と何が異なるのかという点についてもはっきり記されていません。ただ、磐座という言葉を使いたくないのだろうな、ということは伝わります。

これは、磐座という概念が折口信夫提唱の「依代(招代)」概念と関連性が強い言葉だからではないかと思われます。
神霊はこの世界のどこかにいて、それが祭祀の時に「依代」という目印に向かって憑依する(人の立場から見ると、神をお招きする「招代」に来ていただく)という考え方が、磐座にも当てはまるからです。
これは神道考古学提唱者の大場磐雄先生が、天上や山上から傍の石塊に神が宿ると文章の中でも書いたことから、影響色濃いものがあります。

笹生先生は「『依代・招代』はあくまで、折口が民俗学的な観察から着想を得て作った学術用語であり、歴史学や考古学の検証、裏付けがなされているわけではない」と述べています。

では、笹生先生の考える神観とはどのようなものか。
『日本書紀』景行天皇十八年条に「女神有します。常に山の中に居します」という記述があり、宗像三女神も『記紀』のなかで「坐す」「在す」「居します」と表現されており、これらは「まず・まします(居られる)」と読み、神は常に山の中や島の中におられると読めるというもの。
つまり、神はどこか虚空から飛んでくる必要はなく、常にそこにいるものであり、それは山や島が有している自然環境の力を神として表現したからに他ならないという考えです。
だから、折口・大場氏以来の「依代」概念は、祭祀が行われた場の自然環境を祭祀の動機と無関係とするものであり、この考えを改める時期なのではないかと説いています。

結論から言うと、私は笹生先生のおっしゃる神観に同意です。
私も、かつてより「どうして山の神が、山頂で天上から降りてこないといけないんだろう?」など、神の垂直降臨の論理には納得できないことがありました。

それと同時にもう一つ言わないといけないのは、折口信夫はわかりませんが、大場先生は自然環境と一切無関係の神を招く祭祀の場を築いたという考え方はしていなかったのではないか、という擁護をさせていただきます。
私は、大場先生の著作群を読んで、祭祀の場が自然環境の影響と無関係とか、そういう風に思ったことがなかったからです。

大場先生の祭祀遺跡の分類の筆頭に「自然物を対象とするもの(山岳・巌石・島嶼)」とあるのはその代表的なもので、自然を対象にした祭祀があるということを私は理解しました。

大場先生の「日本上代の巨石崇拝」(1937年)のこの一文からも、自然環境の影響を受けて神のまつり場が形成されたことがじゅうぶん読み取れます。

聳り立つ巨岩に巨巖に畏壓の感を有つて崇敬の標的とし、延いてはこれを御霊代とする神社の発生を見たものや、特殊な形状の巌石に対し、形の類似から 崇拝するもの(例へば生殖器崇拝の如き)、又は盤踞する石群や人工的に巨石を配して、神を招来し奉る御坐とする(即ち磐座)等を始め、一個の石が呪物(Fetish)とせられ、或は安産に、又は雨乞に、その他各種の卜占に用ゐられたことは、古文献のみならず、今も各地に残る民俗または伝承に依つて知ることが出来よう。

「神を招来し奉る~」のくだりは依代概念の影響と笹生先生は指摘されるかもしれませんが、ここでは天上と限定しているわけではなく、明らかに目の前の巨岩に自然神の気配を感じとったことが記されています。

自然環境に神の働きを認めて祭祀の場を設けるということと、神がどこかから現れるという観念は、矛盾するものではないというのが私の考えです。

『記紀』ほか、古典に記される「坐・在・居(ます・まします)」 は、山や島に常にいる意味と捉えて良いと私も思います。

しかし、山や島のどこにいるのか?
これは、神が目に見えない存在であるから当然湧く疑問です。
神がいるという山や島に入った時点でそこはすでに聖地の中ですが、聖地には空間的な広がりがあるので、どこに神がいて会えるのかは結局解決されていない問題です。
だから、ここであれば神がいるだろうと思われる場所で人々は祭祀をしたり、自分たちで祭祀の場を設けるわけです。それが、水源であったり巨岩が露出したりする自然環境であり、その特別感に人々は神の働きを期待するわけです。
これが、山の神や海の神が遍在すると表現され、それが山や海とは神格の異なる岩石に宿るゆえんではないでしょうか。

だから、山の神が山中の岩石に現われ出るというのは磐座という考え方で説明できますし、それは岩石が山の神の象徴という笹生先生の表現方法を借りることもできます。

結局、笹生先生は大場先生以来の祭祀研究を脱皮したいと考えるがあまり、大場先生が意図するものとは違う批判をされているように感じました。

実際、全国各地の事例には、海のかなたから神が漂流するという伝説を筆頭に、依代という言葉が後付だったとしても、遠地から神がやってくるものから、聖地の中で神に会うために祭場を設けるという観念は数多く見られます。
もちろん、それらの事例が5~7世紀まで遡れるかという批判はできますが、拙著でもそのような類型の岩石祭祀事例が数十を超えて存在することを取り上げました。

『皇大神宮儀式帳』を伝家の宝刀にしてそれ一本で古墳時代の祭祀遺跡まで語ってしまうことは、かつて神道考古学が目の前の考古資料をすべて神道儀礼に結び付けて解釈を固定化してしまうという批判にさらされたのと、同じ繰り返しになる危険をはらんでいます。
いろんな神の現われ方があり、地域性やそれこそ笹生先生が言われる地理的な自然環境によってさまざまな神観があった可能性を、国家祭祀による文献で一本化してはいないでしょうか?

私は岩石信仰研究の立場でしか語ることができませんが、常に神がいるという石神、見えない神にそこに来てもらった磐座、石の神籬と言って良い磐境などなど、石ひとつとっても様々な用途があったことを問題提起として述べておきたいと思います。


沖ノ島の巨岩群の位置付け

笹生先生は、沖ノ島21号遺跡の岩上の方形区画と岩塊からなる配石遺構をどのように解釈しているのでしょうか。

笹生先生が「神の象徴(御形)」と呼ぶ巨岩の上に登って、巨岩に対して小ぶりな石を置き、その周りを「神籬」のように囲むこの空間を、どのように捉えているのでしょうか。
これも、祭祀の最終段階に祭料を納めるためにつくった施設なのでしょうか。

神の象徴が何を意味するのかはわかりませんが、神と同様の存在とみなすのなら、そんな神の上に登って別の石を置くというところに、岩石の意味付けの底知れなさを感じとれます。

ここから思考実験をしますが、別の石は、祭祀終了後に納められた宝物や祭料、または御形そのものだったかもしれませんね。
では、それらを置き並べた下の巨岩は何だったのか・・・ここも考えたいです。

御形という神の象徴を置いた下の巨岩は、石神というより磐座の役割が色濃くなります。
祭料も置かれているので、供献台の役割も兼ねています。

これを保管庫と表現するか、祭祀の場と表現するかは研究者の定義の違いだと思います。
「神霊の近く」に祭祀で使ったものを納めるということは、いわゆる祭祀の時に神に奉献したという従来の祭祀解釈を、祭式の順序的に最後に位置付けた再解釈のようなものにしかすぎません。
21号遺跡が祭祀中の遺構か祭祀後の遺構かという点は結論づけられませんが、祭祀後の遺構が祭祀の場に入らないというのは表現としては誤解を招きやすいと思います。

また、方形区画内の石の位置付けが御形なら、下の巨岩は御形ではないのか、両者ひっくるめて御形なのかも、これも人の解釈しだいですのでどちらとも言えると思います。

しかし、なぜ21号遺跡の下の巨岩だけでは「御形」たりえなかったかを検討することも大切です。
巨岩だけで物足りなかったから、別に石塊を用意したわけです。ここは重大な問題提起です。

祭祀後に置いた場合であれば、祭祀中は巨岩の見えない立地で祭祀をしていた時の「巨岩のミニ御形」だったという一つの解釈も成り立ちます。
その場合、巨岩はまるで石神そのものにも見えますが、祭祀後に石神の上を登ることがはたして当時の人々に是だったかどうか。さっぱりわかりません。

祭祀中の遺構の場合は大きな問題をはらんでいます。つまり、巨岩自体は神の象徴たりえなかったから、岩の上で祭祀をしたということです。
巨岩の下にいるだけでは神と会えないから、岩の上に登って、見晴らしの良い立地で神と会おうとしたのです。
ここで、石塊に遠地から神を招いたという依代的発想が頭をもたげます。
これを古い神道学では天上界から垂直降臨させていましたが、沖ノ島の宗像三女神は海の神であり島の神。海から依りつく水平型思考もありますし、島のどこかに遍在する神を招いたという思考もありです。

これを私は「判断保留」という結論で、拙速を避けたいと思います。
研究者は、論文や本を書くと、ついつい結論を一つに決めてしまう欲に駆られます。
しかし、その欲を優先するために今後の自分の思考を限定・先鋭化してしまってはいけません。
そして、今生きている人の心ですらわからない(だから争いは起きる)のに、過去の人々の心の中など安易に決めつけるものではないという歴史の重みを自覚して、まだまだ勉強不足の自分の無知を吐露しておきます。

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