2020年5月25日月曜日

比婆神社/山神さん(滋賀県彦根市)


滋賀県彦根市男鬼町字護持ヶ谷

比婆神社の現在


彦根市、多賀大社の北西の山間部に男鬼(おおり)という集落がかつてあり、現在も村の住居跡などが残ったまま廃村となっている。

この男鬼集落の奥に、鎮守の如く佇むのが比婆神社で、巨石をまつる神社として2000年代になってから知名度が高まってきている。
その知名度に反して、神社に至る道、および、男鬼に至る道は軽自動車なら通れるが、路肩の崩落などが頻発しており、アクセスには注意が必要な場所だ。

比婆神社の入口までは、東の落合集落から男鬼集落経由で入るルートと、西の男鬼峠から入るルートの2種類がある。
私は2013年に訪れたが、東ルートは男鬼集落内で路肩崩落に出会い断念。西ルートから入り直し、それでも車の乗り入れは神社麓の第一鳥居前であきらめ、あとは徒歩で参拝した。
2020年現在も、一部修復されていたり、まだ手付かずの箇所もあったり、別の場所が老朽化していたりと、今後将来的にもアクセスメンテナンスは課題となり続けるだろう。

麓の男鬼集落にある比婆神社入口の第一鳥居。奥に車道が続くが通行止めだった。

入口から社殿の途中の舗装路。路肩崩落している(2013年時点)


比婆神社の岩窟


入口の鳥居からは緩やかな山道を約35分ほど歩き、山頂というよりは山頂下の斜面上の僅かな平地に比婆神社が鎮座する。
男鬼集落は廃村になっても、山中の神社自体はよく整備され、ここまで舗装の車道も敷かれている(しかし路肩崩落中)。

岩は屹立するタイプではなく、地形の流れから考えて、地滑り状に削りとられた地中の岩盤が剥き出しとなり、その手前から岩の壁として仰いで聖地化したものであろう。




比婆神社社殿と岩壁を上方斜面から望む

比婆神社の入口に掲げられた看板によると、
「この地古昔より比婆の山を稱し山頂に岩窟あり比婆大神と稱へ奉り伊邪那美大神を祀る」
とある。
山頂の岩窟とあるのがこの岩壁のことだろうと推測される。
今でこそ社殿の背景に隠れて岩の全景がわからないが、もしかしたら隠れている部分に窟状になった空間が存在するのかもしれない。

なお、比婆神社からさらに上へ登ると比婆山頂上にたどりつくが、大小の露岩が群れる一帯がある。
これが山頂の岩窟の可能性もあるが、そうであればここに神社が建てられてしかるべきなので、やはり比婆神社の岩壁を山頂の岩窟と現状判断しておきたい。

比婆山頂上付近の露岩群
比婆山頂上の露岩群

比婆信仰と比婆山所在地論争


比婆と聞けば、現在、比婆山御陵がある広島県庄原市の比婆山などが有名である。彦根男鬼の比婆神社はこれらの比婆の伝説とどのような関係にあるのだろうか。

比婆山に伊邪那美神を葬る、と書かれた『古事記』の影響下にあることは間違いないが、『古事記』ではその比婆山を出雲と伯伎の境と明記しているので、近江彦根の当山が入り込む余地は一般的にはない。

いわゆる「異説」と呼ぶべき伝承であるが、この話の成立は、同じく『古事記』に近江の多賀に最終的に鎮座したと記される伊邪那岐神の存在、そしてそれを祭神とする多賀神社(多賀大社)と地理的に近いことと無関係ではないだろう。

また、もう一つの批判的な見方として、そもそも当地の比婆神社と比婆山が、そう位置づけられるようになったのがいつからかという歴史的な検討も必要だろう。
というのも、伊邪那美神の幽宮としての「比婆の地」に関しては、明治時代から戦前にかけて国内各地の複数の地が我こそは真の比婆の地であると言い争った「比婆山所在地論争」というべき歴史的な出来事があったからである。

比婆山所在地論争についての概要は、庄原市比婆山熊野神社解説本編集委員会編『日本誕生の女神 伊邪那美が眠る比婆の山』(南々社 2016年)にまとめられている。
本書では、広島・島根・鳥取の三県にまたがる複数の候補地がおしくらまんじゅうのように分布し、全体として比婆山信仰圏とでも呼ぶべき一大文化を形成していたことが指摘されている。

と同時に、明治時代以降は日本神話に描かれた「聖蹟」の現在地を特定・顕彰する動きも積極的に行われ、その中で比婆の地を主張するために新たに創られ、拡大解釈されていった「伝説」も相当数混ざっていると思われる。

彦根の比婆神社は比婆山有力地の中国地方からは遠く離れているが、夫神である伊邪那岐神由縁の地としてのアドバンテージがあり、比婆山所在地論争の折にまったくの無関係の立場であったとは考えにくい。何かしらの影響を受けたと考えて、歴史がどう形成されていったのか、批判的に考えることが適当だろう。

そのように考える傍証の一つとして、比婆神社現地看板には


  • 林陸軍大将(林銑十郎参拝記念碑が現地に建つ)が参拝したこと。
  • 大正末期に現在の社殿を建てていること。
  • かつては「山神さん」という通称で知られていたこと。


が記されている。
大正~戦前期に軍人の崇敬およびその支持を以て費用面を投じた社殿が整備されたことは、当地を比婆の聖蹟として重きが置かれたからに他ならない。
そして、比婆神社の名に埋もれつつある旧来の通称「山神さん」からは、比婆信仰以前、もっといえば日本神話の影響下以前の当地の原初的な聖地の性格が見え隠れしている。

社記には、大正の社殿整備以前には、宝暦年間(1751年~1764年)以前の建立と伝わる社があったという記録も残り、少なくとも江戸時代中期までの聖地としての歴史は遡れるようだ。

なお、比婆神社をさらに上った山頂尾根上には、高取山城(または男鬼入谷城)と呼ばれる戦国期の山城跡が発見されており、当山が聖地一辺倒ではなく軍事上の拠点として人足が入り山地利用されていたことは明らかである。

彦根、そして男鬼に関する郷土資料が私の手元にはないため、以上述べた歴史の空白を埋める文献が埋もれているのではないかと思い期待したい。

比婆山から東へ尾根続きの高取山にある山城跡(堀切などが確認できる)


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