2018年12月29日土曜日

拝ヶ石(熊本県熊本市)



熊本県熊本市河内町東門寺
 
熊本市街の西方にカルデラ式火山として有名な金峰山(標高665m)がそびえており、この金峰山系の外輪を構成する一峰・拝ヶ石山(標高447m)の山頂から山腹にかけて露出する岩石群を総称して拝ヶ石と呼んでいる。

拝ヶ石

拝ヶ石

拝ヶ石については、すでにweb上で詳細な資料を展示している「古代の足跡in熊本」さんの「拝ヶ石資料」がある。こちらの資料を参照しながら、主に歴史学的な情報をまとめておきたい。

拝ヶ石の名前について


現在、一般的な名称は「拝ヶ石」だが、この石にはさまざまな呼び方がされていた。以下に整理する。
  • 拝み石・拝石(おがみいし):1929年に聞き取りをした地元の老人が呼んでいた名前。
  • おかミノ石:『東門寺村地撫御帳』(1637年)に見える字名。当石の名の初出と考えられている。
  • 夫婦石:巨石の内の1体が地震で折れ倒れたといわれ、その巨石が直立していた頃の別称という。
  • 拝ヶ石宗教遺跡:1985年に当石の発掘調査を主導した田辺哲夫氏が名付けた遺跡名。
  • 拝ヶ石巨石群:熊本市や観光協会などが使っている名称。現在最も通りの良い呼び方。

最も歴史的に古い名称は「おかミノ石(拝みの石)」になる。いつから「拝ヶ石」が代表格となったのかはわからない。

遺跡名として「拝ヶ石宗教遺跡」があるが、この遺跡名はあまり浸透していない。
日本考古学において「~宗教遺跡」という名付け方をしている遺跡は主流ではない。
現在で言えば「祭祀遺跡」だが、祭祀遺跡だと確定するのも慎重であるべきなら「拝ヶ石遺跡」が最も穏当だ。

民俗的な記録

  • 弘法大師がこの石の上に登り、太陽を拝したといわれる。石の上には弘法大師の足跡が残るという。
  • 石に登ると腹痛が起こり、祟りがあるという。
  • 山腹巨石群南西に横たわっている巨石はかつて立っており、それが地震(時代不明)によって折れ倒れてしまったという。倒れる前は高さ7m長の巨石が2体並んでいたことからか夫婦石とも呼ばれていたという。
  • ここから阿蘇の神を拝んでいたことから拝み石と呼ぶようになったという。
  • 菊池武重(14c前半の肥後国武将。南朝の忠臣として菊池神社祭神に神格化もされている)がこの石の上に登り一ノ岳(金峰山最高峰)を拝んだから拝み石ともいう。

重要な情報が残されている。
注意しなければならないのは、拝ヶ石は石自体が拝まれる対象だったのではなく、石を通じて別の信仰対象を拝していたという伝承構成になっていることだ。

拝していた対象は、太陽や阿蘇の神から一ノ岳や雲仙岳という説もあり一定しない。
信仰している人によってまつる対象が違った可能性は十分あるが、この石は「拝み所」として共通して機能していた。

祟り情報があることと、弘法大師や菊池武重が石の上に登っているという2つの情報を考え合わせると、拝ヶ石は「一般人は登ってはいけない×」ことが読み取れる。
「聖者なら登って良い」ことから、司祭者や神に近いとされたシャーマンなどが岩石と神人合一を図ることで、人間に神を宿らせ神託を述べるような祭祀も行なわれていた節がある。

考古学的な記録


大きく3度の調査が行なわれた。

1.1929年、熊本中学校教諭の進藤担平氏による拝ヶ石の認知と踏査


進藤氏によって初めて拝ヶ石に学問的関心が向けられた。
民族学者の鳥居龍蔵氏の巨石文化論に触発されて進藤氏は何度か足を運び、巨石群の配置の簡単なスケッチを書いた。

2.1930年、鳥居龍蔵氏の現地確認

進藤氏の依頼を受けて鳥居氏が現地を訪れた。調査といっても半日ほどの立会い見学だった様子。
  • ストーンサークルの中心にドルメンを有する巨石遺跡と評価。
  • 中腹岩石群の「後方」(文脈から考えて東側と思われる)から、鎌倉~足利時代のかわらけを発見している。
かわらけは素焼き土器のこと。この時発掘はしていないのでこれは表面採集と思われる。

3.1985年、河内町教育委員会の発掘調査。発掘調査担当者だった田辺哲夫氏による「拝ヶ石宗教遺跡」(河内町教育委員会編『河内町史 資料編第1 中世文書・宗教美術』河内町、1991年)の発表。


調査結果をまとめると以下の通り。
  • 山腹の巨石群の中央部・北側・南側・東側を発掘。
  • 中央部からは、巨石群南西に横たわっている巨石の基部と目される岩石を発見。
  • 東側から土師器細片2点が出土。刷毛目があり、胎土(焼成)良好で、中世の製作と推測。
  • ほかに一切の考古学的痕跡なし。
  • 表土下はすぐ地山層。
  • 山頂の巨石群については発掘実施せず。
  • 岩石については天然の露頭という見解。

山腹巨石群のほぼ全域を発掘しても出土したのは土師器細片2点だけという、この遺物数のあまりの少なさ。

ヒントとなるのは、表土層のすぐ下が地山層で礫混じりであったということ。山腹斜面ということもあり、絶えず降雨により土が流出するのだろう。
他例では滋賀県瓦屋寺御坊遺跡で、坐禅石と呼ばれる岩石の崖直下から古墳時代の土器が出土したことからも分かるように、本遺跡もできれば斜面下にトレンチを入れてほしかったところ。
また、祭祀後は絶えず清浄にするという観点から、祭祀終了のたびに祭祀具や奉献品を別の場所に移して、祭祀場には残置されなかった可能性もある。

土師器は中世の製作と推測されている。
鳥居氏採集のかはらけもほぼ同じ時期の年代設定となっているが、そもそも土師器は素焼きの土器であり製作特徴がない限り極めて製作時期の特定が難しい代物。なおかつ今回は2cmほどの細片とのことなので、この中世製作という推測は経験則によるものでこの結果を過信するのも躊躇する。

中世の土器が出たから修験者の霊場遺跡だったという見立ても、やや論理飛躍の気がする。
金峰山の中世祭祀がすべて修験道や山岳仏教で語れると言ったら言い過ぎであり、地元住民の素朴な祭祀でも素焼き土器は使われるだろう。
土器が修行用の法具だったか、供献物を盛るための器だったかなどによって位置付けは変わってくる。

いわゆる超古代遺跡・天体観測装置説について


まずは現地に立てられた地図を見てみよう。

拝ヶ石

シュメール、ケルト、磁気異常・・・と、その筋にはおなじみの言葉が並んでいる。現地の案内板というのは極力客観的な記述をしてほしいが、協力を求める専門家を見誤るとこうなる。

石の名前も、これまでの文献情報・民俗情報に記載されていなかった「方位石」「メンヒル」「鏡石」「頂上石」などといった用語が突如登場。
この用語の使い方は間違いなく日本ピラミッド。
現地の名前を無視して名付けをする行為は歴史に対しての無頓着の現われであり、いい加減に自省を促したい。

スフィンクスに似ている、シュメール文字やケルト文字である、磁気異常が起こる・・・との説は、基本的にみんな言ったもの勝ちなところがある。
だれか、批判的に追調査をして裏付けをとったのだろうか。

スフィンクスに似ていると言わせる基準は何だろうか?
自然の造形が何かの事物に似ているということがどれほどの意味を持つのか?
仮に人工の造形であると言いたいのならば、その科学的説明はなぜしないのか?
磁気異常が起こるのは、岩石が帯電する以上何も珍しい話ではない。その現象を取り上げて何の意味を持たせたいのか?

シュメールやケルトを語るには越えなければいけない課題・前提があるのに、いつもそれが置いてけぼりにされている。
これらの説は前提条件を踏まえず単発で提起されるだけで、論として筋道立ってないのが痛い。ここを踏まえないと、この手のジャンルは先の展望を開けそうにない。

また、天体運行の観測装置としての位置付けを巨石に与えたいのであれば、その巨石は人工的に運搬・設置・加工などがされていることを立証する作業が、証明側に「前提条件」として必要である。
天体運行の観測調査をおこなうことで、古代の歴史を立証することはできない。何時代の所産なのかさえも証明できていない(あえて言うならば、現代の所産を証明した段階)。

必ず、人の意図が加わったことを証明できなければ、人の歴史は語れない。
人為的設置の証明なしでの天体運行のシミュレーション研究は、ロマンで自分に酔わず、涙をのんで偶然の一致と自己批判するのが、研究者として必要な科学的な態度ではないだろうか。
地球上で起こりうる現象には無数の意味付けを与えることが可能であり、それはロールシャッハテストの世界である。人の意図が介在しているかどうか、それが私の関心事である。

自然のままの岩石で、特異な天文運行や天文観測ができるということもある。
しかしそれでは観測装置としての性格は結果的かつ付帯的なものであり、天体観測をしようとしたという古代の人間の明確な意図は取り出せない。結果的に天文運行が石の神聖性を高めることにつながったという辺りの位置付けにとどまるだろう。
しかも、拝ヶ石は地震などで原位置が保たれていない可能性がある。原位置から動いた現在の状態で観測ができるのなら、つまりそれくらい現象の意味付けはたやすいということになる。

その他、現地を訪れての所感


方位石

現地案内板には「スフィンクスにも似ている」「表面にはレリーフ状の模様と星座を思わせるペッキング穴があり」とあるが、私から見たらスフィンクスに似ていないし、レリーフ模様も見当たらないし、ペッキング穴はあっても風化の窪みしかぐらいしか見当たらなかった。

拝ヶ石

最も巨大な岩石は、祠の東側にある立石状の巨石で、高さ9mともいわれるが、田辺哲夫氏の「拝ヶ石宗教遺跡」によると高さ7mとのこと。
これと比肩しうる規模なのが祠の南西に横たわる巨石で、これは先述の通り、地元の老人がかつては直立していて地震で倒れたと述べている。
1985年の発掘でも、この巨石の基部だったと思われる岩石が地中から出てきており、地震で崩落したかどうかには議論の余地があるようだが、かつては「夫婦石」と呼ばれたような巨大立石2体を中心とする岩群だったことが窺われる。

拝ヶ石

祠の後ろには、瓦礫のように岩石が積み重なっている。
累積のさらに背後から、土師器片が見つかったとされる。この辺りは地表と巨石の間に隙間ができており、こういった岩陰に遺物が残っていたことは「岩陰で祭祀をしていた」「岩陰なので遺物の流出を防いだ」という2つの意味で示唆を与える。
鳥居氏がドルメンと呼んでいたのも、こういった岩陰構造を組石とみなしたことによるのだろう。

山頂の岩石群

環状列石と呼ばれている。
確かにサークル状に見えなくもないが、しかし「環状にしよう」という人の意識までは感じさせない、もし人工であったとしたら中途半端な構造。
ケルト文字とシュメール文字があるという話だがどれのことか確認できない。
なぜ時代も地域も文化も異なる2系統の文字が、同じ石に刻まれることになるのかが私には分からない。
最も手前にある岩石には、謎の石の配列がされている。現代の岩石祭祀だろうか。

「メンヒル(立石・鏡石)」と名付けられた岩石

高さ6mで、石の頂面に十字線が刻されており東西南北を示しているというが、これは残念ながら未確認。
メンヒルを斜面下側から見ると、たしかに平滑面があるが鏡肌と呼ぶには手狭で、鏡面機能を持たすには立石は不適な形状だろう。

林を伐採すれば麓からの鏡面機能があったとか、林がなければあの山が見えるといった向きもあるが、自然の山において森林の繁茂力は侮れない。
古墳ですらメンテナンスなしでは100年後には森の丘と化していた。植林などに伴う植生の変化はもちろんあっただろうが、古代は違ったかもしれないと希望的観測を持ち込むのは避けるのが適切だ。

また、拝ヶ石につけられている種々の注連縄は近年の整備によるものとのことで、かつての拝ヶ石を知る人の中には、このように注連縄は目立っていなかったとの発言もある。
神聖なものだけでなく、大事なものに気軽に注連縄をつけるという現代における新たな使い方が多用されている。
視覚には錯覚・錯視がある。現代的価値観を優先して、古代の景観と同一視しかねないよう私たちは注意しないといけない。


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