2019年2月25日月曜日

石の彫刻家・舟越保武氏が岩石に対して感じた思い



舟越保武氏(1912~2002年)は、石の彫刻の第一人者といわれる人物。
はじめは大理石をフィールドにして、後に砂岩など他の石種、そしてブロンズなど他素材にも手を広げた。

彫刻家でありつつ、エッセイで賞を受賞するなど、文筆家としても知られる。
このたび、生誕百年を記念して刊行された『舟越保武全随筆集 巨岩と花びらほか』(求龍堂 2012年)を読む機会があった。

石の彫刻家である舟越氏が、彫る素材としての石、そして素材とならなかった石に対して、どのような思いを抱いていたのかが垣間見えるシーンがいくつかあったので紹介したい。

岩石を生活の中心に置いた一人の人間の内面が、読みやすくもシャープな視点で描かれていて、岩石信仰の萌芽のヒントにもなりうると思う(舟越氏はキリスト教徒だが)。

紹介する随筆は次の6作品である。
  • 「巨岩と花びら」
  • 「渓流と彫刻」
  • 「石の汗」
  • 「石屋の親方」
  • 「石柱の夢」
  • 「古代石像の前で」


「巨岩と花びら」(1973年)

私の目の上にある岩は、何千年も何万年も前からここにあって、流れを見おろしている。それなのに私は、たった一度だけこの岩に会って、手を触れて、少し語りかけて、永久に去ってしまうのか。

そんなことを考えていた時に、ふと花びらが岩の上に落ちて、そして一瞬で吹き飛ばされていったシーンに触発されて書かれた文章。

巨岩から見れば、一瞬止まったこの花びらも、一度立ち寄った人間も同じようなもので、これは「冷酷な開き」で、だから巨岩は「いやなやつ」だという。
舟越氏は、ここから巨岩の前では人間の営為や喜怒哀楽などけし粒のようなものと表現しているが、読み手の立ち位置によって心を打ちぬく部分が異なるような気がしてならない。

これは一般的には、巨岩の永遠性・超然性を評する代表作の一つとしてあるように思える。
しかし、岩石信仰研究の私の立場で読むと、舟越氏の上の文章は私の心をチクチク抉る。

岩石信仰研究のためといいあちこちと現場を巡り、場数を踏んでいるのか物見遊山しているだけなのかわからず、一度岩石をその瞬間見ただけで何かを知った気になっている自分の傲慢さが、照射されているような気分だ。

その気持ちの解決方法も、舟越氏から教えてもらうことができる。

舟越氏は本文の最後に、平手で岩肌を叩くことが、あくせくと動く自分のせめてもの安らぎだと締める。
「いやなやつ」なんだけど、結局、岩肌に手を触れて安らぎをもらうのである。

この二律背反的な心理は、恐いところがあるけれど惹かれるところがあるという信仰心に似ている。
心が揺らぐところを突かれ、最終的に屈してしまう存在という意味で巨岩が存在している。

私も結局、岩石という「冷酷な開き」がある存在に甘えて、自分の傲慢さを横に置いて調査ができているような気がする。
対人間なら、そうはいかないはずだから。


「渓流と彫刻」(1965年)

渓流の釣りをしていると、素晴らしい形の岩を見かけることがよくある。(中略)これもやはり彫刻されたものだ。水の力が小石という道具を使って彫ったものだ。この石の作者は水なのだ。あんな澄明な清らかな様子の水が、実は大へんな力を持った彫刻家なのだ。我々の作る作品とは年季の入れ方が違う。

彫刻家の舟越氏ならではの着眼点で語られる渓流の自然石たち。

「巨岩と花びら」では、変わらなさを主題に語られていた岩石が、こちらでは水と小石による変化のさまで語られている。
共通するのは「岩石は、長い時間をかけて変わらない/変わる」という時間軸か。

この時間軸だが、人間の一生から見ると、岩石に変化があったとしても、おそらく岩石の変化が見られないレベルである。
そもそも、変化していないように見える岩石でさえ、理屈上は風化・浸食などの自然現象で絶えず形は変わり続け、それ以外にも雨が降ったり雷が落ちたり、土に覆われるだけでも岩石の内部要素は微細ながら変化することは間違いない。
ただ、ここではそんな理屈上で頭を納得させる次元の話ではなく、人間の五感の次元の話だろう。

舟越氏は釣りの帰り道に、かつて川で磨かれたと思われる丸石が斜面の上に顔を出しているのに気づく。
舟越氏は、かつてそこが川だったという科学的事実を理屈で解決したものの、五感では納得できていない様子が吐露されている。
五感は「信じられない」ので、その思いで心を支配された舟越氏は「怖ろしくなって」しまい、「押し流されるように急いで宿へ向かった」のである。

ここを大げさに捉えるのか、共感のほうへ転ぶのかは読み手しだいだが、やはりこれも岩石信仰の萌芽ではないか?

舟越氏は洗礼しているので岩石信仰の当事者になることはない。

でも、逆にそれを自明のこととしているから、理屈だけで解決できない自分の五感が信じられなくなった時、恐くなってしまった時、自らの信じる神に頼れなくなった時、そこから逃げるという選択をしたのではないだろうか。
一方で、逃げずに岩石に向き合った時、岩石信仰が萌芽してしまうのではないか。
それを無意識的に感じ取って回避したのかも、という妄想すら出てきてしまう文章だった。


「石の汗」(1983年)

 アトリエに置いてある大理石が、汗をかいていた。
この一文から始まる随筆。
これだけだと怪談だが、石の専門家である舟越氏はこれの論理を当然知っている。

冷たい石肌が、天候差などによって空気中の水分が暖められた時、水滴をつけるという話である。
舟越氏は石彫を始めて間もない頃にこの現象に出会い、いたく感動したと言うが、今は「それほど感動することもなかったわけだ」とふりかえる。

しかし、この諸条件がそろったのは人生で2回しかないらしい。

もう1回は、ミロのビーナスが来日した時に、ビーナスの肌から汗が噴き出て、それが雫となって流れるのを目の当たりにしたという。

これは、開館前は冷暗所の中にあったビーナスが、開館直後に大量の見学者が連れてきた熱気に当てられて、急速に石肌が蒸されたことによるものだろうと回顧する。

ルーブルに置いてある時は、汗をかいたことはなかったのではないか?と舟越氏は述べる。
氏の人生の中でも見たのは2回だけ。

自分の彫像の時は、水に濡れると細かい凹凸がわかりにくくなるので作業ができず、困るそうである。
その時も、ミロのビーナスの時も共通していたのが、石は濡れると赤みを帯びるそうである。


「石屋の親方」(1984年)

 「石屋さん、これはだいぶ、ねじれてますね」
舟越氏は、特定の師匠がいたわけではないという。
そもそも、石の彫刻家の先達がいなかった。

それでもきっかけはあるもので、それはまだ10代の頃、地元の石屋に飛び込んで石工たちの仕事を見ながら、石と鑿の相性などを体で覚えていったのだという。

だから、舟越氏のエッセイの中で石屋の話はしばしば登場する。
「石屋の親方」は、盛岡に疎開していた時にお世話になった石屋の親方の話で、「忍耐強い人が石工になるのか、石工になって忍耐強くなるのか」という仕事に対する厳しい姿勢を学んだ方だった。

そんな石屋さんが作った石碑がある。
盲学校の卒業生が、学校に寄贈する記念碑として石板石を石屋に依頼した。

制作途中で、依頼主の方が仕事場に来て石の状態を見に来た。
依頼主はもう学校の卒業生なので、もちろん目が不自由で、親方に手を引いてもらって石板石の前に立った。

依頼主の方が石を触って状態を確認する。
この時の触り方について、舟越氏がかなりデリケートに、かなり紙幅を割きながら表現しているので忠実に引用したい。
砥ぎ上がった石の面をサッとなでた。なでたと言うのでもなかった。指先がハラハラと石の上から下まで、こまかく触れて走った。ほんの一瞬のことだった。ピアノをたたく指先の動きよりも、もっと軽く石の面を走った。

その後に依頼者が漏らした感想が冒頭の「石屋さん、これはだいぶ、ねじれてますね」だ。

後で計ったら、石の上端と下端で3mmのねじれがあったそうで、親方は「いやあ参ったな、盲の人はオッカないもんだじゃ」と感服していた。
このねじれは、舟越氏が目視で観察してもわからないほどの僅かなズレで、視力の失われた人がどうして目を使わずにねじれを見破ったのか、感心するばかりだったという。

五感を広く浅く操るのではなく、特定の感覚を日常的に集中することで、いわゆる常人ではない能力が備わるということなのだろうか。
それは石を生業とする石屋の眼すら凌駕し、超能力の領域に突入している。

折口信夫が「石に出で入るもの」(1932年)で、巫祝の徒は常人よりも「石の中に潜む物」を見分ける能力を持っていて、私たちが特に感じない領域のことを敏感に察知できる、そういう人がシャーマンや司祭者になると述べている。

今回の石屋の話も、これと共通することなのだろうと思う。
常あらざる力をもつから敬意と畏怖の対象となるわけで、盲であるからこその超越的な触覚により、岩石を視覚ではなく触覚で論じられるというケースなのである。

岩石を見て、形がどうだ大きさがどうだという視覚だけのカテゴリーでものすることを、強く戒められる内容だった。


「石柱の夢」(1984年)

人間は、その生存の記録を何百年も何千年も後の世に遺そうとして、最も堅牢な花崗岩で、記念碑や墓石を造って地上に据える。俗にいう文明国の人間だけがそれをする。こんな傲慢なことをするのは、生物の中で人類だけではないだろうか。
舟越氏はこの思いで、人類が石の柱をどんどん立てていくと地球を石が埋め尽くして、窒息して生き物は絶滅するのではないかと、強迫観念にとらわれたという。

もちろん現実にはありえないことが分かった上での発言であることを踏まえて、読者としてはこの大仰な着想に向き合いたい。

私は、そもそもこの解釈は舟越氏の後天的な思想に基づくもので、本来はそのような解釈だけにしなくてもよいのではないかと感じる。

その理由は、そもそも舟越氏がこの発言をしたのが、ある夢を見て、それを「記念碑彫刻や墓石の将来を暗示するもの」と解釈したからである。

夢は無意識の産物であるから、意識上の舟越氏の解釈は、同じ自分の想念でありながらあたっているとは言い切れない。

では、元々はどんな夢だったか。
石柱の林に迷いこんで、どうしてもそこから抜けられなくて苦しむ夢を見た。
四角な冷たい石柱の間を、身体を横にしてやっと抜けると、すぐまた石の柱が、ぎっしり詰まっている。その石柱の間が、だんだん狭くなっていて、胸が石の間にはさまれて、窒息しそうになる夢であった。

どうだろうか。
舟越氏が文章に書いた限りなので他の要素もあったかもしれないが、ここから 「記念碑彫刻や墓石の将来」や人類・地球の将来まで壮大に広げるのはあくまでも一解釈で、この一択に絞ったのは氏の思想に基づくものだろう(舟越氏は文明批判の文脈がところどころに出てくる)。
その是非を論じるのではなく、ここで注目したいのは、私たち一人一人の読者が、この夢の内容を見た時にどんな鏡に映してどう理屈を語るのかである。

窒息しそうになるのは嫌だけど、周りが石ばかりで、石の間に挟まれるのが幸せな人も、どこかに一人はいるかもしれない。
いや、もともと幸せに感じられるのなら、夢のなかで窒息の苦痛を感じないのかもしれない。

あくせく動く現代社会批判をしながらも、舟越氏も石の彫像を地球上に送り出してきた一人として、意識下で言葉にできない何かを抱いたのだろうか。

私は、どんな石柱だったのかを知りたいと思った。


「古代石像の前で」(1984年)

「なんだこれは。二千年前の二十世紀という時代には、こんなつまらない作業をしたのか。石を無駄にしたものだなあ」
古代石像を前にしての随想。

古代石像に触っても、その石像を造った職人の顔も見えなければ、どんな行程で作業をしたのかも見当がつかないと舟越氏は嘆く。

ただ、ひとつの確信として、古代人と現代人では、時間間隔がまったく違うものだったのではないかと踏みこんでいる。

現代人は、納期があって、短い時間で良いものを作ることが評価される。

古代人はそうではなく、「石像を作る、毎日作業をする。怠けもしないが、焦りもしない。一つの像が完成する途中で石工が死ぬ。それを息子なり別の石工なりが、あとをついで作業が続けられる」。
その先に作業が終わる時が完成であって、時間の流れが唯一あるとしたら、それは作品の制作期間ではなく、職人一人の生と死だけだったのではないかと舟越氏の思いは広がっていく。

東京芸大彫刻科の最終講義でも、舟越氏は古代の職人(主にルネサンスより前)に対して思いをはせている。
あの頃の彫刻を作った人たちは、今でいう彫刻家ではない。芸術家ではないんですね。あれは彫刻を作る石工、石の職人なんです。その作品に、たとえば千野茂とか舟越保武とかいう署名がないんです。作家ではなく、石工として仕事しているんです。そこのところに、大きな違いがあると思います。

自分の名前や個性や業績が残ることより、作品がよくできればよいという態度の仕事に惹かれるという。

舟越氏の視点は、常に「現代の私たち」と「あの時の彼ら」が見ている世界の違いに主眼が置かれていて、「あの時の彼ら」が見えないしわからないこそ、それに惹かれていく。

私は、これが歴史学の対象でないなら、何だろうと思う。
舟越氏だって極めて特異な一個人であるし、「あの時の彼ら」も、一人一人が何かの能力に優れた能力者だったことを考えれば、「当時の人々」と一般化することの怖さも感じられる。

いざ岩石信仰に立ち戻ると、信仰していた人はどんな能力者だったのだろうかと思う。
思考と五感のいずれか、あるいはすべての世界のとらえかたが異なっていたかもしれない。
そんな人々と一方的な対話をしかけていく試みが岩石信仰研究である。

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