2023年10月23日月曜日

「寒河江の巨石文化遺跡ストーンサークル」と姥石(山形県寒河江市)


山形県寒河江市元町 八幡原第1号公園


JR寒河江駅の西約200mに「巨石文化遺蹟之碑」が建つ公園が存在する。

公園入口から撮影。

大小の岩石が間隔をあけながら散在する。

岩石の一つ

中央の岩石

公園に建つ1934年の石碑

この地はかつて八幡原の地名で知られ、この「巨石文化遺跡」を八幡原遺跡などと呼び、東北地方のストーンサークル事例の一つに挙げる時代もあった。

事の発端は、山形県の学校教員で郷土史家だった堀場義馨氏が当地に散在していた巨石群に着目し、その内容を「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」と題して1932年に発表したことによる。

 調査の結果によると、石質は安山岩と、集塊岩と、凝灰岩質礫岩の自然石で、三種類とも葉山邊から運ばれたものらしく、多大の人力を要した、人為的の移動と、其の配置によって造られたものであるらしい。
(略)
去る大正9年から10年にかけて、政府が奥羽鉄道左澤支線を敷設することになって、寒河江停車場を建設せる時に、此所を土砂採り場としたから、突然盛土の下から兼ねて隠れて居た巨石が発見されたが、其の不可思議な巨石が如何なるものであるのか見解もつかず、今日まで疑問の中に葬られて居たものである。
(略)
勿論述者は浅学非才、殊に田舎者のことなれば、見聞も狭く、誤認や独断に陥って居るかもしれないから、世の博識なる先輩諸兄の実地調査と、其の御研究によって、是正を得ることが出来たならば、自分は勿論人類学界の爲めにも、誠に喜ばしいことと思はれる。

(堀場 1932年)

堀場氏はこの巨石群を人為的遺構として紹介して実測図も作成しつつも、その判断には誤認もあろうことから他研究者の批判を願ってもいた。

その後、1952年に考古学者で巨石信仰の研究に長じた大場磐雄氏が来県し、自身の調査メモ『楽石雑筆』にて現地所見を次のように記した。

 先づ注目すべきは、巨石の存せる位置にして、前述の如く砂礫採掘のため発見せる丘陵の一部にして、今も砂の上に露呈せり、而して最初はその上に砂礫層の覆ひ居るものにして、今これを調査するに、南方において1.75米、東北方においては1.60米、西側においては1.4米を算す、又現在の巨石の大いさを見るに、中心のもの高1.35米、南方の最高のもの1.95、その他1.45、1.35米を算するを以て最高のものすら殆んど頭部を露出し難く、他の小石小玉にては全く砂礫中に没し去るべし。この砂礫層の堆積が巨石樹立後と決定すれば問題は別なれど恐らくこれは寒河江河支流の流れ来りしものならむ。これ不審の第一なり。

 次にこの形状は後世人為的移動を行いてるを以て些か疑はしけれど、仮にかかる形状なりとすればその規模大形にして、類似のものは北海道三笠山麓のものと類似を見る外内地には類例なし。更にこの附近に確実に遺物の発見なきは不審の一にして、これ等の解決をまちて決すべきものと思考す。ただ問題はこの附近を姥石と称することにして、恐らくは同様の名称を有せし石の信仰ありしならむ。又八幡原と称する如く、信仰に関係を有する地なるを以て或はこの方面より別種の解釈を見ることもあるならんか。

(大場 1952年)

大場氏は、この巨石群が砂礫層の中に埋もれていた点と、考古学的に確実な遺物の出土がみられない点を踏まえて、寒河江川の運んだ自然堆積の土砂と流されてきた岩石の一部なのではないかという可能性に触れた。

なお、大場氏は古代信仰に造詣の深い関係で「八幡」と「姥石」の存在にも着目しているが、八幡神や姥伝説を縄文時代の遺跡として直結することは危ういだろう。

公園北東隅に安置されている姥石

一時期、別の場所へ動かされていたのを元の場所へ返還したという流浪の岩石。

さらに1959年、北海道の縄文時代研究に優れ『日本の巨石文化』(学生社 1973)の著作でも知られる考古学者の駒井和愛氏は、この巨石群にトレンチを設定して発掘を試みて、その結果を次のように記した。

 私は山形大学の柏倉亮吉教授とともに、土地の人の話や、上記実測図で原位置を保っていると考えられる平たい巨石二つほどを選び、これを調べるとともにサークルの内側に幅二メートルのトレンチを二本、直角に交るように鑿ってみた。

 この二つの巨石の周囲をみると、粘土状の地山の上に砂と礫とが積もり、その上に恰も流水によって運ばれたもののように巨石がのっていた。これに対して、他の立石の類は、腐触土のなかにすこしばかり入っているにすぎないか、或はまた横に平たかったものを縦位置に変えたようなものでしかなかった。

 またトレンチは深さ腐触土六、七十センチにして石の腐った粘土状の地上に達するが、何等の遺物も無い。すでに湧水も多く、砂や礫も少なく無い。到底墳墓などの営める土地でないことが知られたのである。

 以上のことから、寒河江のストーン・サークルなるものは、もと河底であったところに砂礫とともに巨石が転がり来たって、群集し、のち水の流れが変って河の底にも土がつもって、土のなかに砂礫を含み、土の上に自然と巨大な石が首を出していたようなもので、決して人工のものではないことがわかったのである。かの鉄道線路を敷設する時に、ここから砂や礫を取ったために、巨石だけが残り、その形が偶然サークルの状をなしていたために、土地の考古家の熱心によって、ストーン・サークルと名づけられるに至った。やがて石も余分のものをすて、足りないところへ補って、益々立派な形をなすようにつくられたのであろう。

(駒井 1959年)

大場氏の所見を裏付ける形で、巨石群の下はもともと川底であり、自然河川の大小の川原石の堆積が、後世の地理的環境の変化で「巨石遺構」「ストーンサークル」と主観的に判断されたという経緯が明らかになった。

点が3つ三角形に集まったら人の顔を直観してしまう人類の性(パレイドリア効果)である。真円でも等間隔の配置でもなくても、3個以上の岩石が円のように見えて、自らの主観に負けてそれを環状と認定してしまうことはあるだろう。その典型と言える。

現在の風景だけを見て巨石のおりなす雰囲気にのまれ、こうあってほしいという主観で歴史を語るのは、みわたせば現代人も一緒である。


主観にもたれつつも後世の批判的研究に審判を委ねる堀場氏、巨石信仰に親和的な立場でありながらも自然成因説で研究対象に冷静な視点を忘れない大場氏、実際に考古学的調査へ乗り出して事実をもって判断する駒井氏、いずれの研究姿勢も現在の岩石信仰研究において学ぶべきところが多いのではないか。


参考文献

  • 堀場義馨「巨石文化の遺蹟 ストーンサークル(環状石籬)の発見」 『郷土研究叢書』第3輯,山形県郷土研究会,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1209273 (参照 2023-10-23)
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
  • 駒井和愛『音江 : 北海道環状列石の研究』,慶友社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2991466 (参照 2023-10-23)


0 件のコメント:

コメントを投稿

記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームをご利用ください。