2017年8月7日月曜日

三上山周辺の岩石信仰(滋賀県野洲市)



三上山は、滋賀県野洲市に位置する標高432mの山であり、御神山・近江富士・百足山の別称がある。俵藤太の百足退治で著名である。

『先代旧事本紀』に収められた伝説によると、巨人が近江の地に穴を掘り、その窪みが琵琶湖になったのだという。
掘った土で盛ったのが富士山で、その時に零れ落ちた土が、三上山になったという。

近江富士の美称のとおり、秀麗な円錐形から古代の信仰対象とされ、山頂に奥津磐座、山麓に三上山を御神体とする御上神社など、三上山に関わる祭祀の場が周辺一帯に設けられてきた。

三上山
三上山(北より撮影)

三上山
三上山周辺地図(現地看板より)

三上山


三上山
奥津磐座

三上山頂上にある奥津磐座は幅約3m×高さ約2mの岩塊で、その周辺一帯が岩盤剥き出しとなっている。

毎年6月18日未明、御上神社によって執り行なわれる「山上祭」の時、神職が三上山頂上に登り、山頂で神を降ろす祭祀を行う。
社殿祭祀以前の古態をとどめているとすれば、山頂磐座祭祀の事例と言える。

奥津磐座の下方斜面は岩崖のガレ場となっており、これを「姥の懐」と呼ぶ。
山麓からも、「姥の懐」の岩崖は肉眼で確認することができる。

三上山
姥の懐(一部)

山腹には「割岩」「魚釣岩」などの岩石もあるが、これらは神聖視の段階には至っていないようである。
「ある郷土史家」によると「鏡石」「方位石」「太陽石」に比定される岩石があるというが(『日本ミステリー・ゾーン・ガイド』学習研究社 1993)、その真偽は定かでない。


東光寺山と出世不動明王


三上山の北方には、山続きで妙光寺山(標高267m)と、東光寺山という複数の小峰が林立する山塊が広がる。
この一帯は、かつて多くの寺院が興隆し東光寺と総称されたが、後の戦乱で灰燼に帰したという。

三上山と妙光寺山の間に、御池という江戸時代に作られた農業用の溜池がある。
この御池に沿って続く山道を登っていくと、山腹谷間に出世不動明王という霊場がある。

三上山
出世不動明王 入口

出世不動明王の境内には、立派な楼や滝の行場などが整備され、現在も生きた霊場であることが分かる。

寺伝では皇紀1475年(西暦815年)、弘法大師が42歳の時にこの山で修行をし、その厄除として不動を刻んでまつったのが始まりで、嵯峨天皇からは地領として金田荘を与えられたと伝わる。

三上山
出世不動明王本堂。後ろに巨岩が控える。

三上山
本堂裏の巨岩。ずんぐりと丸い。

三上山
巨岩から三上山を望む

本堂の背後に接して半球状の巨岩が鎮座している。この巨岩に不動を刻したと思われる。
この地点は山腹の谷間にあるが、巨岩と対峙して三上山の秀麗な山容が拝める。
当地の岩石祭祀の起源は謎に包まれているが、三上山の岩石祭祀の場としてはこれ以上ない立地・景観。まつられるべくしてまつられた岩石と言うほかない。

ほかにも、山中各所は古墳の石室が開口しているといい、巨石文化研究の分野で著名な神山一夫氏によると、この山には三上山に姿を向ける椅子形の組石構造物や、「弁慶の経机」というものもあるらしい。
以下、当サイトの旧掲示板で神山氏から2004年に投稿された内容を引用する。

お久しぶりです      No: 659
投稿者:神山一夫  04/01/08 Thu 21:11:01

    三上山のとなりに妙光寺山があり、ここにナントカ不動という古い霊場があります。中心の祠の後ろは巨石なので、イワクラ信仰が土台だと推測される場所です。巨石周辺の山腹には古墳の石室が無数に口をあけて、なんとなく不気味なところです。この霊場の主と思われる修行者の老人から、「弁慶の経机」なる岩組みがあると昔聞きました。ドルメンのようなものかなと何度か探したのですが、結局見つけられませんでした。でもその代わりに、まっすぐ三上山頂を向いた巨大な椅子?のような石組みに遭遇しました。なんかまだまだいろいろありそうです。


霊山妙光寺      No: 664
投稿者:神山一夫  04/01/11 Sun 02:37:37

    妙光寺山と三上山の間にあるダム池をさかのぼっていくと霊場の寺?につきます。門を入って左の山道を少し登ったところに古墳の石室が穴をあけていて、それは典型的な横穴式石室です。案内していただいた老人は、まだ何十という古墳がこの山中にあると言っておられました。また巨人の椅子のような石組みも、そのあたりの山中にありました。
    いずれにしろ、この山は精査する必要がありそうですね。いろいろ思いがけない発見があるような気がします。


妙光寺山


妙光寺山は、北斜面の中腹に妙光寺山磨崖仏があることで知られる。

妙光寺山磨崖仏は、自然石の平滑な岩肌に地蔵立像を刻したもので、元享4年(1324年)の造立とされる。

三上山
妙光寺山磨崖仏

この磨崖仏から少し下った所に、「岩神大龍神様」と呼ばれる場所がある。

大小様々な岩石が寄り集まって、岩窟状の空間を構成している。
横には石碑が立ち、「岩神大龍神様 御鎮座は今より一千五百年前」と彫られている。詳細不詳である。

三上山
岩神大龍神様

ネコ岩


大岩山銅鐸出土地と極めて近い位置に、「ネコ岩」と呼ばれる場所がある。
ネコ岩という名前の出自は、井上香都羅氏が著書『銅鐸「祖霊祭器説」』(1997年)で紹介したことに依拠する。

大岩山丘陵の南端に鞍部があり、さらにその南に相場振山・田中山の北側斜面が高まっていくが、その途中の山腹に、よく整備された祭り場と共に高さ3~4mほどの縦に亀裂の入った立岩が存在する。
誰が手入れをしているのかわからないが、出世不動明王で感じた時と同じく、聖域として清浄に保とうという意識が強く伝わる場所であり、生きた祭祀場である。

三上山
ネコ岩の入口。参道がよく掃かれている。

三上山
ネコ岩

KNIGHTさんのブログ「HUGE STONE・CURIOUS STONE」内の「三上山と周辺の磐座10」によると、この岩はネコ岩という名前ではないという地元の方らしき発言があったそうだ。

私も銅鐸博物館の方にこの岩石のことをうかがってみた。
返答は「岩の存在は知っているが、名前は分からない」「ネコ岩という名前も聞いたことはない」というものだった。
よって、この岩石が本当にネコ岩という名前なのかどうかは確定できないが、他にネコ岩候補もないため、とりあえず現段階ではこの岩をネコ岩として仮称しておきたい。

なお、相場振山の西山裾の辺りは「堂山」と呼ばれ、ここには福林寺跡磨崖仏という磨崖仏群が残っている。室町時代の製作と考えられており、かつてこの辺りに福林寺という寺院があったが織田信長の兵火により消失した。

一部の磨崖仏は明治~大正の頃に大阪方面の富豪の庭に持ち去られたらしい。
その富豪の庭に今もちゃんと保存されていればいいが、1つの歴史が消えるのはたやすい。

三上山
福林寺跡磨崖仏

大岩山と銅鐸出土地


妙光寺山・東光寺山の北東に谷間を挟んで広がる山塊に、田中山(標高293m。甲山と書くものもあるがそれは誤り)・相場振山(標高283m)の峰が続く。
この山塊の最北端に大岩山(標高152m?麓からの比高差50m程度)と呼ぶ低丘陵があったらしく、現在は丘陵の3分の2が東海道新幹線の採土作業により消失しているが、ここからは弥生時代の銅鐸が多数出土している。

明治14年(1881年)、地元の村人らによって丘陵中腹(発見者に話によると急傾斜面だった様子)から偶然に14個の銅鐸が発見。さらに昭和37年(1962)の新幹線採土時に、明治14年出土地から尾根を1つ越えた南東の中腹から9個、丘陵頂部から1個の銅鐸が相次いで出土した。
合計3ヶ所に分かれて銅鐸は埋納されていることが分かり、各地点はそれぞれ直線距離40~50mほどしか離れていなかった。

三上山
大岩山銅鐸出土地の記念碑(正確な位置ではない)

野洲の銅鐸博物館に明治14年発見時の想像絵図があるが、銅鐸の埋納坑のすぐ傍に巨石が累々としている様子が描かれている。

明治の偶然の発見のため詳細な調査記録はなく、絵図は想像図なので話半分にとどめておくべきだが、大岩山という名はいかにも岩累々の地形を表している。

大岩山という地名は、かつて福谷・奥小松・丸山と呼ばれていた3つの字を明治時代に改称したものであり、田中山・相場振山北端の低丘陵全体を指す地名だった。
相場振山・田中山自体が全山露岩の目立つ半岩山的な風貌であり、大岩山も同様の半岩山だったのだろう。銅鐸はかつての奥小松の字に該当する丘陵東側斜面から見つかった。

昭和37年の銅鐸出土地点についても、採土中の発見のため詳細な調査記録はとられていないが、銅鐸が見つかったときの写真が数枚撮影されており、その写真には銅鐸の背後・周辺に大小の岩盤・岩塊が露出している様子がはっきりと写っている(銅鐸博物館の常設展示および図録を参照)。

以上の点から、大岩山銅鐸出土地は、銅鐸埋納と巨石・巨岩の相関関係を感じる事例である。

しかし批判的に考えれば、露岩が目立ったのは大岩山丘陵だけではなく、田中山・相場振山も同様である。
そんな山塊の中であえて大岩山東斜面の中腹~丘陵上の3ヶ所を埋納地点に選んだ理由は何だったのか。
いかんせん現地は地形削平されており景観が分からないため検討のしようがないが、露岩の近くを意識して銅鐸を埋納したという仮説は、「是」とも「非」とも言えない状況だ。

大岩山の銅鐸は、その型式から製作時期に幅があり、なおかつ近畿式と三遠式という二系統の型式が織り交ざっていたと考えられている。
埋納方法は、少なくとも一部については銅鐸同士を「入れ子」にして、時期の違うもの異なる系統のものを一括して完形で収納していたとこれまでの研究から推測されている。

銅鐸の破壊行為はなく、代々の銅鐸を伝世・保有した上で土中に一括収納しているというのが大岩山銅鐸の特徴である。また、埋納地点が3ヶ所に分かれていることも大きなポイントだろう。

一つ述べたいのは、明治14年銅鐸出土地点は急傾斜面で「崖」と形容してもいいような立地だったという発見者の報告、現地を知る地元の人の話が残っていること(花田勝広「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」2002年)。

単なる保管場所であるならば、もう少し傾斜のゆるい地点にしそうなものではある。
急傾斜なら外部の人間に荒らされにくいが、地山ごと崩落するような急傾斜地形であれば銅鐸そのものが紛失の危険性があり、保管場所としては不適切の印象もある。
急傾斜面でも埋納するんだという意思がそこには感じ取られることだけ、記しておきたい。

古墳時代には、同じ大岩山丘陵で大岩山古墳・大岩山第二番山林古墳・円山古墳・甲山古墳・天王山古墳・宮山1号墳・宮山2号墳が築造されている。
大岩山に対する認識・意識が弥生時代から同じまま継続しているか、断続しているかは不明である。

参考文献


  • 野洲町 『通史編1』(野洲町史 第1巻) 1987年
  • 御上神社 『御上神社由緒略記』
  • ムー編集部 『日本ミステリー・ゾーン・ガイド<愛蔵版>』 学習研究社 1993年
  • 井上香都羅 『銅鐸「祖霊祭器説」』 彩流社 1997年
  • 野洲町歴史民俗資料館(銅鐸博物館) 『常設展示図録』 1988年
  • 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) 『大岩山出土銅鐸図録』 2006年(改訂版)
  • 花田勝広 「大岩山遺跡群出土遺物の追跡調査」 『野洲町立歴史民俗資料館(銅鐸博物館)研究紀要』 2002年


2 件のコメント:

  1. 参考文献ついでに、これも読まれてはいかがでしょうか。

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/816099
    御上神社沿革考

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    1. 文献のご提供ありがとうございます。
      神社パンフの由緒略記よりも、さらに考証的な内容で参考になります。
      三上山のところから現在読んでいます。

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