2020年8月2日日曜日

『出雲国風土記』猪石・犬石の二つの伝承地~石宮神社と女夫岩遺跡~(島根県松江市)


島根県松江市宍道町白石

『出雲国風土記』に次の記述がある。

「天の下造らしし大神の命の追ひ給ひし猪の像、南の山に二つあり。猪を追ひし犬の像は其の形、石と為りて猪・犬に異なることなし。今に至るまで猶あり。故、宍道といふ。」
(秋本吉郎校注『風土記』(日本古典文学大系2)岩波書店 1958年より)

この猪の像と犬の像の伝承地とされる場所が2ヶ所ある。
錦田剛志氏「『出雲国風土記』にみる岩石と神祭り―二、三の覚書―」(『東アジアの古代文化』112号 2002年)の記述を参考にしながら紹介したい。

石宮神社(いしのみやじんじゃ)


1ヶ所目が、石宮神社にまつられる犬石(いぬいし)・猪石(ししいし)である。

石宮神社は本殿をもたず、拝殿の裏のちょうど本殿の位置にあたる場所に、犬石が安置されている。



長さ約1.8m、幅約1.5m、高さ約1.1mをはかる。
立石状で、玉垣に囲われているから目には止まるが、神社境内に散在する巨石の中で特段大きいというわけではなく、これを巨石と呼ぶかどうかは人によって受け止め方が異なるだろう。

境内の入口付近には、犬石を上回る大きさの巨石が集まり、そのうち、階段の両脇にある同規模の2体を総称して猪石と呼んでいる。



いずれも長さ約5m、幅約4m、高さ約2.5mほどである。

女夫岩遺跡(めおといわいせき)


もう一つの伝承地が、考古学的調査が行われ、古墳時代中~後期の遺物が見つかった女夫岩遺跡である。
宍岩または女夫岩と呼ばれる2つの岩の下方斜面から5世紀後半~7世紀頃と考えられる土師器や須恵器が見つかり、古墳時代の岩石に対する祭祀遺跡の例として著名な存在でもある。
高速道路建設で破壊される予定の場所だったが、その考古学的価値が認められて、道路を遺跡下のトンネルで通すことで現状保存されたという経緯でも珍しい文化財とされる。




宍岩は山中に2つの岩が横並びになっており、石宮神社よりは『出雲国風土記』が書くような「(南の)山」という表現が似合う。

当地は大森神社境内地になっており、以前から聖地とされていたことは近世~幕末の千家国造家保管の絵図の存在からもわかる。
絵図については、女夫岩遺跡の発掘調査報告書である、島根県教育委員会・宍道町教育委員会『島根県指定史跡 宍道・女夫岩遺跡』(島根県教育委員会 1999年)に掲載されている。
絵図および調査結果の詳細はPDFがオンライン公開されているので下記リンクにて参照されたい。

この絵図には、本岩の名称が獅子岩・女夫岩・宍像岩の3種類が併記されており、二つの岩をそれぞれ「南の宍像」「北の宍像」と称していたこと、さらに二つの岩のやや下方斜面にある別の岩石を犬石と呼ぶ人もいたことが記されている。
石宮神社と同じく、猪の像は二体で1セットであり、風土記が記す「南の山に二つあり」を忠実に踏襲している。

また、絵図の手前に描かれた犬石とされる岩石は、現在現地ではどの岩石を指すのかはっきりしない。
そのかわり、現地にはテラス状になった石積みの壇が形成されており、発掘調査ではこの壇状地形が近世以降の築造ではないかと推定されている。築造時に犬石については原状変更された可能性もあるだろう。

風土記の猪石・犬石の比定論争


錦田剛志氏の前掲論文(2002年)では、比定論争が下記のとおり整理されている。

  • 石宮神社の犬石を犬の像、猪石を猪の像とする説・・・服部旦氏「『出雲国風土記』の数量表現の信憑性、ならびに数量表現をめぐる編纂過程の一考察—意宇郡宍道郷所造天下大神命の猪像石・犬像石の同定を手がかりとして―」『古代文化研究』第二号(1994年)
  • 女夫岩を猪の像とする説
  • 女夫岩を猪の像として、石宮神社の犬石を犬の像とする説・・・関和彦氏「新・古代出雲史—『出雲国風土記』再考—」(藤原書店 2001年)

錦田氏は、原文の解釈がどうとでも読める部分を残していることを指摘して、結論を保留している。

複数の候補地がある以上、どちらかがどちらかの影響を受けて、または、お互いが別の何か(それは失われた原形の猪像・犬像の可能性さえある)からの影響を受けて伝承が形成・変容しているかもしれない。
現在残る岩石と、遠く離れた当時の記録を結び付ける作業は、これほどまでに難しく、危険な行為ということである。

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