2020年11月29日日曜日

西郷信綱「長谷寺の夢」(『古代人と夢』平凡社 1993年)

 


小泊瀬山の石城


古代文学者の西郷信綱氏による、古代人の夢について考究した本書に、長谷寺と岩石についての考察が見られるので、与喜山研究の一端として取り上げたい。

万葉集に下記の歌が登場する。

事しあらば 小泊瀬(ヲハツセ)山の 石城(イハキ)にも 隠(コモ)らば共に な思ひ我が背

小泊瀬山は、長谷寺が建つ山のことを指す。

西郷氏は、この「石城」のことを、いわゆる砦・墓の類ではなく、自然の岩窟と解釈するのが適切と説いている。

その根拠として、万葉集では死のことを「磐根を枕く」と表現していること、考古学的にも洞穴遺跡における人骨出土例があること、民俗学の成果で山=死後の世界という山中他界観が支持されていたことなどを挙げている。


「磐根(石根)」については、記紀・風土記では下記の例が該当する。

  1. 葦原中国は、磐根・木株・草葉も、猶能く言語ふ。夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸き騰る(日本書紀一書)
  2. 畝傍の橿原に、宮柱底磐(したついは)の根に太立て(略)神日本磐余彦火火出見天皇と曰す(日本書紀)
  3. 宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり(古事記)

例1では、磐根は"生きているモノ"としての表現となっている。

例2と例3では、宮殿の柱を建てる好地として磐(石)の根が選ばれていることを示す。

いずれの例も、死との直接的関連性は認められず、岩石を以てすなわち死とイコールになるわけではない。あくまでも岩石が包含する精神性の一側面という評価が正しい。

山=死後の世界という山中他界観も、現在では多面的な山の位置づけが指摘されているため注意したい。


西郷氏は万葉集収録の「神さぶる 磐根こごしき み吉野の 水分山を 見ればかなしも」の歌において、岩と水と山の連環を指摘し、これら大地に属するものは神話的に母性原理を示すものだったと述べている。

抽象性を高めると、大地に根差す自然物はすべて母性となってしまうので、細やかな差異が見過ごされてしまう危険もあるだろう。

山があればそこに水が流れ、石が露出するのは、本来的には自然環境の摂理である。そしてそれらは、視覚的にも人々への恩恵という面でも荒ぶりという面でも、異なる刺激を人々に与えるはずである。

山が、産みの源泉で母性と結びつくという発想は一側面であり、各自然要素を一緒くたにできてしまう魔法の解釈であり、もろ刃の剣でもある。
他の側面が一つの説に収斂される中で振り落とされてしまうのは避けなければならない。


さて、小泊瀬山の石城に話を戻すが、長谷寺の山にこのような岩窟(洞穴/岩穴)、または古墳石室や砦の存在は確認できているだろうか。それとも、歌のモチーフであり必ずしも実在するものではないと考えるべきか。

西郷氏は、岩窟にこだわる必要はなく、岩の極致は山であり、山全体を「こもりくの泊瀬」と呼ぶことから山全体が岩窟だったと解釈を拡大していき、最終的に以下の如く位置づける。

「洞窟は先ずすばり云って住居であろう、そして住居であるということは、最初の住居であるとともに、それが最後の住居であるということでもあろう。云いかえると、それは胎であるとともに墓所であることを意味する。こうして、洞窟は母性と死とのダブル・イメージとなるのである。」(西郷氏が林達夫氏「精神史 ―― 一つの方法序説」『岩波講座哲学』Ⅳより引用する形で結論したもの)

あらゆる諸要素が連想し合う、物質的想像力やモノ学に通ずる発想であるが、洞窟がずばり住居であるかの最初の前提については批判的検討が必要だろう。


少なくとも言えることは、石城の「城」は境を示す音の「キ」であり、歌のテーマから見ても、日常空間と隠れる場所の結界を果たす役割を岩石に求めているという点である。

岩窟であろうと石室であろうと砦であろうと、石で形成された空間は必ずしも密閉性の高い入口を有していないし、歌のモチーフとして有名な場所であることは、隠れる機能という面では矛盾した存在にもなる。
この点を踏まえると、岩石という素材は、物理的な境界が役に立ったから求められたと考えるより、精神的な境界性を求められて選定されて、たびたび歌に詠まれたのではないだろうか。


長谷観音と岩石


長谷寺本尊の十一面観音が、金剛宝磐石(『長谷寺縁起文』による呼称)という大岩石の上に立つという霊夢伝承は比較的知られた話である。

西郷氏は本書にて、「とくに注目したいのは、長谷観音の立地としてここで巌ないし岩場が強調されている点である」と問題提起しており、とりわけ、観音が岩石の上に立つという構図が、多くの図像に見られることを下記のとおり指摘している。以下引用する。

たとえば『仏像図彙』によって三十三観音の姿を見ると、岩と水に縁のあるもの、とりわけ岩上に坐した姿がその大部分を占めている。京都大徳寺の牧谿筆の観音も岩上趺坐である。専門家にたださねばならぬが、観音のこの岩座は図像学的にも独自な意味をもっているのではなかろうか。(『古代人と夢』より)

西郷氏の指摘から25年超を経て現在、観音と岩石の図像的な意味について検討された例はあるだろうか。


西郷氏は、長谷観音が天照大御神と同体とされたことを重視して、天照大御神が天岩戸に籠ったことから、岩石を媒介にして長谷観音と天照大御神がつながったという推測を施している。

しかしこの推測はやや素朴というほかない。
正暦元年(990年)、長谷寺が藤原氏の氏寺・興福寺の下に属することになり、同様に藤原氏の氏神である春日大明神と長谷寺を紐付けるため、春日大明神と同神化していた天照大神を長谷観音の顕現としたという政治的影響下を無視することはできない。

逵日出典「長谷寺にみる天神信仰」『古代山岳寺院の研究一長谷寺史の研究』(巌南堂書店、1979年)
https://www.megalithmury.com/2016/03/1979.html#toc_headline_5


また、岩石信仰の観点から見ると、天岩戸を以て岩石が媒介にできるという論理を是とすれば、それは天照大御神だけではなく、岩石と親和性の神は他にも多く神話伝説に登場する。つまり、天照だけではなくあらゆる神と紐付けることがこの論理だと可能となり、天照に限った話ではなくなるのである。


なお、長谷寺十一面観音が立つ岩石のありかたについては、記載文献によって微妙な揺らぎがあることを以前以下のブログ記事で記したことがあるので、併せて参考にされたい。

源為憲「長谷の菩薩戒」(『三宝絵』984年)
https://www.megalithmury.com/2016/03/984.html


『長谷寺縁起文』は、金剛宝磐石が山中に埋まっていて、それが自ら姿を現したという流れと、仏を立てる穴も自然に開いていたと記す。

一方、上記縁起文より制作時代が遡る『三宝絵』は、金剛宝磐石を徳道上人が人為的に掘り起こしたという流れであり、仏を立てる足形の窪みや穴の存在は記していない。

このことから、時代が古い『三宝絵』のほうがドラマ性や自然造仏性が低く、その後、『長谷寺縁起文』の時には後世的影響が付加された岩石信仰の物語に仕立てられているという傾向が指摘できる。

岩石信仰、ひいては岩石と人の心理的な認識を検討する際には、岩石と人の心理を取り巻く歴史的な背景を考慮して、それが岩石だけを見つめる際には一種の「ノイズ」になっていることをあらかじめ他例でも考えていかないといけない。そのようなことを示唆してくれる事例である。


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