2019年9月2日月曜日

石坐神山/石坐の神山/毘沙門堂(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市香寺町須賀院 毘沙門山/丁ヶ崎山

字・奥須賀院に、毘沙門山または丁ヶ崎山という標高231mの山がある。

麓からはそんな目立った山容をしていないが、山頂やや下に岩壁が露呈している。
岩壁と落石が複数の岩陰を織り成し、そこに広場を形成して祠や石像がまつられている。

登山口から約15分、尾根を九十九折に登ると、谷間の一番奥まったところに岩壁がぶつかる。



「播磨国風土記 石坐神山」の石碑は2000年建立。

岩壁と手前の落石で岩陰空間を形成する。

岩陰には水が溜まっていた。

行者像

不動明王像(写真下)

岩壁上部

毘沙門堂・薬師堂・岩蔵権現の祠がまつられる。

窪みに石塔片と丸石をまつる。

全景


今はこの場所を毘沙門堂と呼び、その名のとおり毘沙門天を本尊とするが、上写真のとおり薬師如来や不動明王もまつる場所で、『磐座紀行』(向陽書房、1982年)著者の藤本浩一氏は地元民から「お不動さん」の呼称があったことも記録している。
18世紀の作とされる地誌『播磨鑑』には毘沙門岩屋や有乳山岩屋寺(天台宗)の記載があり、寺としてはすでに無住だったと書かれる。

毘沙門堂以前の歴史は言い伝えとなるが、インドから渡来した法道仙人が「石蔵山万福寺」という名の寺院を建立したと伝えられる。
岩屋の前は平坦地が造成されているので、かつて寺院がここにあった可能性は高い。

さらに、奈良時代『播磨国風土記』に記された「石坐の神山(いわくらのかみやま)」がこの場所に比定されている。
『播磨国風土記』の該当箇所を引用しよう。

的部(いくはべ)の里 石坐の神山・高野の社 土は中の中なり。右は、的部等、此の村に居りき。故、的部の里といふ。
石坐の神山といふは、此の山、石を戴く。又、豊穂命の神在す。故、石坐の神山といふ。
(秋本吉郎校注『日本古典文学大系2 風土記』岩波書店、1958年を参照)

短い文だが、国内現存最古典に属する『風土記』に登場する数少ない「石坐(いわくら)」である。
国内最古の言語記録における「いわくら」の理解につなげるべく、少し解釈を加えたい。

的部(いくはべ)は、現在、香寺町岩部の地名で転訛したと考えられている。
「岩」の字が思わせぶりだが、現在、岩部と呼ばれるエリアから毘沙門山は少し外れ気味であり、肝心の風土記に「岩部」とあるわけではないので、転訛の順としては逆であることから、現状、あまり関係は認められそうにない。

さて、石坐の神山の紹介のされかたに注意したい。

「此の山、石を戴く」をどう解釈するか。
「戴く」を古語辞典で引くと「上に載せる」「大切にして敬う」といった用例をもつので、素直に解釈して「この山は上に石が載っている」だろう。
岩壁は山頂立地ではないが、山頂直下と呼ぶことはできる。

「又、豊穂命の神在す」はどう考えればいいだろうか。
豊穂命は記紀神話など他の文献や他社の祭神としてまつられておらず、今は系統不詳の神である。
神名からは豊穣に関わる神というほかない。
「在(いま)す」なので、豊穂命は山に常在していることを示す。


石坐は磐座であり、一般的な通説では「祭祀の時、一時的に神を迎える座」で「ずっとそこにいるような場所」とは理解されにくいが、豊穂命は「在す」なので、ずっとその山にいることになる。

すなわち、磐座としての祭祀(定期的に遠地から神を呼び寄せる祭祀)と、山の神としての存在のしかた(常に山に宿るという信仰)に齟齬があるように見える。
これをどのように理解すればよいだろうか。


ここで注目してほしいのが「又」である。

「石を戴く」と「豊穂命の神在す」を「又」でつないでいる。
これは、順接というより並立の関係である。

一見すると、「山の上に石があり、その石に豊穂命がいる」と読めるが、「又」を重視するならば、この文は「山の上に石が載っている。(その石とは別の場所に)また、豊穂命がいる」と読まないといけないのかもしれない。

一つの山に一つの神しかいないといけないわけではない。
石に坐す存在が豊穂命と明示されているわけではないので、石坐の神山は、石坐と豊穂命の二つの聖なる存在を併存させる山だった可能性がある。


もちろん、深読みせずに「石坐の神の山」だから、豊穂命が石に坐していた可能性もある。
その場合、すでに山に棲んでいる豊穂命に対して、なぜ同じ場所で磐座が必要なのかという疑問をクリアにする必要がある。
しかも、本事例の場合は、石坐は麓ではなく山頂直下にあり、神を人のいる場所に招きよせるという構図にそぐわない。

であるならば、むしろ通説に問題があり、「いわくら(磐座・石坐)」という概念は本来、遠地の神を一時的に里に呼び寄せるというような前提を捨てて、捉えなおさないといけないのではないか。
(これはけっして、磐座が遠地の神を一時的に里に呼び寄せる場所ではなかったと言っているわけではない。そういう磐座もあれば、そうでない磐座もあったということだ)

また、古代において山の中は神のいる禁足地であり、人々は麓で山の神を招いてまつったというのも一面的な理解であることがこの記述から読み取れる(禁足の山もあっただろうとも思う。古代祭祀の世界はどれか一つの世界観ではないということだ)。

本事例の場合、豊穂命が常在する山の山頂直下まで人は踏み入り、そこにある石(岩屋)を、神が座る石坐として認識していたことは明らかである。

では、本事例における石坐の役割とは何だろうか。
それは、山の中において、山のどこかにいる神を山のどこか一カ所に座りに来てもらうという考え方だと私は考える。

山に遍在する(あまねく存在する)神を、祭祀の時に人はどこかで必ず会えるようにするため、祭祀場が希求された。
山頂直下に自然露出した岩壁と岩陰を、人々は神と出会える場所と信じ、それを石坐と呼んだ。
つまり、「います(常在)」と「くら(座りに来る)」はけっして矛盾する概念ではなく、古代祭祀における神の住まい、宿り方、現われ方をもう一度再考しないといけない段階に来ているだろう。

また、本事例から石坐は「穴」の構造を持ち、山の神は山の内側に籠る感覚だったかもしれないことも教えてくれる。
岩屋と磐座が同根の考え方をもつ可能性も示唆するが、岩屋と呼ばれたのは江戸時代であり、風土記には岩屋ではなく「石」としての記載であるため、岩屋・磐座を同一視するのはまだ慎重になる必要があるだろう。

ちなみに、各国の風土記には「いわくら」の記述はほとんどなく、もっぱら盛んなのが「石神」の表記である。
でありながら、本事例は「石神」の名称を使わずに珍しく「石坐」で通している。
この事実が何を反映するものだったのかを考えることもとても有意義で、大問題につながると私は考えている。その答えを出すには、本事例だけでは導き出せず、当時の文献群における岩石信仰の「文章のあらわれかた」を通読する必要がある。


注:『風土記』底本には「云石坐山者此山戴石在豊穂命神」と読めるとも秋本吉郎氏は付記している。傍線部の前者は「石坐神山」ではなく「石坐山」であり、秋本氏は欠字とみなしたが石坐山の別称があったことも、石蔵山万福寺の名からも可能性として追記しておきたい。傍線部の後者は「又」ではなく「久」とも読めるが前後の文章に「又」のつなげ方が多いことからこれも「又」と読んだと秋本氏は記す。「久」が正しければ私が先述した「又」の並立話は意味をなさず、石に久しく豊穂命が座るということで磐座の長期的滞在を語る例にもなりうるが、「久」読みは採用されていないことも付記しておく。


0 件のコメント:

コメントを投稿